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東大寺はまことに大きな寺で、しかも全体を囲う塀などがないものだから、奈良公園との境がどこなのかよく分からない。さすがに南大門からはまちがいなく東大寺であろうから、まずは南大門をくぐる。 ところが南大門には「大華厳寺」と書かれた大額がかかっている。 これは華厳宗の大本山だからということであろうが、その他にも「金光明四天王護国之寺」という名称も持っている。 これは前身となる寺が、大和国分寺の「金光明王寺」だったことによるものらしい。 平城京の東に位置する大寺という通称が、やがて正式名称になっていった歴史が想像される。 南大門自体もそうだが、左右に安置される金剛力士像もまた国宝である。 鎌倉時代、運慶・快慶一門によって制作された力作で、長年の間に木の色が褪せているが、その褪せ具合が筋肉の線に沿うように立体感を増し、力強さを強調している。
中門と一体化した朱塗りの回廊から入ると、金堂(大仏殿)がその巨体を現わす。江戸時代の再建になるもので、創建時に比べると横幅が3分の2に縮められているらしいが、それでも、木造建築としては世界最大を誇る。 一階(本当は全部で一階建てだが見た目一階)の屋根には、唐破風の庇がつけられているので、不思議に思って調べてみたら、やはり江戸時代の再建時に加えられたものらしい。 毎年大晦日から元旦の間は、この下の大窓を開いて、大仏のお顔が外から見えるようにするというが、なんだか余計な工夫をしたものである。 時代感を損なうし、縮めた横幅をさらに分断するデザインだが、いまさら取り払うのも難しいのだろう。 とはいえ、その庇下に立って見るだけでも、高さは十分に高いのだが。
中に入って見上げると、大仏(盧舎那仏)は首が痛くなるほどに高い。脇にいらっしゃる如意輪観音だって大きいのに、ご本尊に比べるとずいぶん控えめに見える。 この盧舎那仏の大きさに関して、創建時の裏話的逸話を聞いた。 なんでも開眼供養の時には、実は大仏の光背まで完成していなかったのだが、後日光背を製作するにあたって、とんでもない問題点が発覚したらしい。 金堂の天井が、大仏本体の寸法しか計算しておらず、光背をつけようとするとつかえてしまうのである。 この時、実忠という僧が活躍することになる。 実忠は二月堂の修二会(お水取)の行事の創始者としても知られるが、極めて実務的な能力の高い僧であったらしく、東大寺創建に関わる事務局長のような仕事を精力的にこなしていた。 この実忠が指揮して、すでに完成している金堂の天井を切り上げるという、なんともはや大胆な工事を行ったという。 このことは当時の寺が、単純な宗教施設ではなく、幅広い学問所であったことを示している。 他にも、農業土木を指揮した僧などがいたように、仏教寺院が、哲学や科学技術や経営の修行場でもあった時代の出来事である。
金堂内には大仏以外にも見るべきものがある。四天王像もそれにあたるが、見ると広目天と多聞天しか立っていない。 不思議に思って係員の人に尋ねると、再建時に二天は完成しないままに終ったものだという。 大火が二度ありましたもので、再建時に予算が・・・
東大寺は、二度戦火にあっている。最初は平安末期、源平の争いが本格化する頃の、平重衡による焼討ち。この時は源頼朝の寄進と全国からの勧進で再建されている。 弁慶の勧進帳の一場は、このことが時代背景になっている。 二度目は戦国時代の三好・松永の戦いである。 この時は元禄時代に再建されているが、持国、増長の二天は完成せずに終っている。 未完成の二天は、頭部のみが残されて、お堂の一隅に展示されていた。頭だけでもずいぶん大きい。 その憤怒の表情は、戦争を起こす人間のエゴイズムに怒ってのものであろうか。 |