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アスカはなぜ、飛鳥と書くのか?
この二文字は本来は地名ではない。飛鳥は、アスカの枕詞だった。 万葉集にも「飛ぶ鳥の 明日香の里」「飛ぶ鳥の 明日香の川」などの形で登場している。 それが美しい文字だったので、好んで地名と混用されるようになったのも、古くからのことという。 では、なぜ飛ぶ鳥か? 単純に鳥が多かったとする人もいるし、その鳥がなんだったかの議論にふける人もいるらしいが、 もう少し詩的な説としては、飛鳥川が風の通り道だからとする見方もある。
古代の大和盆地中央部は、湖沼と湿地帯の連なりで、その記憶を残す地名も多い。周辺の谷が運びつづけた土砂により、湿地帯がだんだんと埋まり、現在の大和盆地を造ったものと考えられている。 大和朝廷が地盤をかためはじめた時期は、まだ盆地中央の地盤はかたまっておらず、背後に山を控えた周辺の地に、定住村落が点在していたのであろう。 飛鳥川中流域も、そういう場所のひとつだった。 湿地と山地の間を、朝夕に風が往復し、谷間には風が集まる。 そういう風に乗り、鳥が群れをなして移動する。 より踏み込んで、アスカは朝風から転じたのではないかと想像を脹らませる人もいるが、そこまで行くと一般的ではない。 その飛鳥川に沿って、南(上流)に歩いてみよう。 甘樫丘 飛鳥寺 まずは甘樫丘に登る。登るといっても遊歩道クラスだが。 大和の秋は、燃え上がるような楓の紅葉というよりは、黄葉樹、褐葉樹が多い。 そういう背景が、地名に残っているのかもしれず、甘樫丘でも樫だか椎だか正確な区別はできないが、団栗がたくさん落ちていて、散歩がてら形のいいのを集めている人もいた。
山頂展望台からは、畝傍、耳成、天香久山(左から)の大和三山が、まるでこの場所から見るために並んでいるような景観が得られる。 足下には飛鳥川が流れ、南に向かってだんだんと幅を狭める山峡地に、飛鳥の田畑が広がっている。
その決して広くはない山峡地が、大和朝廷の本拠地だった時代がある。今の概念でいう「都」の規模ではなく、ナントカノ宮という形で、大和族(仮にそう呼ぶ)の集団が祭祀の宮を持ち、その首長が大王(おおきみ)を名乗った。 古来の中小豪族、渡来文化人・技術者などの一族も、大和族の地位を認め、飛鳥共同体が日本代表の政治体に育っていった時期である。 その共同体の村落を見下ろす高台が甘樫丘で、当時この丘に邸を構え、麓の飛鳥寺を支配していたのは、実は大和族ではなく、蘇我一族だった。 当時というのは、乙巳の変(後に大化の改新につながる)の時である。 聖徳太子などとの関係で、仏教導入派の頭目だった蘇我馬子が重用され、その子の蝦夷や、孫の入鹿が、朝廷内を牛耳っていた。 蘇我入鹿が、皇位継承候補者の山背大兄皇子を攻めて自殺に追い込むなど、横暴の限りを尽くしたため、中大兄王子と中臣鎌足が誅殺したのが乙巳の変。 一応はそういうことになっているが、なにしろ後年編纂された日本書紀などで美化されている節があり、事実関係を疑う研究者も多い。 ただ、少なくとも、山峡の出口を塞ぐように勢力を張り、官僚トップとして朝廷内を牛耳る蘇我氏が、大和族の勢力伸長の障害だったということはありそうである。
中大兄と鎌足にしても、かなりの大博打ではあったろう。まず入鹿を板蓋宮で殺し、大慌てで飛鳥寺を占拠したものの、蘇我氏の本拠地は見上げる丘の中腹。勢力が同じなら、軍事的には残った父親・蘇我蝦夷の方が有利な布陣である。 さいわい蘇我氏に同調しそうな勢力の説得に成功し、蝦夷が自害して、意外にあっさりと蘇我氏本家は滅亡した。 蘇我氏自体が、武力をもって国を牛耳るというタイプではなく、有能な官僚一族であったことも、この際にはさいわいだったかもしれない。 先に殺された入鹿の首が飛んできたという首塚が、写真の中央下に見えるが、その首はなぜか、飛鳥寺と甘樫丘の間にぽっとんと落ちたことになる。 丘の上の邸に飛び、父親に復讐を訴えることもしない。飛鳥寺を占拠した鎌足に襲いかかって噛みつくなんてこともしない。板蓋宮からもたいした距離ではなく、後の平将門に比べるなら、なんともへたれな飛び方ではある。 体育会系の筋力と執念を示す首ではなく、秀才官僚型だったのだろうか、というのは悪い冗談で、もしかしたら入鹿の首は、甘樫丘と飛鳥寺の間に展開されようとしている戦闘を、押しとどめようと飛んだのかもしれないのである。
現代の飛鳥寺を訪れる人は、そういう血生臭い話を聞く機会は少ないようだ。お坊さまの解説も、首塚についてはその存在にさらりと触れるだけ。 日本で造られた仏像としては最古とされる飛鳥大仏(止利仏師作)や、聖徳太子少年像などに、おだやかに手をあわせておくことにしよう。 なお飛鳥寺は日本最古の仏教寺院で、推古天皇による官寺と考える説もある。 しかし、まだまだ仏教の導入を嫌う勢力も根強く、疫病が流行れば異国の妖しげな教えのせいと、誹謗されたりもした時代である。 大和朝廷が、まだ各種勢力のバランス上に危う気に乗っかっていた頃であるから、試しに蘇我氏に造らせて、様子を見ていたものと、私は考えている。 |