銅 駝


銅駝美術工芸高地図

どうだ!と言われても困るのだが【どうだ】である。

平安京の条坊制では、銅駝坊というのが左右両京にあった。
中国洛陽の門のひとつにあったという、銅製の駱駝像にちなむ命名である。
西の銅駝坊は現在も西ノ京銅駝町という町名を残しているが、 東の銅駝坊は町名としては残っていない。

しかし、どうも東の銅駝地区の方が近代では羽振りのいい地区だったようで、 今でも学校名として残っていたり、旧学区名をそのまま引き継ぐ自治会があったりするので、 鴨川沿いの銅駝地区について書いておこう。

まず、けっこうプライド高く語られるのが「銅駝学区」という言葉である。
学区というのは、現在の通学区域とはちがって、明治初期に全国に先駆けて充実が図られた、初等教育制度の歴史に端を発しているが、京都市中心部で育った人には、この学区の意識がいまだに根付いており、誇りともなっている。

バス停に「乾隆校前」などというのがあるが、あれもそのひとつで、京都では、歴史に名を残す小学校の方がなんだか偉いのである。

銅駝校はやがて銅駝小学校、銅駝中学校となり、今は銅駝美術工芸高等学校となっている。
校舎横の道を行くと、みそそぎ川にかかる石橋と鴨川の飛び石、そして東山の姿が、ユニークな景観を提供してくれる。

またその校庭では、銅駝「区民」体育祭や、大文字を見上げながらの盆踊りが開かれる。
戦後著しく衰退していた盆踊りを、いち早く復活させた例となっていて、この件に関してもまた「銅駝自治連合会長」などは鼻息が荒いのである。

伝統産業に根ざした先取の気性ということも、銅駝界隈の歴史としてよく語られる。
明治の初期に銅駝の地に造られた舎密局(せいみ=ケミカル)。そこの機械が故障すると修理にかり出されていた、仏具職の器用な息子島津源蔵が島津製作所をおこした、などなど。

鴨涯の山紫水明の空気の中で、伝統の基礎の上に、時代を切り開いて行った銅駝の人々・・・
やっぱり「どうだ!!」なのである。


鴨涯の光景


島津創業記念資料館