ときどき大和路
東 大 寺 ぐ る り と
-その2-


大仏殿を出て東に向かう。
若草山の裾野を少し登ると、手向山八幡宮(地図)の赤い社殿が現れる。
東大寺創建にあたり、宇佐八幡宮から守護神として勧請されてこの地にあるが、明治の神仏分離令以降、東大寺とは別管理になっている。 しかしここでも、境界線は、はて?どこだろう。

この一帯は紅葉の名所で、菅原道真が有名な歌を詠んでいる。

 このたびは 幣もとりあへず 手向山
       紅葉の錦 神のまにまに

本当にとりあえずの歌で、あまり優れているとも思えないが、この一首があるおかげで、手向山がどこにあるのか知らずとも、紅葉の名所であることは多くの人が知っている。

手向山八幡宮から北に道をとると、小さなお堂の密集エリアになる。
小さいといっても大仏殿を見た後だからそう思うだけで、普通なら本堂クラスの大きさではあるのだが。

創建年代では東大寺最古となる法華堂(地図)に、仏像を見せてもらいに入る。
前身となる金光明王寺、と先に書いたが、そのさらに前身が「金鐘寺」で、幼くしてなくなった皇子を弔うために、聖武天皇が興している。
ご本尊の不空羂索観音にちなみ、古くは羂索堂と呼ばれた時期もあるが、毎年3月に法華会が行われることから、いまは法華堂(別名三月堂)と呼ばれる。
ご本尊の他にも多くの国宝仏を持ち、仏像のお好きな方は必見である。

お隣が二月堂(地図)
急斜面から張り出す懸崖造りで、回廊に立つと、大仏殿の鴟尾の向こうに、奈良市街も見渡せて気持が広がる。

こちらのご本尊は十一面観音で、各地の観音堂にも、懸崖造りや高台からの展望地をよく見るのは、なにかいわれがあるのかもしれない。

毎年3月12日を中心に行われる修二会(しゅにえ)の行が、お水取りと通称されて有名である。
修の文字は、整える、直すというような意味があり、旧暦二月を美しくするような意味と理解される。
正月の行は「修正会」として広く行われており、古いインド暦の正月にあたるこの時期にあえて行ったのが修二会、という解釈があるが、その辺は例によってはっきりしない。
この行を始めたのが、先述の東大寺創建事務局長の実忠で、大仏開眼の年以来一度も欠かされることなく今日に伝わっている。
戦争があろうと、廃仏令が出ようと、千二百数十年営々と行われているというのは、凄まじい信念と言わねばなるまい。

二月堂の脇には休憩所があり、お茶が無料で提供されている。
飲んで、洗って、元の場所に戻すまでセルフサービスで、いまは給茶器という文明の利器が働いているが、昔は写真中央の「二月堂」と浮き彫りされた鉄釜が働いていたのだろう。
その後ろが流しで、観光気分とは一風ちがう雰囲気を楽しみながら、お若い女性が茶碗を洗っている。

ここで気づいたことだが、東大寺には有料施設が少ない。
大仏殿、三月堂、この後立寄った戒壇堂の三ヶ所が有料だったが、それ以外は境内自由だった。
大仏さんで十分稼いどるから、という口さがない声もあるようだが、その稼ぎをあてにしているような寺なら、もっと稼ごうと考えるにちがいない。

さらに、東大寺では葬儀を行わない。信者の葬儀もやらなければ、東大寺僧侶の葬儀も出さないので、戒名料も供養料も墓地の土地代も入らないし、後世のような形の檀家制度も持っていない。
国家鎮護の寺だから、という説明で簡単にすませているようだが、いまでは葬式仏教と揶揄されるような業態が一般化するのは、江戸時代あたりからである。
東大寺が成立した頃には、上にも書いたが、学問所としての性格が強く、東大寺はいまで言うなら東大みたいなものだったのであろう。

ちなみに、東大寺の僧侶が亡くなったらどうするのかというと、後世の慣習にのっとって、ただし別の寺が葬儀を執り行う。
遠からぬ場所に、東大寺歴代の僧の墓所を持つお寺がある。

また、いわゆる檀家的制度がないと書いたが、各種行事などに協力する在家の信者や協力者は、奈良の町にたくさんいる。
いつ頃そうなったかも分からないくらい昔から、事務的な仕事で代々奉仕にあたっている家もある。
修二会でも、そういう人たちが大勢裏方を受け持っているが、そのための宿所や参篭所が、二月堂周囲にさりげなく配置されている。
簡素な長家のような写真は、そのひとつである。



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