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朝日高校新聞部の概史

  とりあえず・・・ 

    同窓会誌130周年記念号に「部小史」として掲載されたものを

     短めに書き替えて 載せておきますが、

     各時代のOB・OGの方からの寄稿があり次第、

     それを掲載して、綴っていきたいと思います。

  部小史は、

     このHPの管理人でもあります、51卒瀧本が、

     創生期・・・24卒森氏の文章

     壁新聞事件の時代・・・37卒高原氏・田中氏の話をもとに

     50年前後・・・自分の記憶とメモで

     平成15年頃・・・校内教諭の同級生から聞いた話をもとに

     まとめたものでした。


朝日高校新聞部小史

  活動の歴史とは

不連続線-朝日高校新聞部活動の歴史はこう表現できるかもしれない。

 幾多の滅びと不死鳥のような復活、といえばかっこういいが、新聞はシステムの構築、それを機能させた後の材料収集と加工、文章表現の力と共に、紙面の割り振りを行うデザイン力、計算力、しかる後に発行に至る学校との交渉の政治力等々複合的な能力を充たしてはじめて世に出るわけであるから、とぎれた後の再開は苦闘の連続とも言い得る。

 従って、新聞部活動の歴史を振り返るにあたり、連綿とした流れでなく、その時代を作っていった部員達の物語として表現した方が、より新聞部というものを、また、学校と生徒の関係、あるいは 県教委と一中からの「自由」の精神の関係をも描写できるのではないかと思う。

 以下の3章は、創世記(朝日校としての)、30年代の復活期、40年代末期の復活期の様子を座談会を通して時代の違いを認識しつつ、綴るものである。

  創生期

 新聞の源流は、戦前に運動会や本島臨海学校中に、速報として発行された『烏城タイムス』や『本島タイムス』がある。

 そして、戦後 昭和22年5月に『烏城タイムス』が、岡山一中自治会の機関誌として発行され、以降『烏城タイムス』は、岡山県第一高等学校新聞部が発行している。その後、資金難から昭和29年から36年までは、活動を中止し、その後も、度々、中止期間がある。

                                          (130周年42号より内容を引用)
 『烏城タイムス』一号は、戦中に入学し、終戦を迎え、新しく民主主義の元で学んだ生徒による発行であるが、その感動を当時の24年卒業生、森氏の寄稿(創立125周年特別展)から一部引用したい。(130周年記念『同窓会員名簿』42号には、全文が引用されている)

 「『烏城タイムス』は敗戦2年目の年に誕生しました。街には焼跡があちこちに残り、生徒はカーキ色の帽子や服の軍服スタイルで登校していました。飢えと貧困に耐えて学業を続ける生徒も少なくはありませんでした。」

 文章は、戦中から戦後にかけての教育と生活の様子をつづり、そして、戦後の授業再開の様子の描写が続く。

 「昭和22年の3月。有志数人が集まって生徒自治会の結成を相談、準備しました。中学5年の最上級生になった4月、学校側に申し入れると教師間は賛否両論。理解のあった英、数、国語の3教師の尽力で、結成しました。全国中学のトップを切って委員の立候補制にしたのです。受験準備の上級生より下級生達が熱心でした。」

 こうして出来た自治会の活動を側面から支えるために発行された機関誌が『烏城タイムス』だった訳だ。

 特徴としては、独立採算性であること。自治会からも「編集権の独立」を宣言していたこと。そして、途中から、スタッフも募集し『UP』というバッチを付けて活動し、2年間に10号も、発行している事である。

 当時は、記事内容に対しての暴力もあったようだ。

 しかし、受験競争が激しくなるにつれて関心も薄れ、自然消滅した。

  壁新聞事件の時代

 昭和35年、36年のこの時代は、戦後民主主義教育によって育った世代が、その精神の元に学校当局と「自治会としての生徒会」(注2)を目指して緊張関係にあった。その中で、生徒会役員の直接選挙が行われ、新執行部が決まる。

 執行部の活動方針として「ファイヤーストームもなくクラス分けのあった名門一中への先祖がえりを目指していた朝日高校」(注1)において ファイヤーストームの復活や修学旅行の実施H・Rの充実、岡山県高等学校生都会連合会の設立と共に生徒会機関誌としての新聞を発行しようとしていた。

 これもまた、伝統ある名門校で学ぶ誇りを持っての行動であり、同時に「安保の年」という時代の影響を受け、「平和と民主主義が崩壊することへの恐怖と苛立ち」(注2)を感じての行動である。

 従って、新聞自体も、執行部としての主義主張を述べる場としての色合いが濃いものであった。

 ところが、こうした新聞の発行に学校当局の強硬な反対があり、その中で、ガリ版印刷で新聞が刷り上がり、そのうちの何枚かを正門や掲示板等に無断で貼ったことにより、執行部の者達は謹慎処分となる。また、二年生を中心とする新体制を確立することを条件に執行部は総辞職した。

