車にまつわるどうでも良い話

E 渋滞は嬉しい!

 A氏の住まいは、前にも記述したように通りの激しい道路に面しております。

 一日中無思想な施し(一般には改造と言うらしい)を受けている五月蝿い車が多いのにいつも閉口しつつ毎日を送っています。(自分のスポーツ800を棚上げしていることは承知の上で)

 最近、あらゆる種類の車(二輪にも)に、この様な無思想に手を加えられるているのを見て、悲しく思うのはA氏だけなのでしょうか。

 今の住まいに戻って暫くは五月蝿くて眠れなくなり、寝不足になって焦燥感が募る一方だったけれど、最近は慣れて来たようで、ぐっすり8時間睡眠を取れる回数が増えてきた。(これも悲しいことかな)

 そんな中で、A氏にとって嬉しいことが最近起きました。

 ある日、住まいから約500m程離れた交差点を中心にして道路を開削した水道本管埋設工事が行われたのです。

 この工事は通行量の多い朝の09:00から夕方の17:00迄片側交互通行で行われていたのですが、タイムラグあって10:00〜18:00の間、A氏の住まいの近くにの交差点までの間約500m程が渋滞してしまいました。

 最近の車は非常に静かなので渋滞していることに初めは気づきませんでしたが、いつもと違って妙に車の走行音がしないことに気がつきキッチンの窓から外を見ると、渋滞で車が全く動かないで連なっていることを知りました。

 A氏が始め思ったことは、所要で車使う時の出し入れに不便さをきたす事だったのですが、ふとあることに気がついたのです。

 お察しの通り、今まで煩わされいた騒音が気にならない程度と言うかとても静かなレベルまでに下がっていたことです。(気がつくのが遅かったくらいですから)

 工事の行われていない夜間はいつも通りのいかんともしがたい状態ですが、それでも一日のうちの半分、それも通行量の多い日中が静かになったことは大変喜ばしいことでした。

 が、その静かさも僅か一週間ほどで終わってしまいました。

 次回の工事が早く来てくれることを今は毎日願っております。
D 自動車?

 今からおよそン十年前のA氏が小学生の頃こと。

 当時、自宅前を通る道路は未舗装と言う事もあり、車の通行量が今とは比べ物のになら無いほど少ないながらも、幹線道路的存在だったため多種多様な車が毎日走っておりました。

 蛇足ですが、最寄り駅の周辺の雑草生い茂る分譲地内の道路という道路には、遠い住宅地から都心に通うサラーリーマンが乗り置きする乗用車達の駐車場と化していました。

 上は、プリンス・グロリア・スーパー6(レースのカーテン付き)から下はBMWのイセッタまで幅広い車種が
、時代遅れのモーターショウように見えて、A氏の乏しい自動車のデータを増やしたものです。

 さて、今回は懐かしい古い車の話しではありません。

 ある日の明け方のこと、私少年A氏寝ている布団中で異様な雰囲気を感じて家族がぐっすり寝ているなか、誰よりも早く目覚めキッチンに向かいました。

 外は明け方直後だったのでキッチンの窓から見える空は白っぽく、近所の松林の松の木がダークグレイにの水墨画みたいに見えておりました。

 そんな時間帯に少年A氏を寝床から抜け出させせしめたのは、遠くから聞こえる微かな低い「ゴロゴロ」と言う機械の音でした。

 この当時、周辺では宅地造成があちこちで行われており、ブルトーザーやロードローラー等の土木建設機械(重機)等は、早朝の車が走らない時間帯を使い、自走して移動している光景をまま見かけておりました。

 このとき、今まで聞き覚えのある音から判断してブルトーザーではないかと自分で当たりを付け、表に出て近くににある交差点を向き、通過する土木機械の正体を見定めようと待機しておりました。

 A氏の家は左分岐のT字路の交差点近くにあり、道路沿いに建てられた万年塀のおかげで、交差点内に入って来るまでそれらの正体が掴めないでおります。

 「ゴロゴロ」と言う音は近付くに連れて徐々に大きく聞こえてくるようになり、それに伴う振動も僅かに感じられるくらいになってきました。

 このとき、交差点とは正反対の北側に松林から土鳩の朝の鳴き声が聞こえ、少年A氏の注意がそちらに向いてよそ見をしていた僅かの間に、その機械が交差点に入り向きを変えて少年A氏に近付いて来たので振り向いて「ビックリ〜!」

 それは陸自の「61式中戦車」でした!

