ときどき大和路
春日大社から若草山へ
-その2-


若草山に登る

登る前に、手向山八幡宮で紅葉を味わって行く。
東大寺の項で書いたが、菅原道真が言い訳の歌を詠んだ紅葉名所である。
楓類は、まだ緑の残る樹と、なぜかすでに散ろうとしている樹が入りまじり、一面の紅葉とは行かなかった。 急な冷え込み?それともここ数日の風雨?
その代わり、銀杏はちょうど華やかな黄金色の時期だった。

若草山は342m。
ぽっこんと丸い山に見えるが、山頂近くは三つの丘が重なる山容なので、古くは三笠山と呼ばれた。
三笠というと、関西ではドラ焼きのことを三笠焼とか三笠饅頭と呼んだ。
もちろん三笠山のなだらかな姿にもとづいた命名である。
近年は関西でもドラ焼きで通ってしまうが、ほんのン十年前には、ドラえもんの好物のドラ焼きってどんな菓子かと食べてみたら、ん?三笠?てなことがあったりした。

ついでに、日露戦争で活躍した戦艦三笠も、この山にちなんで命名されている。
こちらは百年あまり前の話である。

さらについでに、有名な歌がある。

  天の原 ふりさけみれば 春日なる
  三笠の山に 出でし月かも

あぁ、この月は故郷の三笠山も、同じように照らしているのだろうなぁ、てな意味で、唐に留学して高官に抜擢され、ついに戻らなかった阿倍仲麻呂が、かの地で詠った。
これは千二百年あまり昔の話である。
ただし、このミカサノヤマは、厳密には三笠山ではなく、南隣の春日山(別名御蓋山)だという説もあるのでややこしいが。

ところで、その三笠山、いつごろなぜ若草山になってしまったのか?
江戸末期には、俗称若草山と呼ばれていたという話もあるが、正式にはあくまで三笠山だったはず。
なにしろ戦艦「三笠」が明治時代に誕生しているのだから。

これがどうやら昭和初期に、三笠山にちなんで三笠宮家がおこされた時、その山を焼いたりするのも畏れ多いという理由で、公式に改名したらしい。
そんなこと気にしないから「三笠宮家」なのだろうに、宮様としては拍子抜けだったかもしれない。
ついでに、菓子の三笠も後ろ楯を失って、やがて「ドラ焼き」の攻勢に耐えられなくなった(ウソ)

この山を焼くようになったのは、江戸時代からという。
単に草山の姿を保つためという説もあるが、東大寺と、興福寺&春日大社連合軍の間で起こった、山中の境界線をめぐる争いが元という説もある。
時の南都奉行所が「ええぃうるさい!」とばかり焼き払って、境界線の目印もなにもあったものではない状態にして、両者を黙らせてしまった、というのだが、はっきりしない。
事実だとしても、そんな不名誉な話は、寺伝・社伝にも記さず曖昧にされているにちがいない。

現在は、県の奈良公園管理事務所の管轄になっている。
南都奉行の荒くれ裁定より、明治政府の召し上げ策の方が、強烈だったということか。

普段は柵に囲われて、立入り禁止になっている。
表向き植生保護が理由になっているが、悪戯で山焼きの真似事やられたら危険だからという冗談話もあって、ほんとうの理由は知らない。
立入り禁止が解除になるのは、春秋とたまに夏の特別期間で、9:00から17:00の間入山できる。
せっかくその期間にあたったので、 5番ゲートから入山する。

芝生の斜面は途中からススキの原になり、さらに5分ほども歩くと、しばらくの間は山道らしい山道になる。
意外に急勾配な所もあって、山歩きの好きな私としては、ちょうどお手頃な散歩というところ。

15分ほど登ると、再び草原風の斜面になる。
ここがピークとも呼べないほどだが、一応ピークで「一重目」どうにも味気ない呼び方ではある。
一の笠、二の笠とでも呼べばいいのに、と思ったが、そうか、もう三笠山じゃないんだった。

遮るもののない草原で、大和盆地の風景が遠くまで見渡せて気持が広がる。
大仏殿と、その背後に広がる奈良市街を間近に見下ろし、遠くは生駒、金剛などの山並みが、大和盆地の西を限っている。
もちろんその間に、耳成などの大和三山も佇んでいる。

このあたりでだいたい半分なので、休憩して行こうかと思ったが、気をつけないとあちこち鹿の糞が転がっている。
新聞紙などの準備を怠った私としては、しょうがないのでそのまま歩き続ける。

右手は、若草山とまったく様子のちがう春日山で、緑が濃いのは、春日大社の神域として、樹木の伐採が昔から禁じられてきたことによる。
そのため、春日山原始林として、天然記念物指定されている。

三重目への途中にゲートがあって、どうやらこの奥だけなら普段もフリーパスらしい。
ドライブウエイ側とつながっているようで、そちらから来て下りコースだけ若草山を歩く人は、ここで入山料を支払うことになる。
登ってきた人は、入山券を見せれば再入場できる。

ということは、奈良公園はここまでで、この先は別管理?古墳があるから、宮内庁なのかな?
その古墳は、仁徳天皇の妃の墓とされているが、例によって古墳の主というのは特定が難しく、学術的には鶯塚古墳と呼ばれている。

下りは一重目まで戻り、春日大社への道をとる。
この分岐点あたりが、江戸時代の境界線争いの現場だったのかな?と勝手に想像する。
芝生の急斜面をジグザグ歩きで下ると、道はゆるやかになり、春日山原始林との境界をたどる石段道になる。
趣きのあるコース、とガイドブックなどで紹介されるが、山道にご縁の薄い方たちにはそうなのかもしれない。
1番ゲート近くでは、小さな祠と紅葉が彩りを添えてくれる。

ゲートを出ると、茶店の並ぶ一角で「三笠屋本店」の看板が見えた。
もしかして「元祖三笠焼」でも商っていないかなと思ったが、普通の土産物店だった。 残念。


(この項おわり)


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