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近鉄奈良駅から歩き始めると、さっそく鹿がうろうろしはじめる。奈良の鹿は春日大社のおつかいということになっているが、本人たちは帰属意識があるわけではなく、奈良公園、東大寺、もちろん興福寺の敷地にも平気で入ってくる。 グループ別に出没エリアが決まっているらしいが、私たち観光客にはそこまでの区別はつかない。 「お堂でみる阿修羅」の看板が、興福寺境内の混雑を予告しているが、阿修羅展は上野の博物館で観ているので、今回はパスしておこう。案の定、仮金堂の展示場へは、長蛇の列ができている。 こういう状態になると、なんとか入れた人は粘らないと損するような気分になるので、列はなかなか前に進まないことだろう。最後尾の人は、少なくとも1時間は待たされるにちがいない。
並んでいる場所に木の杭が見え、その手前が土盛りになって少々みっともないのは、中金堂の再建工事中だからである。基壇だけはできて、柱を建てるための礎石が置かれている 興福寺は度々火災にあっていて、大小あわせると百回を超えるという。 中金堂も7回の火災にあい、その都度再建を繰り返してきた。 しかし、中世には再建の苦労は小さかった。なぜなら、興福寺が藤原氏の氏寺で、広大な荘園を与えられるなど、大和国を実質支配していたからである。 さらには、藤原氏つまりは朝廷の命令で、いくつかの国が仕方なく支援に応じたりしている。 鎌倉時代もまだましだった。 武家政権になった後も、朝廷への遠慮もあったのか、あるいは武士団が育っていなかったせいか、各国に置いた守護職に代わって、大和の場合はなんと興福寺に一国を任せるような処置をしている。 江戸中期の火事では、さすがにそうは行かなかった。 かつてのような支配力は失われ、幕府財政再建の鬼となった吉宗には冷たくあしらわれる。 それでも多少の援助は引き出したものの、本来よりひとまわり小さい仮再建になってしまった。 それが老朽化しての中金堂本格再建が、今行われている最中なのである。 阿修羅展が行われている仮金堂は、使われなくなっていた薬師寺の旧仮金堂を移築したものという。 薬師寺では豊臣時代の再建が仮のままで終っていた金堂を、1976年に再建している。
それでも興福寺は、藤原氏の氏寺であることを誇りにしてきたようで、その気分は今も残っている。南西の角にある南円堂の前に植え込みがあるが、これが右近の橘と、左近の桜ではなく藤で、もちろん藤原氏の家紋にちなんだものである。 橘は黄色い実を、藤も黄色くなった莢を、たくさんつけていた。 橘の方にも同様の主旨が含まれているかもしれない。 平城遷都前後の藤原家は、藤原不比等と県犬養三千代の時代で、三千代は、臣下の女性には珍しく、元明天皇から橘の姓を賜っている。 南円堂は西国三十三ヶ所の9番目の札所で、参拝者も多い。 県庁東の交差点には、江戸末期に建てられた道案内の石碑が残っているが、そこにも「すぐ なんゑんだう」と刻まれている。 ご本尊の不空羂索観音や四天王像は、春秋の特別公開日だけ見ることができる。 余談ながら、東大寺三月堂もそうだったが、不空羂索観音信仰は奈良時代に隆盛だったようで、平安時代に入ると、千手観音信仰などに押されてだんだん下火になる。 ひとつには、藤原氏が守護仏として占有的に扱ったために、大衆化しなかったからともいわれる。
南円堂と対をなす北円堂は、不比等の一周忌に、元明天皇と元正上皇によって建立された。現在の建物は鎌倉時代の再建だが、その端正で力強い姿は、八角円堂の中でもピカイチと賞賛されている。 仏像類も、弥勒如来、無着・世親像などの名作が納められていて、ここも春秋の特別公開期だけお目にかかれる。 もうひとつ、やはり鎌倉時代の再建であるが、北円堂とともに現存最古の建物となるのが、三重塔。 小ぶりな姿だし、南円堂の西の低い場所にあって目立たないため、足を運ぶ人が少ないようだが、やや古風な姿が落ち着いた雰囲気を醸し出している。
東側もまた、国宝のオンパレードである。国宝館は、この時は「お堂でみる阿修羅」のために、すかすかになっていそうなので今回はパスしておくが、仏像マニアにはこたえられない名作が、これでもかというくらい収納されている。 東金堂と五重塔が並ぶ光景は、興福寺を代表するワンショットであるが、私はこの塔の姿がいまいち好きになれないでいる。 室町時代の再建で現在の姿になったというが、屋根が大きすぎ、反り返りもわざとらしいのである。 普通は上層部の屋根が少しづつ小さくなっていて、見上げた時の爽快感を誘うものだが、この塔は見るからに重くて偉そうである。 光明皇后が寄進した塔の再現ではなさそうで、室町時代の気分が勝ち過ぎたのだろうか。 さらに残念なことに、興福寺の歴史の汚点となる逸話を、この五重塔は代表している。 明治の初め、神仏分離令が出された時、興福寺はこの塔を、わずか25円で売りに出した。 実際に買おうとした商人がいたそうで、その商人は、木や金具を古材として処分して元をとるつもりだったらしい。25円というのはその程度の金額だったのである。 実際には、解体工事の費用の方が大変だと分かり、商談が成立しなかったという。
なぜそんなことになったかというと、興福寺が藤原氏の氏寺だったことが関係している。代々藤原一族の子弟や皇族を迎え、門跡寺院と化していた興福寺の上層部には、本来の仏教者としての覚悟と矜持を持たない僧侶がいた。 しかも、仏教を棄てても、同じ藤原氏の氏神である春日大社という受け皿がある。 仏教迫害に走った明治政府の愚策を唯々諾々と受け入れ、反省文まで提出して神官に転身してしまう高僧が出て、寺は廃寺同然になったと伝わる。 織田信長に抵抗した本願寺のように、死を賭して戦えとまでは言わないが、明治政府が愚に気づき策を緩和するまでの間耐え忍ぶことができれば、興福寺の様子は今とはもう少し違っていただろう。 自ら大混乱しているうちに、やけっぱちで薪にされた仏像もあるし、混乱につけこんだ政府の手で、寺域も大幅に狭められてしまった。 もっとも、明治政府の官僚たちが、奈良や京都の大寺を狭め、公有地を増やすために、特定の寺院を集中攻撃した疑いもなくはない。 実は現在の奈良公園も、それに隣接する公共施設も、周辺に点在するホテルの土地も、元は興福寺境内だったのである。 後世の私たちにとってどちらが良かったかというのは別の話であるし、ましてやその後の興福寺を立て直し、運営している僧侶の方たちには、まったく関係しない話ではある。
最後に、こんな所も興福寺だったのか、という場所に立寄る。東大寺の南西角、南大門のすぐ近くに、依水園と吉城園というふたつの庭園がある。 どちらも近代に造られたもので、大和には珍しい池泉回遊式や枯山水式の、京風あるいは江戸風の庭園である。 この場所には、古くは「摩尼珠院」という興福寺の子院があったらしい。 庭から南大門の屋根が間近に見えて、知らずにいれば元東大寺の一角と思ってしまうだろう。 聖武天皇の東大寺を、それよりはるかに広い藤原氏の興福寺と春日大社が、挟撃していた構図である。 ついつい、中世における藤原氏の権勢の大きさと、なにかにつけて棚上げ状態の天皇の立場などを、連想してしまうのであった。 |