-長浜城−

1574年〜75年にかけて築城した、初めての秀吉の城。以後約10年間秀吉の本拠地となった。

1573年、朝倉・浅井軍を滅ぼした信長は、そ
の功により、秀吉に故浅井氏領地の北近江3
郡12万石と小谷城を与えました。秀吉は1574
〜1575年にかけて、新たに今浜に城を造り、
この地を長浜と改名しました。これが、長浜城
です。浅井氏の小谷城は冬の積雪が多く、地
形が峻険で、支配に適さなかったこと、琵琶湖
姉川の水利に恵まれた長浜は軍事的にも、経
済的にも便利であることなどで、信長の了解の
もと築城に取り掛かったのです。
現在の城は昭和58年(1983)に再興されたもの
です。二層の大屋根に望楼をのせた初期天守
の形で建立されています。内部は三層五階で
長浜を中心に湖北の歴史と文化を展示する歴
史博物館となっています。その周囲は豊公園
という近代的な公園として整備されています。
下の写真はその公園内にある「太閤井の碑」で
す。琵琶湖の水に洗われるようにたっています
右の写真も豊公園内にある秀吉像です。旧城
の残石による石組みの高台に立っています。
まるで「やっと、一国一城の主になれた!」と言
ってるみたいです。
秀吉は信長の草履取りから出発し、身近の御
用をする小者、小者頭、足軽、足軽組頭を経て
足軽大将に出世しました。その後も、清洲城修
築のときの普請奉行や、薪奉行などで有能ぶ
りを発揮していきます。そして、この長浜城を築
いて、念願の城持ち大名となったのです。ここ
に至るまでには数々のおもしろいエピソードが
あります(中には逸話もあるでしょうが…)。少
しご紹介しましょう。まず、草履取りの頃。寒い
ある日、秀吉がさっとそろえた草履に足を入れ
た信長は、瞬間、握った拳で秀吉を殴りました
「草履がぬるい。尻の下に敷いたな」すると秀
吉は静かにこう答えました。「抱いておりました
凍るような日でございますゆえ、草履を胸に抱
いて、温めておりました」…。次に清洲城修築
普請奉行の時には、柴田勝家らがひと月かか
るとしていた石垣の修復作業を3日で完成させ
ると断言しました。秀吉は職人達をいくつかの
組に分けて競わせる事でほんとに3日で修築を
成し遂げ、信長に賞されました…。又、薪奉行
の頃には、自分の家で薪を使った使用量を記
録し、それまでの3ぶんの1以下の使用量まで
落として、薪奉行としての実績をあげました。
このように右に左に機転をきかせ、縦横無尽の
働きぶりに、秀吉は一躍、信長のお気に入りと
なったのでした。
秀吉はまた出世魚のように名前を変えていま
す。木下藤吉郎から羽柴秀吉、豊臣秀吉。こ
の長浜城の築城のころに変えた名前が羽柴秀
吉です。これは、異例の出世をねたまれないよ
うに丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつとって、
「羽柴」と名乗ったといわれています。秀吉の抜
け目のなさがうかがえるエピソードですよね。