京都まにあ
東寺 終い弘法


東寺(地図)は歴史もあり、大きな寺でもある。 世界遺産であり、京都駅からも近い。それなのに、観光客は少ない。
山懐に寄って、桜や紅葉が適度にあるとか、石畳の坂道を歩くなどの、観光用の周辺装置に乏しいことが大きな要因と思われる。

しかし明治時代の写真で見る東寺は、茶畑と森に囲まれた、のどかな田園風景の中にあった。
ある意味、京都に住まいする人々の生活の膨張が、東寺の周辺をどこにでもある味わい薄い町に変えてしまったことになる。

ところが東寺は、そんなことは素知らぬ顔で、特別な観光イベントもあまり行わず、現世ご利益や土産物で拝観客を勧誘することもせず、清水や金閣と比べるなら閑散としていると言ってもよいたたずまいを、日々しらっとした顔で見せつづけている。
ただし、毎月21日をのぞく、という注釈つきで。
毎月21日はなにかというと、「弘法さん」の縁日。境内に市が立つ日である。

元々「縁日」とは神仏がこの世と縁を持つ日で、この日に参詣すると大きな功得があるとして、人が集まるようになった。
東寺では空海入寂が3月21日だったので、毎月21日、つまり月命日が縁日となっている。
仏師康勝の手になる弘法大師像が収められたことをきっかけに、数年後の1240年から、御影供法要が執り行われるようになった。

法要に訪れる人々を目当てに、室町中期までには「一服一銭」の屋台の茶店が登場し、やがて江戸時代になると、植木屋や薬屋なども出てくるようになった。
したがって、市としての「弘法さん」がいつはじまったかと問われると、どこから数えるか定めようがないらしい。まぁ、どう短く区切っても400年超ということである。

現在では、およそ1200〜1300店ほどが出店し、毎月20万人ほどの人が訪れているという。
多少の誇張はあるかもしれないが、それにしても、ちょっとした地方都市一個分くらいが、境内に溢れることになる。
ちなみに、新規出店希望も多いのだが、これ以上は収容不可能ということで現在受付中止になっている。

出店数に幅があるのは、季節出店などがある他、雨天になると実質休業の店も出るため。
その日は薄曇り(午後には小雨が降ったようだが)で、なんといっても一年を締めくくる終い弘法、しかも土曜日である。
こうなればもうフルスペックの店舗と、フルサイズの群集が境内にぶちまけられるわけで、いかに東寺が広しといえども、足の踏み場もない状態になってしまう。
それどころか、足の踏まれ場になりかねないので、人の流れにさからわずゆるゆると歩かねばならない。
早い店は5時頃から開くというので、朝のうちが正解だろうと、早朝の新幹線に乗ったのだが、そんなものではてんで対策になっておらず、到着した時にはすでに、のろのろ行進状態になっていた。


取り扱われている商品は非常に幅が広い。 繊維・雑貨系が多いようだが、和風小物の店や、アンティーク着物、友禅染めのシャツもあれば、単なる古着や下着、中にはカラフルな座布団を積み上げた店もある。
陶磁器類も、新しいものから、どこから持ち出してきたのかという古いものまで様々。
明治時代の錦絵や、値の張る骨董もあれば、がらくたとしか呼びようのないものもある。


このミニチュアバイクは手づくり一品ものだろうか?
古いカメラなどと並んでサーベルがごろんと置いてあるかと思うと、おいおいこっちは鉄砲だよ。
龍などの描かれた旗指物(下左)は、どこで使うのだろうか。


正月が近いので、植木屋さんには葉牡丹がたくさん並べられ、食料品は餅やおせち食材が多く、荒巻鮭を切売りしている店もある。
お正月用品というなら、干支にちなんだ商品もいろいろあるかと思ったのだが、私が歩いた範囲ではほとんど見かけなかった。 来年は丑年だから、25日に行われる北野の天神さんに譲っているのだろうか?

ホーロー看板はどこから集めてきたのだろう。花園八ツ口町の町名看板も並んでいる。
そういえば、誰の本だったか忘れたが、「露店界曼荼羅図」と形容していた人がいた。さすが真言密教の総本山というわけである。
どうせなら「露天界」とでも当字すれば、ありがたみも増しそう・・・ あ、温泉ガイドみたいになるからだめか。

出店エリアからはずれた弁天堂は、歩き疲れた人々の勝手休憩所と化している。
敬老パス(市バス地下鉄無料)を首からさげたおばぁちゃまは、たこ焼ランチタイムである。

東寺は幾度となく火災にあっている。
その中でも昭和の初期の火災は、実は終い弘法の夜に、どうやら関係者の火の不始末によって発生したらしい。
この時は食堂(じきどう)を焼いて、それ以上の類焼は免れたようだが、食堂の中にあった旧国宝の仏像が大被害にあった。

余談ながら、寺が火災に遭うと、僧侶たちはまずなによりもご本尊、次いで数々の仏像を救い出すことを最優先する。
どこの寺だったか忘れたが、ご本尊の厨子の背後に車輪を仕込み、いざという場合バッタンと倒してゴロゴロ運び出せるように細工しているという話を聞いた。
またお寺の火災訓練でも、仏様を背負って逃げる係が決まっているという。

食堂火災の時、いちはやく担ぎ出された千手観音像の損傷は、修復可能な水準だったが、四体の四天王像はいずれも黒焦げになってしまい、損傷の大きさから、当時の国宝指定を解除されている。
3m超の四天王像はさすがに運び出しかねたものとみえる。
現在は合成樹脂による現状固定の処置が施され、再建された食堂に安置されているが、長らく講堂の片隅に、黒焦げの姿のまま横たえられていたらしい。

国内最大級の四天王は、失われた腕を虚空に振り挙げ、炭と化した体躯で我々を圧倒的に威嚇する。
撮影禁止だったので画像はないが、整った仏像を見るよりも、胸にずしんと来るものがあった。
なんでも復元修復の計画があるらしいので、いまのうちにその迫力に触れることをおすすめしたい。
もちろん、金堂や講堂に居並ぶ多くの国宝級の仏像も、その密度においてなかなかの迫力ではあるのだが。


(この項おわり)


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