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春日大社
興福寺南西角の一の鳥居から、表参道を歩く。今は一本北の通りがメインになっているが、昔はこれが大通りだったのだろう。 二の鳥居までたぶん1km近い道で、往時の社域の広さが偲ばれる。 参道には石灯籠がずらりと並んでいて、苔むした時代物が多い。 危ないからさわっちゃだめ、みたいな表示が所々あって、たしかにあちこち欠けたり、頭の石がなかったりもしている。 大きな新しい灯籠があったと思うと、これが「奈良そごう」の寄進だったりして、企業の栄枯盛衰が、石灯籠よりはかないことを思い知らされる。
参道をそのまま行っても面白くないので、時々奈良公園の南エリアに踏み込んでみると、これがけっこういい苑地になっている。観光客のほとんどは、北の大通りか、せいぜい春日大社参道までのようで、このエリアには人が少ない。 そこに、猿沢池よりもはるかに風情のある鷺池とか、飛火野と呼ばれる鹿たちのための原が広がっていたりする。
二の鳥居が近づいてきた所で、ちょいと脇道に入ってみると、細道があちこちから合流してくる。「ささやきの小道」なんてロマンチックな名前をつけられたのもあるが、元々は神官たちがその居住エリアから神社へ通勤したり、興福寺からお使いの僧が通って来る道だったらしい。 そういう小道にも、また神社周辺にも馬酔木の大樹が多いが、馬は酔っても、鹿は大丈夫なのか? 鵯越の戦場で、九郎判官義経殿もかく申されたではないか。鹿も四ツ足 馬も四ツ足。(←無関係) どうやら、鹿の苦手な樹木は、食い荒らされずに繁殖して、長年の間に今のような姿になったらしい。
二の鳥居からしばらく歩くと、華麗な造りの楼門をくぐる。これが「南門」で、春日大社は南面していることが分かる。 このことは、春日大社が藤原氏の氏神として栄えてきたこととも関係ありそうだ。 日本の古代の神社は、多くの場合東面していた(特定の山に向かっているなどの例外はある) 例えば伊勢神宮のように、太陽の昇る方に向かうのが、自然な感覚だったからである。 時代が下って南面する神社が増えて来るのは、陰陽道の影響と考えられている。 より直接的には、陰陽道に従って天皇の宮が営まれるようになったから。 そうした、いわば新時代宮殿方式を推進する官僚トップに、藤原氏がいたわけであるから、春日大社も当然のように南面しているのだろう。
さて、楼門をくぐると次は拝殿となりそうなものだが、これがまた少々ちがう。周囲の朱塗りの社殿とは全然風合いのちがう地味な「参拝所」が、一般参拝者の立つ位置に指定されている。 その奥に「中門」があり、さらにその奥に、どうやら本殿が置かれているらしいが、参拝所のあたりからは中門までしか見えない。 せめて中門の前で参拝させてくれればいいのに、と思うが、もしかして中門には、藤原一族としかるべき貴人しか登れなかった、みたいな歴史があるのだろうか? あ、いや、単なるひがみ根性。 それに実は、特別拝観料を支払えば誰でも中門前に立てるようだ。 以前は特別な祭事の時以外はだめだったはずなのだが、観光収入もあてにしないといけない時代になったのか? それとも奈良が遷都1300年祭を控えているので、県の依頼かなにかで、京都風特別拝観方式を実行しはじめたのだろうか。
この後は若草山に向かうので、本殿の裏にまわって、北の方向の出口に向かう。途中、祈願所があって、この時期は七五三参りの受け付けをしていた。 その前に立つ一本の楓が、この日見た紅葉の中で、もっとも鮮やかに輝いていた。 祈願所に入る親子連れには、心浮き立つ光景になったことだろう。 その先には、本殿に祀られる祭神とは別の神様の、末社がいくつか並んでいた。 そのひとつの一言主の社には「ひとつだけ願い事を叶えてくださいます」という看板が置かれていたが、はぁてな? 古事記などでは、雄略天皇と争った「善も一言、悪も一言で言い放つ」荒ぶる神、だったはず。 ヤマト族が大和に根をおろす前から、葛城の地に勢力を張っていた鴨一族の王家が、一言主を名乗っていたというのが、通説なのだが。 まぁ、いつの時代からか、名前にちなんだご利益がつくようになったのだろうから、いいことにして、若草山に向かうとしよう。 |