天使の微笑




 青白く輝く水銀灯が幾つも吊られた天井がグルッと回った。灰色の壁がすごいスピードで視界の中を移動する――しまったと思った時にはもう手遅れだった。鉄棒から手を離すタイミングを誤った坂本恵は、まるで弓から放たれた矢のように体育館の中を飛んだ。
 しかし、空中に浮かんでいられる時間は僅かなものだ。じきに堅い床が目の前に迫ってくる。恵は咄嗟に膝を抱きこむような姿勢で体を丸め、目を閉じた。激しい衝撃が襲ってきたのは、そのすぐあとのことだった。丸めた背をいやというほど床に打ちつけ、思わず呻き声が洩れる。
 そのまま転がり続ける体をなんとか止めようと足を伸ばしたが、それが却って悪い結果を招くことになる。踵が床に触れた瞬間、自らの体重を支えきれずに再び膝が曲がってしまい、それが下腹部を直撃する。表現しようのない痛みが体を貫き、その拍子に、頭を庇っていた手を広げてしまった。恵の後頭部が床を打つ音が体育館の空気を震わせた。意識が唐突に途切れる。




 うっすらと開いた目にとびこんできたのは、白くまばゆい光だった。ああ、体育館の水銀灯だな――恵は頭の片隅でちらと思った。それから改めて、ゆっくりと瞼を開いてゆく。
 だが、徐々に焦点が合ってきた目に映るのは、見憶えのある水銀灯ではなく、白い清潔そうな天井から吊られた蛍光灯だった。
 あれ?と思った恵は、背中にベッドのスプリングが僅かに触れる感触を覚えながら、あおむけに寝たままの姿勢で慌てて首を回してみた。後頭部から首筋にかけてズキンと痛みが走ったが、そんなことにはかまわず、自分がどこにいるのかを探ろうと、天井から壁へと視線を移してゆく。
 壁の隅に木製のドアがあった。ドアの上の方はガラス張りになっている。恵は、それを透かして外の様子を見てみようとでもするようにガラスを凝視した。
 ガラスの向こうに人の顔が現われたのはその時だった。完全に透明というわけではないガラス越しに見るために顔つきははっきりしないが、どことなく優しそうな輪郭の女性の顔だということだけは見てとれた。恵は緊張したように拳を握りしめ、大きく開いた目をドアに釘付けにした。しかし、微かな音を立ててドアが横に滑り、ガラスに映っていた女性の姿があらわになると、恵の顔からは緊張の色が見る間に消えていった。そこに現われたのが、恵が通う高校の保健室を管理している養護担当の梶田美和だったからだ。
「僕、どうしちゃったんですか、梶田先生? 着地のタイミングをミスって鉄棒から落ちたところまでは憶えてるんだけど、その後が……」
 部屋に入って来たのが顔馴染みの若い女教師だということがわかって、恵はホッとしたように訊いてみた。
 意識を失っているとばかり思っていた恵から不意に声をかけられた美和は驚いたような顔になったが、じきに柔らかな微笑を浮かべると、
「坂本君、気がついたの?……意識が戻ったのね?」
と明るい声で応じた。
「はい。でも……ここはどこなんですか? 意識を失った後、どこかへ運んでこられたんでしょうか?」
 美和の顔から視線を外し、改めて部屋の様子を見回してから恵が言った。美和の出現もあって自分が学校の保健室のベッドに寝ているのだとなんとなく思っていたのが、どうやら違うらしいと気がついたのだ。学校の保健室ではこれほどゆったりしたスペースを取ることはできないだろうし、第一この部屋には、応急処置用の薬棚も美和の机も見当たらないのだから。
「S病院の一般病室よ。坂本君はついさっき、集中治療室からこの病室へ移されたばかりなの」
 耳元で美和の声がした。恵が部屋の様子を見回している間にベッドのすぐそばまでやってきたらしい。
「集中治療室……そんなにひどい状態だったんですか?」
 恵は、自分の事故がそんなにひどいものだったとは思ってもいず、ポカンとした表情を浮かべて視線を美和の顔に戻した。美和の、いつもの人なつっこい表情を浮かべた顔からも、そんな深刻な事態だったことは到底うかがえない。
 美和は恵の緊張をやわらげようとでもするように軽くウインクしてみせると、首を少し左にかしげて応えた。
「そうね――事故の直後は確かにひどい状態だったのよ。顧問の石田先生に呼ばれて私が体育館に駈けつけた時には坂本君はすっかり意識を失ってるし、周りには血が広がってるしね……あの堅い床に後頭部をぶつけたんだから、当然のことだろうけどね。それから慌てて救急車を呼んで病院に連れて来てもらったのよ。でも、CTを見る限りでは幸い脳の損傷はなかったし、外傷も意外と浅いものだったわ。ただ、どうしても意識が回復しないものだから念のために集中治療室で様子を見ることになったの」
「……今日は事故から何日目ですか……?」
 意識が戻らなかった、という美和の言葉が気になって恵は反射的に尋ねた。
「事故は三日前のことよ」
 美和が、ふと遠くを見るような目つきで答える。
「三日……三日間も僕は意識を失ったままだったんですか……で、これからどうなるんです? 元の生活へは戻れるんでしょうね?」
 一旦閉じた目を大きく開いた後、恵は激しい勢いで上半身を起こした。傷口が痛むのか、僅かに唇が歪む。
「大丈夫よ。脳波を観察していてそろそろ意識が戻るだろうと判断したお医者様が、この病室への移動の前に念入りに再チェックしてくださったわ。その結果じゃ、普通の生活を送るには困らないらしいわよ」
 美和の言葉を聞いた恵の顔から緊張の色が失せた。彼は、それまでの不安がスーッと消えてゆくのを感じながら明るい声で言った。
「じゃ、クラブも――体操も続けられるんですね?」
 恵は、もちろんよという美和の返答を予想していた。だが美和は、
「それは……」
と言ったきり口ごもってしまう。
 恵の頬がピクッと震えた。それから、美和の顔を睨みつけるようにし、ややあって口を開く。
「ダメなんですか?……でもさっき、元の生活に戻れるって言ったじゃ……」
