女医・笹野深雪  〜白衣をまとった甘い陥穽〜




女医・笹野深雪  〜白衣をまとった甘い陥穽〜 (1)

高木かおり



 最初はためらいがちに一度だけ鳴ったインターフォンのコール音が、さして待つ間もなく、今度は二度三度と続けざまに聞こえてきた。
 ゆっくりと昼食を摂った後でカルテの整理に取りかかっていた笹野深雪が前髪をかき上げながら椅子を立つのと、浜野美香がインターフォンのハンドセットを取り上げるのとが殆ど同時だった。
「すみません、土曜日の午後は休診になってるんですけど」
 美香はハンドセットを耳に押し当てると、事務的な声で言った。けれど、すぐに、なんだか困ったような様子で言葉を続ける。
「え? ええ、でも……そう言われてましても、あの、少しお待ちいただけますか」
 途中で言葉を濁した美香は、助けを求めるみたいに深雪の後ろ姿を見上げた。
「どうしたの?」
 カルテの整理棚に向かって歩きかけていた深雪が脚を止めた。
「あの、患者さんみたいなんですけど、土曜日だから午後は休診ですと言っても、どうしても診てほしいっておっしゃって……」
 美香はハンドセットのマイクの部分を掌で覆うようにして言った。
「そう。でも、うちは救急指定じゃないしね。どこか、よその病院へ行ってもらって」
 それだけ言うと、美香の方に振り向きもしないで深雪は再び歩き出そうとする。
「だけど、本当にいいんですか?」
 なんとなく媚びを売るみたいな口調で言った美香は、一呼吸置いてから、笑うような声で続けた。
「若い男の人みたいですよ?」
 深雪の脚が、今度こそぴたっと止まった。
 そうして、くるっとこちらに向き直る。
「どんな男の子?」
 細いフレームの眼鏡の奥に両目をらんらんと輝かせて、深雪は、壁にかかったインターフォンの本体を覗きこんだ。
 インターフォン本体の真ん中あたりが小さなモニターになっていて、外の様子が映し出されている。もちろん、インターフォンを通して美香と話している相手の姿も。
「ふぅん」
 かなり苦しんでいるのだろうか、顔をうなだれているせいで、頭の上から背中までしかモニターには映っていない。それでも、さらさらの髪の毛と少し小柄で華奢な体つきだけははっきり見てとれる。深雪は興味深そうな声を出すと、美香の手からハンドセットを奪い取って言った。
「院長の笹野です。どうしました?」
 その声に、相手は苦しそうに顔を上げた。
『……お腹が痛くて……もう動けないんです……お願いだから診てもらえませんか』
 ハンドセットのスピーカーから聞こえる声は、今にも泣き出しそうだった。
 だけど深雪の心を動かしたのは、相手のそんな切羽詰まった声なんかではない。深雪の心をとらえたのは、訴えるように振り仰いだ男の子の顔だった。
 ジャニーズ系の、それもV6の森田剛みたいな少しお笑いが入ったキャラクターじゃない、キンキキッズの堂本光一みたいな、こんな男の子がいるのかと少しびっくりしてしまうような綺麗な顔。そんな整った顔が苦痛に歪み、脂汗を浮かべて涙目になって深雪に助けを求めている。
「すぐに玄関の鍵を開けます。少しだけ待っていてください」
 深雪は美香にそっと目配せすると、意味ありげな笑みを浮かべて言った。





 笹野内科医院は、人通りの多い場所にあるわけではない。ありていに言って、もう殆ど町外れの、いったいどうしてこんな場所を選んだのかと訝しんでしまうような所にぽつんと建っている。そんなだから、あまり患者も来ない。日に5人も来ればいい方だ。
 普通に考えれば、そんなことで経営がうまくゆく筈がない。
 ところが、笹野医院が閉院しそうだという気配は微塵もない。
 ということは、つまり、この医院が普通の医療機関ではないということだ。
 もっとも、町の住人たちが笹野医院の存在に疑惑を抱いたことはない。随分と辺鄙な所に建てたものだと不思議がりはしても、ま、そんな物好きな医者もいるのだろうというくらいにしか感じていない。
 笹野医院が特殊な医院だということを知っているのは、《慈恵会》の中の、ほんの一部の幹部だけだった。
