あの日に還って




「今夜、泊まってくよね?」
 優雅な仕種でハーブティーを飲み干した亜美は、ウェッジウッドのティーカップをテーブルに戻しながら笑顔で訊いた。
「わざわざ確認しなくても、そんなの、泊まってくに決まってるさ」
 琴乃が自分で応える前に横合いから口を挟んだのは亜紀だった。
 一見しただけでは、亜美と亜紀はまるで別人だ。亜美は柔らかくカールした髪を背中まで伸ばしていて、身に着けている物も見るからにフェミニンな感じがする。まだ十五歳だというのに、すぐそばで見ていると同性でもぞくぞくしてくるほどセクシーな、少女というよりも、女性らしい印象が強い。そんな亜美に対して、亜紀の方はボーイッシュな感じだ。コットンのシャツをラフに着崩して、細身のジーンズが活動的に見える。栗色の髪を短く切り揃えているところも亜美とは対照的だった。もっとも、ショートカットとはいっても雑な感じではなく、丁寧に仕上げたセシルカットで、もともとの美しい顔立ちをいっそうくっきりと際立たせている。
 けれど、よくよく見れば、亜美と亜紀の顔は瓜二つだった。大きな瞳に形のいい鼻、少し薄い真っ赤な唇。第一印象とは違って、見れば見るほど、二人はよく似ていた。
 それもその筈、亜美と亜紀は双生児――それも一卵性双生児なのだから、似ているのが当然だった。




 女の子どうしの双生児だと、えてして親は同じ格好をさせたがるものだ。ヘアスタイルや着る物は言うにおよばず、ちょっとした小物までお揃いにすることが多い。だけど、亜美と亜紀の母親はちょっと違っていた。二人の母親である澤野亜弥は、亜美と亜紀が幼稚園に入るまでは二人にそっくり同じ格好をさせていたのに、幼稚園の夏休みが始まる頃、どういうわけか急に、亜美には女の子らしい格好をさせながら、亜紀にはまるで男の子みたいな服を着せるようになったのだ。髪も短く切り揃え、言葉遣いにしても、どちらかといえば男の子っぽい喋り方を教え込むようにさえなったのだった。
 だって、そっくり同じ格好をした子が二人いてもつまらないじゃない。どうせだもの、二人別々のお洒落をさせた方がお得よ。姉妹だと時間がかかるけど、双生児だと同時に二つのファッションが楽しめていいわ。軽く笑いながら亜弥は、少しばかり不思議そうな表情で二人を見比べる顔見知りの母親にそんなふうに説明したらしい。
 そんな女の子と男の子の双生児みたいな、でも実は女の子どうしの双生児と幼稚園からの一番の仲良しが古藤琴乃だった。
 亜美と亜紀、それに琴乃が通うことになった幼稚園は、名門として全国的にも名の知れたフェリシモ女学院の幼稚部だった。
 躾に厳しいだけでなく、普通科の他に特別進学から芸術芸能専科まで幅広い選択コースを揃え、幼稚部から大学まで一貫した教育を行なうフェリシモ女学院には日本中から生徒が集まってくる。だから、新入生の中に顔見知りがいることはまずない。なのに、亜美と亜紀、それに琴乃は、偶然にも同じ閑静な住宅街で家を三つ隔てただけのご近所どうしだった。琴乃たちが住んでいるのはわりあい古くから開けた高級住宅地で、大きな会社の役員や古くからの資産家の邸宅が少なくない。そのせいか、隣近所でも、顔を見たことならあるというくらいの付き合いしかなく、子供が友達の家に上がり込んでゲームに興じるといった光景を目にすることもない。実は、亜美と亜紀と琴乃もそんな仲だった。母親どうしは顔を会わせると軽く会釈を交しはするものの、井戸端会議で話に花を咲かせるなどということなかった。だから、ああ、こんな子が近所に住んでいるんだなと思うくらいで、一緒に遊んでみたいと思うほどのこともありはしなかった。それが、フェリシモ女学院幼稚部の入園式という思いもかけない所で顔を会わせたのだ。驚くと同時に、誰も知り合いがいない寂しさにしょげかえっていたところに、言葉を交わしたこともないとはいえ幾度かは近くで目にしたことのある顔を見かけたものだから、途端に明るい表情になって互いに駆け寄ってしまうのも当たり前のことだった。そんなふうにして、ちょっとした顔見知りのご近所さんにすぎなかった亜美・亜紀と琴乃とは、幼稚園に入園するとすぐに大の仲良しになって、お弁当を食べるにしても遠足で乗るバスの席にしても、とにかく何をするにもずっと一緒ということになった。

 けれど、そんな楽しい時間も長くは続かなかった。琴乃たちが幼稚部から小学部へ上がる直前、国内では少しは名の通った服飾デザイナーである亜弥の作品に対して海外からの引合いが増えてきたため、亜弥が活動拠点を日本からヨーロッパへ移す決心を固めたためだ。そのせいで、亜美と亜紀は琴乃と同じ小学部に上がることはできなくなってしまった。ずっとずっと遠い、地球の裏側といってもいいくらい遠い場所へ引っ越してしまうことになったのだから。
 もっとも、実のところ、活動拠点をヨーロッパに移すことについて亜弥は随分と迷ったようだ。名の知れた服飾デザイナーとはいっても、派手なことや目立つことが好きなわけではない。デザイナーになったのも、亜弥がそれと意識してのことではなかった。街で買ってきたちょっとした小物や洋服を自分の気に入るように仕立て直すのが趣味みたいなもので、そんなことを続けているうちに、いつのまにか、自分の頭の中でイメージしたブラウスやスカートを型紙におこして仕立ててみるようになって、そうして、自分のお気に入りの洋服が他の人の目にはどんなふうに見えるのかを知りたくなって軽い気持ちでファッション雑誌主催の小さなコンテストに応募したのが、この世界に入るきっかけだった。結果は準佳作というお情けみたいな賞だったが、それでもまさか自分が縫製した洋服が雑誌に写真入りで紹介されるなんて思ってもいずに少なからず有頂天になっていたところへ、コンテストの審査員でもあった雑誌の編集者から個人的に連絡が入ったのは、その雑誌が発売になった次の日のことだった。編集者からの連絡は、二人で事務所を作らないかという申し出だった。その編集者は、自分のデザイン事務所を作りたいという思いをずっと抱いていた。デザイン系の出版社に勤めたのも、自分の事務所を興すための資金を用意するため、そして、才能のあるデザイナーの卵をみつけだすためだ。そんな編集者の感性に触れたのが亜弥の作品だった。もともと編集という仕事にさして魅力を覚えているわけではないその編集者は、亜弥の才能に賭けてみることにした。つまり、亜弥と組んで独立することにしたのだ。思いがけない賞に、思いがけない申し出。まだ若かった亜弥は、さして深く考えることもなく編集者からの申し出を受けることにした。亜弥がデザインに専念し、編集者がマネージメントを担当するこの新しい小さなデザイン事務所と亜弥の名前は、次第に日本中に知られるようになっていった。それは、亜弥のセンスのためばかりではなく、編集者のプロモート手腕に負うところが少なくはなかった。そうして、そんな二人が愛し合うようになるまでに、多くの時間を必要とはしなかった。仕事上のパートナーだった二人はやがて正式に結婚し、生活全ての時間を共有するようになった。そして生まれたのが亜美と亜紀だった。そして、それまでのプロモート活動が実をむすんで、亜美と亜紀が幼稚園に入る頃には海外からの引合いもぽつりぽつりと入り始め、やがて、その引合いがいよいよ本格的になってきて、迷っていた亜弥を元編集者である夫が強引に説得するようにして活動の拠点を海外へ移すことを納得させたのだった。
 こうして、フェリシモ女学院の小学部に上がる前に双生児と琴乃とは離れ離れになってしまった。

 が、それから九年の月日が流れて、亜弥は亜美と亜紀を連れて日本に戻ってきた。海外にいる間も手放さずにいた懐かしい家――琴乃の家と三つだけ家を隔てたご近所に。
 亜美と亜紀の帰国を知って琴乃が亜弥の家へ駆けつけたのはいうまでもない。
 そうして、亜弥が淹れてくれた香り高いハーブティーを飲みながら、まるでこれまでの九年間の空白を埋めようとするみたいにお喋りを続ける三人だった。




「え? でも、ママには、すぐに帰るって言ってきたし……」
 亜美と亜紀に向かって少し困った顔をしてみせて、琴乃は言葉を濁した。
「じゃ、私からお願いしてあげる。それならいいでしょう?」
 助け船を出すように言ったのは、それまで娘たちのお喋りを優しい笑顔で見守っていた亜弥だった。
「あ、はい。お願いします、おば様」
 琴乃は声を弾ませた。
 琴乃にしても、せっかく久しぶりに顔を会わせた亜美たちともっと一緒にいたい。亜美たちはヨーロッパで暮らしている間、フェリシモ女学院の姉妹校に通学していたため、日本に戻ってくればそのまますんなりと元の女学院に復学することができる。だから、この四月から三人は揃って同じ高校部に入ることになっているし、互いの家も目と鼻の先だ。会おうと思えばいつでも会える。それでも、久しぶりに再会した今日は特別な日だ。このまま亜美たちと別れて自分の家へ帰る気にはなれなかった。
「少し待っていてね」
 輝くような琴乃の顔に軽く微笑み返して、亜弥はダイニングルームの壁にかかっている受話器を持ち上げた。
「もしもし、梅原様のお宅ですか。澤野です。……いえ、先日はこちらこそ。実は――」
 電話の相手は琴乃の母親だった。
 亜弥は簡単な挨拶を交わしてから、琴乃を今晩はこちらに泊めたいと切り出した。琴乃の母親にしても、せっかくの申し出を断る理由はない。よろしくお願いしますという母親の声が受話器から洩れて微かに琴乃の耳にも届く。
「ありがとうございます、おば様」
 琴乃は椅子から立ち上がってぺこりと頭を下げた。
「いいわよ、お礼なんて。琴乃ちゃんが泊まってくれることになって、私も本当に嬉しいんだから」
 目を細めて亜弥が言った。
 お世辞でもなんでもない。実際、亜弥は琴乃が大のお気に入りだった。二人の娘――亜美と亜紀の双生児は、実の母親である亜弥の目から見ても本当にしっかりしている。小さい頃から落ち着きがあって、いささか冷たい感じさえなくもない。それに対して琴乃の方は、見るからに良家のお嬢様というような雰囲気を漂わせていて、全てに鷹揚で、どことなくぽやんとした感じがする。体もあまり大きい方ではなく、幼稚園の頃から、もうすぐ高校生になるという今も相変わらず、亜美や亜紀よりも頭ひとつ背が低いままだ。なんとなく亜美たちの妹みたいな存在のそんな琴乃が亜弥には可愛らしくて仕方ない。
「それじゃ、夕飯は腕によりをかけなきゃね。せっかく琴乃ちゃんが泊まってくんだから」
 もういちど目を細めて、亜弥はキッチンに姿を消した。
 ダイニングルームに、三人の若い娘の華やいだ声がいつまでも響き渡っていた。




 亜弥が丹精込めて作ってくれた夕飯をきれいに平らげた後もお喋りに花を咲かせ、気がついた時にはもう十時を過ぎていた。
「ほらほら、もういい加減にして、そろそろお風呂になさい」
 少しあきれたような表情の、でも相変わらず優しい笑顔で亜弥は三人に言った。
 言われて、はーいと声を合わせて三人が揃って立ち上がった。邸宅の広大な敷地にふさわしくバスルームも広々しているため、三人が一緒に入っても少しも窮屈ではない。幼稚園の時にも何度か泊まったことがあって、琴乃もそれは知っている。だから、誰が言うともなく、ごく自然に三人で入ることにしたのだ。
 亜美と亜紀に従ってバスルームの方へ踏み出した足をふと止めて、琴乃はためらいがちに亜弥の方を振り返った。
「あら、どうしたの?」
 ダイニングルームのテーブルを拭きかけていた亜弥が怪訝な表情を浮かべた。
「あの……もともとお泊まりするつもりじゃなかったから、着替えを持ってきてないんです」
 困ったような声で琴乃は言った。
「大丈夫よ、そんなこと。琴乃ちゃんが着られるようなの、お風呂から上がるまでに用意しておいてあげるから」
 くすっと笑って亜弥が応えた。
「はい、ありがとうございます」
 琴乃は、はにかむように微笑み返した。
「私にまかせてちょうだい。琴乃ちゃんにお似合いの可愛いいのを用意してあげるから」
 どことなく悪戯めいた表情でそう言うと、亜弥は亜美と亜紀に向かってそっと目配せしてみせた。
 亜美と亜紀が微かに頷き返したことに気づきもしないで、琴乃はほっとしたような顔になって再び歩き始めた。

