−小谷城−
1524(大永4)年、浅井家初代、浅井亮政が小谷山に城を築き、以後長政の時代まで浅井氏の居城だった。
信長の妹、お市の方が嫁いで約10年間平和な家庭を築いた城でもある。
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右の写真は小谷山です。そばを北国街道が近 江と越前を結び、まさに自然の要塞。初めて ここに城を築いたのが浅井家初代の亮政。大 永4年のことでした。以後、浅井家は江南を支 配していた六角家と近江の覇を競う事になる のですが、これも三代の長政の時代になると 完全に浅井家の優位が確定します。長政は賢 君であっただけでなく、武将としてもぬきんでた 力を持っていたのです。16才の時に六角義賢 の大軍と戦い、2倍半に及ぶ六角勢をうち破り 一躍勇名を馳せ、正式に家督を継ぎました。 |
上洛をめざす信長にとって浅井家は避けて通 れぬ存在でした。信長は妹のお市の方を長政 に嫁がせ、浅井家と婚姻関係を結びます。武 勇の誉れ高い長政と天下一の美を賞賛された お市の方。しかしその幸せな時期も10年程で した。「金ヶ崎の退り口」から始まって、「姉川の 戦」、「近江坂本の攻防戦」で度々両家は対峙 する事になります。そして「金ヶ崎の退り口」か ら3年後の8月、武田信玄の死と足利義昭追放 により信長の当面の敵は朝倉・浅井両氏にな り、信長は浅井長政征伐に向かったのです。 |
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長政の家臣が信長に寝返ったので小谷城は 孤立し、攻略が容易になったからです。信長は まず浅井氏救援に近江に進出してきた朝倉軍 と激戦を繰り返しました。再び、あの田楽狭間 の奇襲戦法を深夜に実行に移し、朝倉軍を撃 退させ、敗走する朝倉義景を追って朝倉氏の 武将等3,000の首を討ち取りました。さらに破 竹の勢いで越前に乱入し、義景の居城、一乗 谷へも。かくして義景は自刃して果てました。 この間、秀吉は浅井長政らのこもる小谷城を包 囲していました。そして、26日信長は小谷城近 |
くの虎御前山に本陣を置き、全軍攻撃を開始。 27日には秀吉が城の中核の京極丸を陥落さ せ、28日信長自身が本丸を攻め落としました。 <右の写真は本丸跡の石垣です。> お市の方と3人の娘は落城寸前に信長の陣に 送り届けられました。ただ、幼い嫡男、万福丸 は捕らえられて磔にされました。娘達はその後 淀君(秀吉の側室)、お江の方(三代将軍徳川 家光の母)として天下人の傍らに位置する事に なります。 かくして小谷城は落城しました。秀吉はこの戦 |
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の功績を認められ、この小谷城と近江の国を もらいうけました。又、信長は翌年の正月に京 都にさらした浅井父子・朝倉義景の首の箔濃( ハクダミ・漆塗りにして金粉をかけたもの)を肴 に酒宴を催したそうです。よほど朝倉・浅井氏 が憎かったのでしょうか。 下の写真は、浅井長政自刃の碑です。「赤尾 屋敷跡に至る」という立札から細い道に入って いったのですが、わずか40cm位の幅の道で、 途中に木が倒れていたりして、ホントにこの道 |
?と疑いたくなる程でした。不安を感じながら 進んでいくと、小広い平地に出ました。そこに 碑がたっていたのです。ここで長政は自刃した のかぁと感慨深く思いました。 下の写真は秀吉が攻め入って、久政と長政父 子の連絡路を断ったとされる京極丸です。 秀吉はその後、長浜に築城してここから移る訳 ですが、その時に石壘、城楼などを移築しまし た。長浜城は更に井伊氏によって彦根城へ移 されます。現に彦根城西の丸の三重角櫓の説 |
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明札には「元小谷城天守」と書かれているそう です。 山の入口から舗装された道路を車で金吾丸跡 まで登る事ができます。でも最初、車で登れる のかわからなかったので徒歩で出丸迄登って みましたが、舗装されてるとはいえ、急な坂道 なので日頃運動不足の私達は息切れしてしま いました。そこで、引き返し車で登りました。車 で登ってよかったァ!だって、そこからが山歩 きの本番なんです。本丸跡まで徒歩10分位、 |
詰めの山王丸跡迄は20分位の距離です。でも 半端じゃぁない!!結構キツイ山歩きになりま す。ホントに急な山道です。下から歩いて登っ ていたら、たぶん途中で断念していましたよ。 本丸の手前に大広間だった所がありますが、 ここは目の前が急に開けます。たんぽぽが一 面に咲き乱れていましたが、当時は何人もの 武将達が集まって議論していたんでしょうね。 麓に降りると小さな売店が開いてました。そこ のおばさんが、ここから徒歩で登ってもスグで すよ。って言ってたけど…ウッソーォッ!! |
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