 慈恵会は、五つの総合病院を経営している、全国的にも名の知れた医療法人だ。その慈恵会の理事長は笹野秀和――女医にして笹野医院の院長を務める笹野深雪の父親だ。けれど、だからといって、笹野医院が慈恵会の直営医院という訳ではない。慈恵会が五つの総合病院とともに経営している幾多の大小さまざまな医療機関のリストの中に、笹野内科医院の名前はない。
 深雪の二人の兄は、そろって、慈恵会が経営する総合病院の院長に若くしておさまっている。なのに、そんな二人と血を分けた深雪だけが、系列に入っていない小さな医院しかまかされていない。――それこそが、笹野医院の特殊性だった。
 深雪の医師としての資質が二人の兄に比べてひどく劣っているために大きな病院をまかされなかったのか? そんなことはない。劣るどころか、深雪の外科手術の技術と診たての正確さは二人の兄よりも勝れていた。では、経営者としての素養に恵まれていなかったのか? けれど、それは二人の兄も同様だった。そんなことは問題にもなりはしない。実際の病院経営は副院長なり事務長なりふさわしい人間に全てまかせて、自分たちは何もしなくていい。要するに、お飾りだ。
 では、なぜ、深雪だけが? ――その理由は深雪の心の中にあった。医師としての資質でもなく、経営者としての素養でもなく、しかし理事長たる父親が彼女にだけは大病院をまかせることができなかった理由。それは、深雪の心に巣くう、少しばかり病んだ部分のせいだった。
 深雪の外科手術の技術が二人の兄を凌ぐのは事実だ。だけれど、その技術は安定しなかった。医局時代の彼女は、経験を積んだ外科医でさえ舌を巻くような腕の冴えをみせるかと思えば、少し慣れてきた研修医でもしでかさないようなミスをすることもあるといった、いったいどちらが本当の深雪なのかわからないような、ひどく不安定な存在だった。それがどういうことなのか、深雪の指導医にもつかみきれないほどに。その報告は、もちろん、笹野秀和のもとにも届いていた。そうして、自身が優れた精神科の医師でもあった秀和が細心の注意をはらって愛娘の精神分析を行なった結果、深雪の心の奥深い所に巣くっている普通ではない部分をみつけてしまったのだった。それがどのような原因でそうなってしまったのか、はっきりしたことはわからない――いくつかの推測はできたけれど、そうだと断定することは難しかった。それに、20歳台の半ばという年齢に達した深雪だ。心の中に歪みがあることをみつけたとしても、もう今更、その歪みを矯正することが殆ど不可能だということも、秀和の精神科医としての冷徹な目は見抜いていた。
 だから。
 だから秀和は、慈恵会とは関係のない――少なくとも表向きは関係のない――小さな医院を建て、深雪をそこに押し込めてしまうことにした。本当なら、深雪の医師免許を剥奪してしまいたかった。けれど、もしも強引にそんなことをして、その理由が世間に知れ渡りでもすれば、慈恵会の名に傷が付くことは明白だった。名門・笹野の名を守るためには、深雪の心に巣くった病的な部分を知られるわけにはいかなかった。それに、医療の世界とは全く関係のない世界に深雪を置いたとしても、それで全てがうまくゆくわけでもないことを秀和は直感していた。むしろ、少しくらいは医療業務にたずさわっていた方が落ち着く――深雪の心の奥深い所にある歪みがさほど凶暴にならずにすむ――だろうという確かな予感があった。だからこそ、なるべく小さな町の、それも町外れを選んでこじんまりした医院を建てて、そこに深雪を押し込んでしまうことにしたのだった。それも、ちょっとしたミスが致命的な結果を招きかねない外科ではなく、内科の医師として。
 これでわかっていただけたと思う。
 日に数人しか患者の来ない流行らない医院が経営に行き詰まることなくこれまでやってこられたのは、いささか不透明な会計操作によってひねり出された少なからぬ資金が慈恵会から笹野医院に流れ込んでいるからだった。少なからぬ金額。しかしそれは、秀和にとって、慈恵会と笹野の家を守るためには些細な額でしかなかった。
 そう。笹野内科医院は、笹野深雪をおとなしくさせているために父親が与えた、少しばかり高価な玩具だった。

 そして、今。
 その笹野内科医院に若い男性が招き入れられようとしていた。





