−桶狭間の古戦場−
永録3年(1560年)5月「尾張のうつけ」織田信長が奇襲をかけ、「海道一の弓取り」今川義元を破った…
「桶狭間の戦」があった場所。その戦場跡は、豊明市と名古屋市緑区と2つある。
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2万5千の兵を率いて上洛の途に就いた今川義 元は、織田軍の鷲津・丸根両砦を陥落させ、又 地元民からの進物等もあり、田楽狭間に本陣 を置き、すっかり戦勝気分にひたりながら昼食 をとっていましたそうな。これに激しい風雨が加 わって、誰ひとり織田軍の接近に気づかなかっ たばかりか、風雨を避ける為に四散して休息を とっていたそうな。兵力劣勢な織田軍は当然、 清洲城に籠城するものと信じ、まさか大将信長 自ら出撃してくるなどとは思いもしなかったので しょうね。 |
一方、織田軍は「今川義元は田楽狭間で休息 中」との報告を受け、義元本陣めがけて突撃を 開始しました。しかも運のいい事に、本陣近く 迄進んだところで黒雲がにわかに広がり、たち まち激しい嵐が周辺に吹き荒れたのです。今 川軍は最初、織田軍の奇襲とは思わず、味方 の裏切りだと勘違いし、大混乱に陥ったそうな そして毛利新助によって義元は首を討たれま した。信長は追撃はせず行軍の先頭者に義元 の首を持たせて清洲に凱旋したそうな。大勝 利!!歴史の流れが味方してくれたのね! |
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この大勝利と松平氏との同盟締結により、いよ いよ、美濃侵略作戦が本格化するのです。 上1〜4迄の写真は豊明市の古戦場跡です。 高徳院というお寺のそばに小さな公園があり、 古戦場跡の碑と今川義元の墓等がありました 又寺の境内に義元本陣跡の碑が(上の写真) あります。拝殿の左側から左写真の道を少し登 っていくと、そこに史料館がありますが、土日祝 しか開館していません。受付の所にパンフレッ トはありますが、な、なんと\200!!おいおい 他の資料館では無料だったよ〜ぉ!! |
右の写真は名古屋緑区の方。いかにも町民の 公園ってところに「桶狭間公園」と書かれた石 があるだけで(今川義元のお墓もあったけど)、 当時の合戦を伺い知るものはほとんど何もな かった。2つの古戦場はすぐ近くに位置してい たから、この辺で戦があったのは間違いないの でしょうが…。どちらも住宅街のど真ん中にあり ますが、豊明市の方が、らしいかな(^^;)。 まぁ、でも桶狭間古戦場跡は信長様の大きな 第一歩、歴史のターニングポイントになった場 所なんだよね。 |
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