 言ったじゃないですかと反論しようとした恵の言葉が途中で途切れた。美和の言葉が再び脳裏に甦ってきたのだ。それに気づいた美和が僅かに顔を曇らせて口を開く。
「わかったようね――お医者様は、『普通の生活を送るには困らないだろう』って言ったの……『元の生活に戻れる』と言ったんじゃないのよ」
 それは、ひどく無感情な口ぶりだった。とはいっても、美和が恵のことを気にかけていない訳ではない。むしろ、美和の心の中で恵は他の生徒と比べてもひときわ大きな存在だった。そして、だからこそ、その冷酷な事実を告げなければならない場面で美和は一切の感情を込めまいと努めたのだった。『もう体操を続けることはできない』という事実は、おそらく恵にとっては、『一生を棒に振る』という言葉と同義なのだから。

 ここで、坂本恵の生いたちについて少し説明しておくことにしよう――。
 恵の故郷はN県のはずれに在る、すぐ目の前にはT山脈が迫っているという田舎の貧しい町だ。昔ながらの小さな雑貨屋で生まれたのだが、兄が四人に姉も三人という、今では珍しい多兄弟の末っ子で、両親も忙しさにかまけて彼の世話にまではなかなか手が回らなかった。そのせいで充分な栄養を摂ることができなかったのか、それとも生まれつきの体質なのかはわからないが、学校へ行くようになってからもとりわけ小柄で線が細い児童だった。それでも天性のものなのか、体は人一倍柔軟だった。それもあり、体重が軽いことも幸いして、ひょっとしたら体が大きくなるんじゃないかという動機で中学から始めた体操では目覚ましい上達をとげることができた。恵の思惑通りに身長が伸びるといったことには残念ながらならなかったが、小さな田舎の学校からは初めてという県大会へも出場し、小柄な体からくるコンプレックスも次第に薄れようとしていた。
 そんなところへ現われたのが、恵が現在在籍しているE高校の体操部顧問の石田だった。県大会での恵の演技に目をつけた石田は、翌週には早速恵の経歴や家庭環境を調べ上げた上で中学を訪れたのだった。もちろんそれは、恵をE高校へ迎えるためのスカウト工作だった。E高校は比較的最近にできた私立高校で、各種のスポーツイベントで優秀な成績を収めることによってその名を広めようとしている最中だった。そのため、全国各地の中学から幅広くスポーツ選手を特待生として迎え入れ、クラブ活動のてこ入れを図っているのだった。そのターゲットの一人として石田が選んだのが恵だった。
 最初の頃こそ石田の申し入れに戸惑いをみせた恵だったが、冷静に考えてみれば、経済的な理由で高校進学をほぼ断念していた彼にとってこの誘いはひどく魅力的なものだった。結局、成績いかんによっては提携関係にある大学への入学も可能だという石田の言葉がダメ押しになって恵はE高校への入学を決意したのだった。
 そうして、親元を遠く離れ高校の寮での生活が始まったのが今から一年前のことだった。他のことには目もくれず、恵は体操漬けの毎日を過ごすことになった。それは自分の趣味でありながら、同時に生活の糧でもあった。体操を続け、優秀な成績を収めていれば、明るく輝く未来が約束されているのだ。
 そんな恵にとって、選手生命を断たれるということは即ち明日という日がなくなるということを意味する。いやそれどころか、このままE高校に在籍できるのかどうかさえ危ぶまれる状態に置かれることになるのだ――。

「……詳しく教えてください。僕の体、どうなっちゃったんですか?」
 両手で毛布の端を弱々しく握り、うなだれたように顔を伏せた姿勢で恵がポツリと言った。
「どう言えばいいかしらね……骨折とか筋肉の損傷とかじゃないんだけど……」
 美和は、折り曲げた人差指を顎先に添えるようなポーズで何かを考えるように話し始めた。
「体操もね……できないわけじゃないのよ。骨や筋肉に異常はないんだから、体は元通りに動かすことはできるの……でもね……」
 恵の頭が混乱してきた。今、美和は確かに『体は元通りに動く』と言ったのだ。『体操もできないわけではない』とも。それなのに、どうして復帰できないと言うのだろう?
 苛だたしげに美和の顔を振り仰ごうとした恵の耳に、ドアを開ける音が聞こえてきた。
 恵と美和が揃って振り向くと、大きく開いたドアから一人の看護婦が入ってくるのが見えた。
「あら、気がついたのね。よかったわ」
 ベッドの上に上半身を起こしてこちらを見ている恵の姿に気づいた看護婦はニコッと微笑んで明るく言った。
 その看護婦の姿を見た美和は、助かったとでも言うように軽く溜息をつくと、看護婦がベッドに近づいてくるのを待ちかねるように話しかけた。
「ちょうどよかったわ。ねえ河田さん、坂本君に容体を説明してあげてもらえないかしら……こういうことはやっぱり専門家からの方がいいと思うのよ」
「いいわよ、そういうことなら私にまかせてちょうだい」
 『河田宏子』と書かれた名札を白衣の胸元に付けた看護婦は美和の言葉を聞くと、軽く頷いて恵の顔を正面から見た。が、じきに何かを思い出したような表情を浮かべ、美和の方を振り返って言葉を続ける。
「あ、でもその前に、いつもの日課を済ませておかなきゃ……」
 言われた美和はふと自分の腕時計に目をやり、時間を確認して呟いた。
「あら、ほんとだ。もうそんな時間なのね……坂本君の意識が戻ったんで、てっきり忘れてたわ」
 美和と宏子は互いに目配せをすると、恵の顔近くから離れて脚の方へ歩いて行った。
 自分の容体について説明してもらえるものだとばかり思っていた恵は微かに不満を覚えながらも、美和と宏子が何をしようとしているのかが気がかりで、興味深い視線で二人を追いかけた。恵の視線に気づいた宏子は再び元の場所に戻って来ると、優しく枕を整えながらこう言った。
「体を起こしてちゃ作業ができないわ。しばらくの間、横になっててね」
