−山崎決戦跡−

本能寺の変後、明智光秀と羽柴秀吉が戦った場所。
この戦いで勝利した秀吉は以後織田家中において主導権を握っていく。

1582年6月、ここ山城国山崎において、羽柴秀
吉と明智光秀の軍勢が交戦し、数で勝る秀吉
軍が明智軍を圧倒しました。光秀は夜半のうち
に坂本城へ逃亡したのですが、その途中、落
武者狩りの土民に殺害されました。本能寺の
変以後、成立した明智政権は、わずか12日間
で終わったのです。
山崎へ到着した私達はどこから天王山に登っ
たらいいのかわからなかったので阪急大山崎
駅の近くにある「大山崎町歴史資料館」に立
ち寄りました。(左写真)
この資料館は大山崎町の歴史を『古代』『中世
』『山崎合戦』『利休・待庵』『近世』の5つのコ
ーナーに分け、実物展示や解説ビデオ、模型
イラストなど、楽しみながら学習できます。ここ
で、私達は山崎の合戦の勉強をし、資料館の
人に天王山への登り口を聞きました。そして車
を資料館の駐車場に止めたまま、徒歩で天王
山へと向かいました。JR京都線の線路を渡っ
てすぐ急な舗装された坂道があります。そこを
登っていくと天王山ハイキングコースのスタート
地点の『宝積寺(ほうしゃくじ)』があります
資料館から徒歩10〜15分位で到着です。でも
かなりの登坂なので結構キツかったです。『宝
積寺』は、一寸法師の打出の小槌が寺の宝と
して奉られている事で有名です。時々TVでも
紹介されてますよ。この寺の境内には秀吉が
一夜で造らせたといわれる三重塔(右の写真
)や秀吉出世石があります。…でも残念なが
ら私達は、秀吉出世石なるものがココにあるっ
て事は後で知った為見る事はできませんでし
た。クスン。この寺の側からハイキングコース
へと進むのですが、突然の山道となります。
ガイドブックには、気楽なハイキングコースと書
いてあったのですが、と〜んでもな〜いっ!!
かなり本格的な山歩きでしたよ。竹林もたくさ
んあって、そのせいかヤブ蚊がたくさんいて、う
っとおしかった(^^;)。私達は5月9日に登った
ので季節的なものもあったのでしょうが、同じ
様に山歩きしている人達の話に聞き耳をたて
てみるとこれから夏に向かって蚊はもっと増え
るとの事でした。ひぇ〜っ。
この天王山、標高は270m。散策道は全長1.8
キロ。その散策道には右写真の様な山崎の合
戦の模様を再現する合戦図の陶板が所々に
あります。『本能寺の変』から『大阪城築城』迄
を6枚に分けて解説したものです。屏風画は日
本画家・岩井弘氏、解説は堺屋太一氏による
ものだそうです。右写真の陶板はちょうど山の
中腹にあるのですが、そこには合戦の跡地が
一望できる展望台や『旗立松』があります。
この旗立松とは、山崎の合戦の時に秀吉がこ
こにあった老松の木に千成ひょうたんの旗を掲
げたといわれる松です。現在の松は六代目だ
そうです。
ここから約15分ほど登ると酒解(さかとけ)神社
に着きます。そこを経ると10分程で山頂に着き
ました。歴史資料館でもらった資料には『山崎
城跡』とあって、秀吉が築いた山崎城の石塁や
井戸跡があると書かれていたので楽しみにし
て登ったのですが…一応『山崎城跡』という立
て札は立ってましたが、石塁なるものを見つけ
る事はできませんでした。ん…残念。でも井戸
跡は見つけましたよ(下の写真)。
それにしても、秀吉ってすごい人ですよね。信
長の死の知らせを受けた時、彼はココから約
200kmも離れた備中高松城にいたわけで、そ
こから俗にいわれるところの中国大返しで約6
日間でここまでたどり着いた!資料によると、
高松〜姫路迄の約60kmを2日で、又姫路〜
尼崎迄の約80kmを、これまた2日というスピー
ドで駆け抜けたとあります。それも豪雨の中…
秀吉は信長の事を尊敬し大好きだった。そして
そのお館様の夢を継ぐのは自分しかいない、と
いう一心で駆け抜けた…と信じたいですね。