−長篠の合戦跡−

天正3年(1575年)織田信長が3千挺の鉄砲で武田勝頼率いる武田騎馬軍団をせん滅した戦、
長篠の戦いのあった場所。

武田勝頼は1万5千人の兵とともに三河領内に
侵攻し、長篠城を包囲した。岐阜近辺で信長と
戦う為、三河に人員、兵糧の補給点を築いて
おく必要があり、長篠城に白羽の矢がたった。
しかし、1週間の包囲を続けたにも関わらず、
城を落とせなかった。4月に甲斐を発ったのに
長篠城攻略に執着したあまり、5月になっても
まだ三河を抜けられなかった武田勝頼。それ
に対して織田・徳川連合軍は、武田軍が長篠
にとどまっている間に、決戦場に想定した設楽
ヶ原で万全の布陣を終えていた。
信長は重臣に可能な限りの鉄砲を集めさせて
おり、その数は3千挺以上にものぼった。その
うえ鉄砲のない兵士には、手に手に丸太や杭
を持たせ、戦場に到着するやいなや槌の音を
響かせて連子川沿いに馬防柵を作った。これ
こそが信長の秘密兵器だった。織田・徳川両
軍は連子川の西方に布陣した。合戦では常に
高所を取るのが通常だが、信長はあえて低い
位置に布陣した。そして、武田軍を設楽ヶ原に
誘い出すべく、長篠周辺の村落に「織田家重
臣の佐久間信盛武田へ寝返りの兆しあり」とか
「坂の下に陣を張った為、武田騎馬軍の猛攻
を食い止められるか心配だ。敵が到着する前
に陣替えしたい」などと、いかにも決戦に不安
を持ってるようなうわさを流した。そして勝頼は
まんまとこの情報戦術の罠にはまった。武田
勝頼は信長・家康軍が坂の下に陣を張ってい
るのを見て突撃を主張。武田の老臣達は反対
したが、偉大な父信玄を超えようとあまりにも
躍起になっていた勝頼は耳をかさなかった。老
臣達は転じて最も危険な先鋒を買って出た。
信玄が育てた歴戦の猛将達は21日日の出と
ともに、敵本陣めがけて突撃した。が、連子川
の向こうには馬防柵。さらに信長が投入した3
千挺の鉄砲が一斉に火を噴いた。かくして武
田軍の突撃はことごとく阻まれ、武田の猛将は
全員戦死、勝頼はわずか3千人の兵を率いて
甲斐へ退却。戦場には1万2千もの屍だけが残
された。これが戦国合戦史上革命的と言われ
る鉄砲が戦国最強の騎馬隊を粉砕した長篠の
戦いであり、この時の戦死者は関ヶ原を上回っ
た。そしてこの大勝により信長の天下布武構
想は仕上げの段階にはいったのだった。
現在設楽ヶ原には歴史資料館があります(2枚
目写真)。私達はその資料館で地図をもらい古
戦場コースを約30分かけて散策しました。武田
側の戦死者達を奉っている「信玄塚」、信長が
つくった物を再現した馬防柵(下写真3枚)、家
康が戦場を見下ろした物見塚(一枚目写真)等
の史跡が点在していました。のどかな田舎道を
当時の戦に想いをはせながら散策するのは、
天気も良かった事もあり気持ち良かったです。
又、7月上旬にはこの辺でお祭りがあり、火縄
銃をかついだ武者行列等があるようです。