−賤ヶ岳合戦跡−

1583年本能寺の変ののち、信長の跡目をめぐって秀吉と柴田勝家が繰り広げた合戦。
これに大勝した秀吉はついに天下の実権を握る。

<左の写真は賤ヶ岳リフトへの入口です>
山崎合戦から2週間、清洲で開かれた会議に
おいて、柴田勝家は信長の三男信孝を後継者
に推挙、これに対し秀吉は信長の嫡孫にあた
る三法師を推しました。勝家の反対を押しきり
秀吉は三法師を後継者と決め、勝家・秀吉・丹
羽長秀・池田恒興の4家老が補佐する、という
結果になりました。信長の遺領配分についても
明智光秀討伐の軍功に物を言わせる秀吉がリ
ーダーシップを握り、信孝・勝家・滝川一益は
秀吉に敵意を抱くようになりました。とくに秀吉
が山城国を自分の領地とし、京都支配権を手
に入れることになったのが、刺激を強める一因
となったのです。
<右の写真は賤ヶ岳リフトです。>
柴田勝家は織田信孝(神戸信孝)、滝川一益
佐々成政らと共に、反羽柴戦線を築いていまし
た。しかし、羽柴秀吉は、柴田勝家の本拠地
が雪国の越前であることに着目。柴田軍の行
軍が不自由になる冬季を狙い、1582年から撃
破作戦を開始していたのです。これにより、長
浜城を与えられていた勝家の養子柴田勝豊、
岐阜城の織田信孝が降伏しています。この秀
吉軍の攻勢に憔りを覚えた勝家は、雪解けを
待たずして行軍を開始し、3月9日には柳ヶ瀬の
北の内中尾山に本陣を置いています。
この頃秀吉は北伊勢で滝川一益を攻めていま
したが勝家の北近江到着を知ると、伊勢攻略を
中断。2万の兵を率いて、3月17日には木之本
に陣を置き柴田軍と対峙しました。強攻するの
は地形上無理と考えた秀吉は持久戦を取る事
にし、東野山、北国街道仲ノ郷付近、堂木山、
神明山、岩崎山、大岩山、賤ヶ岳、田上山等
に部隊を配置しました。
<上の写真は賤ヶ岳から望んだ琵琶湖>
織田信孝は一度は秀吉に屈しましたが勝家の
南下を知ってまた岐阜城で再挙兵しました。そ
の為秀吉は再度兵を転じ、大垣城に向かいま
した。これが4月17日のことでした。これより先
4月13日、堂木山を守っていた山路正国が寝
返って柴田勝家の甥、佐久間盛政の陣に走っ
ていたのです。19日朝、盛政は正国から、秀
吉が岐阜方面に向かったこと、岩崎山、大岩
山を奪取すれば必勝間違いなしと言う事を聞き
2山の夜襲を計画し勝家に具申しました。勝家
は、攻撃成功後速やかに元の態勢に復帰する
条件で許可したのです。そして、佐久間盛政は
20日、大岩山奇襲を決行し、そこを守っていた
中川清秀を討ち取るなどの戦果をあげました。
<上の写真はリフト〜山頂までの山道>
<左は賤ヶ岳から見た小谷山と虎御前山

この戦果に気をよくした佐久間盛政は、勝家の
撤退命令を無視して賤ヶ岳砦攻撃を計画し、大
岩山に布陣したのですが、これが柴田軍の大
敗を運命づけることとなりました。
大垣にいた秀吉は中川清秀の戦死を聞くと、
すぐに作戦変更。大垣〜賤ヶ岳までの52kmを
5時間で駆け抜いて油断していた柴田軍を急
襲しました。佐久間盛政は巧みに兵を引き、夜
明け頃には権現坂付近へ撤退しましたが、佐
久間隊を援護していた柴田勝政隊が秀吉軍の
集中攻撃をうけて敗走。これに加えて、後方に
位置していた前田利家隊が陣地を放棄して撤
退してしまった為、佐久間隊は孤軍となって壊
滅しました。柴田勝家は北ノ庄に逃れました。
こうして秀吉の大勝で戦いは終わりました。
この戦いで功名をたてた福島正則、加藤清正
らは「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれました。
<左の写真は賤ヶ岳から望む余呉湖
大岩山からの山歩きの道もありますが、私達
は琵琶湖側からリフトで登りました。リフトを降
りると目の前に琵琶湖が広がります。そこから
約300m、急な山道を登ると頂上に着きました。
この登り坂は結構キツイですがハイヒールにワ
ンピース姿のおばさま方も多かったですよ。
山頂は公園みたいになっていて、そこからの眺
めは絶景です。特に余呉湖はキレイでした。