ときどき大和路
斑 鳩 の 秋
-その1-

斑鳩といえば法隆寺がメインだが、今回は矢田丘陵から先に歩いた。
矢田丘陵は交通の不便なエリアなので、先にタクシーで入った方が能率がよさそうだったから。
ただし、その後は斑鳩まで、かなり本気のハイキングになる。


東明寺 地図

最初は東明寺から。
ちょっと失礼な言い方になるが、本堂と山門のみの、寂れた山寺である。
山門は丸裸で居心地悪そうに突っ立っており、石段もほとんど土に埋もれている。

塀もあちこち欠けてつながっていないし、残った所もひび割れ剥がれ落ちそうになっている。
訪れる人も、この時は私以外だれもおらず、寺の方々も不在?の様子だった。
しかしその寂れ具合が、得も言われぬ雰囲気を醸し出す、不思議なたたずまいを見せている。

寺伝では693年、天武天皇の子である舎人親王の開基とされる。
この先も矢田丘陵には、天武天皇の時代にはじまる伝説がある。
飛鳥から藤原京、そして平城京へと、都が都らしくなって行く時代に、この地域の開発が進んだ歴史が想像される。
その東明寺が寂れはじめたのは江戸時代で、大和郡山藩の跡目争い「九六騒動」が関係しているという。

この話は少々ややこしくなる。
先代藩主の死に際して、嫡男が幼少だったため、一時的に従兄弟が藩を預かった。
ところが藩主になると欲が出て、実子に家督を譲ろうと策動したのである。
この時、嫡流に戻させようと動いた家老の都筑惣左衛門が、東明寺との関係が深かったようで、いまも供養のための五輪塔が、裏山にひっそりとたたずんでいる。

結局は幕府の裁定で、十五万石を二家に分け、九万石と六万石に分割したので九六騒動と呼ばれるのだが、ことはそれだけで収まらなかった。
従兄弟側が、なんと嫡流を毒殺する事件に発展し、結局どちらも移封になって郡山から引き剥がされてしまった。
その時、藩と東明寺の縁も切れて、衰退の道を歩むことになったらしい。

とんだとばっちりかもしれないが、東明寺は、この後で行く矢田寺の下に置かれ、近所の神社の神護寺のような役割で生き延びてきたという。
しかし、訪れる人も少ないこういう場所で、控えめに点在する紅葉を見ていると、なにかほっとするものを感じてしまう。
もっともそれは、私が山歩きを趣味としているからかもしれないが。

というわけで、ここからハイキングがはじまる。
近畿自然歩道の標識にしたがって、山道や農道をつなぎながら、矢田寺に向かう。


矢田寺 地図

東明寺から20分ほど歩くと、紫陽花の寺としても知られている矢田寺に到着する。
本名は金剛山寺というが、矢田寺の通称の方が通っている。
想像していたよりも大きな構えの寺で、子院に囲まれて大きな本堂が建っている。

こちらは天武天皇の勅願によって、673年に創建されたと伝わる。
なんでも大海人皇子(後の天武天皇)が、矢田山に登って壬申の乱の戦勝祈願を行い、即位後に勅を発したらしい。
壬申の乱勃発にあたり、大海人皇子が吉野から脱出した経路は、鈴鹿越えのはずなので、矢田山で戦勝祈願はおかしいように思うが、まぁ、いいことにしておこう。別働隊はこの近辺を通っているようだし。

ご本尊が地蔵菩薩で、これは平安初期の伝説に基づいている。
この世とあの世の二重契約をやっていた小野篁に頼まれて、地獄へおもむき閻魔大王の三熱苦を治したのが、他ならぬこの寺の満米上人だったというのである。

その時出会った、炎熱の中で衆生を救う地蔵菩薩を像に刻んで、ご本尊にしたという。
なお上人の名は、元は満慶だったが、閻魔大王から土産にもらった小箱から、いくら食べても尽きない米が出てきたので、満米上人と呼ばれるようになった。

そんな縁で、境内にはお地蔵様がたくさんいらっしゃる。
中でもユニークなのが「味噌なめ地蔵」で、味噌を口に塗ると味がよくなるのだそうだ。

境内に春日神社があるので、やはり大和では春日の神の勢力が勝っているのかと思ったが、それだけではなかった。
満米上人が、なかなか上手く地蔵菩薩を彫れないでいたところ、4人の翁が現れて助けたということになっていて、これが春日の神の使いだと考えられているらしい。

ところで、京都は寺町三条にも金剛山矢田寺があるが、最初は奈良の矢田寺の別院だったらしい。
京都まにあの小野篁の項で、そちらのことしか書かなかったが、まぁ、どっちにしても伝奇の類いであるから、そのままにしておこう。

裏山には、四国八十八ヶ所を凝縮した、1時間ほどのコースがある。
しかし、こちらはそれでなくてもハイキング中なので、ここは割愛して先に進む。

ところが、次の松尾寺への道は、おいおい、本格的な山道で、なんだかどんどん登って行くではないか。
どこかの分岐点でまちがえて・・・いなかった。
登りきった国見展望台で、大和盆地とそれを取り囲む山並みの展望を楽しんだ後、ゆるゆると下りなおして、松尾寺にたどりつく。


松尾寺 地図

松尾寺には、たどってきたルートの関係で、北門から入る。 すでに歩き疲れた足には、いきなり108段の石段がきついが、それをこなすと、本堂や三重塔などが、山中に立ち並ぶ。
いずれも後世の再建であるが、落ち着いた風情を醸し出している。

創建には諸説あるが、舎人親王が718年に建立したとされている。
日本書紀編纂に関わった人物であるから、本人は後で述べる聖徳太子の謎に悩まされたかもしれない。
あるいは思いっきり美化するように命じられて、歴史家ならぬ小説家の役割を演じたかもしれない。
書記の完成と、自身42才の厄除けの願いを込めて寺を建立したとされ、そんなわけで、日本最古の厄除け霊場として知られている。
先ほど登って来た108段の石段というのも、なにか関係ありそうではある、

本堂には厄除け観音が祀られるが、秘仏なので、普段はそのお姿を見ることはできない。
毎年11月3日のみ開扉されるらしい。

本堂左の七福神堂では、大黒天像が特異な姿を見せる。
俵にまたがりワッハッハ!と小槌を振る、おなじみのやや脳天気なお姿ではなく、どちらかというと四天王像に近い厳しい立ち姿である。
大黒天は古くは破壊と豊穣の神とされ、時代が下るにつれ、豊穣のみを代表するのどかな表情に変化していったらしい。
こちらの方が、仏法守護の神として、本来の姿なのかもしれない。

山頂へ続く石段途中の三重塔は明治の再建。
さらに奥にも、舎人親王の骨を祀った石塔や、松尾神社もあり、展望地も広がっているようだが、この先も長いので割愛させていただく。

風神雷神のレリーフがユニークな南門から出ると、今度は下りの山道になる。
矢田丘陵はどこまでも山の姿を示しつづけていて、山岳信仰と仏教の結びつきが、早い時代から起こっていたことをうかがわせる。
道の傾斜がだんだんゆるやかになり、やっと平べったくなったと思ったら、その名も法隆寺カントリークラブの中を抜けて、斑鳩の里の一角に出る。



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