轆 轤 町


轆轤町地図

正統派難読地名のひとつ。読める人は少ないと思うが、音を聞けば知っている言葉である。
【ろくろちょう】と読む。あのぐるぐる回るろくろのことである。
場所は東山。清水も遠からぬ場所で、轆轤を使って焼物をつくった職人の町、という連想がわくが、千年の都ではそうは簡単に問屋が卸してくれない。

轆轤町には二つのお寺がある。六波羅蜜寺と西福寺。その西福寺の角が六道の辻で、この世とあの世の分かれ目とされていた。
ここから東は、かつては鳥辺野と呼ばれる葬送の地だったが、平安前期には葬送といっても、死骸を野に投げるだけで、火葬どころか土葬でさえもなかった。
中には鳥辺野まで運ぶのが面倒で、鴨川に投げ込む輩も多く、時々洪水が起ってくれないと、鴨の河原は死骸だらけだったという時代。

なにやら話がおどろおどろしげになってきたが、その鴨川と鳥辺野の間にある六道の辻。
そう、あの世に一歩入ったこの辺りにも、死骸を投げ捨てて行く平安人が絶えなかったのである。

そんなわけで、轆轤町の由来は髑髏(どくろ)とする説が有力である。
髑髏がごろごろ転がっていたので、髑髏原。
それではあまりに禍々しいので、轆轤原とか六原と呼ばれるようになり、後に六波羅蜜寺が六つの波羅蜜という語呂合わせで生まれた、とする説もある。

ところで、昔から轆轤師と呼ばれているのは木地師(木工細工師)で、轆轤を挽いて木製の盆や椀を造る職人の方が、陶磁器職人より一般的だったのかもしれない。
また、京焼とか清水焼が一般化し量産されるようになったのは、桃山期〜江戸時代初期で、一帯の地名に影響を与えるには歴史が浅すぎる。

もっとも、江戸時代初期に、髑髏町ではあんまりだと、所司代の命令で轆轤町に変更なったという話もあり、その頃には焼物の方で轆轤をまわす職人の町だったのかもしれないが、そのへんは詳らかでない。

いずれにせよ、起源はやはり髑髏のようで・・
南無・・・・


西福寺前に立つ六道の辻標識


六波羅蜜寺 萬灯会