京都まにあ
どっちの正面通


---その1---


「正面通」とはいかにも堂々とした名前である。
平安京なら朱雀大路、城下町なら大手通などに並ぶ、メインストリートをイメージさせる。

しかし現代の正面通は、そんなに堂々とした通りではない。
しかも、4本に分断されていて、それぞれのパーツが大きな施設に挟まれているので、由来を知らない人には、なにの正面なのか分かりにくいかもしれない。

東から順に行くと、
(1)豊国神社から鴨川を渡って渉成苑まで
(2)渉成苑から烏丸通東本願寺まで
(3)東本願寺から堀川通西本願寺まで
(4)西本願寺から千本通手前の児童公園まで

このどれが本来の正面の由来かというと、実はどれでもない。
地理的・性格的に近いのは豊臣秀吉を祀る豊国神社であるが、通りができたのは秀吉在世時なので、豊国神社はまだなかった。
正解は方広寺大仏殿。秀吉が奈良に負けない大仏の容れ物として造らせ、没後は例の釣鐘銘文いちゃもん事件で、豊臣家滅亡のきっかけとなった寺である。
今も方広寺はあるが、往時の構えではなくなり、豊国神社の陰に隠れるような立地になっている。
徳川の治世になって秀吉の功績は徹底的に否定され、豊国神社も破却され、大仏殿も1798年に落雷のため失われ再建されることはなかったので、正面通がなにの正面だか分かりにくい状態になったのは、200年あまり前ということになる。

しかし、平安京の七条坊門通にほぼ重なるこの道を、正面通と呼びならわすようになったのは江戸時代のことなので、庶民の感覚の中には、秀吉の記憶が生き続けていたのかもしれない。
そういえば、「かごめかごめ 篭の中の鳥は いついつ出やる・・・うしろの正面だぁ〜れ」という童歌も、方広寺大仏殿の焼亡後の京に流行ったので、幻のように消え去った豊臣時代への、哀悼歌だったのではないかという説もあったりする。
すると、夜明けの晩に鶴と亀がつっぱったのは、関ヶ原の早暁、霧の中での戦いをさすのかしら、などと想像したくもなるが・・・
まぁ、とりあえず、豊国神社から歩き出すことにしよう。
この神社で一番目立つのは、豪華な唐門である。伏見城の遺構と伝わり、国宝指定されているが、不思議に思っていたのが、明治期に再建されるまでこの唐門はどこにあったのだろう、ということ。
調べてみたら、南禅寺の金地院から移築されたらしい。

金地院と言えば、金地院崇伝。南禅寺と江戸の両金地院の間を往復しながら、徳川幕府初期に「黒衣の宰相」として、謀略を尽くした人物である。
なによりも例の、釣鐘銘文事件は崇伝の陰謀であったという説が強い。
とするなら、二百数十年を経ての意趣返しで、徳川方から召し上げたということになるわけで、なんともはや、執念深いやりとりではある。

鳥居をくぐって神社から出ると、最初だけは、正面通の名にふさわしく広い、しかし閑散とした道路が現れる。
この広さは、市内交通の便にはあまり役立っておらず、いつもタクシー運転手などの休憩場になっているようである。
なにしろ、なんだか150mばかり向こうで行き止まりのようにも見える。
よく見ると片側2車線分、写真では左半分の先が細い通りにつながって、なんとか命脈を保ちながら西に延びている。

その広くて短い通りの左手に、耳塚がある。
こちらは秀吉の歴史上の汚点である朝鮮出兵の際、首を取ってくるのも大変なので、耳を切り取って塩漬けにし、戦果の証として持ち帰ったらしい。それを集めて弔ったことに由来するのがこの耳塚である。
方広寺の大仏鋳造の際、鋳型の土をここに埋めて御影塚(みえつか)としたのが、後年あやまって耳塚と呼ばれるようになった、という異説もあるのだが、こちらはどうにも言い訳っぽくて入れられにくい説となっている。

さて前方に見えていた細い道に入ると、古い料理店やモダンな銭湯「正面湯」などが入り混じる、いかにも下町っぽい商店街になる。
京都は大規模スーパーなどが町中に造りにくいもので、中心部に近いほど、古くからの小規模商店街が息づいている。
というか、住宅と商店と小さな町工場などが、これといった区割りもなく、綿々と続いているようなものである。




鴨川べりに出る角には「甘春堂」の本店が立っている。
「茶寿器」などのユニークな和菓子で知られる店だが、すぐ南の七条通に「七条甘春堂」というのがあって紛らわしい。
暖簾分けしたのですか、と聞くと、なんだか答えにくそうな顔をしていたので、いわく言いがたい因縁があるのだろうか?

鴨川の正面橋は、名前に似合わずやや斜めに懸かっている。
鴨川をまたぐ橋の中では、こんなに曲がっているのは他になかったように思う。多分正面通が、歴史の中で歪みを生じてしまったのではないかと推測しているが、事実は知らない。

都鳥・ユリカモメが遊ぶ鴨川の光景は、この辺りでは繁華街よりも広々としていて、 東山の姿ものびやかである。
余談ながら、伊勢物語にあらわれる記述などから、都鳥はユリカモメであろうと推定されている。

  名にしおわば いざこと問わん みやこどり 
  わが思う人はありやなしやと

しかし、この一節は、武蔵と下総の境を船で渡る時、見なれぬ鳥の名を船頭に尋ねると「みやこどり」との答えを得て、京に残して来た人を偲び涙した、という話なので、昔はユリカモメは京都にいなかったことになる。
実際、鴨川ではじめてユリカモメの姿が確認されたのは、1974年と極めて新しいらしい。
どうやら彼らは、カムチャッカ半島から渡ってくるようで、秋から春の間、琵琶湖と大阪湾の間を、餌を求めて移動しているという。
通常は、早朝東山を越えて鴨川に出勤し、ランチタイムを過ごした後、夕暮れ時には再び琵琶湖に戻って行く。

てなことを思い出しつつ渡り終えると、なぜか小さな釣鐘が橋のたもとに置かれていた。なにかい われがあるのだろうが、解説板もなく、よく分からなかった。

洛中に入ってすぐに目立つのは、山内任天堂のクラシックな洋館である。
ゲーム機で世界を席巻し、マリナーズまで抱える任天堂だが、発祥の地の看板は、往時のまま右書きで、

プンラトたるか   
堂天任内山   

なるほど、運を天に任せて、ということか。
そういえば嵐山に、任天堂が小倉百人一首記念館のような施設を建設中だった。
京都の地で記念館を造るのに、トランプ記念館というわけにも行かなかったものと思われる。

任天堂の隣に立つ「眼科外科医療器具歴史館」というユニークな町家を横目に眺めながら行くと、もう一本正面橋が現れる。
こちらは高瀬川に懸かる小さな橋で、「志よめんはし」となにやらやさしげな書体で書かれている。

やがて河原町に出ると、茶色っぽい土塀に行く手を塞がれる。
土塀は渉成苑のもので、ここで一旦正面通が分断されるので、南北のどちらかに迂回して、もう一度「正面」に回らなくてはいけない。


正面通東部 地図








さらに西に向かう



京都まにあ