 思いも寄らない正体に対して呆気にとられている少年A氏の目に飛び込んできたでっかい61式中戦車」にはただただ驚愕するばかりです。

 目の前を通過するそのでっかい61式中戦車」は、「ドロドロドロ」と言う砂利道を踏みつけるキャタピラ音と「ブォーッ!」と言うエンジン音を伴い、砲塔のてっぺんに上半身だけ出している車長らしき人物と共にその黒々しいシルエット姿を少年A氏の脳裏に強烈!驚愕!な印象焼き付けて走り去って行ったのです。

 A氏に家は、南の自衛隊演習場と北の駐屯地の中間辺りにあり、その当時隣接していた松林の脇で行軍途中の陸自の小隊が休憩しているのを明け方頃見かけることがありましたが、「動いている戦車」を見たのはこのときが初めてでした。

 諸々の事情と環境により、これ以後路上を自走する「戦車」にはそれっきりお目に掛かかれず残念でなりませんが、あの時のあの戦車の姿に今でも「カッコイーッ!」とA氏は思っております。

 
C あるエンジン

 A氏の仲間だったF君からだいぶ前に聞いた話しです・・・・・

 日本にかなり古くから、長期に渡って輸入されていた外国製大衆車がありました。

 その外国製大衆車を主として整備する工場を個人で営んでいられる方を仮に「Mさん」と致しましょう。
 (A氏はその方と面識があり、フルネームと工場の場所は良く存じており、今も活躍されております)

 Mさんは、その大衆車に搭載されているエンジンのチューナーで、日本では五本の指の内に数えられる腕前をお持ちの方だとその当時F君は申しておりました。

 そして、F君の知人でL氏と言う人がいたそうです。

 L氏はMさんの手腕に心酔しており、Mさんのお眼鏡に適った車が手に入ったらレストアと同時にエンジンチューンをお願いしたいと、F君に口癖のように話していたそうです。

 幾つかの月日が経ち、L氏はようやくMさんのお眼鏡に適う車を手に入れてレストア&エンジンチューンをお願いすることが出来ました。

 それから更に幾つかの月日が経ち、L氏の車はかなり綺麗にレストアされたボディに仕上がり、続いて念願のMさんが腕によりをかけてチューンされたエンジンが載せられ運びとなりました。

 それはそれはたいそうな費用が掛けられたエンジンだそうで、手がけたMさん自身も「これ程にまで仕上げる事は滅多に無い、良く仕上がったエンジン」と申されたそうです。

 Mさんのそのコメントと裏付けるように、L氏の車のエンジンは「良く廻る」との評判がたち、仲間内はもとより車雑誌にも取り上げられるまでになったとのでした。

 しかし、残念なことに、複数年を経ずしてL氏は、このエンジンの載る車に命を奪われる事になりました。

 F君が言うには、L氏とは「車の性能についていけないレベル腕の持ち主」のドライバーだったそうで、遅かれ早かれこうなることは目に見えていたそうです。

 L氏の車、ボディは再起不能の状態だったのですが、かろうじてエンジンが生き残っていたらしく、L氏の友人ので、Mさんを贔屓にしている仲間の一人のF君とも知り合いであるS氏がそのエンジンを引き取ることになりました。

 S氏はMさん珠玉のエンジンが葬り去られるのを惜しみ、ご自分の車にそのエンジンを移植して乗り回していたとのこと。

 果たせるかな、S氏もL氏と同じ道を辿る運命とは、誰もが夢にも思っていなかったことでした。

 A氏がF君から聞いた話は、このS氏の話しから始まったのでした。

 その日はF君とスポーツ800に絡んだ一件で一緒に出掛けることになっていて、A氏が待ち合わせ場所に出向いたおり「夕べ、○○○○(車種愛称名)仲間のS氏が事故で死んじゃったんだ」とF君は顔を合わすなり話すのでした。

 返す言葉のないA氏は聞き続けるしかないので、そのまま黙っておりました。

 このときF君がA氏に話したの事が、先に述べたS氏の車に載っているエンジンのいきさつで、L氏からそう月日を置かずしてそのエンジンを載せた車でS氏が亡くなられしまったとのことでした。