 脱衣場のドアを開けると同時に、きゃっきゃっと賑やかな声がバスルームのガラス戸越しに聞こえてきた。
「やだ、亜美ちゃん、そんなに胸が大きくなっちゃったの!?」
「なに言ってるの。琴乃の方が小っちゃいままなのよ」
「本当、琴乃は幼稚園の頃からちっとも成長してないんだな」
 幼稚園の時に琴乃が泊まって以来のことだから、お互いの生まれたままの姿を目にするのは本当に久しぶりのことだった。服の上から見るのとはまた違う、九年間の歳月を実感させる亜美と亜紀の発育ぶりに驚くのは、もっぱら琴乃の方だった。そうして、昔とあまり変わらない琴乃の体つきをからかう二人。
 若い娘たちの声を眩しそうな表情で聞きながら、亜弥は、脱衣篭の中に無造作に投げこんである三人の洋服や下着を抱え上げると、その代わりに、持ってきた着替えを静かに滑らせた。さすがに三人分のナイティや下着となると、けっこうな荷物になる。
 そのまま亜弥が脱衣場でしばらく待っていると、微かな音がしてガラス戸が開いた。そうして、素肌にバスタオルを巻きつけただけの三人が続いてバスルームから出てくる。三人の肌は、揃ってほのかなピンクに染まっていた。
「ありがとう、ママ」
 最初に脱衣場に現れた亜紀が、脱衣篭の中に入っている着替えを目敏く見つけて亜弥に声をかけた。
「いいわよ、いつものことなんだから」
 亜弥はそう応えて、少し肩をすくめてみせた。
 亜美と亜紀が自分のショーツにさっと手を伸ばすのを目にしながら、ひとり取り残されたみたいにおどおどしているのは琴乃だった。脱衣篭の中のどれを身に着けていいのかわからず、バスタオルの胸元のあたりを片手で押さえてうろうろしている。そのへんがいかにも二人の妹めいた感じで、見ている亜弥は思わず目を細めてしまう。
 とはいっても、琴乃も、いつまでもそうしていたわけではない。亜美と亜紀が自分たちの物を身に着けてしまえば、残りが琴乃の着替えということになる。男の子が着るようなブルーのさっぱりしたパジャマを手際よく身に着けた亜紀と、それとはまるで正反対の、シルクらしい、淡い光沢のある薄い生地でできたネグリジェを着た亜美。二人の姿を見比べてから、もういちど琴乃は脱衣篭に目を向けた。
 脱衣篭の中に残っている物を目にして、琴乃はためらいがちに顔を上げた。そうして、何か訊きたそうな表情を浮かべて亜弥の方に向き直る。
「どうしたの? いくら春とはいっても、まだ三月だもの、早くしないと風邪をひいちゃうわよ」
 亜弥が言った。
「でも、これ……」
 おずおずとそれだけ言うと、琴乃は再び脱衣篭に視線を落とした。
 そこにあるのは、亜美や亜紀が穿いているような大人っぽいスキャンティとはまるで違う、純白の生地にアニメキャラクターのプリントがしてある、幼稚園児くらいの女の子が穿きそうなショーツだった。それに、ナイティにしても、二人が身に着けているみたいなシルクなんかじゃない、たぶんコットンだろう、柔らかそうな生地にフリルや飾りレースをたっぷりあしらったネグリジェふうのパジャマだった。ネグリジェとはいっても、目の前の亜美のとは違う、頭の上からすっぽりかぶって着るような、これも小さな女の子に似合いそうなふんわりしたパジャマだった。しかも胸のあたりには可愛らしいアップリケまであしらってある。
「こんなの、私、着られません」
 顔を伏せた琴乃は小さな声で言った。
「あら、どうして?」
 すぐに亜弥が訊き返した。
「だって、私、来月から高校生なんですよ。おば様が憶えてる幼稚園の頃の私じゃないんです。こんな小っちゃなパジャマ、サイズが合うわけないじゃないですか。……そりゃ、みんなに比べて背は低いけど」
 最後の方は拗ねたような言い方になって、琴乃は少しだけ頬を膨らませた。
「そんなこと大丈夫だってば。――ほら」
 亜弥は優しい声で言って脱衣篭のパジャマをつかみ上げると、琴乃の体に押し当てた。
「うわ、よくお似合いよ、琴乃ちゃん。本当に可愛らしいこと」
 サイズを確認するように亜弥が琴乃の両肩に押し当てたパジャマと琴乃の顔を見比べて、亜美が弾んだ声をあげた。
「そうだよ、琴乃。昔からそうだったけど、琴乃はそういう格好がとてもよく似合うんだね」
 亜紀も、男の子みたいな喋り方で亜美に同意した。
「ふぇ? でも、どうして?」
 くるりと目だけを動かして自分の体を見まわした琴乃は不思議そうな声を出した。
 亜弥がつかみ上げたのは、どう見ても幼児用のパジャマだった。なのに、ちっとも窮屈そうでなく、むしろ少しゆったりするくらいに琴乃の体にフィットしているみたい。
「ちっとも不思議じゃないわよ。私が特別に作ってあげたんだから」
 こともなげに亜弥が言った。
「おば様が?」
 ぽかんとした顔で、琴乃は思わず訊き返してしまう。
「そうよ。二周間前、日本に帰ってきたご挨拶に琴乃ちゃんのお宅に伺ったでしょう?」
 琴乃の体に押し当てたパジャマを手元に戻しながら亜弥が言った。確かに、二周間前、それまで留守だった家を片付けたり二人の娘をフェリシモ女学院に復学させるための手続きがあったりで、亜弥だけ一人先に帰国してきた。そして、その足で琴乃の家にも挨拶に立ち寄っていたのだ。
「その時、琴乃ちゃんの体つきを目測しておいたの。それで、さっさと用事を片付けて亜美たちが帰国するのを待っている間に作っておいたのよ。――少し大きいかもしれないけど、殆どぴったりよね? 一応はプロのデザイナーなんだから、このくらいできて当たり前なんだけど」
「で、でも……サイズは合うけど、でも、デザインが……」
 琴乃は口ごもった。
「デザイン? ああ、ちょっと子供っぽかったかしら。でも、これでいいのよ。本当は私、日本へ帰る飛行機の中で、久しぶりに会う琴乃ちゃんのためにちょっとセクシーなお洋服を作ってあげようかなと思っていたの。もう高校生になるんだし、亜美とお揃いで着るようなデザインのを九年ぶりの再会のプレゼントに。だけど、二周間前、琴乃ちゃんの姿を見た途端、考えが変わったのよ。――だって琴乃ちゃん、九年前とちっとも変わってないんだもの。小っちゃくて、可愛らしくて、とても亜美たちと同い年だとは思えなくて。そりゃ、幼稚園の頃そのままってことじゃないわよ。背も伸びたし、少しは胸も出てきてるみたいだし。でも、ね?」
 最後の方はなんとなく思わせぶりに、亜弥は亜美と亜紀に言った。そうして、二人が軽く頷くのを見て亜弥は続けた。
「だから、わざと子供っぽいデザインのパジャマを作ってプレゼントすることにしたの。昔は琴乃ちゃん、こんなのが大好きだったでしょう? 私もちょっと昔を懐かしんでみたくなっちゃったのよ」
 そう言って、亜弥は琴乃のバスタオルに手を伸ばした。
 あっと思う間もなく胸元の押さえ目が外され、バスタオルは琴乃の足元にぱさりと落ちてしまって、まだ固い小さな乳房と、ようやくうっすらとアンダーヘアが生えかけた眩いほど白い股間があらわになった。確かに、レディと呼ばれても少しもおかしくない亜美の体つきと比べると、まだまだ子供じみた姿だった。
 いくらぽやんとした性格の琴乃でも、全裸の姿で三人の前に立つと、さすがに恥ずかしい。バスルームの中ではみんなが裸だったからそうでもなかったけれど、自分だけが何も着ていないと思うと、湯上がりのほてりのせいだけではなく頬が赤くなってくる。
「幼稚園の頃にお泊まりした時にも、こうして私がパンツを穿かせてあげたのよ。憶えてない?」
 慌てて胸元と股間を隠そうとする琴乃の両手を軽く押さえつけるようにして、亜弥は脱衣篭からアニメキャラクターのショーツをつまみ上げた。
「これも私の特製だからサイズはぴったりの筈よ。最近は子供服や下着も手がけて慣れてるから、穿き心地もわるくないと思うし」
 言いながら、亜弥は琴乃の足首を持ち上げるようにして、幼稚園の頃そのままの手慣れた感じで手早くショーツを穿かせた。それから、両手を万歳するみたいに上げさせると、柔らかいコットンのパジャマを琴乃の頭からすっぽりかぶせて、さっと裾を引きおろす。そうして両手を後ろの方にまわすと、背中のボタンを三つ、さっさと留めてしまった。
「さ、できた。鏡を見てごらんなさい。幼稚園の頃そのままの琴乃ちゃんが映っているから」
 そう言った亜弥は、琴乃の両肩に手を置いて、脱衣場の壁に嵌め込みになっている大きな鏡の方に向かせた。
 途端に、琴乃の頬が恥ずかしさのために真っ赤に染まった。
 亜弥の言う通り、姿見の鏡に映っているのは、来月には高校生になるという年頃の女性の姿などではなく、胸元に可愛らしいアップリケをあしらって裾をフリルで縁取った純白のコットンのパジャマに身を包まれた幼女の姿だった。確かに亜美たちと比べれば琴乃は背が低くて幼い感じがする。それでも、いくらなんでも、幼稚園児なみの体つきということはない。なのに、亜弥が仕立てた特製のパジャマを着た姿は幼児そのものだった。サイズには幾らか余裕があるのに、どういうわけか丈だけが少し短く仕立ててあるせいで白いショーツが僅かにパジャマの裾から見えているせいで、余計にそんな感じがするのかもしれない。
 亜美も、琴乃のパジャマの丈が随分と短く仕立ててあることに気がついたみたいだ。少し心配そうな声で亜弥に言った。
「でも、ママ。こんなじゃ、それこそ風邪をひいちゃうんじゃないの?」
「いいのよ、これで。ちゃんとこんなのを用意してあるんだから」
 平然と言って、亜弥は再び脱衣篭に手を伸ばした。
「琴乃ちゃん、もういちど足を上げてちょうだいね」
 姿見と向き合ったまま恥ずかしさに言葉を失っている琴乃の返事も待たずに、亜弥は少しばかり強引に琴乃の右足を持ち上げた。そうしておいて、脱衣篭からつかみ上げた、パジャマと同じ純白のコットンでできたオーバーパンツを穿かせる。
 お尻の方に三段の飾りレースをあしらったオーバーパンツのまたがみは随分と深く作ってあって、おヘソの上まで隠してしまった。
「はい、これならお腹が冷えることもないわ。これでいいわね?」
 パジャマの裾から僅かに見えるオーバーパンツの飾りレースに満足そうな目を向けて、亜弥は亜美に向かって言った。
「そうね、これならいいんじゃないかしら」
 琴乃本人には一言も確認しないまま、亜美が大きく頷いた。
「じゃ、もう夜も遅いから、このままベッドルームへお行きなさい。三人一緒に寝るわよね?」
「もちろん、一緒だよ」
「そう思って、二人のベッドに琴乃ちゃんの枕も用意しておいたわよ。さ、ぐっすりお眠りなさい。夜更かしはお肌の敵だから」
 亜弥が言うと、亜美と亜紀が同時に手を伸ばして琴乃の手首をつかみ、鏡の前に立ちすくんだままの琴乃の体を引き寄せた。そうしてそのまま、ベッドルームに向かって歩き出す。それは、琴乃が初めてこの家にお泊りにきた時そのままの光景だった。




