ときどき大和路
斑 鳩 の 秋
-その2-

聖徳太子はなぜ斑鳩宮を営んだのか?
なぜ推古天皇の飛鳥から20km近くも離れた、この場所を本拠地としたのか?

聖徳太子の生涯や業績については謎が多い。
聖徳太子は、蘇我馬子と協力して推古天皇を補佐し、律令制の基礎を築き、仏教を導入したとされる。
いずれも百年ほど後の日本書紀などに記述されたことで、仏教への傾倒以外はどうも怪しいという説も根強いのである。 そのうちの太子怨霊説をベースに、勝手に想像をふくらませてみよう。

すでにこの時期までに、ヤマト王族には蘇我氏の血が流れ込んでいて、聖徳太子も例外ではなかった。
また太子の妃も蘇我馬子の娘で、馬子には扱いやすい王族のひとりのはずだった。 ちなみに、蘇我氏に対抗した物部一族の討伐には、太子も兵を出している。
しかし、馬子が実権を子の蝦夷に引き継ごうとする頃には、太子が邪魔になってくる。

そうなると、近くにいれば殺される怖れのある時代だった。
一代前の崇峻天皇も、馬子によって暗殺されている。
太子は飛鳥から去り斑鳩に移ることで、政治闘争の場から去り、身の保全を図る。

しかし、完全に引退したのかというと、どうもそうではなさそうに思える。
太子一家は財力があって、斑鳩にいても無視できない存在だった。
このうえさらに、河内・摂津方面の豪族と関係が深まれば、蘇我氏にとっても、推古天皇にとっても、いよいよ厄介な存在になる。
斑鳩に移ることで、そのように捉えられるリスクを、太子はあえて冒している。

やはり、対抗勢力の構築を図ったものと想像される。
やがて起こるであろう皇位争いに、武力闘争も辞さない構えだったかもしれない。
しかし、推古天皇の在位が長かったことで、闘争の機会はついに訪れなかった。
皇位争いの坩堝に火を投げ入れることなく、推古よりも、馬子よりも先に世を去る。

後に太子の子の山背大兄王は、皇位争いに参戦して、攻撃され自害している。
攻撃したのは、馬子の孫の入鹿ということになっているが、これがまた怪しい。
皇位継承の対立候補が、糸をひいたと疑われている。
かくして太子とその一族は、直接には蘇我氏、実態としてはヤマト王族に、深い恨みを残しつつ消滅したのである。

中大兄王と中臣鎌足のクーデターで、蘇我一族は亡んだ。
これで太子一族の恨みが晴れたかというと、そんなに事は簡単ではない。
中大兄や鎌足にしても、山背大兄排除に加わった疑いがもたれている。
その後日本書紀などでは、蘇我一族は悪逆非道の朝敵とされ、逆に聖徳太子の神格化がなされた。


法隆寺 地図

太子の謎の人生を反映して、法隆寺にもまた謎が多い。
創建されたのがいつなのかさえ、日本書紀には書かれていない。
斑鳩宮が601年、法隆寺の前身(若草伽藍)が607年とするのが通説であるが、確証には至っていない。
若草伽藍の全焼記録が、いきなり670年に現れており、その跡は発掘調査で確認されている。

現在の法隆寺の伽藍は、それ以降の再建とみられるが、これまた、発議したのが誰で、いつから始まり、いつ完了したのか、諸説あって確定していない。
それにしても、現存する世界最古の木造建築群となるのが、法隆寺西院伽藍である。

松の馬場とも呼ばれる松並木の参道を行って南大門をくぐる。
両脇に延びる築地塀は大垣と呼ばれ、中門に向かって南北にも延びている。
大垣の中は、子院などが並ぶが、その一隅から、前身の若草伽藍の塔の礎などが発掘されている。

北に進むと中門が建つ。
左右の金剛力士像は8世紀はじめの作で、土を固めた塑像なので痛みが激しく、後世の修理部分が多い。
写真は阿形の方だが、吽形は頭部以外ほとんど木造に置き換えられている。

この門が、柱間四間で中央二間が開く、大変珍しい型式をしている。
柱間は普通奇数で造られ、その中央を通る構造になっている。
誰が通るのか?主役は拝観者ではなく、中に祀られる神仏である。
そこに、まるで縦の閂のように中央の柱を置いたのは、聖徳太子の怨霊がうろうろ出歩かないようにするためと疑われている。

門の内側の回廊では、細部の装飾にも、後世の寺院建築とは異なる、飛鳥建築の粋を見る人が多い。
柱が中脹らみでエンタシス、なんてのは、法隆寺の蘊蓄話の中では入門以前、予備校クラスなのである。