 「S氏のことはまだMさんに伝えて無い」と言い、その話しをMさんが聞いたら自責の念に駆られるのではないかともF君は言っておりました。

 そして、誰が「猫の首に鈴を付ける」役になるのか戦々恐々としている様子をまで教えてくれました。

 この話しの中でF君は、「あのエンジンの車に載ったことがあるけれど、気持ちが悪かった」と言うので「どうして?」とA氏は話しの先を続けるように促しました。

 「吹け上がりが、今まで『良く廻る』と言わるエンジンとは格段に違って、スピード自体もアクセルを踏めば踏む程上がって行くんだ。」とMさんの腕の高さを彼は評するのですが、更にF君は「アクセルペダルに足の裏が吸い付いて行くようで気持ち悪いんだ」と言うのです。

 A氏が聞いた話はここまででした。

 F君の感想が、どちらの車のことだったかA氏は思い出せません。

 更に、そのエンジンがその後どのような運命を辿って行ったのか、今もって判りません・・・・・・

B フロンテ・クーペの思い出

 かれこれ1/4世紀近く前、A氏が、後にスポーツ800を手に入れるなどとは夢にも思っていないかったステキな二十歳の青年の頃です。

 初めてA氏が購入した自動車は「フロンテ・クーペ」と言い。デザインと名称がとてもミスマッチなところがユニークな車でした。

 ユニークなのは見た目のデザインだけで無く、そのエンジンにもあり、360cc、2ストローク(サイクル)3気筒、3キャブなのに37馬力でした。つまり、1000cc当たりに換算すると102馬力と言う当時では化け物見たいなパワーを持った豆スポーツ・クーペだったんです。

 そんな車をA氏は、免許を取ってすぐに入手して初心者マークを着けて走り回っていた。(クーペと言いながらも4人乗りだった)

 最終的にこの車は、後のスポーツ800(初代)購入時の下取りになり、遠く関西方面に売られたらしい・・・・

 小豆色(マルーン)がとてもよく似合うフロンテ・クーペにA氏はゴールドのストライプを入れたり、ウェッジラインを強調するように細いホワイトテープでラインを入れてドレスアップ(と思い込んでいた)していた。

 ファストバック状のリヤウィンドウは雨の日には視界不良になるため、後から三つ葉製のリヤワイパーを着けたが、予算不足のためウォッシャーを設置出来なかったのが悔やまれた。

 A氏は本来フロンテクーペを購入する意志は全然無く、購入予定のリストにも登っていなくて、実用的な自動車を購入予定に据えておりました。

 当時はセリカのLB、カローラ/スプリンターLB等のファッショナブルナはスポーツワゴンが日本に出回り始めた頃でした。

 ちなみに、それまでドン臭いワゴン車しかないところに突然現れた真っ赤なスプリンターLBはA氏には衝撃的だったし、そのTVCFに近藤正臣と共に登場したアグネス・ラムは一世を風靡し、売り上げに貢献したことはみなさんもご存知のことだろう。

 さて、話しを戻しましょう。当初A氏は実用性を重視して小回りの利く「ホンダZ」を第一候補に上げていた。

 近所の中古車屋に置いてあったシルバーの「ホンダZ・GT」(最終型)はハッチバックによるユーティリティーの高さを早くから認識していたのだが、運悪く江戸川は小岩の中古車街に見に行った時点で程度の良いタマが無く、代わりに勧められた「フロンテ・クーペ」を購入してしまった。

 何を間違えたのか、A氏はそれまでの有力候補のホンダZとは性格が正反対のフロンテ・クーペを、良くも知らないで4人乗りと言うことでアッサリ決めてしまった。

 昭和49年式のマルーンのフロンテ・クーペ、グレードは最上級のGX-CFだった。フォグランプが付きのの、フロント、ノンアシストのディスクブレーキ。装備ではエアコンが付いていなかったがリヤ・デフォッガ、センターコンソール、ヘッドコンソール、チルト・ステアリング等、軽自動車には不釣り合いなほどの見た目の豪華さを誇っていた。

 購入してしばらく経って、世間ではスーパーカー・ブームが吹き荒れ、その余波がA氏のフロンテ・クーペにも及ぼして来ました。

 その例が、ボデイスタイルとエンジンレイアウト。新車時でも斬新なウェッジラインを強調したそのデザインは生産中止後も強烈な外観に惑わされ、事情を知らないお子さま達に「スーパーカーだ!」と指さされたことが何回かありました。

 エンジンでも勘違いされた。フードを開けていじくっているところを、たまたま通りかかった人に見られたのが傑作だった。その人は「オッ、凄い。ミッドシップだ!」ってね。知らないと言うのはこういう形で現れるのかと不思議な思いに捕らわれました。