 クイーンサイズのダブルベッドは、三人が一緒に横になってもちっとも苦にならないほどゆったりしていた。
「いつも亜美ちゃんと亜紀ちゃんは一緒に寝てるの?」
 幼児のような格好を少しでも隠そうとでもしているのか布団にすっぽりもぐりこむみたいにして、琴乃は二人どちらにともなく訊いてみた。
「そうだよ。生まれた時からそうだったし、これからもずっとそうするんじゃないかな」
 琴乃の横顔を見守るようにベッドの上に頬づえをついた亜紀が応えた。
「じゃあさ、幼稚園の時もそうだったけど、私がお泊りにきたらジャマになるんじゃないの? こんなふうに私が入ったりしちゃ」
 琴乃は亜美と亜紀の間に割り込むみたいにして横になっていた。これは幼稚園時代にお泊まりにきた時もそうだったから、今日だけというわけではない。それなのに、なんとなく気になって仕方がない。
「なに言ってるの。琴乃がジャマになるなんて、そんなことあるわけがないわよ」
 何がおかしいのか、くすっと笑って亜美が言った。
「そうだよ。たとえば琴乃が亜美とだけくっついて寝たりしたら、それこそボクは頭にきちゃうだろうな」
 亜紀も笑顔で頷いた。
「本当に?」
 なおも自信なさそうに、念を押すみたいに琴乃は言った。
「本当よ。こうして三人一緒に川の字で寝てると、なんだか本当の家族みたいで嬉しいんだから」
 亜美は少し体を起こして、琴乃の顔を覗き込んだ。
「三人姉妹ね」
 琴乃は、はにかむような笑顔になった。
「姉妹? 違うわ。親子よ、お・や・こ」
 一言一言を区切るように強調して亜美が言った。
「え? 親子?」
 布団から顔を覗かせたまま琴乃が訊き返した。確かに、さっぱりしたブルーのパジャマを着たボーイッシュな亜紀と、セクシーなネグリジェをまとった亜美、それに、幼児みたいな格好をした琴乃の三人だ、そんなふうに見えなくもないかもしれない。でも……。
「そうさ、親子だよ。亜美がママでボクがパパ。琴乃は小っちゃい娘。昔からずっとそうだったんだから」
 亜紀も体を起こして、亜美と一緒に琴乃の顔を上から覗き込んだ。そんなふうにされると、琴乃は、なんだか本当に自分が小さな子供になってしまったような気がしてくる。
「昔、琴乃がお泊まりにくるたびに三人で何をして遊んだか憶えてる?」
 亜美が悪戯っぽく目を輝かせて言った。
「何をして遊んだか? んと……」
 言われた琴乃は、昔を思い出そうとして目を閉じた。
「おままごとだよ。憶えてないかい?」
 琴乃が目を開ける前に亜紀が言った。
「あ、そうだっけ」
 言われて、ようやく思い出したみたいに琴乃は瞼を開いた。
「そうよ、おままごと。でね、最初の頃は三人でいろんな役をやってたの。琴乃がお父さん役だったこともあるし、亜紀がペットの犬の役をやったりね」
 亜美は意味ありげに言葉を切った。そうして少しだけ間を置いてから、すっと目を細めて続ける。
「でも、或る時から三人の役割が決まっちゃったのよ。どうしてだか、それも憶えてない?」
「そんなことがあったっけ?」
 琴乃は、ぷるんと頭を振った。
 その時、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
 ノブが廻ってドアから入ってきたのは、銀色のトレイを手にした亜弥だった。
「まだ眠れないの? ま、久しぶりなんだから仕方ないでしょうけど、本当にお肌に悪いわよ。明日もあるんだから、これを飲んでゆっくりお休みなさい」
 入ってくるなり、亜弥はトレイからマグカップを一つつかみ上げて亜美に手渡した。それから亜紀にも。
 トレイにまだ一つマグカップが残っているのを目にした琴乃は、それが自分のらしいと気がついて慌てて体を起こした。
 亜弥から手渡されたマグカップからはほんのりと湯気が立ち昇って、ほのかに甘い香りがした。その香りにつられるように、琴乃はカップに口をつけた。
「眠れない時には温かいミルクがいいのよ。海外へ引っ越したばかりの頃、亜美たちが眠れなくてね、仕事仲間からレシピを教えてもらったの。ハーブを入れたミルクを温めて、レンゲの蜂蜜を混ぜてあるのよ」
 亜弥が説明している間に、亜美と亜紀はミルクを飲み干してしまっていた。上品な甘さが口の中いっぱいに広がって、ラベンダーだろうか、気持ちのやわらぐ香りが口から鼻へふわりと抜けて行く感じにほっとした気分になりながら、琴乃もいつの間にかカップを空にしていた。
「それでいいわ。じゃ、おやすみなさい」
 三つのカップを載せたトレイを再び手にして、亜弥は廊下に出て行った。
「ママの言う通りね。明日もあるし、学校が始まるまで二週間、まだ春休みはたっぷり残ってるんだから」
 ベッドの上にゆっくり体を倒しながら亜美が言った。
「そういうことだね。今日はこのくらいにして、また明日からゆっくり遊ぼうよ」
 亜紀も枕の上に頭を載せた。
「何をして遊ぼうかな」
 布団にもぐりこみながら、琴乃は独り言みたいに呟いた。
「おままごとよ。決まってるじゃない」
 琴乃の声が聞こえたのか、すぐに亜美が応えた。
「そうだね。三人で遊ぶなら、それしかないよ」
 亜美に続いて亜紀も言った。
「高校生にもなっておままごとなの?」
 ちょっぴり不満そうに言って、でもその後の言葉を口にできないまま、琴乃は目を閉じた。急に眠くなってきて、それ以上は何も言えなくなってしまったのだ。
 二人が見守る中、琴乃は早くも安らかな寝息をたて始めた。

 墜ちるように眠りについた琴乃の寝顔をしばらくの間じっと見つめていたかと思うと、不意に、亜美が亜紀にぞくぞくするような流し目をくれた。そうして、大きな黒い瞳を潤ませて、亜紀の頬に指を這わせる。
「今夜は駄目だよ。琴乃がいるんだから」
 たしなめるような声で亜紀が言った。
「大丈夫よ。こんなによく眠ってるんだもの、気がつくわけないわ。――ほら、こっちへ来て」
 亜美は早くも亜紀のパジャマのボタンに指をかけている。
「――確かにそうだね。それじゃ」
 亜美にいざなわれ、確認するように琴乃の寝顔を眺め、寝息を聴いて満更でもなさそうに応えた亜紀は、亜美の手を押えつけるようにして唇を重ねた。
 それが、二人の愛の営みの始まりを告げる合図だった。
 やがて亜紀は琴乃の体を乗り越えて亜美の上に重なり、唇を触れ合わせたまま、ネグリジェの上から乳房を揉みしだき始めた。女性どうしの、それも血のつながった双生児の、二重の意味で禁断の愛の営みは、いつ果てることもなく、冷たく青白い月の光を浴びながら延々と続いた。
 時おり琴乃の寝息が二人の耳に届いたけれど、それさえ、くるおしく体を重ねる二人には、禁断の悦びを激しくかきたてる甘い刺激でしかないようだった。