 白衣姿の看護婦の指示というのは不思議な威厳に充ちているようで、宏子が何をするつもりなのか気になりながらも、彼女の言葉に従わざるを得ないような気分になって、恵はゆっくりと体を倒していった。それから、宏子が整えた枕に頭を載せながらポツリと訊いてみる。
「作業――いつもの日課って、何をするんですか?」
「それはね……」
 宏子は悪戯っぽく微笑むと、恵の足元で美和が準備していたらしい布を一枚つかみ上げ、恵の目の前に差し出して言葉を続けた。
「ほら、これよ」
 恵は、目の前に広げられた布をじっと見つめた。ブルーの染料で動物柄が描かれた柔らかそうな白地の布が輪のように縫い合わされたその形は、恵の頭にも微かな記憶として頭に残っていた。その記憶が言葉として胸の中に浮かび上がってきた時、恵は信じられない思いにとらわれた。しかし、すぐ目の前にある布は確かに記憶の中のそれと同じ物のようだった。
「これは……オムツじゃないですか。でも、どうしてこんな物が……?」
 恵は呆れたような声を出した。
「まさか、僕が……?」
「そう、その『まさか』なのよ」
 宏子は平然と応えた。
 その返答を聞いた恵は驚いたように口を開き、同時に、顔から火の出るような感覚に襲われた。
「そんなに恥ずかしがることはないわ。三日間も意識がなかったんだもの、その間の排泄物を処理するには仕方ないのよ。気にすることはないわ」
 赤く染まった恵の顔を見ながら宏子はそう言ったが、そんな言葉だけで納得できる訳もない。いくら意識がなかったといっても、その間、恵は赤ん坊のようにオムツを汚していたのだ。いくら医療行為だとしても、美和と同年配らしい宏子にお尻を持ち上げられ、オムツを取替えられる場面を想像するだけで屈辱と羞恥が心の中で激しい嵐のように吹き荒れるのを止めることはできなかった。
 そして、恵の顔が更に赤くなった――そうだ、宏子だけではない。おそらくは、美和もその手伝いをしていた筈だ。いくら小柄とはいえ赤ん坊ではない恵のオムツを取替える作業は看護婦一人では手に余るだろう。そういったことの手助けをするために、恵が病院に運ばれてから今までここに付き添っていたのではないだろうか。そうでなければ、いくらクラスを担任していない養護担当の教師とはいえ、他の生徒もいるのだからもう学校に戻らなければならない筈だ――三日間もの間、恵は若い女教師にオムツ姿を目の当たりにされ、汚れたオムツを取替えられていたのだ。
「さ、オムツを交換しちゃいましょ。そろそろ濡れてる頃だと思うわよ」
 宏子はわざとのように明るく言うと、手にしていた動物柄のオムツをたたみ直して美和の方へ歩いて行った。
 その言葉がきっかけになったのか、屈辱に充たされた恵の意識の一部が自然と自分の下半身に向けられた。そこにあるのは確かに、いつものブリーフの感覚ではなかった。それは、下腹部を包みこむような感覚と、なんとも重いような、表現のしようのない感覚だった。そして、よくよく感じてみれば、そこには宏子の言うように、なにやらジットリと湿ったような生温かい肌触りが混ざっている。
 不意に、足元の毛布が捲り上げられた。続いて、寝間着の裾をはだけようとする女性の手。それが、羞恥に充ちたオムツの取替えが始まる合図だった。
「や、やめてください!」
 宏子のものらしい柔らかな手が触れた瞬間、恵は再び上半身を起こして叫んだ。
「あら……どうかしたの?」
 恵の激しい口調とはうらはらに、宏子は落ち着いた声で言った。恵が何故そんな大声を出すのかわからないといった顔つきだ。
「……オムツを外すくらいのこと、自分でできます。だから、ちょっとの間、部屋から出ててもらえませんか?」
 さっきの言い方とはうってかわって、ボソボソと恥ずかしそうに恵が言った。
「いまさら何を言ってるの。これまでの三日間と同じことをするだけよ。これも私たちの仕事なんだから、患者さんが気にすることはないの」
「……でも……」
「ハッキリ言っておくわね――病院にいる間は私たちの指示に従ってちょうだい。それが病気や怪我を治す一番の早道だし、結局はあなたのためなのよ」
「……だけど……」
「だけど、なんなの?」
「……いえ、わかりました――看護婦さんの言う通りにします……」
 意外と強い調子の宏子の言葉に気圧されるように、恵は口の中でモゴモゴと答えた。その顔には、観念したような表情が浮かんでいる――結局、医療スタッフと患者との間には、それほどハッキリした力関係があるのだ。
「わかってくれたのね。恵君はとってもいい子だわ。じゃ、そのままネンネしててね」
 恵の言葉を聞いた宏子がコロッと口調を変えて、まるで幼児に言い聞かせるような言い方をした。
 一言の反論もできなくなった恵は唇を噛みながら小さく頷くと、軽く溜息をついてから体を倒した。
 宏子の手が再び恵の体に触れた。その手が恵の寝間着の裾を左右にかきわけるように動くと下腹部が少しばかり肌寒くなり、思わずブルッと体を震わせてしまう。視線を自分の足元の方に向ければ宏子と美和が何をしているのかが見えるのだが、彼女たちの作業を直視する気にはとてもなれず、恵はギュッと目を閉じた。
 そんな恵の様子をちらと見た美和は意味ありげに微笑むと、隣の宏子に向かって微かに頷いてみせた。それに対して宏子も小さく頷き返してから、恵のお尻を包みこむブルーのオムツカバーの腰紐に指をかけた。
 宏子が慣れた手つきで腰紐をほどき、ボタンを外してオムツカバーの前当てを静かに広げると、ぐっしょり濡れたオムツがあらわになった。意識を失っている間に洩らしてしまい、もうかなりの時間が経っている筈だが、恵の体温で温められていたせいか、オムツからは微かに湯気が立ち昇っている。
「あらあら、びっしょりだわ。気持悪かったでしょう? すぐに取替えてあげるわね」
 幼児をあやすように宏子がそう言うのを合図に、美和が恵の両足首をつかむようにして持ち上げた。そのまま力を込めると、恵のお尻が少し宙に浮く。