 中学生の時、同級生の親戚が持っている「フロンテ・クーペ」を「ゴキブリ・カー」と呼んで、「お互いこういう車には乗るまい」と言っていたけれども、その後A氏自身がオーナーになるとは想像もしなかったことでした。

 しかしながら、このフロンテ・クーペは手放すまでの3年の間に、2度もエンジン/OHをするほどまでの付き合いになるとは想像のらち外でした。

 元来放浪癖というか旅行好きのA氏は、夏の盆休みにこのフロンテ・クーペを使って高校時代の同級生Yと二人で、中部関西方面を一週間ほど全て一般道を使って野宿しながら走った「ツーリング」が一番の思い出だった。(二番の思い出も後術)

 キャンプ用具を準備し、トランク代わりにリヤ・シートやルーフ・キャリアに二人分の荷物を積み、夜間、市川から一般道、甲州街道を使って高山市に向かい、京都〜奈良〜名古屋〜浜名湖〜箱根〜東京〜市川をドライバーとして走り通しました。

 特に、松本から高山に抜けるR158の峠では観光バスとのすれ違いの大渋滞にハマってオーバーヒートしたり(間違った処置をして後にE,G O/H)雷雨の土砂降りのまっただ中、曇った窓越しを覗き込むようにして前を走る車のテール・ランプを頼りに飛弾川沿いのR156を神経張りつめっぱなしで走ったこと。

 夜間、街灯のないR21で、大挙して押し寄せるようにして走る大型トラックに挟まれて一緒に走り、真夜中の真っ暗な京都に到着して、そのまま東本願寺の駐車場で野宿し境内の水飲み場で洗顔したこと。

 そのあと真夏の日中、人気のない宇治の平等院に寄ったこと。

 法隆寺に向かおうとして道を間違え天理市に出てしまった惜しさ。

 フロンテ・クーペの故郷浜松を通ったとき、沢山のフロンテ・クーペが走っているのを見て感動したことなど。

 フロンテ・クーペのメカニカルな特徴はビギナーのA氏にとってスポーツ800とは違った戸惑いを覚えたけれど、今では懐かしい良い思い出の一つとして「セピア色の思い出」になってしまった・・・・・・

 第二の思い出は、大人4人乗っての鎌倉ドライブ。

 今も昔も京浜女子大前は渋滞の名所です。

 でもA氏の思い出はその渋滞ではなくて、先程の「大人4人乗って」のドライブのことです。

 元々2人乗りで開発された「フロンテ・クーペ」を、まだまだ貧乏くささから抜け切れなかった日本の社会事情から「カルマン・ギヤ」のように無理矢理4人乗りとして登場したGX-FとGX-CFではあるが、身長175cmをほんのちょっと越えるA氏の身長でシートを合わせるとドライバーの後ろに人は座れない、本当に大人4人が乗れるなどとはA氏自身サラサラ思っていなかった。

 車検証には乗車人員4名とあるけれど、「4人乗れるかも知れない」と言った方が雰囲気的には正しいだろう。それでもA氏自身が思ってもいなかった4人乗ってのドライブは行われたのでした。

 日曜日の朝、先のアドベンチャー・ドライブに同行した元同級生Yと川崎に居る同じくSと野郎3人で鎌倉ヘドライブに行くことになり待ち合わせ場所に行くと、すでにYは先に来て待っており、彼を乗せるべくA氏が車を寄せる。すると彼が近寄って窓越しに「一緒に連れて行きたい娘がいるんだ」って言って物陰に隠れるようにして立っていたYのン番目の彼女を手招きして紹介されました。

 当然A氏は「おいおい・・・・」と困惑しながら、おきまりの文句を一言二言のたまわりつつYの新しい彼女を品定めする。

 もうここに記載しても絶対本人には判らないだろうから白状しますが、その娘は美人じゃあ無かった。けれども容姿がすらりとして、理知的な表情と物静かなしぐさが印象的な娘でした。
 
で、予定外の一名が増えたことで問題となるのは川崎のSと合流したときであろうが、予定は常に予定で決定ではないのでと軽い調子で言っているYが「これも連れて行く」と言ってギターを抱えて来た。

 想像して欲しい、4人目のSと合流したときどうなるかを・・・・・おきまりの文句以上に本気で心配しているA氏をよそにYは彼女を後席に乗せ、A氏の真後ろにギターを立てかけて出発。

 この先どうした物かと思案しつつも、まあ、なんと風変わりなヤツと思いつつSを迎えに川崎に向かう。案の定Sはプリプリ文句を言っていたが、増えたのが「女の子」と聞いた途端、態度をガラッと豹変させたことにも呆れた。

 野郎3人だけよりは4人で窮屈でも女の子がいるのは楽しい。さてギターはというと、Sが同行することによりドライバーであるA氏を除く3人で席替えを行った。

 4人乗せるため、A氏は前屈みなるようにしてドライバーズシートを前にずらしレッグスペースを確保して、4人の中で身長が一番小さいSを座らせる。その隣にYがギターを抱えて座る。アシストシートにYの彼女が座って、イザ鎌倉!