 次の日の朝遅くになってようやく目を覚ました琴乃は、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。ぼんやりした目に映るのは自分の部屋の見慣れた調度ではなかったし、天井も随分と高い。
 琴乃は手の甲でごしごしと瞼をこすった。
 途端に、目の前に顔が二つ現れた。
 その時になって、やっと琴乃は自分が亜美たちの家に泊まったんだということを思い出した。それは思い出したけれど、なんだか、まだ頭の中に霧がたちこめているみたいな気分だった。たっぷり眠った筈なのに、ちっともそんな気がしない。
「ゆっくりだったわね。気分はどう?」
 琴乃の胸の内を見透かしたみたいな言い方で亜美が声をかけた。
「う……ん」
 どう応えていいのかわからなくて、琴乃は曖昧な声を出した。
「うふふ。琴乃、昔とちっとも変わってないんだ」
 横になったままの琴乃の顔を見おろした亜美は嬉しそうに笑って言った。
「本当、昔のままだね。やっぱり、琴乃にはおままごとがお似合いだよ」
 亜美のすぐ横に並んだ亜紀が言った。
「いったい何のこと? 二人とも何を言ってるのよ?」
 なんとなく嫌な予感がして、琴乃は慌てて体を起こした。
 掛け布団が滑り落ちて、琴乃の体が二人の目に(そうして、琴乃自身の目にも)あらわになった。
 え? ――なんだか、変だった。
 掛け布団は、ベッドではなく、フローリングの床の上に滑り落ちていたのだ。ベッドから床に落ちたのではなく、琴乃の体から滑って、そのまま床の上に。
 ようやく琴乃は、自分が床の上に敷いた布団の上に寝ていたことに気がついた。昨夜、眠りに就く時には亜美や亜紀と一緒にベッドの上にいた筈なのに。
 それに、身に着けている物も違っているようだった。昨夜、風呂上がりに亜弥の手で着せられたパジャマは確かに純白の生地でできていた。なのに、今、琴乃の体を包んでいるのは、淡いピンク色をしていた。胸元にはアップリケが付いているし裾にはフリルがあしらってある、風呂上がりに着せられたのと同じデザインの、まるで小さな女の子が着るようなパジャマだったけれど、色だけは昨夜のと違っているのは間違いない。
 そう思ってよく見てみると、パジャマの裾から少しだけ見えているオーバーパンツの色も淡いピンクに変わっていた。
「わかった?」
 短くそう言った亜美は、不思議そうな顔をしている琴乃の手を取って床に立たせると、そのまま窓の方へ連れて行った。
「ほら、見てごらん」
 亜美と一緒に窓際に立った亜紀が、ガラス越しに見える裏庭の隅を指差した。
 そこは勝手口の近くで、裏庭の中でも特に日当たりが良い場所だから物干し場になっている。
 その物干し場に張った細いロープに、白いパジャマが干してあった。目を凝らして見るまでもなく、それは、琴乃が着ていたパジャマだった。そうしてパジャマの横には、お揃いのオーバーパンツとアニメキャラクターのショーツ。しかも、そのすぐそばでは、白いシーツが風に揺れていた。
 はっと息を飲んだ琴乃は思わず目をそむけた。が、慌てて視線を移した先には、もっと決定的な物があった。
 物干し場から勝手口の方に目を向けた琴乃は、勝手口の壁に斜めに立てかけてある大きなマットレスを見つけてしまったのだ。
 琴乃は、部屋の壁際にあるベッド(昨夜、三人で一緒に寝ていた筈のクイーンサイズのダブルベッド)に、ためらいがちな目を向けた。
 ベッドの上には何もなかった。そこにあるのは、布団もシーツもマットレスも剥ぎ取られた、豪奢なベッドの無残な枠組みだけだった。
「眠りこけてる琴乃を着替えさせるの、大変だったのよ。ベッドのマットレスを動かすのだって。もっとも、私や亜紀のパジャマは濡れずにすんだんだけどね」
 顔色をなくした琴乃の横顔をじっと見つめて、亜美は、わざとのように恩きせがましく言った。
「わ、私……」
 琴乃の唇が震えた。
「昨夜、眠る前に話したことを憶えてる?」
 言いながら、物干し場の様子をもっとよく見えるようにするためなのか、亜美は窓を開け放った。
 早春の朝のまだ冷たい風が吹き抜けて、亜美がブラウスの上に身に着けたエプロンの幅の広い腰紐の端を揺らした。
「……」
 引き寄せられるみたいに再び物干し場の方に目をやった琴乃は無言だった。
「或る時から、おままごとでの琴乃の役割が子供に決まったってことだよ」
 麻のシャツにチノパンというラフな格好をした亜紀が横から言った。
「……」
 琴乃の頭の片隅に、或る光景が鮮やかに甦った。けれどそのことを口にすることもできず、無言のまま琴乃はおずおずと頷いた。
「幼稚園時代、うちに時々お泊りにきていた琴乃は或る日、昨夜みたいに三人で一緒に寝てて、しくじっちゃったのよね? でもって、私のパジャマも亜紀のパジャマもびしょびしょにしちゃったのよね?」
 確認するみたいな口調で亜美は言った。
 琴乃は弱々しく頷くしかなかった。
 亜美の言う通りだった。或る日、亜美の家にお泊りにきていた琴乃は、いつもと同じように三人で一つのベッドに寝た。ところがその日、いつもより遊び疲れていたせいか、ベッドの上でしくじってしまった――わかりやすく言えば、おねしょをしちゃったわけだ。そのせいで、隣に寝ていた亜美と亜紀のパジャマもびしょびしょに濡らしてしまい、二人が慌てて呼んできた亜弥がベッドからシーツやマットレスを剥ぎ取って後の処置をしてくれたのだった。その間、幼い琴乃は何もできずに、今にも泣きだしそうな顔でおろおろするばかりだった。
 そうしてその日から、おままごとの時の琴乃の役割は小さな子供に決まってしまったのだった。まだおねしょの治らない、亜紀パパと亜美ママが世話をやいてあげないと何もできない赤ちゃんに。
「あの時から、ちっとも変わってないんだから」
 亜美は繰り返した。
「で、でも……」
 ようやく顔色が戻ってきた琴乃は、今度は恥ずかしさに頬を赤く染めて何か言おうとした。
 だけど、物干し場の様子や無残なベッドの枠組みを目にして、反論の言葉が出てくる筈もない。
「いいのよ、弁解なんてしなくても。まだおねしょが治ってなかったなんて知らなかったけど、でも、そんな琴乃、とっても可愛いいわよ。うふふ、ママが琴乃のためにそんなパジャマを作ってあげた理由、私にもわかるような気がするわ」
 亜美は決しておねしょのことを叱っているわけではなかったし、からかっているわけでもなかった。ただ、どういうわけか、琴乃のおねしょが嬉しくて仕方ないみたいだ。琴乃はおねしょ癖が続いているんじゃない。ただ、どうしてだかわからないけど、たまたま昨夜しくじってしまっただけだ。なのに……。
「わかっただろう? ボクたちは三人姉妹なんかじゃなくて親子なんだよ。ボクたちが一緒に遊ぶなら、おままごとしかないんだよ。わかるよね?」
 そう言って、亜紀が琴乃に向かって足を踏み出した。
 琴乃は気圧されたように後ずさった。そのまま、後ろも見ずに一歩二歩と体を退く。
 そこへ、音もなくドアが開いて亜弥が入ってきた。
 背中から亜弥の体にぶつかって、小柄な琴乃がよろめいた。丈の短い淡いピンクのパジャマの裾がふわりと舞い上がって、中のオーバーパンツが殆ど丸見えになってしまう。
 右手を伸ばした亜弥が腰を支えてくれたおかげで、琴乃はかろうじてその場に踏みとどまることができた。
「あらあら、どうしたの。あんよもまだ上手にできなかったのかしら、琴乃ちゃんは」
 からかうような亜弥の言葉に、琴乃は顔がほてるのを感じた。
「わ、私……」
 そう呟いて亜弥の手から逃げるのが精一杯だった。
 そこへ亜美と亜紀が近づいてきたため、琴乃は三人に取り囲まれるような感じになってしまった。頭一つ背の高い三人に見おろされて、まるで自分がおねしょをみつかっておどおどと逃げ回る幼児の頃に戻ったような気さえしてくる。
「ごめんなさい。もうすぐ高校生になるっていうのに恥ずかしい失敗をしちゃって、本当にごめんなさい」
 早口で言って、琴乃は顔を伏せた。
「あら、なにも謝ることなんてないのよ。私は怒ってるわけじゃないんだから」
 亜弥の言葉は確かに穏やかだった。
「そうよ。私だって、さっき言った筈よ。琴乃のことが可愛らしくて仕方ないんだって」
「そうだよ。もういちど三人で遊べて楽しくてしょうがないんだよ、ボクも」
 亜美と亜紀は同時に言った。
「……」
 三人の足元にちらちらと目を向けながら、どう応えていいのかわからずに琴乃は言葉を飲みこんだ。
 三人のわざとみたいな穏やかな声がまるで絡めとるみたいに琴乃の体を包みこむのがわかる。
「心配しなくていいのよ。琴乃ちゃんが汚しちゃったシーツもパジャマもショーツも、みんな私が綺麗にしてあげるから。昔みたいに、おばちゃまが綺麗に洗ってあげる。いいわね?」
 あやすみたいな亜弥の言い方に、思わずこくんと琴乃は頷いた。
「そう、それでいいの。琴乃ちゃんは何も心配しないで、みんな、おばちゃまにまかせておけばいいのよ。おばちゃまと亜美ママと亜紀パパにね」
 それは、幼かった琴乃がこの家にお泊りして夜中に粗相してしまった時、亜弥が優しく言った言葉そのままだった。おねしょをするような子は赤ちゃんよと言っておままごとの役割を決められてしょげかえっていた琴乃の体を優しく抱き寄せて慰めてくれた昔の亜弥の言葉と少しも違っていない。
 琴乃はもう一度こくんと頷いた。
「わかってくれたのね。じゃ、おばちゃまも昔みたいにしてあげるから、そのかわり、琴乃ちゃんも昔みたいにしてくれるのよ。いいわね?」
 昔みたいにという言葉の意味を深く考えることもなく、琴乃は小さな声で「うん」と応えていた。もうすぐ高校生になるというのに恥ずかしい失敗をしてしまって、そうして、その粗相を昔からの友達とその母親にに見られて、それでどうやって「いや」を言えるだろう。まして、その母親には、恥ずかしいシミを作ってしまったシーツや下着の洗濯までしてもらっているのだ。
「いい子ね、琴乃ちゃんは。とってもお利口さんだわ」
 亜弥は本当に昔に戻ってしまったような口調で言うと、手に提げていた藤のバスケットをそっと亜美に手渡した。
 バスケットを受け取った亜美は中身を確認して、にっと笑った。そうして、亜紀に目配せしてみせる。
 恥ずかしさのせいで亜弥の顔をまともに見ることができずに顔を伏せたままの琴乃は、亜弥が亜美にバスケットを手渡したことにも気づかずにいた。
 その隙に、亜美はベッドの下の小物入れから引っ張り出した大きなタオルを床に敷くと、バスケットから取り出した柔らかそうな布地をタオルの上に何枚も広げ始めた。それを横合いから亜紀も手伝い始める。

 ようやく決心したみたいに琴乃が顔を上げて亜弥の顔をおそるおそる見上げた時には、亜美の方はすっかり準備ができていた。
 亜美は亜弥に向かって軽くウインクしてみせた。
 それを確認した亜弥は唇の端を吊り上げるような笑みを浮かべて言った。
「じゃ、早速、約束通りしてもらいましょうね。ちゃんと昔みたいに、ね」
 何を言われているのかわからずに、琴乃はきょとんとした目で亜弥の口元を見返した。
「こっちだよ、琴乃」
 後ろから声をかけたのは亜紀だった。
 えっ?というように振り返った琴乃に、亜美と亜紀が揃って自分たちの足元を指差してみせた。
「なんなの、それ?」
 二人が指差す方に目を向けた琴乃は、不思議な物を見たような表情で訊き返した。
「あら、これが何なのかわからない?」
 僅かに首をかしげて亜美が言った。
 琴乃にしても、二人の足元の床に広がっているそれが何なのかわからないわけじゃない。でも、どうしてそんな物がここにあるのかがわからない。
「ママと約束したんでしょう? ちゃんと昔みたいにするって」
 思わせぶりな亜美の口調だった。
 その時になって、やっと意味がわかった。昔みたいにというのは、つまり……。
「いや! 高校生にもなって、そんなの、絶対にいやなんだから」
 激しく首を振って琴乃は体を退いた。
 後ずさりする琴乃の体を受け止めたのは、またしても亜弥だった。亜美や亜紀よりもまだ背が高く、海外にいた頃は週に三度はフィットネスジムに通うことを欠かさなかった亜弥の手に阻まれてしまえば、どんなに琴乃があがいてもどうにもならない。
「そうそう、こんなふうだったわよね。うちにお泊まりにきた琴乃ちゃんがおねしょをしちゃって、おままごとで赤ちゃんの役をすることになったのにいやがって逃げまわっていた時も、本当、こんなだった。――いい子ね、琴乃ちゃんは。ちゃんと約束を守って昔みたいにしてくれるんだから」
 後ろから琴乃の体に腕を絡ませて、亜弥はくすくす笑いながら言った。
「そうね、本当そうだった。でもって、結局はママに抱っこされて、この上にお尻をおろしたのよね。私もよぉく憶えてるわ」
 亜美も笑いながら言った。
「そうよ。せっかく琴乃ちゃんが昔みたいにしてくれてるんだから、私もちゃんとしてあげないとね」
 言うが早いか、亜美は琴乃の体を軽々と抱き上げた。
 琴乃は盛んに脚をばたつかせて抵抗するものの、琴乃の体を横抱きにした亜弥が腕でぎゅっと締めつけると、僅かに足先を動かすことしかできなくなる。
「許して。私は赤ちゃんなんかじゃない。もう高校生なんだから、それだけはいやなの」
 亜弥の腕によって体の自由を奪われた琴乃には、弱々しい声で懇願することしかできなかった。
「私は赤ちゃんじゃない、もう幼稚園に通ってるんだから――憶えてる? 小さかった琴乃ちゃんは私にそう言ったのよ。まるで今の琴乃ちゃんみたいに」
 軽々と抱き上げた琴乃の耳元に亜弥は囁いた。

 四歩も歩けば、もう亜美と亜紀のすぐそばだった。
 僅かに首を動かしてちらと下の方を見た琴乃は、見てはいけない物を見てしまったような表情で慌てて顔を上げた。
「さ、おままごとの始まりよ。楽しみでしょう? 九年ぶりのおままごとだものね」
 亜弥はそっと腰を曲げた。
 ゆっくりゆっくり琴乃の体がおりてゆく。
「いや! おばさま、お願い。私をこんな所におろさないで。お願いだから……」
 大きく見開いた目を亜弥の方に向けて琴乃は声を震わせた。
「あらあら、相変わらず甘えんぼうさんなのね、琴乃ちゃんは。おりたくないだなんて、本当、抱っこが大好きなんだから。でも、抱っこは後よ。ちゃんといい子にしてたら、いくらでも後で抱っこしてあげる」
 亜弥は琴乃の体を、亜美が敷いた大きなタオルの上にそっと横たえた。そうして、琴乃が暴れ出さないよう両肩を床の上に押えつけてしまう。
「ありがとう、ママ。あとは私にまかせてちょうだい」
 亜美はその場に膝をつくと、目の前に横たわっている琴乃のパジャマの裾を手早く捲り上げた。それから、琴乃の両方の足首を左手でつかんで、そのまま高く持ち上げる。
 そうしておいて、丸見えになってしまった淡いピンクのオーバーパンツのウエストに右手の指をかけると、その下に穿いているショーツと一緒に、膝のあたりまでさっと引きおろした。
 亜美が左手をおろして琴乃の足首を床の上に戻すと、それまで僅かに宙に浮いていた琴乃のお尻が、タオルの上に広げられた柔らかい布に触れる。
「懐かしい肌触りでしょう?」
 床の上に力なく伸びた琴乃の両脚からオーバーパンツとショーツを脱がせながら、亜美は含み笑いで言った。
「いやなんだからぁ」
 お尻に触れる柔らかい布の感触がとても恥ずかしくて、脚まで真っ赤に染めた琴乃は悲鳴じみた声をあげた。
「大丈夫よ。いやだいやだって言ってるのは今のうちだけ。すぐに慣れるわよ、昔もそうだったんだから。――さ、おむつをあてて可愛いい赤ちゃんになろうね」
 亜美が『おむつ』という言葉をわざと強調して言った。
 そう。
 亜弥が亜美に手渡したバスケットに入っていたのは、そうして、亜美がバスケットから取り出してタオルの上に広げたのは、まぎれもなく布おむつだった。両縁に動物柄がプリントしてある輪っかになった柔らかい布でできた、赤ちゃんのおしっこを優しく吸収するおむつだった。
 昔みたいに――その言葉の意味を琴乃は今、身をもって実感させられようとしているのだった。
 幼稚園時代にお泊まりにきて恥ずかしい粗相をしてしまったためにおままごとで赤ちゃん役をさせられることになった琴乃は、本当の赤ん坊みたいにおむつまであてられてしまった。亜美がママ、亜紀がパパの役で、おばあちゃん役で参加していた亜弥が随分と乗り気になってしまって、どうせならと言って亜美たちが赤ん坊の頃に使っていた布おむつとおむつカバーを物置から探し出してきたせいだった。今と同じように亜美たちに比べればかなり小柄だった琴乃にはそのおむつカバーはあまり窮屈ではなかったけれど、幼稚園に通う年齢になっておむつをあてられた、その恥ずかしさがたまらなかった。
 すっかり忘れていた筈のその光景が、来月には高校生になるという今になってありありと甦ってくる。
「おむつはいや。いやなの……」
 亜弥の手で両肩を堅い床に押えつけられた琴乃は、今にも消え入りそうな声で呻いた。
「大丈夫よ、すぐに慣れるから。ほら、あの日だってそうだったでしょう?」
 すっかり丸裸に剥いてしまった琴乃の両脚を強引に広げ、布おむつの端を持ち上げながら、亜美は確信めいた口調で言った。
 そう、あの日も――。