 少し苦しそうに僅かに前かがみになった姿勢で診察室の椅子に腰をおろした男性の表情は、けれど、やっと医師の治療を受けられることに安堵したためか、インターフォンのモニターに映し出された時に比べれば随分と穏やかになっていた。
 健康保険証によれば、男性の名は清水祐一。年齢は22歳で、町の中心部にある大学の4年生だった。
「症状は腹痛でしたね。原因に心当たりはありますか?」
 着ていたトレーナーを脱いで裸になった祐一の上半身のあちらこちらに聴診器を押し当てながら深雪は訊いた。
「あ、あの、今朝食べたサンドイッチがひょっとしたら……」
 ひんやりした聴診器の肌触りに思わず顔をしかめながら祐一は小さな声で応えた。
「いつのサンドイッチ?」
 呼吸音に妙なノイズは混ざっていないようだった。聴診器を白衣のポケットにしまいこみながら深雪は重ねて訊いた。
「ええと……たしか、買ったのは一昨日だったかな」
 少し間を置いて、自信なげな祐一の声が返ってくる。
「一昨日ですって!?」
 呆れたような表情を浮かべて、深雪は祐一の顔を見おろした。
 祐一は最近の若い男性としては随分と小柄だった。身長は160cmあるかないかというくらいだろうか。全体の雰囲気も華奢で、痩せぎすというのではないけれど、あまり筋肉もついていない、どちらかといえば女性的な感じさえする、細っこい体つきをしていた。だから、170cmの身長で、しかも、医院と同じ敷地内にある自宅のフィットネスルームで連日のように汗を流している深雪にそうやって見おろさると、たじろぐみたいにして思わず体をひいてしまう。
「え、だから、あの、買った日に食べるつもりでバッグに入れて研究室に行ったんだけど、実験で予想外の結果が出てきて、そのままばたばたしてて、それで、そのまま研究室に泊まり込みになって、今朝になってやっと自分のアパートに戻って、その時になってバッグの中に入れておいたのを思い出して、あの、捨てるのももったいなくて……」
 おどおどした口調で、まるで言い訳するみたいに祐一は説明した。
「それで、食べたの? 丸二日間以上もバッグに入れっぱなしになっていたサンドイッチを?」
 深雪は今にも溜め息をつきそうな顔になった。
 「あの、だって、徹夜明けでアパートに帰ってきたのはいいけど、近くにコンビニなんてないし、だから……」
「わかりました。多分、食あたりでしょうね。吐き気や下痢はどう?」
 深雪は祐一の言葉を遮った。
「サンドイッチを食べて少ししたらお腹が痛くなってきて……そのままトイレに一時間くらい閉じこもりきりになってました。それで、下痢がちょっとおさまった時、慌てて下痢止めの薬を服んで、それで下痢はなんとか止まったんですけど、吐き気はなかなかおさまらなくて……最後は胃液しか吐く物がなくなったのに、それでも吐き続けて、とうとう胃液に血が混じり始めて、それで怖くなってここへ来たんです。――アパートの近くっていったら、ここしかお医者さんがいなくて」
「今は?」
「あ、今は少しはマシです。まだお腹は痛いけど」
 祐一の言い方は、まだ、なんとなくおどおどしていた。それとも、それが祐一の元々の話し方なのかもしれない。
「そう。吐く物を吐いちゃって、体も落ち着いてきたみたいね。腹痛の方は、ひょっとしたら軽い胃痙攣かもしれない」
 深雪は新しいカルテにペンを走らせながら言った。それから、不意にカルテから顔を上げて短く言った。
「左手を出して」
「え?」
 何を言われたのかわからずに、祐一は頼りない声で訊き返した。
「左手を出すのよ、こうやって」
 要領を得ない祐一の左手を無造作につかんで、深雪は自分の方に引っ張った。そうして、素早くつかみ上げたコットンを祐一の左手首の内側に押し当てた。
 アルコールの匂いが鼻をついて、手首の内側がひやりとする。
 気づいた時にはもう、深雪は注射器を手にしていた。
 あっと思う間もなく、ちくりとした痛みが祐一の左手に走った。
「じきに腹痛もおさまるわ。――子供じゃあるまいし、なにを蒼い顔してるのよ」
 手早く注射器の針を祐一の手首から抜き、そのあとを消毒用のコットンでおさえて、なんだかおかしそうに深雪は言った。突然の注射に怯えてしまった祐一の、子供のように蒼褪めた顔色を面白そうにみつめて。