 走り出して間もなく、Yが抱えていたギターを弾きだし、その当時流行っていたフォークグループのかぐや姫やアリス、荒井由美などとレパートリーを広げ、その曲に合わせてA氏ら野郎3人が唱うと言うことが起こりました。

 それは、観光地鎌倉に近付き渋滞でノロノロ運転になってからも続きましたが、信号などで止まると周囲の視線が恥ずかしいので止め、走り出すと唱うと言う「GO & STOP」を何度も繰り返して渋滞のイライラを押さえて、それはそれは楽しい変わったドライブをA氏らは味わうことが出来ました。

A 「ガキんちょA氏」
あの頃A氏は小さかった。

 当時のA氏は、「江東0m(ゼロ・メートル)地帯」の北の方の吾妻西七丁目と言う、周囲が家内工業(町工場「まちこう」ばって読むんだよ)を営む家族が多い地域(下町って言うらしい)に「ガキんちょ」として物心がついておりました。

 その頃の車と言えば殆どの家では自転車がマイカーで、近所の工場にそれでもって通って来ていて、荷物を運ぶのはもっぱらリヤカー(最近はダンボール回収ぐらいにしかお目にかかれないが)が主力で、それを自転車や原付に連結してトラック代わりに使っていたものが多かった。

 全ての乗り物が「ガキんちょA氏」の目線より上で、その多くが「ガキんちょA氏」にののし掛かって来るような雰囲気を持った「物体」でした。

 「ガキんちょA氏」が住む町内の自動車と言えば、向かい側の町工場で使っていた「ダイハツ・ミゼットMP」の三輪車と(その貧弱なタオルハンガーみたいなバンパーに乗って遊んでいたら怒られた事がある)、そこの倅(せがれ)が持っていた真っ赤なホンダ「N360」(強烈な色だったが、いつも止まったままで動いたところを見た事がない)と軽自動車があったけれど、それでも「ガキんちょA氏」にのし掛かってきそうな大きさだった。

 そして一軒置いた隣のパイプ加工の工場(こうば)の白い「カローラバン」の3ドア、少し離れたところのなんの職種かは判らない工場で使っていたマツダの「ロンパー」と言うオート三輪を無理矢理四輪にしたショートデッキタイプのトラックで、「ガキんちょA氏」の身近にあった自動車とはそのような車ばかりだったんだよ。

 商店で使われている車と言えば先程の「ダイハツ・ミゼットMP」の軽三輪の他では八百屋さん、味噌屋さん等ではマツダの「K360」の青と白のツートンカラーがオシャレだった。

 また、お医者さんの往診車としては日野自動車製「ルノー・4CV」がその頃の代表だったらしいが、「ガキんちょA氏」が住んでいた町工場が多い下町では、道幅が狭かったので病院の先生は「スバル・360」で、よくウチまで往診に来てくれていた。

 先生の丸くて白い「スバル・360」は周りのダーク系の色が多い働く車と違い、その愛嬌のある雰囲気が「ガキんちょA氏」に伝染して、見ているだけで「明るく楽しく」させてくれていたのです。

 表の大通りを走っていたのが、商業系ではダイハツ「CM8」等のショートデッキ、鉄工所、材木屋さんの工業系ではマツダ「T2000」と言う長尺デッキの「オート三輪」を見かけていたし、よくそれら走っているトラックの荷台の後ろのアオリに掴まり、運転手に見つからずにどのくらいの距離乗っていられるのかを競う事で遊んでいた。(このオート三輪はよく転んでいた、コテっと言う感じで簡単に横転しちゃうのだ)

  もっとも敵(運転手)もさる者で、我々ガキ玉が飛び乗って遊んでいる事を数々経験していたらしく、荷台のアオリ板に掴まると同時に急停車して大声で怒鳴り散らしていたけれど、追いかけて捕まえることまではしなかった。

