ときどき大和路
東 大 寺 ぐ る り と
-その3-


登ってきたのとは別の道を、西に下る。
灯籠に囲まれた石段が、風情を醸し出している。
この辺りには茶店や土産物店も多い。たしかに、大仏殿から来ると少し歩き疲れる頃合でもある。

大仏殿の脇に下りきる手前の台地に、行基堂などに囲まれて、大きな鐘楼(地図)が建つ。
大きさを別にすれば簡素な造りで、特別仰々しい看板などもないので、横目でチラリと見て行くだけの人が多いが、これが大仏開眼供養で撞かれた鐘そのものなので油断がならない(何度か修理はされている)
深い余韻で知られる鐘で、できれば一度撞いてみたいという誘惑にかられそうになるが、そういう輩が他にもいたのか、撞木の引き綱は外されている。
除夜の鐘では、11時前後から整理券が配付されて、一組8人づつで撞かせてもらえるという。
もちろんそれも、無料である。

大仏殿の裏にまわりこむと、広い空地があって、平べッたい大石が並んでいるのが講堂跡(地図)
南大門からはじまって、東西の大塔、中門、巨大金堂(大仏殿)、そして講堂と並ぶと、まことに美しく整った配置だったことが分かる。

この講堂も、相当大きなものだったようで、柱を受けた大石が、東西に12個、南北に7個の区画を形づくっている。
柱の一本になったつもりで、隅石の上に立ってみたりする。

北に道をとって正倉院(地図)をのぞく。
ここは、明治時代に政府に召し上げられ、中身ともども今は宮内庁の管理になっている。
往時の朝廷が東大寺に献じた宝物の数々を、容れ物つきで取り返したようなものである。

宮内庁管理の建築物や宝物は、通常は文化財指定の外に置かれているが、世界遺産登録にあたり「所在国の法律によって保護の対象となっていること」が条件であったため、国宝指定された。
中にはもちろん入れてもらえないが、入ったとしてもこの時期は、年一回奈良国立博物館で開かれる「正倉院展」に出払って、スカスカだったはず。

大仏池をめぐって転害門に向かう。
池はあまり人の手を入れない形で置かれていて、すすきを手前に大仏殿の屋根と若草山の一端を見る光景が、いかにものどかである。
例えば京都・大覚寺の大沢池のように、船を浮かべて観光イベントやろうなんてことは、東大寺では考えないらしい。

転害門(地図)は、他の建物からひとつだけ離れているので、観光目的で訪れる人はほとんどいない。
しかし、創建当時のまま残る唯一の建築物である。
ところが、東大寺の中でも西寄りのこの一角は、地図で見ても分かるように、ほとんど町並みに溶け込んでしまいそうになっている。
転害門から外を見ると、バス停が立ち、宅配便トラックが走り、商店の看板が並ぶ。

転害門の外は佐保路、平城京の一条通りの延長線で、早くから町が形成された。
しかも、どうやら先に書いた二度の大火によって境界線があいまいになり、復興までの間に町が割り込んできた気配がある。
転害門だけは焼け残ったのでこの場所にあるが、そのまわりはというと、住宅や商店や幼稚園などに侵食されているのだ。
大和の町衆も抜け目がなかったということなのか、東大寺が大雑把、いや、おおらかだったのか、どちらなのかは知らない。

最後に戒檀堂(地図)に立寄る。
戒檀とは、僧侶が戒律を守ることを仏前で誓う場所で、鑑真和上が唐から来日し、大仏殿の前ではじめて戒律を伝えた。そのことに因んで建立されたのが、この戒檀堂。
建物は江戸時代の再建になるが、安置されている四天王像は、天平時代の傑作と讃えられる必見ものである。

この四天王像を見て、大魔神だ!と言ってた人がいる。
まぁ、天部の仏様は、元は異教の神で荒々しいのもいるからな、と思ったら、そうではなくて、お顔が大魔神・佐々木投手に似ているという。
言われてみれば、そうかもしれない。

この写真を撮った場所では、絵画同好会らしきグループが座り込んで、スケッチにいそしんでいた。
さほど大きくはない戒檀堂だが、土塀や緑と溶けあって、写生の意欲が湧きそうな光景である。
戒檀堂周辺もやはり公園風の広場になっていて、絵を描いている人たちも、自分の座り込んでいる場所が奈良公園の一角なのか、東大寺境内なのか、そんなことは気にもしていない風だった。
やはり東大寺さん、何かにつけおおらかなのかもしれない。


(この項おわり)


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