「うふふ。でも、そんな顔もとても可愛いいわよ、清水君」
「え、あの、からかわないでください」
 蒼かった顔を今度は赤く染めて、どぎまぎしたような表情で祐一は言った。
「あら、からかってなんかいないわよ。本当のことなんだから。ね、浜野さん?」
 深雪は注射のあとを確認してから、すぐそばに立っている美香に同意を求めた。
「そうですね。男の子にしておくのがもったいないくらい可愛いい顔ですものね。それに、実際の齢よりも若く見えるし」
 美香もくすくす笑いながら、ナースキャップを揺らして小さく頷いた。
 祐一が恥ずかしそうに顔を伏せた。
 途端に、お腹がグルグル鳴り始める。
 注射のおかげで胃のあたりの痛みはおさまりかけてきたものの、それよりももう少し下――腸のあたりに不快感がある。
 祐一のお腹が鳴る音を耳にした深雪は表情を引き締めると、掌を祐一の下腹部に押し当てた。
「下痢止めを服んだって言ったわね?」
「あ、はい」
 急に不安そうな顔になって祐一は体を固くした。
「お腹を冷したとかの下痢ならそれでもいいんだけど、食あたりや食中毒が原因の下痢だと、却って良くないことになるのよ。食べた物に含まれていた菌が体から排泄されずに、腸内で増殖する場合が多いから」
「……」
「お腹の中をきれいにしましょう。胃洗滌はいいから、とりあえず、腸の中を空っぽにしないといけないわね。――浜野さん、処置室に案内してあげて」
「はい、先生」
 美香はにこやかな顔で頷いた。
 そうして、脱衣篭から取り上げたトレーナーを祐一に手渡してから、先に立って歩き出す。
「こちらへどうぞ」
 美香は診察室のドアを押し開けて、のろのろとトレーナーの袖に腕を通している祐一に言った。
「あ、はい」
 言われて、祐一も慌てて椅子から立ち上がる。
 それを見てから、美香は念を押すように深雪に言った。
「処置室で腸の内容物の処置ですね、先生」
「そうよ。間違いのないように準備をしておいてね」
 深雪は、まるで舌なめずりでもしそうな口調で、わざとみたいに言葉の一つ一つを強調して言った。だけど祐一には、そんなことに気づくようなゆとりもない。





 処置室は廊下の奥にあった。
 廊下の突き当たりにドアが二つ並んでいて、それぞれに、《内科処置室》というプレートと《小児科処置室》というプレートがかかっている。
 美香は内科処置室のドアを開けると、軽く背中を押すようにして祐一を招き入れた。
「ここ、小児科もやってるんですか」
 若い看護婦と二人きりになって少し気づまりになった雰囲気をやわらげるつもりで、祐一は何気なく訊いた。
「そうですよ。だいたい、どこでも、内科と小児科を兼てるところが多いみたいですね。患者さんのニーズも多いし、診療内容にしても、内科と外科みたいに全然違うということはありませんから」
「ふーん」
 祐一は気のない返事をした。もともと、興味があって訊いたことではない。何か話していないと落ち着かないから、それだけで口にしたことだ。
「今、明かりをつけますね」
 祐一の興味なげな返事を気にとめる様子もなく、美香は相変わらず明るい声で言った。
 と同時に、天井の蛍光灯が眩く輝いた。
 廊下の突き当たりで、しかも窓もないせいで薄暗かった室内を光が満たした。





それは、殺風景な部屋だった。
 室内に何もない訳ではない。厳重に鍵をかけた頑丈そうな薬品棚や器具庫、消毒液を満たすのだろう純白の容器、それに、診察室に置いてあったのとはまた違った形の寝台などといった器具は備えてあったけれど、その無機質で冷たい光が、却って、何もないがらんとした部屋よりもむしろ殺風景な印象を与えているみたいだ。
「それじゃ、そこの処置台に横になってください」
 なんとなく気圧されたようにその場にたたずんでいた祐一に向かって、美香は、部屋の真ん中にある寝台を指差した。
 その時になって初めて祐一は、すぐ横にいる美香が意外と背が高いことに気がついた。体つきがどちらかといえばスレンダーな感じだったから気づかなかったのかもしれないけれど、こうして並んでみると、祐一よりも頭一つ高いくらいだった。それに、後ろ姿こそ確かに細っこい感じだったけれど、胸もかなり張っているようで、細く見えるのは、華奢だからというよりも、無駄な贅肉のない引き締まった体をしているからかもしれないように思えてくる。