 それらの他には、近くの消防署に待機する真っ赤な消防車、その中にあって一台だけあった救急車の白さはかなり目立っていた。

 いつの間にか自動車が好きなっていた「ガキんちょA氏」、幼い頃母親に連れられてよくそこの消防署に消防車を見に行く事があったが、行く度に泣くと言う変な現象が「ガキんちょA氏」にはあった。

 蛇足として、「ガキんちょA氏」が住んでいた地域では毎年のように火事が起きていて、その度に近所の兄ちゃん連中と消防車のサイレンを聞いて方角を割り出して、「あっちだ!こっちだ!」言って方々を駆けずり廻っていた。

 近所の工場(ここは規模が多きので「こうじょう」と読む)が日没後火事になって「火の粉」が飛んできたとき延焼を覚悟して知り合いの家に避難したことが何回かあった。

 実際の話、A氏が幼少の頃の未明、隣の家から出火し「ガキんちょA氏」の住む邸宅を含めて十数件が丸焼けになった事があったと両親が言っていた。

 そのときは寝込みを襲われた格好だったので父ちゃん母ちゃんとも「着の身着のまま」の状態で、持ち出せた家財道具は買ったばかりのモノクロTV一台だけだったそうである。(この当時サラリーマンの初任給が\10,000行くか行かないかの頃だった。と父ちゃんが最近言っていた。)

 そう言えば「ガキんちょA氏」が物心ついた頃の物価のは、京成電鉄2駅分の子供料金が5円で、冬の屋台のおでんやさんで鍋一杯が50円だったなァ〜・・・・・・・。
 
 「ガキんちょA氏」の記憶に残る大きな自動車にはボンネット型のダンプやバス等があり、主に働く車が中心だった事を今でも覚えている。

 A氏自身に於いては、自分にはノーパンクタイヤ仕様の足こぎ三輪車で、父ちゃんが大工だったけれど、「ガキんちょA氏」が小学生に上がるまでは自転車で都内の現場を走り回っていた。(今から思うとかなりスゴイ事だ!)

 で、ある時父ちゃんが免許を取ってきた。原付の免許だった。そうそうにスズキの黒いビジネスバイクが来たとき、A氏一家はお祭り騒ぎだったような記憶があり、少し文明的生活に近づいた気がしたモノだ。

 大工の父ちゃんは、よくそのバイクの荷台に現場で出た柱等の木材の端切れを山のように積んで帰り、薪炊き檜風呂の燃料にしていたたのですよ。

 始め、「ガキんちょA氏」のウチにお風呂は無かった。もっとも子供足で歩いて5分ところに2軒の銭湯があって、日替わりでその2軒を交互に通っていました。

 「ガキんちょA氏」の父ちゃんはあまり遊びに連れていってはくれなかったが、仕事から帰ってきた夜、そのバイクのタンクに「ガキんちょA氏」をまたがらせ、近所を廻るちょっとしたツーリングが忘れられない思い出になっている。

 今からすれば大したことはない事だけど、その頃は今のようにローンやクレジットという便利な支払い方法は無く、現金払いが殆どだった。

 先のモノクロTVもそうだけれど、このとき父ちゃんが買った原付バイクは現金の一括払いではなくて分割払いで、それも父親個人の評判という信用度で販売店に貸しを作る信用貸しのような支払い形態でした。

 この支払い方法は他の家電などの高額商品に限らず、衣類や寝具類にも及んでおり、買う方も売る方もお互いの事情が良く判っていた「下町ならでは」の事と思います。

 そんな大人達の苦労なんか全然判っていない「ガキんちょA氏」達ガキんちょ共は、呑気に「ゴジラ」映画の話や「鉄腕アトム」や「鉄人28号」等ブラウン管のモノクロTVでの活躍を熱っぽく語り、「サンダーバード」のメカに瞳をか輝かせてプラモデルを作り、近所の空き地で三角ベース野球に励み、授業中の中学校に幼なじみ連中と忍び込んみ、校庭で用務員の爺さんから逃げ回って遊んでおり、近所の道路で「銀玉鉄砲」をぶっ放し、火薬だけの「100連発銃」を鳴らしたり「2B弾」と言う爆竹を投げ合い、メンコで遊び「八の字」ロープ遊びやら「石けり」やらと毎日を元気に過ごしておりました。