 その間に、恵の肌に貼り付いているオムツを宏子が丁寧に剥がしてお尻の下から取り除いた。そうする二人のタイミングは絶妙で、それは恵が想像したように、この三日間、美和がオムツの交換を手伝っていたことを明白に物語っていた。
 恵は閉じている瞼に更に力を入れ、奥歯をギリッと噛みしめた。だが、それと同時に、なんとなくホッとした思いも味わっていた。濡れたオムツの嫌な感触から開放されたためもあるが、意識が戻った今、もうこれでオムツを汚すという醜態をさらすこともなくなるんだと思うと、開放感のようなものを覚えるのだった――この濡れたオムツさえ外してもらえれば、あとは自分のブリーフを穿くことができるんだ。そうすれば、もう惨めな姿を美和に見られることもなくなる。
 だが、恵のそんな思いは無残に砕かれることになった。自分が汚してしまったオムツの感触がなくなるのと入れ違いに、柔らかな布の感触が伝わってきたのだ。その感触がシーツやブリーフのものではないことに恵はすぐに気がついた。そして気がつくと同時に、慌てて目を開き、自分の足元に立って作業を続けている二人に向かって戸惑ったような声をかけた。
「……な、何をしてるんですか……?」
 それに対して、宏子がごく自然な口調で応える。
「オムツを取替えてるだけよ。濡れたオムツを外した後に新しいオムツをあててるだけだけど……それがどうかしたの?」
 宏子が言うように、恵が感じた柔らかな感触は新しいオムツのものだった。
「でも……」
 恵は少しばかり口ごもりながらも、宏子に向かって抗弁した。
「……僕は意識を取り戻したんですよ。だからもうオムツなんて要らない筈です。新しく敷きこんだオムツ、すぐにどけてください」
「あら、そうかしら……?」
 恵の言葉を耳にした宏子が、微かに意地悪そうな表情を浮かべた。そして、ちょっとお願いね、と美和に向かって小さな声で言った後、ゆっくりと恵の頭の方へ歩いてきて言葉を続ける。
「さっきあなたの容体を訊かれて、まだ説明してなかったわね。いいわ、あとの作業は梶田さんにお願いして今から説明してあげる。そうすれば、意識が戻ったあなたにまたオムツをあてる理由がわかってもらえるでしょうからね」
 恵の顔が微かにこわばった――それじゃ、この看護婦は今までの惰性で僕にオムツをあてようとしてたんじゃないのか。何か理由があって、意識が戻った僕にまたオムツをあてようとしてるみたいだ。だけど、どんな理由があるっていうんだろう?
「鉄棒から床に墜落した後、意識を失うまでの間の記憶はある?」
 宏子は恵の顔のすぐ側に立つと、恵の顔を正面から覗きこむようにして喋べり始めた。その言葉に促されて、恵は床に背中を打ちつけてから後頭部を打って気絶するまでの光景を思い浮かべてみた。その時の光景が鮮明に頭の中に甦ってきて、恵は微かに頷いた。それを確認した宏子が言葉を続ける。
「レントゲン写真やCTじゃ、骨や筋肉に損傷は認められないわ。完全な健康体といってもいいくらいよ。でもね、一部の内臓に異常が見られるの――それは、膀胱なのよ。何か激しい衝撃を受けたようで、膀胱の筋肉が損傷してるのね」
 恵はハッとした。転がる体を止めようとして伸ばした脚が曲がり、自分の膝が下腹部を激しく打ったことを思い出したのだ。あの時の痛みといったら……。
「それに、神経の一部もダメージを受けてるようね。瞬間的な衝撃が膀胱の神経系統にも影響を与えて、脳との連絡がブロックされてるんじゃないかしら――もっとも、そのおかげで今は痛みも感じずにいられると思うけどね」
 恵の顔色が次第に蒼褪めてきた。宏子が何を言おうとしているのか、おおよその見当がついてきたのだ。
「私が言ってることがわかったかしら?――あなたの膀胱は正常に機能しなくなっちゃってるのよ。排泄のコントロールが効かない、生まれたての赤ちゃんと同じような状態になっちゃったの。だから、意識が戻ったとしてもオムツを外すことはできないの……」
「それが、あなたが体操を続けられない理由なのよ」
 宏子の言葉にかぶせるように美和の声が聞こえてきた。どうやら、恵のお尻を新しいオムツで包み終えて宏子の隣にやってきたようだ。
「続けようと思えば続けられるわよ。でも、競技中にオモラシをして困るのはあなた自身でしょう? それとも、オムツ姿で練習や競技会に出てみる?」
 恵は唇を噛みしめて小さく首を振った。
 病室に静寂が訪れた。

 その静寂を破ったのは、宏子のわざとのような明るい声だった。
「さあさあ、そんなに暗くならないの。お医者様も私たちも坂本君の体を元通りにするために頑張ってるんだから。きっと、今までのような体に戻れるわよ」
 その宏子の言葉に美和も大きく頷いてみせる。
 だが、恵の目は固く閉ざされ、耳は何も聞いていなかった。自分の置かれた状況が、まるで出来の悪い冗談のように思えたからだ。骨折やひどい怪我のために体操を続けられないというなら渋々でも諦めもつくだろう。学校関係者や世間の人たちも納得するに違いない。それが、五体満足なくせに、高校生にもなってオモラシをしてしまう恐れがあるからという理由で体操をやめなければならないのだ。こんなバカげたことがあるだろうか。
 それでも、宏子の次のような言葉が耳にとびこんできた途端、どこか遠くをさまよっている恵の意識が急速に現実に引き戻されることになった。
「ところで、梶田さん。坂本君の食事なんだけど――意識が戻ったことだし、今日の夕食からは他の患者さんと一緒に食堂で摂ってもらうことになるわ。付き添い、お願いできるかしら?」
 美和に向けられた宏子の言葉は、鋭い刃物のように恵の心に突き刺さった――他の患者と一緒に食堂で食事だって? それじゃ、オムツで不様に膨れたお尻をみんなに見られながら廊下を歩き、好奇の目にさらされながら食事をしなきゃいけないんだろうか? イヤだ、そんなの絶対にイヤだ。
