京都まにあ
六 条 源 氏 通


一条から九条までの平安京ナンバーストリートの中で、六条はもっとも影の薄い存在かもしれない。
駅やバス停の名称としてもほとんど登場せず、観光的に有名な寺社も少ない。
その上現存する六条通は、堀川から河原町までのせいぜい1.2kmと、短くかつ細い。
地図上でもみつけにくいし、捜すエリアを間違えたら、五条と七条の間をいくら血眼でさがしても見つからない。 というか、六条の名が消えて存在しないのだから、見つけようもないのである。
しかし、歴史を紐解くと、この六条通、「源氏」と縁の深い通りでもある。
そんな気配を少しでも感じられないものかと、六条通をはしからはしまで、散歩してみよう。

堀川通りから歩き始めるのだが、入ったすぐが佐女牛井町である。町名は名水・佐女牛井が湧いていたことに因んでいる。
今は堀川通の西側に石碑が立つだけであるが、その井戸は、平安後期に源氏の六条堀川邸に水を送っていたとされている。

六条堀川邸は、今は正確な位置を特定できないが、六条通から楊梅通のあたりで、清和源氏一族の累代の館となっていたということである。
為朝、義朝などがここで起居し、平治の乱で平家によって焼かれたが、義経が京に入った時に再建して、宿所にしたといわれている。
朝廷と近くなり過ぎた義経抹殺のため、頼朝の命を受けて夜討ちをかけた土佐坊昌俊が、大失敗こいたのもこの邸宅である。

とはいえ、その六条堀川邸を偲ばせるものはこれと言ってなく、これが平安京の六条大路?という細い道りに、庶民的な商店街が、どことなく懐かしい香りを漂わせて続く。
どのくらい細いかというと、長身のバスケットボール選手なら、両腕をひろげれば届きそうな所もあって、市場の中の狭い通路みたいなものである。

その狭い商店街に私が訪れたのは夏で、ちょうど若宮八幡宮の祭礼にあたり、町の角々を提灯やのぼりがにぎわしていた。
この若宮八幡宮も、やはり源氏にちなんだ神社である。

若宮通りを少しだけ南に下ると小さな社がある。
源頼義が天喜元年(1053)に創建した若宮八幡宮である(六条八幡宮、左女牛八幡宮とも呼ばれた)
若宮八幡宮の本社は、応仁の乱で社殿を喪失、後に五条坂へ移転して再建されているのだが、元の鎮座地にも小祠が残されていた。
現在は町の有志によって元の地にも社殿が再興され、祭りも年々盛んになっているという。
祭りの由来は、頼朝の命によって、鎌倉の八幡宮と共に、放生会が行われたことに由来するらしい。

新町通に行きあたって、一度鈎型に曲がった六条通は、相変わらず細い姿で烏丸通に向かう。
このあたりで商店街が途切れ、住宅と旅館などの静かな町並みとなる。

名水佐女牛井の跡


いかにも細い商店街


若宮八幡宮
この一角のもうひとつの顔は東本願寺の寺内町である。
南北の通に出会う度に、南の突き当たりに、大寺院の一角が姿を見せる。
「新潟屋」という名の旅館が見えるのも、新潟からの信徒の「詰所」として発足したからであろう。
東西本願寺の周辺に、地名を冠した旅館が多いのは、ほとんど各地の信徒の詰所なのである。

やがて烏丸通をこえると、六条通もやっと車の通れる広さになるが、河原町通に突き当たって終わるだけの短い距離なので、交通量は少ない。
しかし閑散としたこのエリアも、もうひとつの源氏の記憶を残す一帯である。

光源氏のモデルと考えられている、源融(とおる)の邸宅「六条河原院」は、この一帯に広がっていたと考えられている。
源氏物語で、夕顔が亡くなる荒れ果てた「なにがしの院」は、河原院跡をさしているとされる。
融の時代には、陸奥が風光明媚の地として憧れの対象であり、河原院も塩竃浦を模して、鴨川の水を引き入れた池を持ち、わざわざ難波から海水を運んで藻塩を焼く、塩竈の遊びを楽しんだという。

六条河原院は、左京六条四坊に数町を有したといわれ、六条大路の北、六条坊門小路(今の五条通)あたりの広がりだったと考えられているが、その後の火災や戦乱、洪水や都市改造などで特定が困難になっている。
「渉成苑」がその跡地とする解説をよく見るが、これは鵜呑みにできない。 地理的にも南に寄り過ぎているし、庭園は江戸初期に石川丈山が造ったもので、河原院の痕跡など欠片もなかったはずである。
もっとも、故事来歴薀蓄癖の強い石川丈山であるから、河原院にちなんで造ったくらいの解説は加えたかもしれない。

また「六条院」と呼ばれた邸なら、他にもいくつかある。
そのうち、伊勢神宮の祭主・大中臣輔親の六条院は、現在の東本願寺東北角にあたる一角に営まれ、東本願寺が創建された江戸初期には、六条院跡の池が残っていたと伝えられる。
この伝承と、渉成苑が東本願寺の飛び地であることがないまぜにされ、六条河原院跡と混同されている疑いもある。

前述の塩竃にちなむなら、もっと近い所に、状況証拠となる地名が残っている。 六条坊門小路(五条通)の傍に、塩竃町、本塩竃町が並んでいるのである。
中でも本塩竃町の「上徳寺」は、山号を「塩竃山」と称し、ご住職の姓も塩竃さん。塩竃3点セットで、気分的にも地理的にも、この一帯を推したいと思うのだが、当の上徳寺は別に河原院跡にこだわる気持ちもないようで、世継ぎの授かるお地蔵さんのご利益で、地味ながらも大衆信仰を集めているようだ。

ついでに、木屋町通五条下ル、高瀬川のほとりにも、「此付近源融河原院跡」と書かれた石柱がある。
こちらは、当時の鴨川が増水すれば水没したかもしれない場所で、河原院の池のために、鴨川から水を引きこんだ一帯だったりするのだろうか?

現代の六条通は、後白河法皇にゆかりの長講堂の角で東南に曲がると、その先わずかで河原町通に行きあたり、静かにその名を消す。
後白河法皇は天皇家には珍しく政治好き、悪く言えば謀略好きで、平氏と源氏の対立をあおり、源氏の中でも頼朝の勢力が強まると、弟の義経を取り立てるなどして、そのバランスの上に朝廷の権威を保とうとした。
しかし、結果としては武士勢力の地位を高めることとなり、鎌倉幕府の成立したその年、つまり、平安京の終焉の年に亡くなっている。

なんとしても、源氏にゆかりの地を両端に持つかのように限られた六条通。 これは、単なる偶然なのであろうか?


六条通 地図 西部 中部 東部

越後信徒の詰所?


候補地その1 渉成園


候補地その2 塩竈山上徳寺


候補地その3 木屋町五条下ルの石柱


左の塀は長講堂 突き当りは河原町


(この項おわり)



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