 「ガキんちょA氏」の周囲には働く車ばかりでしたが、乗用車と呼べるのはほんの一握りしか無く、先にあったように向かいの家のあんちゃんの赤いN3と少し離れた空き地に、ある日突然に置かれた怪しげな四つ目玉の黒いセドリックがあるぐらいだった。(近所の怪しい稼業を生業としていた家の車らしいが、そこの家の子とは仲良く学校に通ったり遊んだりした)

 そのセドリックはいつもピカピカで両親からは、「持ち主がうさんくさい職業の人間だから近寄らないように」と言われていたが、「ガキんちょA氏」の周囲にある「働く車」やN3と違い、豪勢で綺麗な内装とリヤウィンドウの白いカーテンと青い色窓硝子、ピカピカの黒いボディの前から後ろに流れるメッキモールの車が現実に見たことのある「乗用車」で、ガキんちょ共の「垂涎の的」だった。

 しかし、この黒塗り「セドリック」いつも空き地に置かれたままで動いているところを見たことがない。つまり置きっぱなしのその「セドリック」は、そのままで月日が流れて空き地に置いてある「自動車」と言う物の見方からか、空き地に置いてあるドラム缶や鋼材土砂の山と同様の「物」と成り下がりました。
 
 ある日、ピカピカだったホイールキャップは外され、空き地を遊び場とする「ガキんちょA氏」等ガキんちょ共の泥遊びの道具に使われたのでした。

 その「セドリック」の持ち主(運転手=所有者と信じていた)が誰なのか知っている「ガキんちょA氏」はその遊びに加わらず、腹の中で「あそこのオジさんに怒られるゾ!」と思っていました。

 しかし、そんな危惧はものの見事に外れ子供の遊び道具化はエスカレートし、バンパーを足がかりにして始まった「山登り」ならぬ「自動車登り」が始まりました。

 黒いボディに残る泥の足跡。しかし一向に怒られる気配は無く、周囲にいたであろう大人達から何も注意されなかった事で頭に乗った「ガキんちょA氏」等ガキんちょ共は「自動車登り」をエスカレートさせ、とうとう屋根を凹んでしまってからは「怒濤のスクラップへの道!」が始まりました。

 ホイールキャップは当然、ワイパーが消え、ラジオのアンテナ、ボディーのモールへと進み、とうとうフロントガラスが割られてからはその速度は急加速して、ピカピカの「黒塗りセドリック」がガキんちょ共にも見放されるまではアッと言う間に時間しか掛かりませんでした。(チャンチャン)

 さて、そんな車達に囲まれて育った「ガキんちょA氏」はどのようにしてその他の自動車を知ったのでしょうか?今となってはA氏自身でも不可解ですが、思い返してみて該当するのはの次のようなところからだったのでしょう。
 
 1,ミニカーとブリキ玩具を扱うおもちゃ屋。
 2,プラモデルの模型屋。
 3,新聞内の広告。
 4,絵本などの児童向け図書。 

 TVやラジオのCFにも自動車がにぎにぎしく扱われていたとは思いますが、今とは比べものにならないくらい少なかったと思います。

 これらのメディアから送られてくるCFを覚えているのは'70年代に入ってからでしたから。

 さて話を少し前に戻して。

 このころ、「ガキんちょA氏」が夢に思っていたあこがれの車には英国車の「ロールス・ロイス」があり「フォード・ムスタング・マッハT」「コルベット・スティングレイ(シャーク)」のアメリカ車等の高級ガイシャを筆頭に国産車ではボンド・カーのトヨタ2000GT、トヨタ・スポーツ800の他マツダのコスモ・スポーツ等の未来的はスタイルが掲げられるが、これらの車に目を向けるきっかけになったのが、その頃走り出した東海道新幹線「ひかり」号に使われていた「流線型」と言う言葉が大きく影響していると思う。

 しかしながら、「ガキんちょA氏」がどこでどうやってトヨタ・スポーツ800の事を知ったのかは今だに「謎」ですが、通行量が今とは通行量が全然少ない表通りで見たと思っている真っ赤な自動車を「スポーツ800」だと今もA氏は信じている。

 いつの日か自分の自家用車(乗用車の事)を夢見ていた「ガキんちょA氏」を含むガキんちょ共は、住んでいる地域の最小行政区域内をもっぱら自分たちの足を使って歩いて探検していた。

 話は自動車から離れるけれど、繁華街浅草の「松屋」デパートには京成の電車、バスや都電などの公共輸送機関を使って出掛けたりしていたもので、自分専用の自転車を持てるという贅沢はできない身分でした。