 おむつ離れが他の子よりも早かった琴乃のことだから、物心ついてからこっち、おねしょなんて一度もしたことがない。どことなくぽやんとした感じのいつも夢でも見ているような目をした小柄な子供だったけれど、そういうところはしっかりしていたのだ。
 だから、友達の家へお泊まりに来て三人一緒に寝たベッドでの失敗はショックだった。昼間、三人で無我夢中で遊び続けたものだから、その疲れが出たのかもしれない。亜弥もそう言って慰めたものだ。だけど、同じように夢中で遊んでいた亜美と亜紀は失敗しないで自分だけがと思うと、亜弥の言葉も琴乃の耳を素通りしてしまう。
 しかも、その時に琴乃が着ていたのが、亜美が幼稚園にあがる前に好んで着ていたパジャマだったから尚更だ。なんの用意もせずに遊びに来ていた琴乃が急にお泊まりすることになって、それで眠る時になって亜弥が出してきたのが、その可愛らしいパジャマだった。同じ年齢とはいっても、かなり小柄な琴乃が亜美や亜紀のパジャマをそのまま着ると、まるでパジャマの中に埋もれてしまうみたいなことになってしまう。だから、亜美が一年ちょっと前まで着ていたパジャマを琴乃のために探し出してきてくれたのだ。その、いかにも幼児向けにデザインされたパジャマをおねしょで濡らしてしまった姿を見た亜美が「あ、か〜わいい。琴乃ちゃん、赤ちゃんみたい」と嬉しそうに叫んだものだから、琴乃はますます恥ずかしくてたまらなくなってしまうのだった。
「本当だ。琴乃ちゃん、赤ちゃんみたい」
 亜美が叫んだ途端、くすっと笑って亜紀も言った。そうして、何か思いついたような顔になって続けた。
「昨日のおままごと、琴乃ちゃんはお母さん役だったよね。でも、おねしょしちゃうお母さんなんて変だよ。今日から琴乃は赤ちゃんだよね」
「そうね、琴乃ちゃんは赤ちゃんに決まり〜。だったらさ、もう今からおままごと始めちゃおうよ。私がお母さんで亜紀がお父さん。いいよね、亜紀?」
 早くおままごとをしたくてたまらないというように、亜美は声を弾ませた。
「いいよ、ボクはお父さんで」
 亜紀は大きく頷いた。
 そこへ亜弥も割り込んでくる。
「じゃ、ママはおばあちゃんね。琴乃ちゃんが亜美と亜紀の赤ちゃんで、亜美と亜紀はママの子供なんだから、ママは琴乃ちゃんのおばあちゃん」
「え、ママも入るの?」
 少し驚いた声で亜美が訊き返した。とはいっても、亜弥の申し出を決して嫌がっているふうではない。むしろ、亜弥が自分たちとどんなふうに遊んでくれるのか、興味津々といった顔つきだ。
「ショーに出すお洋服の仕立ては終わってるし、パパは事務所の人と打合せで今日は帰ってこないから、ママ、ちょっと暇なのよ。だから混ぜてほしいんだけどな。――いいよね、琴乃ちゃん?」
「わ、私……」
 意気消沈してしまった琴乃のことを思って、亜弥はこの場を明るくしようと努めているのかもしれない。けれど、まだ幼い琴乃には、そんな亜弥の心遣いがわからない。どう応えていいのかわらかなくて、琴乃はおどおどと顔を伏せた。
「はい、決まり」
 琴乃の返事も待たずに亜弥はひとりで決めると、ぐっしょり濡れた琴乃のパジャマに改めて目を向けた。
「あ、そうだった。急いで着替えなきゃ風邪ひいちゃうよね。――おばあちゃまは琴乃ちゃんの着替えを持ってくるから、その間に亜美ママと亜紀パパ、琴乃ちゃんのパジャマを脱がせておいてちょうだい」
「はい、ママ……ううん、琴乃ちゃんの優しいおばあちゃま」
 茶目っ気たっぷりに亜美が返事をした。

 亜弥が着替えを藤のバスケットに入れて部屋に戻ってきた時には、琴乃はすっかり丸裸になっていた。
「琴乃ちゃんのパジャマ、ちゃんと脱がせてあげたよ」
 洗濯機の横から持ってきたのだろう、床の上に置いたプラスチックの脱衣篭を指差して亜美は得意げに鼻を動かした。
「あら、ほんと。もうすっかり琴乃ちゃんのママね、亜美は。じゃ、今度はこれを着せてあげてちょうだい」
 軽く頷いてみせてから、亜弥は、持ってきたバスケットを亜美に手渡した。
「あ、これ、亜美が着てたワンピースだ」
 亜美が受け取ったバスケットを興味深そうに覗きこんだ亜紀が叫んだ。
「そうよ。眠る時は、亜美が小さい頃に着てたパジャマだったでしょう? だから、遊ぶ時も、亜美が着てたワンピースなの。このくらいでちょうど合う筈だから」
 亜弥が、亜紀にというよりも、どちらかといえば琴乃に言い聞かせるみたいにして応えた。
「うん、これなら亜美がちゃんと着せてあげられるよ。――はい、琴乃ちゃん、お手々をあげてちょうだい」
 亜美は早速バスケットから小さなワンピースをつかみ上げると、慣れた手つきで背中のボタンを外して、おずおずと両手をあげた琴乃の頭からすっぽりかぶせ、優しく裾を引きおろした。
「ちょっと小さかったかしら。でも、よく似合ってるからいいわね」
 いくら小柄な琴乃にも、さすがに亜美のおさがりのワンピースでは少し小さいみたいだ。五分袖の筈が三分袖のパフスリーブみたいになっているし、スカートの裾からお尻が少し見えてしまっている。けれど、そのせいで琴乃が実際の年齢よりも幼児めいた感じになって、却って可愛らしく見える。亜弥は満足そうに微笑んだ。
「じゃ、次はパンツね。おばあちゃま、どんなパンツを持ってきてくれたかしらね」
 少しだけ窮屈そうなワンピースの背中のボタンを留め終えて、ちょっと大人びた言い方をしながら亜美はバスケットに手を伸ばした。そうして、つかみ上げた布地をじっと見つめて、不思議そうな声で亜弥に訊いた。
「ママ……じゃなかった、おばあちゃま、これって?」
 その声は、実際の年齢よりも幼い子供が着るようなワンピースを着せられて恥ずかしそうにしていた琴乃の耳にも届いた。なんとなく気になって、琴乃は亜美の手元に目を向けた。途端に、胸がどきんと高鳴る。
「あ、亜美ちゃん。それって……」
 琴乃は思わず声をあげた。
「亜美ちゃんじゃないでしょ。私は琴乃ちゃんのお母さんなんだから、ちゃんとママって呼びなさい」
 いかにも母親役らしく、たしなめるような口調で亜美が言った。
「あ、じゃ、ママ。でも、それってパンツじゃないよ」
 琴乃は、不安そうな顔で言い直した。
「そうね、確かにパンツじゃないわね。でも、ちゃんとした下着よ。赤ちゃんの琴乃ちゃんにとってもよく似合う可愛いい下着なんだから」
 応えたのは亜弥だった。
「赤ちゃんの下着っていったら、おむつに決まってるじゃない? それも、本当におねしょしちゃうような琴乃ちゃんみたいな赤ちゃんにはね」
 亜弥の言葉通り、亜美が手にしているのは、水玉模様の布おむつだった。亜美や亜紀が使っていたのを、ワンピースと一緒に物置から探し出して持ってきたのだ。
「うん、そうだよね、赤ちゃんにはおむつだよね。パンツは大きくなってからだよね」
 最初は戸惑った表情をしていた亜美も、なんだか嬉しそうに目を輝かせた。
「でも、でも琴乃、赤ちゃんじゃないよ。もう幼稚園なんだから、おむつなんて……」
 思ってもいなかったことに、琴乃はぶんぶんと首を振って後ずさりした。
「いいからいいから、ちゃんとおむつしましょうね。ほら、ママが準備してくれてるわよ。――亜美ママ、琴乃ちゃんがむずがって暴れないようおばあちゃんが押えていてあげるから、早くしてね」
 後ずさりする琴乃の体をさっと抱え上げた亜弥は、そのまま床の上に仰向けに寝かせて腕を押えつけた。
「やだ。琴乃、赤ちゃんじゃないもん。赤ちゃんじゃないのに、おむつなんてやだ」
 琴乃は両脚をばたつかせた。
 暴れる琴乃の両方の足首をきゅっと握って高く持ち上げたのは亜紀だった。
 両腕を亜弥に、両脚を亜紀につかまれて、とうとう琴乃は逃げ出すことができなくなってしまった。
「そうそう、お転婆な琴乃ちゃんをそのままちゃんとつかまえていてね、パパ」
 琴乃の両足をつかんで高く持ち上げた亜紀ににっと笑いかけて、亜美は琴乃のお尻の下におむつとおむつカバーを敷きこんだ。
「やだ……恥ずかしいよ。赤ちゃんじゃないのにおむつだなんて、琴乃、とっても恥ずかしいよぉ」
 物心ついて初めてあてられるおむつの予想外の柔らかさが琴乃の幼い羞恥心を激しくくすぐる。
 いつの間に覚えたのか、ぎこちない手つきながらも、亜美は丁寧に布おむつの端を持ち上げると、琴乃の両脚の間にそっと通しておヘソの下で折り曲げ、その上に、お尻の両側から持ち上げた横当てのおむつを重ねていった。
 恥ずかしさのせいで、爪先まで真っ赤に染まった琴乃の両脚が小刻みに震え続ける。
「ほら、もうすぐだからね」
 あやすように言って、亜美は横当てのおむつの上におむつカバーの左右の横羽根をマジックテープで留めると、更に前当てを重ねて、それもマジックテープでしっかり留めた。それから、おむつカバーの裾からはみ出ている布おむつを押し込んでおしまい。
「さ、できた。もう立っちしていいわよ、赤ちゃんの琴乃ちゃん」
 亜美の手が止まったのを確認して、亜弥は琴乃の両手を引いて床に立たせた。
「きゃ〜。琴乃ちゃんたら、なんて可愛いいのかしら」
 目の前に立った琴乃の姿を目にした途端、亜美は顎の下で両手の拳を合わせて甲高い声をあげた。
 琴乃のお尻を包んでいるのは、亜美が三歳少し前まで使っていたレモン色のおむつカバーだった。さすがに幼稚園児の琴乃には少し小さいかもしれないけれど、窮屈というほどではないみたいだった。おむつのせいでぷっくり膨らんだレモン色のおむつカバーが少し丈の短いワンピースの裾から見えている様子が、なんだか妙に可愛らしい。
「そんなに見ちゃやだったら。恥ずかしいんだから」
 琴乃は三人の目からおむつカバーを隠そうとでもするみたいに体の前で両手を広げたけれど、そんなことではどうしょうもない。
「琴乃ちゃんの着替えも終わったし、じゃ、おばあちゃまはお洗濯でもしてこようかしらね。琴乃ちゃんのおねしょのおかげで亜美ママと亜紀パパのパジャマも濡れちゃったし、シーツも洗わなきゃいけないし」
 おむつカバーを隠そうとして無駄な努力を続ける琴乃に向かって悪戯っぽく言って、亜弥は、琴乃のパジャマが入った脱衣篭を持ち上げた。
「お願いね、おばあちゃま。私たちはその間、琴乃ちゃんと遊んであげてるから」
 廊下に出て行く亜弥の後ろ姿に亜美と亜紀が揃って手を振る中、ひとり琴乃だけが両手を体の前で組んだままだった。