 しかし、そんな恵の気持にも気づかぬように、美和はあっさりと応じた。
「いいわよ。いくら筋肉に損傷はないっていっても三日間も動かしていない手で食事をするのはつらいだろうから、私が手伝うわ」
「じゃ、お願いす……」
 お願いするわ、と言おうとした宏子の言葉は途中で遮られた。慌てたような早口で恵が口をはさんだのだ。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ――こんな格好で食堂まで行かなきゃいけないんですか? オムツが外せるようになるまで、この病室へ持ってきてもらう訳にはいかないんですか……?」
 さすがに『オムツ』と口にする時には恥ずかしそうにボソボソとだったが、それでも目は宏子の顔を正面から睨みつけながら恵は言った。
 が、宏子はそれをあっさりと拒否してしまう。
「それはダメ。この病院ではね、動ける人は自力で日常の生活を送ってもらうことになってるの。少しでも脚が動くなら車椅子じゃなく松葉杖で歩いてもらうし、手が動くならいくら時間をかけてもいいから食事は自分で摂ってもらう――それが方針なのよ。そうしないと、治る病気も治らなくなっちゃうわ。全ての生活がリハビリを兼ねてるんだと思ってちょうだい」
「でも……」
 恵は尚も抗弁しようとした。
 そこへ、たしなめるような美和の言葉が聞こえてくる。
「坂本君、我儘は言うものじゃないわ。ここにいる間は病院の方針に従わなきゃ。それに、食堂へ行くこと自体がイヤっていうんじゃなくって、オムツをあててるのが他の人にわかっちゃうのがつらいから部屋を出たくたいだけよね?」
「……そうです……」
 病院から支給された寝間着は裾の短いバスローブのような形になっているため、オムツをあてたお尻がぷっくりと膨れて見え、どうかするとオムツカバーの一部が見えてしまう恐れがあった。さきほどオムツを取替えられる時にそのことを確認した恵にしてみれば、この格好で人前に出ることなど、想像もできないほどの屈辱だった。
「そうなると思って、前もって用意しておいた物があるのよ。ちょっと見てちょうだい」
 美和はそう言うと、窓際に据えられているロッカーから、大手デパートの名が印刷された紙袋を取り出した。そして、紙袋の中からゴソゴソとつかみ上げた衣類を両手で広げてみせる。
「それは……」
 恵がポカーンと口を開け、唖然としたような声を出す。
 美和が恵の目の前に広げたのは、淡いピンクの生地にレースのフリルがあしらわれたネグリジェだった。もっとも、ネグリジェといっても、年頃の女性が身に着けるようなセクシーなものではなく、小学生か中学生の女児が着るような可愛らしいデザインのネグリジェだった。それはネグリジェというよりは、女児用の裾の長いパジャマといった方がお似合いかもしれない。
「これなら、オムツでお尻が少々膨れててもそれほど目立たないわよ。それに、裾がはだけちゃうこともないしね――坂本君の体格なら、窮屈じゃない筈よ」
 美和がにこやかな声で言った。
 それに対して、宏子もクスッと笑ってから賛同する。
「本当ね。そうしなさいよ、坂本君。せっかく先生が用意してくれたんだもの」
「……イヤです。そんな、女の子のパジャマなんて……」
 恵は思いきり首を振った。
 だが、互いに目配せを交わした美和と宏子は恵の拒絶を無視するように彼の前に立ちはだかると、体にかかっている毛布を強引に剥ぎ取り、寝間着の帯に手を伸ばした。恵は精一杯抵抗したが、三日間に渡って動かしていない手足には充分な力が入らず、元来が小柄なこともあって、二人の力には逆らいきれずに寝間着を脱がされてしまう。
 オムツカバー一枚の姿になった恵の体が不意に浮いた。美和と宏子が恵の体に手を回して抱え上げたのだ。
「な、何をするんですか……やめてください……先生、看護婦さん……」
 恵は手足をジタバタと動かしてみたが、じきに二人の手によって抑えこまれ、自由を奪われてしまう。
 二人は、抱え上げた恵の体をベッドの上からそっと運び出すと、静かに床の上に立たせた。そして、ピンクのパジャマを恵の頭の上からすっぽり被せ、裾を引っ張って形を整えた後、美和がボタンを留めてゆく。
 その後、恵の乱れた髪を美和が櫛で撫でつけると、そこには一人の少女の姿が現われた。やや長めの、ちょうど女の子のショートカット程度の恵の髪が顔の周囲を優しく覆い、パジャマの可憐なラインとあいまって、恵に少女のような雰囲気を与えている。
「できたわ――自分の目で見てごらんなさい。とっても可愛いいわよ」
 顔を伏目がちにし、体を小刻みに震わせている恵の背中を優しく押して、美和は彼をロッカーの前へ連れて行った。
 ロッカーの扉の裏側が姿見になっていて、その大きな鏡に恵の全身が映し出される。おどおどと目を上げた恵は、目の前に立っている少女の姿を見るなり、驚いたように息を飲んだ。そして、それが自分の姿だということがわかってくると、それまで蒼褪めていた顔が突如としてまっ赤に染まる。
 恵の発育不良は彼の体格のみならず、内分泌系統、特にホルモン系統にも少なくない影響を与えていた。そのため、恵は体が小柄なだけではなく、本来ならとっくに終了している筈の第二次性徴期をまだ迎えておらず、その体格も顔つきも、いたって中性的なものだった。それが、体操を続けてきたおかげで、柔軟であるとともに、引き締まったウエストや発育したヒップといったメリハリのきいた体つきになりつつあるのだ。それは一見したところでは、少女の体のように見えなくもない。そこへ女児用のパジャマを着せられ、ヘアスタイルをそれなりに細工されては、恵が男子高校生だと思う者は誰もいないだろう。
「へえー、本当にお似合いだわ。これなら、堂々と廊下を歩けるわよ」
