−小牧城−
1563年、信長が美濃侵攻の拠点として築いた城。
また、1584年、秀吉VS家康の「小牧・長久手の戦」の舞台になった城
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小牧山は標高86m、濃尾平野が一望できる唯 一の山です。信長は1563年、美濃侵攻の拠点 として山頂に城を築き、清洲から移りました。 1567年、信長は美濃に攻め入って斎藤龍興を 滅し、居城を稲葉山城へ移しました。信長が小 牧城に在城したのはわずか4年でした。 本能寺の変で信長が没した後、1584年秀吉と 家康の間に「小牧・長久手の戦」が起こりました 事件の発端は秀吉の謀略により織田信雄(信 長次男)が大切な老臣3人を「内通の疑いあり」 |
として成敗したことにありました。1583年、柴田 勝家が秀吉に攻められ自刃した頃から織田信 雄と羽柴秀吉の関係は急速に冷め始めていて 信雄は新たに徳川家康と同盟を締結しました。 秀吉は柴田勝家を破った時点で「織田家中の 指導者」から「織田信長の後継者」の座を手に しました。これは信長の遺児、信雄にとってお もしろいはずがありません。また、明智討伐と いうチャンスを秀吉に奪われた為、次の機会の 到来を待ち望んでいた家康は「朋友、織田信長 の遺児を助け、政権簒奪者を討つ」という大義 |
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名分の元、挙兵しました。緒戦は秀吉側に寝 返った大垣城主、池田恒興が信雄に属する犬 山城を奪う等、秀吉軍優勢の戦局となります。 3月14日、家康と信雄が小牧城に陣を構えて 秀吉の攻撃を待ち受けました。21日秀吉は小 牧山周辺の砦に重臣を配置、両軍はにらみ合 いを続けました。4月7日、家康の本拠三河を攻 撃して後方を断つ作戦のもと、池田恒興、森長 可ら1万6千人が三河に向かいます。それを知 った家康は、小牧山を下り、9日長久手で秀吉 方を急襲しました。池田恒興、森長可は戦死、 |
全軍は敗走という、かつてない秀吉の敗北でし た。以後、小牧の戦いは一進一退のまま秋に なり、11月11日、秀吉と織田信雄との間に和 平が結ばれました。この講和は羽柴側から提 案されたものでしたが、信雄側は単独交戦が 続き、疲労の度を窮めていただけに、無条件で 賛同しました。この講和により、家康は秀吉と 敵対する名目を失ったことになり、11月21日、 家康の第二子於義丸(おぎまる)を秀吉が養子 にすることでようやく和睦しました。 |
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小牧市というのは平地で、その中でポツンとあ るのが小牧山でした。小牧市役所内の外階段 を登ると小牧山に入れます。急な坂道を登って いくと頂上に天守閣を模った歴史館があります その2Fに「小牧・長久手合戦コーナー」があり、 戦いの布陣の模様等を立体模型にして、両軍 の布陣の様子がランプで示されるとともに合戦 経過をテープとテレビにより解説してくれます。 又、4Fが展望室になっています。天守閣を写 真に収めようとしましたが、上写真のように木 々に邪魔されて、全貌を写せませんでした。 |