 亜美が琴乃に絵本を読んであげたり、亜紀がお馬さんになって琴乃を背中に乗せてあげたりと、ひとしきり遊んで三人が少し疲れた頃。
「ね、ママ」
 亜美ちゃんと呼ぶたびに叱られてようやく亜美のことをママと呼ぶようになった琴乃が、少し顔を赤らめて亜美に声をかけた。
「あら、どうしたの、琴乃ちゃん?」
 わざと大人びた口調で亜美が応えた。
「あのね……琴乃、トイレへ行きたいの」
 ちょっと顔を伏せて、上目遣いで琴乃は言った。
「トイレ? トイレですって?」
 いかにも思いがけない言葉を耳にしたって感じで、亜美は両目を大きく見開いて聞き返した。
「う……ん。琴乃、おしっこがしたいんだけど……」
 言っちゃいけない言葉を口にしてるみたいな、なんだか、後ろめたい感じがした。その証拠に、亜美は目の前に立ちはだかると、腰に手を当てて琴乃の顔を睨みつけていたりする。
「トイレへ行きたがる赤ちゃんなんて聞いたことがないわ」
 きっぱりと亜美は言いきった。
「だ、だって、おしっこ出ちゃうよ〜」
 子供とはいっても女の子だ。おしっこの一言を口にするまでには何度もためらっただろう。だから、いざその言葉を実際に口にした時には本当に切羽詰まっているに違いない。
「いいわよ。出しちゃいなさい」
 ぶるぶると両脚を震わせる琴乃の体を見おろして、亜美は笑顔で言い放った。
「で、でも……」
 我慢できなくなってきたのか、琴乃は自分の股間を両手で押えた。
 途端に、はっとしたような表情になって顔が赤くなる。掌に伝わってくるのは、いつもみたいなショーツの感触ではなかった。ぽてっとした琴乃の手に触れたのは……。
「おむつにするのよ、赤ちゃんは」
 おむつカバーの感触におたおたするばかりの琴乃に向かって亜美は断言した。
「やだよ〜。琴乃、赤ちゃんじゃないもん。赤ちゃんじゃないのに、おむつにおしっこなんてできないよ〜」
 琴乃はぷるぷると首を振った。
「おむつにはできなくても、ベッドのシーツにはできるわけ? 亜紀と私のパジャマまでびしょびしょにしてくれたくせに、おむつにはできないっていうの?」
 亜美はとどめをさした。
「だって、だって……」
 琴乃は尚も言い募る。
 けれど。
 琴乃の表情が崩れたのは、そのすぐ後のことだった。
 我慢の限界はとっくに超えている。
 不意に肩がぴくんと震えて、琴乃はぎゅっと目をつぶった。ほんの少しだけ唇が開いて、あっというような声が洩れる。
 おむつカバーの股間のあたりを両手で押えた格好で琴乃は腰をかがめた。
 よく注意して聴いてみると、琴乃のおむつカバーの中から、小川のせせらぎのような音が微かに微かに聞こえてくるみたいだ。
 我慢しきれずにとうとう洩らしてしまったおしっこが最初にお尻の方を濡らして、それから、布おむつに滲みこみながら、じわじわとおむつカバーの中を広がってゆく。生温かい液体の肌ざわりがじわりと下腹部から伝わってきた。
「や……」
 いったん出始めたおしっこを止めることはできない。とどまることなく溢れ出してくる温かい液体が蒸れて、直接は濡れていないおヘソのところまで湿っぽくなってくる。
 目の下のあたりが熱くほてってきた。
 もちろんそれは恥ずかしさのためだけれど、それだけじゃないみたいにも思える。お腹が痛くなるほどずっと我慢してきたおしっこが体の外に出て行く時の、ちょっと大げさに言えば清々しさみたいな感覚があったし、それに、どういえばいいんだろう、温かい感覚が下腹部を包みこんでゆくのにつれて覚える、なんだか少し懐かしいみたいな、どんなことも両親にみんなしてもらえた頃に戻ったような、ふんわりした気分にさえなってくる。
 そんな、想像もしていなかった感覚に、幼い琴乃の心はひどく戸惑った。戸惑いながら、おむつの中におしっこを溢れさせる感触になぜか瞳を潤ませる琴乃だった。




 ――昔のことを思い出した時には、琴乃のお尻はすっかりおむつカバーに包みこまれていた。
「いいわよ。はい、立っち」
 昔みたいに亜美は琴乃の両手を引っ張ってその場に立たせた。
 お腹の上に捲れ上がっていたパジャマの裾がはらりと落ちて、水玉模様のおむつカバーを覆った。とはいっても、丈の短いパジャマだから、おむつカバーは完全には隠れてしまわないで、三分の一ほどパジャマの裾から見えている。
「うふふ、サイズはぴったりね。で、おばあちゃま特製のおむつカバーの着け心地はどうかしら?」
 琴乃の体をぐるりと見まわして、おむつで膨れたおむつカバーに満足そうな視線を投げかけながら亜弥が言った。
「特製……?」
 はっとしたように琴乃は聞き返した。
「そうよ。まさか、昔のおむつカバーが今の琴乃ちゃんに合うわけないわよね? ――パジャマと一緒に作っておいたの。昔のままの可愛いい琴乃ちゃんのために」
「でも、でも……どうして、そんな……」
「だって、着る物がなきゃ、おままごともできないじゃない。大きな赤ちゃんのためには大きなおむつカバーだって要るでしょう? あ、そうそう。そのパジャマもね、本当はベビードレスのつもりでデザインしたのよ。だからほら、こんなにおむつカバーが似合って可愛いいこと」
 亜弥の言う通りだった。下に穿いているのがショーツやオーバーパンツからおむつカバーに変わると、淡いピンクのパジャマは、パジャマというよりも、赤ん坊が着るようなベビードレスといった方がふさわしくなっていた。
「昨日も言ったことなんだけど、先日、琴乃ちゃんのお家に帰国のご挨拶に伺った時、本当にびっくりしたのよ。だって琴乃ちゃん、昔とちっとも変わってないんだもの。全体の雰囲気は昔のまま、おままごとで赤ちゃんになってた時のまま。だから、どうしてももう一度琴乃ちゃんに赤ちゃんになってもらいたくなって、今の琴乃ちゃんが着られるのを作ることにしたの。――気に入ってくれたわよね?」
「……赤ちゃんなんかじゃない」
 下唇を噛みしめて琴乃は言った。
「私、赤ちゃんなんかじゃない。亜美ちゃんと亜紀ちゃんは私のママやパパなんかじゃない。高校生にもなって、こんなばかげたおままごとなんて……」
「そうよ、おままごとなんかじゃないわよ」
 今にも叫び出しそうになる琴乃の言葉を遮ったのは亜美だった。
「え?」
 琴乃は亜美の顔を見上げた。
「昨夜も言った筈だよ。ボクたち、本当の家族みたいだねって。琴乃がどう思っていようと、ほら、こんな具合にさ」
 不思議そうな顔をしている琴乃に亜紀が言って、すぐ横に立っている亜美の体を抱き寄せ、微塵のためらいもなく唇を重ねた。
「え? な、なに? なんなの?」
 いっぱいに見開いた目を二人の姿に釘付けにして、琴乃は唇を震わせた。
 亜美と亜紀は互いに相手の体に腕をまわし、見ている方が顔を赤らめてしまうくらいに情熱的なキスを交わした。
 その間、驚きの表情で二人を見つめていたのは琴乃だけだった。亜美と亜紀の実の母親である亜弥は、平然と、むしろ微笑みさえ浮かべて二人の様子を見守っていた。

「わかったわね?」
 実際には十秒間くらいのものだろうけれど琴乃にはとてつもなく長く思われた時間が過ぎて、ようやく唇と腕を離した亜美が悪戯めいた目を琴乃に向けた。
「今の私と亜紀は双生児でも姉妹でもないのよ。琴乃も見たでしょう? 私たちは琴乃のママとパパなの。とっても仲のいいママとパパなのよ。だから、琴乃は私たちの可愛いい赤ちゃん。おままごとでも何でもない、私たち三人は本当の家族になるのよ」
「……」
 あまりに思いがけない光景に琴乃は言葉を失った。なんだか頭の中がぼんやりして、何も考えられなくなってしまうみたいだ。
「そう、それでいいわ。これで琴乃ちゃんもわかったでしょうから」
 亜弥の声がどこか遠い所から聞こえてくるような気がする。
 開け放ったままの窓から冷たい風が吹きこんできたけれど、そのくらいのことでは琴乃が自分を取り戻すことはなかった。淡いピンクのベビードレスの裾が舞い上がって水玉模様のおむつカバーが丸見えになっても、それを気にすることも忘れて、琴乃はその場に立ちすくむばかりだった。
「さすがにまだ寒いわね。私はちょっとキッチンへ行ってくるから、その間に琴乃ちゃんにソックスを履かせてあげて。あ、そうそう。髪も毛もちゃんとしてあげるのよ」
 冷たい風に少し身をすくめてそう言うと、亜弥は三人を残して部屋を出て行った。
「じゃ、お座りしてちょうだい。ママ――ううん、昔みたいに『おばあちゃま』って呼んだ方がいいかしらね――おばあちゃまを待ってる間にソックスを履かせてあげる」
 琴乃の後ろにまわりこんだ亜美が肩の上に手を置いた。
 びくっとして琴乃は振り向いたものの、さっきの光景に心を奪われたままなのか、おどおどと亜美と亜紀の顔を見比べるばかりで、自分の肩を押さえつける亜美の手を振り払おうともしなかった。
「さ、お座りするのよ」
 亜美が両手に力を入れると、まるで抵抗する術を持たないかのように琴乃はその場に座りこんでしまった。お尻をぺたっと床におろして両脚を力なく伸ばした、糸の切れた操り人形みたいな頼りない座り方だった。
「それじゃ、パパ。パパがソックスを履かせてあげてね。私が髪をセットするから」
 琴乃の足先にいる亜紀に向かって亜美が言った。パパという呼び方がさほど不自然に聞こえないのは、双生児という関係を超えた二人の間柄のせいだろうか。
 言われて亜紀は、バスケットから、これもベビードレスと同じような淡いピンクのソックスを取り上げて床に膝をついた。そこは琴乃の正面から少しだけ斜めになる場所で、琴乃の方に目を向けると、ベビードレスの裾を通しておむつカバーを覗きこむような感じになる。いくら小柄とはいっても、琴乃ももうすぐ高校生になる、年頃の娘だ。おむつカバーから伸びている脚はぴちぴちしていて、いくら痩せ気味とはいっても、ぽわんと弾力がある。そんな、若い女性特有の体と幼児の装いの組み合わせが妙に倒錯的で、亜紀の胸に奇妙な感覚が充ちてくる。幼なじみの女子高生を赤ん坊のように扱う加虐的な妖しい悦びと、目の前にいる琴乃の幼児めいた可愛らしさに惹かれる危うさと、そうして、自分では何もできないようにしか思えない琴乃に対するいとおしさと。
 亜紀が琴乃のおむつカバーにちらちらと視線を投げかけながらソックスを履かせている間に、亜美の方も盛んに両手を動かしていた。肩までの長さの琴乃の髪を真ん中から丁寧に右と左に分けると、耳の上のところで団子みたいな束にして、小さなボンボンの付いたカラーゴムで結わえて留める。それから、前髪だけを目のすぐ上のあたりまでふわりとおろして、耳のすぐ前に残った髪を細い房にして頬に沿うような格好に垂らせばできあがり。
 同時に手を止めた二人は、揃って琴乃の姿をじっくりと見まわした。
 髪飾りのカラーゴムとお揃いのボンボンの付いたソックスを履かされ、見るからに幼女めいた髪型にされた琴乃は、どこから見ても高校生には見えなかった。小学校の高学年に見えればまだいい方で、第一印象に気を取られて体つきに気がつかなければ、それこそ幼稚園にも上がっていない幼児と見間違ってしまうかもしれない。実際の身長と、僅かながら膨らんだ胸と、意外に張りのある肉づきがかろうじて琴乃の本当の年齢を告げているのだけれど、水玉模様のおむつカバーやフリルたっぷりのベビードレスといった幼女の装いに包まれた成人の痕跡が違和感を覚えさせることはなく、むしろ、限りないあどけなさや、幼さと成人の誇りとがない混ぜになった、奇妙なエロティシズムめいたものが漂い出ているようだった。
「いいわね、これで」
 亜美と亜紀は目を見合わせて頷き合った。