 これをうけて、旧執行部の者達は新聞の発行は部活動として報道を中心に据えたものとして行うことに相談し、35年秋から翌春の四月までガリ版刷りで5〜6回発行し実績を作り、やっと活版印刷の発行が認められることになる。

 「なにしろ人手不足。部員の拡充、企画、取材、原稿集め、ガリ切り、謄写等々。その間に文化祭、弁論大会もこなしたのであるから、我ながらよくやったものだと思う」(注2)

 小中学校にも学校新聞があり、「あるのが当然」と感じられる世代の新聞部の始まりである。

(以上は37年卒業の高原氏、田中氏の話をもとに瀧本がまとめました。文中「」の部分は当時のことを書かれた高原氏、太田進先生の文章を引用しています。(注1)は太田先生、(注2)は高原氏)

  中立の立場の新聞を作ろうとした時代

 昭和48年春の時点で、新聞部員は政経部員であった。というか、部員の居なくなった新聞部を政経部員が兼部する形で、維持していた。そこへ、新聞部活動のみをやりたい新入部員が入り、組織を再編して、各々に別の人物が幹事として携わることとなる。が、実質的に新聞部活動を毎日行える部員は一人であったため、発行しようとする意志はあるものの、新聞に求められる即時性と朝日高校生としての力量ある内容を両立するに至らず、この年度の活動は、文化祭における過去の新聞の展示と他校の新聞の展示、予算委員会におけるオブザーバーとして(注3)「前年の活動実績だけでなく集めた生徒会費の一般生徒に対する還元性を考慮した予算編成を求める」発言だけにとどまる。

 48年秋より新聞部の幹事は専従者が引き継ぎ政経部との兼部は個人のレベルでの活動となる。

 翌49年春、4人の一年生女子部員が入ったこと加え、二年生男子部員も入り、そのクラスでの人間関係を利用した形で記事を集め、学期末にこの部員達としては初めてのタブロイド版2ページの「朝日高校新聞」を発行する。約1年半ぶりの再開である。

 陣容が整うと同時に「百周年記念号」(タブロイド版4ページ)の発行準備を学校側の依頼という形で特別予算にて始める。このころ、原則的に新聞部の予算は生徒会特別予算の形で予算会議を経ずに認められていたが、この年は 記念号のために別枠があった。

 記念号は、記念行事に関する取材記事と、学校側から提供された関係者への依頼記事で構成され、おおよそ編集できた段階で、二年生は修学旅行へ出発したため、最終チェックは一年生にゆだねられ、発行された。

 この後、「部落研全国集会」が、本校であり、その取材をガリ版で号外として発行している。これより後、三校戦など、結果の急を要するものに関しては号外が発行されている。

 また、もともと政経部と兼部状態から独立したものの部室は仮想の境しかない一室であったため、「公正な報道、中立的な主義主張はなにか」という、マスメディアの原点への関心を常に意識し、ついにはそれを平均的高校生の意見の反映として捕らえるため、文化祭を期に「高校生の宗教・哲学・倫理に関する意識調査」として取り上げ、アンケート調査をした。校内の各学年のサンプルはもちろん、他の高校も、成績、地域、学科などを考慮して、また、同じ総合選抜の校風の違いによる意識の差異はあるのかも注目して10校各校50人の依頼をした。

 その他項目の書き込みが多い学校(注4)もあり、結果の集計、分析に時間がかかりすぎ、文化祭では、結果考察までは、発表できなかったが、その後の、新聞づくりの参考として貴重であった。

 この時代は、二年の秋に次代に幹事を引き継いでいた。また、顧問の先生方が、非常に協力的で寛容であり、また助言他頂いたが、新聞部自体の先輩が含まれていたことは知る由もなかった。

 (注3 予算会議を経ない予算であるため、予算内容に関する発言権がない状態での参加) (注4 灘高校)

  その後の時代

 51卒生を中心として発足したOB会組織に順次加わった学年の話や、烏城に載った記事によると、その後も新聞部は、たびたび廃部の危機に陥り、実際廃部になったこともあるようであるが、現在はまた、復活しているとのことで心強い。

 私的分析であるが、創生期が、その新聞部活動の目的として「新聞をどう使うか」であったのに対して、我々の時代は、活動を通して「新聞とは何か」を知ろうとしていた時代、また、その後の部活動の目的は、「新聞を発行する」こと自体になっていったのではないかと思う。

 これは、他の部活と違い、新聞というものの役割が、時代や社会の影響を強く受けるものであり、生徒と学校という機関の間に介在する活動であることによるものと受け止めている。

                                                      (51卒瀧本記)