 恵の体を、頭の先からつまさきまでゆっくりと眺め回していた宏子が感嘆の声を出した。そして、軽くウェーブのかかった恵の髪にそっと触れてみようとしながら、ハッとしたような表情を浮かべると、慌てて腕時計に目を遣って独り言のように呟いた。
「いけなーい、他の病室も回らなきゃいけないんだったわ……あらあら、急がなきゃ」
 駈けるようにして室内を移動し、ドアの前に立った宏子はノブを回そうとして不意に恵の方を振り返って言った。
「夕食の用意ができたら呼びに来るから待っててね――もっとも、その前にオムツを取替えに来なきゃいけないんだっけ?」
 恵は恥ずかしさに体を震わせながら顔を伏せた。




 宏子が再び病室を訪れたのは午後五時を少し過ぎた頃だった。四時前に一度オムツを取替えに来て、今度は夕食の用意ができたことを報せるためだ。
 さ、行くわよと美和と宏子に促された恵だが、いよいよ部屋から出るのかと思うと気分が重くなった。女児用のピンクのパジャマを着せられ、しかもその中にはオムツをあてられている格好で他人の中に入って行くのだから、それも当然のことだろう。とはいえ、いつまでもこのままではいられない。いずれは空腹に耐えかねて食堂へ向かうことになるのは明らかなのだ。
 恵は重い腰を上げると、先に廊下へ出た二人に従ってトボトボと歩き始めた。左右の足を動かす度にオムツカバーがキュッキュッと音をたてているように思え、自然と歩幅が小さくなってしまう。そのために恵はいつしか遅れがちになり、二人との間隔が広がった。それに気づいた二人は足を止め、恵がペタペタとスリッパの音をたてながら歩いてくるのを、まるで母親が幼児に対してそうするような表情で見守っていた。そして、やがて恵が追いつくと、美和が突然彼の手を握りしめ、優しく手を引いて歩き始めるのだった。恵は、高校生にもなって手を引かれることに強い羞恥を覚えながらも、あまりかまってもらえなかった母親の手もこんなだったんだろうかとふと思いつき、春の光のような暖かな何かが胸の中に充ちてゆくのを同時に感じていた。
 廊下の突き当たり近くにあるドアの前で、ここよというように宏子が立ち止まり、指差してみせた。そのドアには『小児科入院患者専用食堂』と書かれたプレートが貼ってあり、プレートの周囲には動物のイラストがいくつも描かれている。
「小児科……?」
 恵は思わず美和の手を振りほどくと、宏子に向かって問いただした。
「……僕が入院してるのは小児科だったんですか?」
「そうよ。あら、言ってなかったっけ?」
 恵の問いかけに、宏子が逆に問い返してくる。
「ええ……初耳です」
「そう――他の病室がどこも満室でね、たまたま小児科のあの病室が空いてたのよ。それで、坂本君は形式的には小児科の入院患者ってことになってるの……でも心配しないでね。お医者様はちゃんと泌尿器科の先生が担当してくださってるから」
「……じゃ、食堂も泌尿器科の方の食堂へ行かせてもらえませんか? その方が落ち着いて……」
「まあまあ、固いことは言わないで――子供たちと一緒に食事するのもわるくないわよ。へんに大人たちと食べるより楽しいわ」
 宏子はそう言うと、恵の返事も聞かずにドアを開けた。その途端、食堂の中からは賑やかな声が溢れ出す。
 宏子は、それまで美和が引いていた恵の手を今度は自分が引いて食堂へ引き入れ、いくつかのテーブルを囲んで座っている子供たちに向かって声をかけた。
「みなさーん、今日からお友達が一人増えます。よろしくねー」
 その声を聞いた子供たちは、めいめいのおしゃべりを中断すると、ドアの前に立っている恵に視線を向けた。
 そこへ、宏子が言葉を続ける。
「新しいお友達を紹介します。名前は――坂本メグミちゃんです。隣にいるのはメグミちゃんのお姉さんで、付き添いをしてくださってます。みんな、仲良くね」
 はーい、という子供たちの返事が聞こえてくる中、恵は慌てて宏子に向かって小声で訊いた。
「どういうことですか? 僕の名前は『恵』と書いて『めぐむ』ですよ。『メグミ』なんかじゃありません。それに、梶田先生は僕の姉なんかじゃ……」
「これでいいのよ。考えてもごらんなさい――こんな可愛いいパジャマを着た男の子がどこにいるもんですか。もしもあなたが男の子だってことになったら、どうして女の子のパジャマを着てるんだろうって怪しまれるわよ。そうなったら、オムツのことがバレちゃうんじゃないかしら? それに梶田さんのことも、学校の先生っていうよりは実のお姉さんってことにしておいた方が自然だと思うわ」
 宏子は、元気よく返事をする子供たちを優しい目で見つめながら、恵が逆らえないような強い調子で口早に応えた。
 恵は助けを求めるように美和の方を振り返った。だが美和も、宏子の言う通りだとでもいうように澄ました顔で子供たちに会釈をしている。
 恵は観念したような表情で唇を噛みしめ、改めて正面を向いた。その途端、一番近くのテーブルに座っていた少女が椅子から立ち上がり、恵のすぐ前までやってきて言った。
「私は井上京子っていうの。小学六年生でこの中じゃ一番年上だから、わからないことがあったらなんでも訊いてね――でも、メグミちゃんも背が高いわね。私と同い年くらいかしら?」
 いくら恵が小柄とはいっても小児科の患者の中では大きい部類に属するのは当然だ。しかし、いくらなんでも恵が高校生だとは思わないだろう。それに加えて、大人への変貌が充分でないあどけない顔つきも、京子に恵を自分と同じ年くらいと判断させる大きな原因になっていた。
 恵は決心を固めざるを得なかった――この病院に入院している間は、僕は小学六年生の女の子になりきらなきゃいけないんだ。そうしないと、高校生にもなってオムツが離せないことをみんなに知られてますます恥ずかしい目に遭うことになるんだから。
 恵は、京子に向かってこわばったような笑顔をみせて小さく頷いた。