 ころころと聞き慣れない音が聞こえてきたのは、それからしばらくしてのことだった。
 何か、それほど重くはない物が廊下を転がってくるような軽やかな音。
 物音は部屋の前でぴたりと止まって、不意にドアが開いた。
 入ってきたのは、手に丸い瓶を持った亜弥だった。
「へーえ」
 部屋に足を踏み入れた亜弥はしげしげと琴乃の体を眺めて感嘆の声をあげた。
「随分可愛らしくなっちゃって。何もしなくても可愛いいけど、でも、こんなふうにすると余計に可愛いいわ。ひょっとしたら、昔よりも赤ちゃんがお似合いかもしれないわ」
「でしょ?」
 短く応えながら、亜美は亜弥が持ってきた丸い瓶に気がついた。
「それ、何なの?」
「琴乃ちゃんの朝ごはんよ。私たちはもう済ませたけど、遅くまでおねむだった琴乃ちゃんはまだだから」
 亜弥は手の瓶を亜美の目の前で振ってみせた。
「私があげる。いいでしょう?」
 亜美は目を輝かせた。
「もちろんいいわよ。亜美が琴乃ちゃんのママなんだから」
 亜弥は簡単に答えて、持ってきた丸い瓶――温かいミルクを満たした哺乳瓶を亜美に手渡した。
「ありがとう、おばあちゃま」
 冗談めかして言いながら、亜美は哺乳瓶を受け取った。
「おばあちゃま? ……ああ、そうだった。亜美たちのおままごとの中じゃ、私は琴乃ちゃんのおばあちゃまだったわね。うふふ、そんなところまで昔と同じなの?」
 そう呟く亜弥の表情は満更でもなさそうだった。
 亜弥の言葉に笑顔で頷きながら、受け取った哺乳瓶を持って琴乃のそばに腰をおろすと、ゴムの乳首を琴乃の口に軽く押し当てた。
 琴乃がぎこちなく哺乳瓶の乳首を咥えると、幾つもの雫になった温かいミルクが舌の上に流れ落ちて、ほんのりと甘い香りが口の中いっぱいに広がった。
 その時になって、ようやく琴乃は我に返った。口の中に広がるミルクの感覚に、やっとのことで自分を取り戻したのだ。
 自分が何を口にふくんでいるのかを知って、琴乃は哺乳瓶の乳首を強引に吐き出した。途端に、口の中のミルクにむせて二度三度と咳きこんでしまう。
 ミルクが無数のしぶきになって周りに飛び散り、小さな雫になって唇の端から顎を伝ってベビードレスの上に滴り落ちた。
「あらあら、琴乃はまだ哺乳瓶も上手に使えないんだっけ。おばあちゃまにお願いして、可愛いいよだけかけも作ってもらわなきゃいけないみたいね」
 亜美はわざとのように優しく言い、琴乃が自分の言葉に頬を赤く染めたのを確認してから、もういちど哺乳瓶を琴乃の口に押し当てた。
 いやいやをするみたいに琴乃は弱々しく首を振った。
「だめよ。上手に飲めなくても、これが琴乃の朝ごはんなんだからちゃんと飲まなきゃ」
 琴乃の首筋を抱えるようにして亜美は哺乳瓶の乳首をふくませた。
「いや……哺乳瓶なんていや。おむつだけでも恥ずかしいのに、哺乳瓶なんてやだ。どうしてこんなことを……」
 ゴムの乳首を咥えさせられたせいで言葉が自由にならない。それでも、琴乃はミルクの雫を滴らせながら喘ぎ声を洩らした。
「どうしても何も、琴乃が可愛いいからに決まってるじゃないの」
 にっと笑って亜美は応えた。

 けれど、実のところ、理由は他にあった。可愛いいからといって、まさか、ただそれだけのことで、高校生にもなる琴乃を赤ん坊扱いすることなどあるわけがない。
 琴乃を赤ん坊にしてしまおうと最初に言い出したのは亜弥だった。
 もともと家庭的で子供好きな亜弥は、できることなら、いくらでも子供をつくりたかった。亜弥の才能と夫の経営手腕のためにデザイン事務所は順調で、経済的な不安はないし、仕事と育児を両立させる自信もあった。ところが、亜美と亜紀が幼稚園に上がってそろそろ次の子供をつくってもいいんじゃない?と言う亜弥の言葉を、夫は言下に拒絶した。亜弥の体を心配しているからだとかいうような適当なことを言ってはいたが、本当のところは、亜弥の体というよりも亜弥の才能が大事だったからだ。デザイン雑誌の編集をしていた夫も、結婚した当時は亜弥を愛していたかもしれない。しかし、自分たちのデザイン事務所の経営が軌道に乗れば乗るほど、夫は仕事のことにしか目を向けなくなっていった。元来が自分本意の性格で、そういうこともあって独立指向が強い夫だから、いつしか亜弥のことを、夫婦というよりもビジネスパートナー、いや、それどころか、単にデザインを産み出す道具としてしか見なくなっていたのだろう。だからこそ、亜弥が出産や育児に費やす時間を惜しみ、そんな暇があるならデザインの方に専念させたがったのだ。
 感受性鋭い亜弥が夫のそんな心の動きに気づかない筈がない。やがて亜弥の方も夫のことを事務所のマネージメント担当者としか見なさなくなり、二人の間はひどく冷たいものに変わっていった。
 それまで亜美と亜紀にそっくり同じ格好をさせていた亜弥が二人に別々の服を着せるようになったのは、このころからだった。
 そっくり同じ格好をした子が二人いてもつまらないじゃない。どうせだもの、二人別々のお洒落をさせた方がお得よ。姉妹だと時間がかかるけど、双生児だと同時に二つのファッションが楽しめていいわ。――そう話した亜弥の言葉は、あながち冗談などではなかった。次の子供をつくることを諦めた亜弥は、少しでも育児の楽しみを味わうために、女の子どうしの双生児でありながら二人に全く違った個性を与えようとしていたのだ。あたかも女の子と男の子の姉弟を育てているのだと自分自身を錯覚させるために。それはまた、今は他人同然の夫への当てつけでもあったのかもしれない。あるいは、派手なことが好きなわけでもない、ただ可愛いい洋服を作ることが好きなだけだった自分をこんな世界へ連れて来た男への、そして、そんな男の言うままについてきてしまった自身を嘲笑するための哀しい行動だったかもしれない。
 いずれにしても、母親の感受性を生まれながらに引き継いだ亜美と亜紀は、幼いながらも、亜弥の胸の内にある感情を自分たちのものにしていた。この哀れな母親のために自分たちができることを、幼い二人は、ありありと自覚していたのだ。それは、母親を決して独りにしないことだった。今だけではない、おそらくは一生に渡って。いとしい母親の哀しみを癒すために、亜美と亜紀は、ずっと一緒にいることを幼いうちから心に決めていたのだ。その決心を互いに確認し合うため、そうして互いの結びつきを更に強くするために、いつしか二人は愛の営みを交わすようになっていった。もともとは女の子どうしの双生児だった筈の亜美と亜紀なのに、知らず知らずのうちに、二人は姉と弟のような関係さえ超越して、男と女の間柄にさえなっていた。或る時そのことを知った亜弥は、しかし驚くどころか、祝福の言葉をかけさえしたものだった。
 そんな三人のマスコットのような存在が琴乃だった。どこかぽやんとした、いつも元気に駆けまわる小柄な琴乃のことを、三人は最初、ペットを見るような目で見ていた。けれど、その目は徐々に変わっていった。子供好きな、なのにもう子供はつくらないと夫から宣告された亜弥は、琴乃のことを亜美と亜紀の妹みたいに可愛がるようになり、ひどく早熟な心を持って生まれ、おそらく結婚することもなく一生を終えることになるだろうと予感した亜美と亜紀は、琴乃のことを、まるで自分たちの子供みたいに思うようになっていったのだった。
 決定的だったのは、お泊まりをした琴乃のおねしょだった。
 そして亜弥が、琴乃を赤ん坊にしてしまおうと言い出したのだ。亜弥にしてみれば、ほんの冗談のつもりで言ったのかもしれない。けれど、それがたとえ冗談だったとしても、いざ言葉になった瞬間、三人はまるでそのことをずっと考えてでもいたかのように、最初はおずおずと、そうして互いの顔を見合わせて、今度は大きく頷いたものだった。
 その時は、夫が既に契約してしまっていた仕事のせいでヨーロッパへの転居があったりで中途半端に終わったものの、離婚同然に亜弥が亜美と亜紀を連れて日本へ帰ってきた今、九年ぶりに計画が再び進み始めた。その手始めが、亜美や亜紀と一緒にベッドに入った琴乃に薬剤を混入したミルクを飲ませて人為的なおねしょをさせ、亜弥が琴乃に着せた幼児めいたパジャマを汚させることだった。
 しかし、琴乃がそんなことを知る術は微塵もない。