 空には「YS11」、「ボーイング727」や「DC8」等の旅客機が飛び(そう言えば、あの頃よく飛行機が墜落していたな)、陸では新幹線である「夢の超特急・ひかり号」が走り、海では水中翼船やホバークラフト等、スピードに重きを置いた「乗り物」が走り回り、世界に向かっては身近な品物に科学技術を売り物として製品で輸出していた日本。

 しかし、あの高度成長の「黄金の'60年代」は日本中が等しく豊かでは無くて、「ガキんちょA氏」の周りの現実を見れば「黄金」とは比べものにならない取り残されたような貧乏な世界だった。

 けれども、それらとのギャップは遠くないうちに必ず解消されるものと信じ、自分たちにもその恩得に預かれるものと疑わずに過ごしていました。

 その「黄金の'60年代」の真っ只中、「ガキんちょA氏」達ガキんちょ連中は、大人達の苦労を知らず、約束された「幸せな将来」を疑わずに無邪気な心を持ち、町内中を元気よく奇声を上げて駆けずり廻るガキんちょ時代を謳歌していたのです。

 
@ 船橋サーキット
昔々のその昔、だけどお伽噺じゃあ無い。
 十年一昔しと言うので、一昔しx3として約30年くらい前、千葉県は船橋の海岸に「船橋ヘルセンター」と言うのがありました。

 今では「船橋ららぽーと」と言う大規模ショッピングセンターの元祖みたいな施設と「ザウルス」と言う人工スキー場がありますが、先に申したように「船橋ヘルセンター」と言う娯楽施設がありまして。

 ♪♪船橋ヘルセンター♪長生きしたけりゃちょっとおいで♪チョチョンパ♪チョチョンノパ♪。湯気がユラユラ大きなお風呂♪手足延ばせば命も延びる♪チョンパ!♪♪ 

 と言うモノクロ・アニメのTVCFを思い出す方も多いのではありませんか?

 この「船橋ヘルセンター」のにはメインのバカでかい(当時)屋内温泉プールみたいな大浴場がありました。

 何でも地下2000m〜3000mくらいボーリングして掘り当てたぬるい温泉が今でも出ているそうです。(もったいない話です)

 その南側の海岸に付属施設で「波乗りプール」と言うのがありました。小さい入り江に柵を設けただけの海水プールでした。

 そのプールの東側にはかの有名な「船橋サーキット」があったのです。

 そう、今も語り続けられている故浮谷東次郎氏が操るゼッケン20番のスポーツ800で造り上げた伝説発祥の地です。

 総合レジャーランドを目論んでいた「船橋ヘルスセンター」でしたが、まだまだ庶民には「超高値の華」である自動車を、壊しに行くようなサーキットに、わざわざ銭を払ってまでして行こうなどと思う道楽者の物好きはほんの一握りしかおりませんでした。(そう、少年時代のA氏みたいな貧乏庶民の足は、もっぱら電車やバスで、タクシーなんて贅沢は1年に一回あるかないかだったな〜)

 そして、数々の努力にもかかわらず約3年後にその活躍を終えてしまったのです。

 高度成長の終焉と共に「船橋ヘルスセンター」も多様化する庶民の娯楽指向に対応できず倒産してしまいました。

 ただし、庶民の娯楽の指向の中にはギャンブルと言うものもありまして、運の良いことに、近くに船橋競馬場と言う娯楽施設があったためか、経営危篤状態の「船橋サーキット」は「船橋オートレース場」と言う二輪専用のコースに生まれ変わり、違った形ではありますが、その手の物を嫌うA氏みたいな者を除く我々庶民に、モータースポーツのすばらしい醍醐味を享受させておるのであります。

 まあ、船橋市にしても、そちらの方が安定した税収が転がり込んで来るので大いに喜んでいることでしょう!

 元「船橋サーキット」の最寄り駅は、JR京葉線「南船橋駅」が近く、京成電鉄の「船橋競馬場前駅」(旧センター競馬場前駅)から「船橋ららぽーと」行きかオートレース開催日には臨時のバスがでるので、そちらを利用されると便利でしょう。

 そして、「船橋サーキット」の面影がどこにもない「船橋オートレース場」が見られ、心を打ちひしがられることと思います。

 ちなみにその東側の湾岸道路若松交差点の周囲には「谷津干潟」が広がり、更に「谷津遊園」の跡地にその名残を留めていない住宅団地が存在し、「谷津遊園」形見として「谷津バラ園」が「谷津干潟」に隣接して残っております。