 恵と美和を紹介し終えた宏子が食堂から出て行った後、恵は京子の隣に座ることになった。入院や退院が繰り返されるうちに、どういう巡り合わせでか京子と年齢の近い子が今は全くいなくなって、彼女のすぐ下といえば三年生の男の子になってしまったため、同年配(と彼女は信じている)のメグミをひどく気に入ってしまった京子が強引に席を作ってしまったからだ。
 京子があれこれと話しかけてくるのに適当に相槌を打っている間に、配膳係のおばさんが食事を載せたトレイをテーブルの上に並べてゆく。それぞれの年齢や容体に合わせたメニューになっているらしく、どのトレイも同じものは一つとしてないようだった。恵の前に置かれたトレイにはプラスチック製の食器がいくつか載っていたが、そのどれもがアニメキャラクターの描かれた可愛いい皿やお碗だった。しかもその食器に盛ってあるのは野菜のペーストやスープ、魚のパテといった、まるでベビーフードのようなものばかりで、御飯や歯ごたえのありそうなオカズは全く見当らなかった。
「ねえ、せんせ……姉さん」
 先生と言いかけたのを慌てて訂正して、恵は横に立っている美和に呼びかけた。
「どうしたの、メグミ?」
 美和はごく自然に『メグミ』と呼びながら顔を寄せてくる。
「……あのさ、このトレイ、誰かのと間違ってるんじゃないかな? だってこれ、どう見たって小さな子向けのメニューと食器だよ」
 それに対して美和はにこやかに笑いながら軽く首を振ると、トレイの隅の方を指差した。そこには、確かに『坂本恵』と書かれたシールが貼ってある。
「意識を失ってる間はずっと点滴と流動食だったのよ。それが急に固い物を食べたんじゃ、お腹がビックリしちゃうでしょ? だから、柔らかい食べ物から始めてゆっくりと普通の食事に馴らしていくのよ。わかった?」
「……ああ、そうだったの? でも食器の方は……」
 美和の説明でメニューは納得した。だが、食器は普通のものでもいい筈だ。
「さっき配膳係のおばさんから聞いたんだけど、メニューを見ててっきり幼児が食べるものだって思いこんじゃったらしいの。それでこんな食器を用意したらしいのよ。ま、仕方ないわね」
 美和がクスッと笑いながら応える。
「じゃ、明日からは別の食器と取替えてもらえるね……?」
「この病院じゃね、食器はめいめいに決まってて他人のは使わないそうなの。そりゃ、その方が衛生的だものね。だから、メグミの食器は退院するまでこれよ」
「そんな……」
 恵は不満そうな表情を浮かべた。ただでさえオムツとピンクのパジャマを着せられて女の子として生活するという屈辱を味わっているのだ。この上、食事の時にまで幼児のような食器を使うことになるなんて……。
 そこへ聞こえてきたのが京子の声だった。
「メグミちゃん、そんな我儘言ってちゃダメよ。病院は自分のお家じゃないのよ。小っちゃな子でもいろいろガマンしてるんだから、メグミちゃんもガマンなさい」
 それは、優しいながらもどこか威厳のある、妹に言い聞かせる姉のような口調だった。どのくらいの期間かはしらないが、この小児科の最年長者として生活してきて、知らず知らずのうちに子供たちの間のリーダーとしてふるまってきた京子の言葉は、すこぶる説得性に富んでいた。
 恵は顔を火照らせて黙りこんだ。男子高校生の自分が小学生の女の子に説教されてしまったという思いが恵の自尊心を微塵に打ち砕こうとしていた。
「わかったわね、メグミちゃん?」
 黙りこんでしまった恵を気遣うように、京子が今度は優しく言った。
 反射的に、恵は小さく頷いた。
 それを見た京子が促して言った。
「それじゃ食べちゃいましょう。せっかくのお料理が冷めちゃうわ」
 京子がお碗と箸を取り上げた。それにつられるように恵もスプーンを手にする。
 恵はまずスープをすくおうとしてスプーンを皿に入れた。それをそっと持ち上げたまではいいのだが、スプーンにすくったスープが見る間にこぼれてゆく。
 何度やっても同じだった。いくらすくっても、口元へ運ぶ前にスープをこぼしてしまうのだ。こぼれたスープの大半は皿に戻るが、一部はテーブルクロスやピンクのパジャマに小さな滲を作っている。
 恵は、自分が手にしているスプーンをじっと見つめた。と、銀色に光るスプーンが小刻みにプルプルと震えているのがわかる。いくら手に力を入れてみても震えは止まらない。
「やっぱりムリみたいね」
 そう言うと同時に美和が手を伸ばし、恵が持っているスプーンをサッとつかみ取った。恵の視線が美和の手を追いかける。
 その視線が美和の顔に向けられると、彼女はこう言った。
「手の筋肉がまだ自由に動かないのよ。意識を失ってる間は殆ど動かしてないもの、仕方ないわ。じきによくなるだろうけど、今日はまだムリみたいね――私が食べさせてあげるから、ほら、アーンして」
 そして、スープをすくったスプーンを恵の口元にゆっくりと持って行くのだった。 ほのかに湯気のたつスープの匂いに鼻孔をくすぐられて、自分が空腹であることを改めて思い出した恵の口が自然と開いた。そこへ、美和がスプーンを差し入れる。少し塩からいコンソメ風味の味が舌の上に広がり、芳醇な香りが口の中に充満する。恵は、思わずウットリするように目を閉じた。
 その瞬間、美和がスプーンをすっと引き抜いた。予期していないタイミングで唇が開いたため、舌の上のスープがこぼれ出る。恵は慌てて口を閉じたが、もう遅かった。唇の端からこぼれ出たスープは頬を伝い、顎先から胸元へと滴った。
 美和は急いでスプーンをトレイに戻し、ポケットから取り出した布で恵の唇から顎へと丁寧に拭っていった。そして、パジャマの胸元まで拭き終わった美和は、手にしていた白い布をしばらく見つめた後で、それを静かに広げ始めた。
 美和が両手で広げてゆくにつれ、それがタオルやハンカチなどではないことがハッキリしてくる。それは、小さな花のアップリケがいくつもあしらわれた吸水性の良さそうな柔らかな生地でできていて、周囲がフリルで縁取りされ、四隅には長い紐が縫い付けられていた。
