|
|
|
酒船石から板蓋宮跡へ
酒船石は野っ原の中にあるのかと思ったら、意外に小高い丘の上だった。 竹林の坂道を登って行くと、頂上近くに、なんでもなさげに大石が置かれている。
表面に残るくぼみと溝のような模様から、酒を絞ったのではないかという推測に基づいて、酒船石と名づけられたものの、これがなんなのか、というのには必ずしも定説がない。少し奥の場所から、導水管らしきものも発掘され、庭園あるいは祭祀場の流水施設とする見方もある。 くぼみは、見方によっては人の頭や胴体に見えなくもない。 しかし、坂道の途中のこれまたなんでもなさそうな解説板がちょっと意外だった。 斉明天皇が命じて造らせたと伝わる人口の建造物が、どうもこの丘らしいというのである。 近年そのことを示す石積みなどが発掘され、ごく一部だが復元展示されている。 斉明天皇は、二代前の皇極天皇と同一人物の女帝で、皇極時代に乙巳の変が起こり、その面前で蘇我入鹿が誅殺されている。 事件の後、弟の軽皇子に皇位を譲るが、その死後重祚して斉明天皇となる。 65才で崩御した後、中大兄皇子が即位して天智天皇となっている。 国内外で政変・動乱の多い時代で、おそらく心労の多い年月を過ごしたことであろう。 飛鳥寺をはさんで甘樫丘と向かい合うこの場所に、丘を築かせたということ自体、なんらかの鎮魂、あるいは怨霊除けの意図があったのではなかろうか。 単なる酒造りとか、庭園の施設ということではなかったものと想像される。
酒船石から少し南に行くと、板蓋宮跡に着く。板蓋宮は、乙巳の変の現場である。 殺された入鹿の首は、ここから北へ、1kmほどの距離を飛んだことになる。 現段階ではあくまで推測を含む「伝・板蓋宮跡」で、すでに発掘された遺構からの出土品は、やや時代が下るらしい。 しかし、その下にまた別の遺構の存在が確認されており、今後の発掘に期待がかかっている。 それにしても、案内板はいいが、一度掘り返した場所を、埋めなおして敷石の公園にしているのはどうなのだろう。 一気に発掘してから整備した方が、予算も少なくてすむだろうにと思うが、そうは行かない理由があるのだろうか。 ところでこのなにがあるわけでもない場所で、ビデオクルーがお仕事をしていた。 甘樫丘でも撮影していたし、ユネスコがなんとかという会話をしていたので、世界遺産登録をめざすプロモーションビデオ撮影だったのかもしれない。 石舞台古墳 石舞台は、蘇我馬子の墓と考えられていて、飛鳥最大の観光名所である。 馬子の邸宅がこのあたりにあったとされているので、やはり蘇我氏、飛鳥を広域支配していたようだ。 飛鳥寺にも多少の観光客がいたが、石舞台はそれどころの騒ぎではない。 小学生の修学旅行も、中高年ツアーも、大型バスでどんどん集まって来る。 20年ほど前に一度来たことがあるのだが、その時は特になにもない野原に、石舞台がゴツン!と横たわっていて、おおいにのどかだったものだが、今は芝生の公園が周りを取り囲み、休憩所、売店などが設けられている。そして、広い駐車場に溢れる車、車、車。
しかし、見るべきものは石舞台だけであるから、団体が集中する時間帯は大変なことになってしまう。外観を見ているだけならいいのだが、石舞台の中、玄室に入るには順番待ちの列になるのだ。 その混雑に輪をかけるのが、村民ガイド?の得意満面のしつこい解説。 広いとはいえ、10人も入れば一杯の玄室内で、15分や2O分は当たり前の解説が延々と続く。 周辺的な解説は外でやっとかんかいっ! あ、しかも解説の終った後も、長々記念撮影で出て来やしない。 この二枚の写真のために、ずいぶん待ち時間を使ってしまった。 総重量2000tを超えると推測される、30数個の石組みは、技術的にも大変すぐれたものだそうで、本来土中に埋められていたものが露出した後も、崩れる気配はまったくないという。 玄室内は、古い時代に盗掘にあったようですっからかんだが、わざわざ覆いの土を除き墓をあばいたのも、蘇我氏滅亡後の懲罰的な措置だったとする説がある。 もちろんそれも推測の域を出ておらず、なにかとミステリーだらけの飛鳥なのである。 南渕へ
石舞台古墳から、飛鳥川に沿った道を、上流に向かってたどる。これまでも飛鳥川の主に右岸(東岸)をたどる道だったが、この先は飛鳥川も渓谷と呼んだ方がいい姿になり、道も上り勾配がきつくなる。 山が両側に迫ってくると、気のせいか、飛ぶ鳥を運ぶ風の流れが強くなったように感じる。 耕作地は棚田になり、まだ刈り取りの終っていない田が多少残って、色合いを添えている。 同時に、石舞台の喧噪が嘘のように人も少なくなり、観光ポイントはなくなる。 そんな場所まで足を伸ばしたのは、南渕請安の墓所を訪ねるためである。 南渕というのは、飛鳥川の上流(南)に住まいを構えていたからの通称で、僧名が請安。 推古天皇の時代に、学問僧として遣隋使の一向に加わり、隋から唐に国が変わった後に帰国して、学問を教えていた。元々渡来人だったという説もある。
中大兄皇子や中臣鎌足にも、主に周孔の学、つまり儒教を教えた。美化された伝説では、年長の鎌足が中大兄を誘い、請安に教えを受けに行く道すがら、二人で大化の改新の構想を錬った、という風になる。 墓所は、現在は稲渕と呼ばれる集落の高台にあり、宗教性の薄い墓碑があるが、神道風の祠も置かれている。 少し手前で飛鳥川に下ると、流れを渡る飛び石があって、中大兄と鎌足の二人もこの場所を渡ったにちがいない、というロマンチックな想像の舞台となっている。 しかし、蘇我入鹿もまた、請安の生徒の一人であり、それもけっこう優秀であったらしい。 鎌足の伝記の中でも、請安だったか僧玄ぼう(漢字がめっからない)だったかが、入鹿を高く評していたことが記されている。 あいつはわしの生徒の中でもピカイチだ、君に志あるなら焦ってはならぬぞ。 鎌足側に立つなら、あいつは頭がいいから油断するなよ、計画は焦らずじっくりとな、という読み方になる。 あるいは、家柄ではピカイチという読み方をする人もいる。 そうすると、請安たちもまたクーデターの支持者だったような話になるが、さてどうだったのであろう。 飛鳥川に吹く風は、鳥をはこぶだけでなく、人もはこび、歴史もはこび、そして現代の我々には、さまざまなミステリーもはこんでくれる。 しかもこのミステリー、探偵小説やドラマのように、解決しないものだから始末が悪い。 おかげで私たちは、さまざまな憶測を、飛鳥川の流れを見ながら楽しむことになるのである。 |