 言われるまま、祐一は寝台――どうやら、処置台と呼ぶらしい――に横たわった。
「そのまま少しお待ちください。じきに先生が来ますから。その間に、私は準備をしておきます」
 美香はそう言うと、あまり高くない枕に祐一が頭を載せるのを確認してから、壁際の薬品棚の方に歩いて行った。
 急に手持ちぶさたになってしまって、祐一は仕方なく、薬品棚の扉を開けて薬品瓶や合成樹脂のパックを幾つか取り出してゆく美香の姿を目で追い始めた。
 美香は薬品棚から取り出したガラス瓶の蓋を外して純白の容器に注ぎこみ、それから、半透明の樹脂製のパックに入った液体を注意深く混ぜ合わせ始めた。しばらくすると、微かな消毒液の匂いが祐一の鼻を刺激し始めた。
 その匂いに、祐一は、確かに自分が病院にいるのだと改めて実感した。あんなことをしなければ、一昨日のサンドイッチなんて食べなければ、こんなふうに腹痛に襲われることもなかったろうし、だから、こんな冷たい処置台になんて横たわるなんてことしなくてよかったのに。なんとなく祐一は情けなくなってきた。
 だけど、すぐに思い直す。ま、いいや。命にかかわるような症状でもなさそうだし、すぐにアパートに帰れるさ。そうしたら、急いで実験結果の解析をしなきゃ。月曜日は教授を交えての発表会があるから、それまでには仕上げなきゃいけないし。
 あれやこれやと思いを巡らせながら祐一がぼんやりと眺める中、消毒液の用意を終えた美香が、今度は器具庫から何か奇妙な形の器具を取り出そうとしていた。蛍光灯の光をきらきら反射しているところを見るとガラス製らしかったけれど、なんとなく注射器を大きくしたみたいな形をしているなぁとは思ったものの、その奇妙な形の器具を何に使うのか、祐一にはまるでわからなかった。ただ、それを目にした途端、なぜだかわからないけれど、不吉な予感を覚えたのも事実だった。

 美香がそのガラス製の器具と薬品瓶を二つ銀色のトレイに並べて処置台の横にある小さなテーブルに置いた時、ドアが大きく開いて深雪が姿を現した。
「お待たせしまた。――用意はいいわね?」
 最初の言葉は祐一に向かって、そうして後の方は美香に向かって、デスクの前で脚を止めた深雪が言った。
「はい、先生。確認をお願いします」
 美香は深雪との間にテーブルを置く位置に立って応えた。
「わかりました」
 言うと、深雪は、美香がトレイに並べた器具を手に取った。
 艶消しのガラスでできた円筒形の器具で、端から半分ほどにかけて目盛が刻みつけてある。片方の端が細く絞り込んだ形になっていて、その更に先は穏やかな曲線を描いたノズルのようになっている。その反対側の端は僅かに広くなっていて、円形の指かけが付いたピストンが差し込んであった。
 深雪はその器具の手触りを確かめた後、二つ並んだ薬品瓶のラベルに目をやった。そうして、薬品の瓶と祐一の顔とを何度か見比べてから瓶を一つつかみ上げて美香に言った。
「とりあえず、これは薬品棚に戻しておいて。あまり経験のないクランケには、最初は効き目を弱くしておいた方がいいから」
「はい、先生」
 美香は薬品瓶を受け取りながら、深雪の目をじっとみつめるみたいにして言った。
「そうですね。これは、また――ということの方がいいかもしれませんね」
「そうね」
 二人は意味ありげに互いの目を見て微笑み合った。
 すぐそばで交わされるそんな会話を耳にして、祐一は、じわじわと高まってくる不安を覚えていた。美香が器具庫から取り出したガラス製の器具を目にした時に覚えた妙に不吉な予感が、その器具を深雪が手にした瞬間、形あるものとして祐一の胸を締めつけ、白衣の二人の会話が、なにやら呪文めいて耳に届いてくる。
「あ、あの、それは……」
 どうしようもない不安にさいなまれて、それは何に使う物なんですかと尋ねかけたものの、処置台に横たわる祐一の体を見おろして妖しく輝く深雪の瞳を目にすると、あとが続かない。