まぁ、そういうことを知らなくても、この回廊を歩くのは気持がいい。
この季節には、歩くにつれて格子の向こうの紅葉が、ちらちら見えかくれして、目を楽しませてくれる。

回廊は中門と大講堂を結び、その中央の方形の広場に、金堂と五重塔が並び建つ。
この金堂が、若草伽藍焼失後に最も早く再建されたと見られている。

二層の入母屋造りに、古い時代の建物に多い裳階(もこし)がつけられている。
裳階は、建物を立派に見せるための装飾という人もいるが、建物を雨風から護るためではないか、と想像している。
木造の橋に桁隠しがついているようなものであろう。
見上げると、あぁ、あの卍をつないだような手すりが、飛鳥時代風の勾欄ね。
柱には龍もからまっていて、たしかに大陸風の建築装飾である。

ご本尊は釈迦三尊像で、太子の冥福を祈って推古天皇が623年に止利仏師に造らせたと伝わる。
また東の間の薬師如来像は、像の制作および伽藍創建を607年とする銘文を背負っていて、これらがかえって世の中をややこしくしている。
薬師如来はその信仰の普及からみても早すぎるし、だいたいどちらも焼けこげの跡もない。
全焼した若草伽藍ではなく、他の場所から持って来たか、制作年代が嘘なのか?
聖徳太子に箔をつけ、同時に過去の王朝のふるまいも美化する、後世の意志があったものと考えられる。

誰なのか。天武?持統?文武? 歴代の王朝の意志が重なっているかもしれない。
もしかしたら、鎌足にはじまり、王朝の実権を手にした藤原一族かもしれない。
王朝に異変や緊急事態が起こる度、太子一族の怨霊が思い起こされ、贖罪と鎮魂が塗り重ねられた。
その都度、尾ひれがつき、手足がつき、証拠物件の捏造という黒い翼までついてくる。
再建したのは誰かという議論が、再建を必要としたのは誰か、という方向に傾きがちな理由でもある。

五重塔にも一層目に裳階がついている。
軸部や屋根は、上層になるにつれ小さくなっている。
その逓減率は数ある塔の中でも大きい方で、安定感と同時に、見上げる時に上昇する気分を誘う軽快感がある。
前に書いた興福寺の塔と比べるなら、どうしても法隆寺や薬師寺の塔に美を感じてしまう。

五重塔にも謎がつきまとう。心柱が594年に伐採された檜だというのが、21世紀初頭の年輪年代法による調査結果。
若草伽藍が670年に全焼する前から、塔の移転が進んでいた?
それともどこか他の寺から、強引に召し上げて来た?
そんな古い時期の寺というと、まさか蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)ではなかろうな?

その心柱のまわりは、百体近い塑像が囲み、釈迦涅槃など四つのシーンを表現している。 この塑像群は、711年の制作とされる。
この年を法隆寺全体の再建年とする記録があり、営々と進められていた再建がほぼ完了したのを、711年とするのが通説になっている。

大講堂を拝観し、鐘楼、経蔵などを眺め、西に位置する三経院、西円堂を見る。
それぞれ蘊蓄や謎はあるのだが、書き出すときりがなくなるので省略。

大宝蔵院で百済観音など数々の宝物を見渡して、東大門をくぐり、東院の方に向かう。
東院エリアは、創建時の法隆寺境内ではなく、聖徳太子一族の住まう斑鳩宮が置かれていた。
若草伽藍の焼失に先立ち、斑鳩宮は643年に焼失している。蘇我入鹿が山背大兄王を攻めた時である。
斑鳩宮跡地に、太子の冥福を祈るため739年に開かれた上宮王院を、平安時代に法隆寺に組み入れたらしい。

東院の中心の夢殿は、日本最古の八角円堂である。
本来は故人の供養塔で、円墳式の仏舎利塔(ストゥーパ)が原形と考えられている。
木造の場合真円は難しいので、八角になり、八角円堂と呼ばれるらしい。

夢殿ご本尊の救世観音像は、太子の等身像といわれる。
秘仏として白布に包まれ厨子に納められていたが、明治に岡倉天心とフェノロサの手でその姿を見せた。
興福寺ほどではないにしても、法隆寺も神仏分離令のために疲弊した時期があり、宝物の一部を皇室に献納して、下賜金にかえたことがある。
東京国立博物館の法隆寺宝物館は、そんな経緯があって生まれた施設である。
岡倉やフェノロサが、歴史的美術品の保存を訴えて運動し、明治政府が自らの愚に気づくことがなかったら、日本の寺院建築や仏教美術などは、壊滅的な事態に陥っていたかもしれない。

ところで、像の包みをほどく時、法隆寺はしつこく抵抗し、おおいに怖れたと伝わる。
そんなことをすれば、太子の怨霊が、解き放たれるではないかっ!?



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