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    教育の目的(現代の幼児教育に思う)

 単なる幼稚園児の父    瀧本 得幸 

 今日、子供が遠足から帰って来て、私はすごく叱ってしまった。
原因は、お弁当の食べ残しである。
今まで、そのお弁当箱で、食べ残したことは無かった。が、半分近く残している。それも残しているものは、普段 わが子の好きなもの、に分類されるおにぎりやハンバーグで、ハンバーグは好きなハート形であるにも関わらずである。睡眠不足なのにも関わらず、子供の喜ぶ顔が見たくて、早起きして作った弁当を何故残す。

 原因を聞くと、担任教諭から残すように、言われたからという。私の子供は食べるのが遅い。だから、こういう弁当のときも、満腹にならぬ程度、また、嫌いなものは出来るだけ避けて、楽しい思いが出来るよう配慮している。
 「どうして、早めに食べんかったのか」
と、聞くと、
 「○○先生が、まだたっぷり時間があるから、ゆっくり食べていいと、言ったもん。」
 「それは、みんなにいったんでしょ。あんたは、それと関係なしに、早く食べんといけんでしょ。」
 「でも、☆☆にも、そう言ったよ。」(☆☆は、我が子の名)
つまり、日常的にゆっくりしか食べられない子供に、ゆっくりで良いと言い、時間が来たからと、中断を強制した訳である。子供は、先生の言われることを親の言うことより盲信するから、結果、完食を期待する親には、叱られることも、先生の考慮のうちである。

 これは先生が、自分だけゆっくりすることを改めない我が子に、教育的指導として、考えてやって下さっていることだろう。
私は、わが子に何故、今、君は叱られているかについて、原因から、結果まで説明し、「早く」行動することが、社会から求められていることを、教えた。

 ところで、遠足で、好きなものばかりでも、なかなか全部を食べられないわが子が、今は給食を全て食べていると言う。以前は、食べるのが遅いから、他の子の三分の一しか 最初から与えられていないと聞き、早く食べるからと、また同じ給食費を払っているからと、他の子と同じ量の提供をお願いしておいたのだが、もう一度確認すると、やはり、少ないらしい。
 しかも、昨年の学年では、ほとんど平等に配られていたものが、最初から、「みんなに少なく」配り、おかわりは、早い者勝ち、という、生存競争になっているらしい。

 今日そのことを聞いたおかげで、納得いったたことがある。それは・・。
 運動会の練習中、わが子が
「□□君に、殴られた」
と、言っていた。一回だけでなく、何回も殴られたらしい。
その子は、やんちゃではあるが、そんなに乱暴な子ではないと、昨年、PTAの役員として奉仕活動をしつつ、観察していたのだが、とりあえず、
「理由無く殴られても、先生が黙認しているなら、あんたも殴り返していい、子供のけんかと見ているんだから。」
と、説明した。ところが、それでもまだ、殴られて帰ってくる。
「運動会、行きたくない。」
「どうして、殴られるん?」
「グループでお遊戯するとき☆☆だけ、飛ぶのが出来んから。」
ちょうど、帰って来ていた妻が飛ぶ練習の指導をして、飛べるようになり、それ以後、殴られることはなくなったようだ。

 運動会が終わって、しばらくし、一緒にお風呂に入っていると、痣がいたいと言う。内出血している痣なので、また、転んだのかと訊ねると、
「△△君が、蹴ってくるから。」
「痣が出来るほど、つま先で蹴ってくるなら、蹴り返してやれ。小泉首相も応援してくれるぞ。」
と言うと、しばらくして、蹴り返したのか、蹴られた痣は、増えなくなった。

 このことの原因を考えて、悩んでいたが、給食のことで、納得いったわけである。

 男の子は、食事を減らされることは罰である。従って、食事を減らされている子は「罰をうけている」「みそっかす扱いをうけている」印象を持つであろう。
わが子が「遅い」ことは、全体の調子を乱し、「悪い」ことであるから、担任教師は、食事の量を減らしているので、男の子たちから見ると、我が子が、「罰」をうけているように見えるのであろう。
 従って、運動会の「班」毎の競争で足をひっぱるわが子は「悪い」から、殴られて当然なのだし、「蹴られる」原因も何かしら、遊びの調和を乱しているのであろう。

 そのことも、子どもに説明した。彼女は努力して、原因を取り除くことを約束してくれた。
 また、この教育は、今後、小学校に入りおこるであろう、いじめの原因と結果をよりシンプルに表現し、本人や親の努力でその原因をなくすことで、いじめがなくなるよう、訓練する、あるいは試練を与えるという、深慮遠望のある教育なのだと思う。
が、わが子が原因を解決し、他に原因がある子供が出て来たとき、我が子の方が 調和を乱した子に対して「罰」を、与えても、他のお母様方の理解を得られるのか、其処は、心配である。
 一方的に悪者にされないよう、あらかじめ、保護者会で意図を説明しておいて下さる配慮を望む。

 自分の幼少期を、振り返ってみた。
 確かに、小学生のとき、勉強のできない子、筋力の無い子、走るのが遅い子などは、先生から努力を要請されていたな。そして、出来ないと、「駄目」と言われていた。
 また、家庭の状況で、服装が汚い子や、爪や髪の手入れが出来ていない子も、他の子供と同じように、綺麗にしてくるよう要請されていたと思う。
 今思えば我が家は、母子家庭ではあっても祖母が若く、働いている母にかわり、母親役をしていた。洗濯、洗髪、ハンカチ、チリ紙、その他諸々ちゃんと世話してもらっていたから自分は、先生に言われた憶えがない。だから、気づかなかったが、「汚い」と言われても、子供でなんとかできることは、結構少なかったと思う。当時は、「爪切り」とかも、まだ、そんなに行き渡っていなかったし。

 でも、勉強が、早く進むものに対して「待て」と、言われて、みんなと同じであることを要求されていたし、給食は主食がパンだったから、多少の大小はあっても極端に差はなく、副食もだいたい同じだけ注いだ中から、多めのものを探していた。最初から、割り振られていた覚えは無い。そして、食の細い子も、頑張って食べるよう勧められ、栄養を摂取させられていた。「みんな平等」な民主主義を標榜していた。

 つまり、今は それだけ、世の中が、能力主義に変わって行っているということなのか。福祉福祉と声ばかりかけても、実質、弱肉強食、自然淘汰を促進するなら、こうして、幼稚園から鍛えられて行くことが必用なのかと、今更ながらに、のんびりしていた自分の子供時代を振り返るのである。

書き下ろし投稿  (2004,10,22)