 琴乃の唇に亜美が強引にゴムの乳首をふくませ、嫌がる琴乃にミルクを飲ませるたびに、哺乳瓶の中に小さな泡が幾つもできては消えてゆく。
 まるで幼女のような髪型をしてベビードレスとおむつカバーを身に着けた姿で哺乳瓶の乳首を口にふくんだ琴乃は、三人が九年間にわたって思い描いてきた可愛らしい赤ん坊そのままだった。ゴムの乳首を口にした琴乃を、亜弥はうっとりした目で見守っている。
 二十分ほどの時間をかけて、やっとのこと琴乃は哺乳瓶のミルクを飲み干した。そうしなければ亜美の手から逃れられないことにようやく琴乃も気がついたからだった。
「はい、よく飲めました。少し練習しただけでちゃんと飲めるようになるんだから、琴乃は本当にお利口だわ」
 亜美は空になった哺乳瓶を琴乃の目の前で振ってみせた。
 赤ん坊みたいにそれを自分が飲んだんだと改めて思い知らされるようで、頬が熱くなってくる。
 くすっと笑った亜美が空の哺乳瓶を亜弥の手に返すのを目にして、なんだか少しほっとしたような気分になった琴乃は僅かに体の力を抜いた。けれど、それも僅かの間。
 不意に、おむつカバーの裾ゴムが引っ張られるような感触が太腿から伝わってきた。
 慌てて琴乃が目を向けると、亜美が右手の中指と人差指をおむつカバーの中に差し入れようとしているところだった。
「な、何をしてるの!?」
 琴乃はひきつったような声をあげた。
「何って、おむつが濡れてないかどうか確かめてるだけじゃない。琴乃、おねしょの後、トイレへ行ってなかったよね。だから、そろそろかなと思うんだけど?」
 こともなげにそう言う亜美の右手が、おむつカバーの中を探るように這いまわる。
「やめて、やめてよ。赤ちゃんじゃないのに、おむつを汚しちゃうわけがないじゃない。そ、そりゃ……おねしょはしちゃったけど、だからって……」
 『おむつ』や『おねしょ』という言葉を口にするたびに恥ずかしそうに目をそらしながら、琴乃は口をとがらせた。
「あら、そうかしら。確かに今はまだおむつは濡れてないみたいだけど、それも、いつまでのことかしらね」
 自信たっぷりに亜美が言って琴乃のおむつカバーから右手をそろりと抜いた、それからすぐのことだった。
 琴乃の体がびくっと震えて表情がこわばった。
「どうしたの?」
 琴乃の顔を正面から覗きこんで亜美が訊いた。
「……」
 なんでもないというふうに琴乃は首を振った。けれど、何も言わないことで、却って、なんでもない筈がないことを三人に知らせたようなものだ。
「おしっこ、したいんでしょう?」
 ずばりと亜美が言った。
 一瞬は何も反応をみせなかったけれど、待つほどもなく弱々しく頷く琴乃。
 亜美が言った通り、琴乃は目を覚ましてからまだ一度もトイレへ行っていない。尿意はあっただろうに、おねしょ騒ぎのために、自分でも気がつかないままだったのかもしれない。それが、ようやく落ち着いた頃になってミルクを――それも、ごく効き目の弱いとはいっても、昨夜ベッドで飲んだミルクに混ぜられていたのと同じ薬剤を混入したミルクを飲まされたりしたものだから、あっという間に、おしっこをしたくてたまらなくなってくる。
 最初はじわっと高まった尿意が、すぐに、どうしようもないほど激しくなる。
「……お願い、トイレへ行かせて」
 ちょっと顔を伏せて、上目遣いで琴乃は言った。
「トイレ? トイレですって?」
 亜美は目の前に膝立ちになると、腰に手を当てて琴乃の顔をもういちど覗きこんだ。
「トイレへ行きたがる赤ちゃんなんて聞いたことがないわ」
「で、でも……」
 そろそろ我慢できなくなってきたのか、琴乃は自分の股間を両手で押えた。
「おむつにするのよ、赤ちゃんは」
 掌に触れるおむつカバーの肌ざわりに身を固くする琴乃に向かって亜美は断言した。
 琴乃は激しく首を振った。
 いつかの光景そのままだった。
 たった一つ違っているのは琴乃の年齢だけだ。あの時はまだ琴乃は幼稚園児だった。けれど、今は、もう来月には高校生になる年齢になる。そんな歳になっておむつにおしっこだなんて……。
「いや。おむつは絶対にいや。トイレ、本当にお願いだからトイレへ行かせて」
 際限なく高まる尿意に耐えかねて、喘ぐように琴乃は懇願した。
「やれやれ、仕方がないわね。いいわ、可愛いい琴乃ちゃんのお願いだもの、おばあちゃまがトイレへ連れて行ってあげる」
 それまで無言だった亜弥が横合いから口を出した。
「ママ!」
 亜美が鋭い声を出した。
「いいからいいから。ここは私にまかせてちょうだい」
 やんわりと亜美を制して、亜弥は廊下に出て行った。
 ころころと、さっき聞こえていた物音が再び廊下から部屋の中まで響いてきた。
 その軽やかな物音は、部屋に戻ってきた亜弥が押している歩行器の小さな車輪の音だった。
「何なの、それ?」
 亜弥が両手で押しているのは確かに歩行器だった。だけど、どこかとても妙な感じがして仕方ない。
「憶えてない? そうよね、亜美たちがこれを使っていたのは一歳くらいの時だから、憶えてるわけがないわよね」
 亜弥は僅かに肩をすくめて言った。
「それに、何度も使ったわけじゃないし。せっかくのプレゼントだから悪くは言いたくないけど、ほんと、こんなに使い勝手の良くない歩行器も珍しいわね」
 それは、亜弥のデザイン事務所と取引のあった玩具メーカーが亜美と亜紀が生まれた時に出産祝いにと贈ってくれた歩行器だった。なんとなく妙な感じがするのは、それが二人乗りの歩行器だからだ。赤ん坊を二人横に並べて乗せるようになっているため妙にずんぐりした格好をしているのだ。双生児用のベビーバギーは珍しくないけれど、二人乗りの歩行器というのは、まず目にすることはない。その玩具メーカーとしても、ひょっとしたら、開発中の物を亜美と亜紀にモニターとして使わせるために贈ったのかもしれない。ただ、せっかくだけれど、お世辞にもよくできた物とは言えなかった。二人の気が合わなければ前にも後ろにも動くことができなくて、結局のところ、亜弥も三度ほど二人を乗せただけで、すぐに物置にしまいこんでしまったのだ。その後、その玩具メーカーも商品化は見送ったのか、ベビー用品店でその二人乗りの歩行器を見かけることもなかった。
「でもね……」
 亜弥は、意味ありげな目で琴乃を見おろした。
「あ、そういうことね」
 亜弥が何を言おうとしているのかすぐに察した亜美と亜紀は、琴乃の手を引いて床に立たせた。
 あっと思った時には、もう琴乃は亜弥に軽々と抱き上げられて、普通よりも大きな歩行器の中に押しこめられていた。赤ん坊を二人一緒に乗せるようにできている少しずんぐりした歩行器でも、さすがに琴乃の体を押しこむには少し窮屈だった。亜弥だけでなく亜美と亜紀も手伝ってかなり強引にということになってしまった。そうして、いったん歩行器に座らせてしまえば、今度は琴乃がいくらあがいても抜け出すことができなくなる。
「まさか、今になって役に立つとは思わなかったわ」
 三人の手で強引に座らされた歩行器の中から逃げ出そうとして手足をばたつかせる琴乃の姿を、笑みを浮かべた顔で眺めながら亜弥が言った。
「出して……ここから出して。お願いだから、こんなのいやだから……」
 しばらくして、自分ひとりではどうやっても抜け出せないことを知った琴乃は、すがるような目で亜弥の顔を見上げた。
「だって、トイレへ行きたいんでしょう? だから、この歩行器に乗せて連れて行ってあげるんじゃない。なのに、どうしていやがったりするの?」
 あやすような亜弥の口調だった。
「トイレなら歩いて行けます。トイレくらい自分で行けます。だから……」
 琴乃は歩行器から身を乗り出さんばかりにして声を振り絞った。
「あら、それは駄目。琴乃ちゃんはまだアンヨもできない赤ちゃんなのよ。だから歩行器で連れて行ってあげるの」
 言うが早いか、亜弥は歩行器に手をかけてぐいっと押した。
 慌てて琴乃は足を突っ張ったけれど、ただでさえ体格に差がある上に、力の入りにくい姿勢で座らされていることもあって、僅かばかりの抵抗にもならない。
 ころころと小さな車輪がまわって、琴乃を乗せた歩行器は廊下に出た。

 長い廊下の奥まった所にあるドアの前で、ようやく亜弥は歩行器から手を離した。
 幼稚園の頃に何度も遊びにきたことのある琴乃は、他の部屋のドアに比べると幾らか幅の狭いそのドアがトイレの入り口だということをすぐに思い出した。
 亜弥が目配せをすると、亜紀がノブに手をかけてトイレのドアを引き開けた。
 純白の清潔そうな便座が、琴乃の目に眩く映った。
「早く――お願いだから、早くここから出してトイレへ……」
 激しい尿意の高まりに琴乃の言葉は途切れがちだった。
「あらあら、琴乃ちゃんは何を言ってるの。ほら、ちゃんとトイレへ連れてきてあげたじゃない」
 僅かに片方の眉を吊り上げるような表情で、わざらしく不思議そうな声で亜弥が言った。
「そうそう。ほら、ここがトイレよ。あんなに琴乃が行きたがってたトイレなのよ」
 ようやく亜弥の企みに気づいた亜美が、くすくす笑いながら声を合わせた。
「おしっこ……おしっこなのぉ。トイレでおしっこなんだからぁ」
 もう限界が近いのだろう、ちゃんとした喋り方をする余裕もなくなってきたのか、幼児めいた口調で琴乃は弱々しい声を洩らした。
「そうよ、琴乃ちゃんははおしっこなのよ。いつまでも我慢してると体によくないから、ほら、出しちゃおうね。おおきくなったらトイレでできるようになるけど、赤ちゃんの琴乃ちゃんはおむつにするのよ。心配しなくていいの、おむつが濡れても、亜美ママやおばあちゃまが取り替えてあげる。だから、琴乃ちゃんはおむつにおしっこなのよ」
 亜弥は琴乃の顎先を指でくいっと持ち上げて言った。
「いやったら、いや。琴乃はトイレでおしっこなんだから」
 力なくかぶりを振って亜弥の指を振り払った琴乃は、恨めしげな瞳を便座に向けると、覚束ない足取りで廊下を蹴った。
 歩行器がゆっくり動き出して、琴乃がすがるように両手を伸ばした。その先にあるのは、白く輝く便座だった。
 けれど、琴乃を乗せた歩行器は、幅の狭い入り口に阻まれて、すぐに動きを止めてしまう。
 琴乃は何度も何度も廊下を蹴って身をよじったけれど、どんなにあがいても、歩行器はそれ以上は前へ進もうとしない。
 うっすらと涙を浮かべた目で便座を見つめてから、いやいやをするように力なく首を振って、琴乃は物哀しげな瞳を亜弥に向けた。
 唇が半分ほどゆっくり開いて、嗚咽めいた声が洩れる。琴乃は歩行器のサドルに弱々しく座りこむと、歩行器の上につっぷして体を震わせた。
 トイレの入り口までやってきて、なのに、目の前の便座に座ることもできずに、琴乃は、それこそ赤ん坊のように歩行器に座ったままおしっこを洩らし始めた。
 水玉模様のおむつカバーに包みこまれたお尻がじわっと温かくなってくる。
「ママ……ママ……」
 助けを求めるみたいに、弱々しい声で琴乃は呟いた。
「どうしたの、琴乃? ママならここにいるわよ」
 歩行器の琴乃の肩にそっと手をかけて、いたわるように亜美が言った。
「ちがう。本当のママ……お家のママに迎えにきてもらうのぉ」
 亜美の手を振り払おうともしないで琴乃はしゃくりあげた。
「あら、それはできないわよ。今朝のうちに琴乃ちゃんのお家に電話して伝えておいたもの。亜美たちと久しぶりに会ってなかなか帰りたがらないから一週間ほどこちらで預かりますって。これで安心ね?」
 しれっとした顔で亜弥が言った。
 歩行器に座ったままおむつを濡らし続ける琴乃の顔に絶望的な表情が浮かんだ。
 だけど、いつか、おしっこが体の外に出て行く時の、ちょっと大げさに言えば清々しさみたいな感覚を感じて、そうして、おしっこがおむつに滲みこんでゆく温かい感覚が下腹部を包みこむにつれて覚える、なんだか少し懐かしいみたいな、どんなことも両親にみんなしてもらえた頃に戻ったような、ふんわりした気分になる時が来るだろう。
 その時こそ、琴乃たちがみんな揃ってあの日に還る時だ。
 その時こそ、やはり琴乃は、おむつの中におしっこを溢れさせる感触に包まれながら、悲しみの涙ではない涙で瞳を潤ませることだろう。
 ひょっとしたら、明日があの日になるのかもしれない。遠い遠い思い出の中に閉じ込めた筈のあの日は、琴乃の先回りをして、琴乃が追いつくのをずっとずっと待っていたのだから。



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