「そんなに食べ物をこぼしちゃうんじゃ、これが要るわね。念のために用意しておいてよかったわ。さ、ヨダレかけを着けてあげるからじっとしてるのよ」
 美和が言うように、彼女がポケットから取り出したのは大きなヨダレかけだった。美和は恵の返事も待たず、あっという間にそのヨダレかけを恵の首に巻き付け、長い紐を強く結んでしまう。
 恵はヨダレかけの紐をほどこうとしたが、スプーンを持つのさえおぼつかない手でそんな細かい作業ができる訳もなかった。そうしている間にも美和がスプーンを押しつけてくる。ヨダレかけを着けた幼児のような格好で他人の手から食べ物を与えられる恥ずかしさに、恵は唇をギュッと閉じたままだった。それでも、美和は意地悪くスプーンを押しつけるのをやめない。当然の結果として、スプーンの中のスープは恵の口に入ることなく、彼の唇を濡らしただけでヨダレかけに吸いこまれていった。
 その様子を興味深そうに見守っていた子供たちの一人が大きな声で言った。
「メグミちゃん、まるで赤ちゃんみたいだ」
 その声につられるように笑い声がおこり、『メグミちゃんは赤ちゃん』『メグミちゃんは赤ちゃん』とはやす声が何度もあがった。
「みんな、からかうのはやめなさいよ」
 京子だけはそう言って恵を庇おうとしたが、子供たちはますます声を大きくしてからかい続けた。
 パジャマの裾から出ている両脚をまっ赤に染めた恵は両手で耳を覆い、美和の体をはねとばすようにして立ち上がると、一目散に廊下に駈け出した。




 太陽の眩しい光が、洗濯物を取りこむ美和の影をコンクリートの上にクッキリと写し出している。美和は微かに目を細めて青い空を振り仰いだ後、屋上の物干し場に張られたロープから、風に揺れる洗濯物を取りこみ続けた。
 彼女が持ってきたカゴは、動物柄や水玉模様のオムツ、ブルーやピンクのオムツカバー、それにヨダレかけや可愛らしいパジャマといった洗濯物ですぐに一杯になってゆく。それらはもちろん、恵が汚した物ばかりだった。
 美和は水玉模様のオムツを目の前で広げてみた。太陽の光を受け、お日様の匂いを吸収したそのオムツからはなんとも優しい香りがたちこめているようだった。美和はその香りを感じながら、まだベッドの上で眠り続けている筈の恵の顔を思い浮かべてみた。
 昨日の夕食の時、入院患者の子供たちにからかわれた恵は逃げるようにして自分の病室に戻り、ベッドにもぐりこんだのだった。心配した美和がいくら呼びかけても返事もせず、かといって眠ってしまったようでもなかった。様子を確認するために毛布を剥ぎ取った美和が見たのは、子猫のように怯えた顔で体をガタガタと震わせている恵の姿だった。目だけが妙にギラギラと輝きながらも、美和が毛布を剥ぎ取ると、今度はシーツの中へでももぐりこもうとする、一切の他人の目から逃れようと怯える恵だった。
 ナースコールのボタンを押した美和が見守っている間も恵は瘧にでもかかったように震え続け、何かの物音が聞こえる度にビクッと体を震わせていた。そんなだから、医師が鎮静剤の注射をする時にも大変な騒ぎだった。どこからこれだけの力が出てくるのか不思議に思えるほどの力で抵抗し、三人がかりで押さえつけるのがやっとだった。それでも即効性の鎮静剤の効き目はたいしたもので、注射をしてものの二分も経たないうちに恵の目が閉じていった。
 そしてその後、朝になっても、お昼を過ぎた今になっても目を醒ます気配はなかった。おそらく、美和が洗濯物の入ったカゴを抱えて病室に戻っても、まだこんこんと眠り続けていることだろう。

 病室のドアを開けた美和の目に、ベッドの横に立っている少女の姿が映った。
「あら――京子ちゃんだったわね。どうしたの?」
 美和は改めてドアをノックしてから、心配そうな表情で恵の顔を覗きこんでいる京子に声をかけた。
「ああ、お姉さん。メグミちゃん、どうなんですか? 昨日、食堂からとび出したきり、今朝の朝食にもさっきの昼食にも来ないから心配になって……。みんなにも注意しておいたから、もうあんなことはありません。だから、もう一度仲良くごはんを食べましょうって言いにきたんです……」
 京子は真剣な表情で応えた。心なし、顔が蒼褪めているように見える。
「そう――わざわざ来てくれたのね、ありがとう。京子ちゃんがそう言ってくれて安心だわ。今はお薬で眠ってるけど、じきに落ち着いてみんなと仲良くできると思うわ。その時はよろしくね?」
「はい、わかりました……あの、それ、メグミちゃんの洗濯物ですか?」
 京子は安心したように微笑んでみせると、美和が抱えたままのカゴに視線を向けて言った。
「ええ、そうだけど……」
「あの……今からたたんでしまうんだったら手伝わせてもらえませんか?」
 ちょっとはにかんだ表情で京子が言った。
「え……でも、どうして?」
「なんていうか……お詫びの気持です。昨日あんなことになったお詫びをしたいんです」
「でも、京子ちゃんのせいじゃないわ……」
 美和は京子の申し出を断わろうとした。あれは京子が引き起こした騒ぎではなかったし、それに、この洗濯物を見られては恵の秘密がバレてしまうのだ。
「だけど、お願いです。お手伝いさせてください。みんなを代表して私がお詫びをしたいんです。だから……」
「そう……じゃ、お願いしようかしら。でも、ちょっとおかしな洗濯物も混ざってるけど、みんなには内緒にしておいてもらえる?」
 少し考えてから美和が言った。まだ小学生だというのにしっかりと自分の考えを言う京子の性格に好意を抱いたこともあるし、その熱意に負けたこともある。そしてもう一つ、『ひょっとしたら、この子は利用できるかもしれないわ』と思いついたのも事実だった……。



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