 祐一は背中を何かぞくりとしたものが駆け抜けるのを感じた。それが決して病気のためばかりではないことを、祐一はなぜとはなしに確信していた。
 一昨日のサンドイッチなんて食べなければ、こんなふうに腹痛に襲われることもなかったろうし、だから、こんな冷たい処置台になんて横たわるなんてことしなくてよかったのに。せっかく思い直したその思いが、今度は黒い陰になって心を覆い始めていた。
「すぐにわかるから心配しなくていいわ。清水君のお腹の中を綺麗に掃除してあげる、ただそれだけのことよ」
 なす術もなく処置台に横たわっている祐一の蒼褪めた顔をちらと見てから、深雪は、薬品瓶に入っている液体を金属の小皿に移しながら言った。その声がひどく淫靡な色香を含んでいることに、まだ若い祐一は気づかずにいる。
「あ、私がやります」
 深雪が薬品の瓶を傾けているのを目にして、薬品棚から戻ってきた美香が慌てて言った。
 けれど深雪は
「いいのよ。自分でするから」
と応えると、小皿に入った分量を確認して瓶の蓋を閉じた。
 それを聞いた美香は
「はい。承知しました、先生」
と返事をして、何か納得したような表情で体をひいた。
「ありがとう」
 深雪は唇の端を僅かに吊り上げるみたいな奇妙な笑みを浮かべて短く言い、ガラス製の器具を持ち上げて、ノズルになった先端を小皿に浸した。
 そのまま深雪がピストンをゆっくり引き上げると、それにつれて、小皿の液体がガラスの内側を這うようにして器具の中に吸い込まれてゆく。
 僅かに黄色がかった、少しばかり粘り気のある液体が器具を半分ほど満たしたところで深雪が手を止めた。そうして、ガラスでできた器具を真っ直ぐ立てると、顔を近づけて目盛をみつめる。
 やがて満足そうに頷いた深雪は、その中に液体をたたえたガラスの円筒をそっと持ち上げ、美香に向かって目で合図を送った。
 無言で微かに頷いた美香は、深雪と祐一との間に割って入ると、すっと腰をかがめて、祐一が穿いているジーンズのボタンに指をかけた。
「え……?」
 はっとしたような顔になって、祐一は思わず、美香の手を払いのけようとした。
 けれど、逆に、美香の左手が祐一の手を処置台の上に押さえつけた。身長と同じように筋力でも美香が勝っているみたいで、細っこい祐一の腕は簡単に自由を奪われてしまう。
「じきに済むから、少しだけじっとしていてくださいね」
 祐一の利き腕を処置台に押しつけたまま、美香は右手だけで器用にジーンズのボタンを外し、続いて、ファスナーも易々と引きおろしてしまった。そうしてそのまま、あまりタイトでないジーンズを膝の少し上までずりおろしてしまう。
「や、やめてください。何をする気なんですか!?」
 祐一は体をくねらせた。
 だけど、膝まで引きおろされたジーンズが邪魔になって、美香の体を跳ねとばそうとする脚も自由に動かせない。
「何を心配してるの。お腹の中を綺麗にするだけなのに」
 美香のそれまでの丁寧な話し方が微妙に変化していた。なんだか、まるで、祐一が抵抗するのを面白がっているみたいにさえ思えてくる。
「そうよ。この道具でお腹にちょっとお薬を入れるだけなんだから」
 ガラス製の凶々しい器具をいとおしそうにさすりながら、美香の後ろから深雪が微かに笑いを含んだ声で言った。
「エネマシリンジっていうの。初めて聞く名前かしら?」
「エネマ……シリンジ?」
 聞き慣れない名前だった。けれど、それがどういう物なのか、今の祐一には痛いくらいにわかっていた。
「浣腸器だったわね、日本語では」
 祐一の顔にありありと浮かんだ怯えの色を楽しむように、深雪ははっきりした発音で言った。
「……」
 祐一は無言で首を振った。
 けれど、そんなことまるでお構いなしに、美香の手が動き続ける。
 祐一がどれほど体をくねらせ、抵抗してみても、ちょっと見た目にはスレンダーな外見におよそ似つかわしくないような力をしている美香にはかなわなかった。いつのまにか祐一は白いブリーフまでひき下ろされてしまい、丸裸になった下半身を二人の女性の目にさらしたまま、ただぶるぶると体を震わせているだけの存在に化していた。
 浣腸器を手にした深雪が、処置台の祐一の下半身の方に、ゆっくりした足取りで近寄ってくる。
 不意に美香が、それまで処置台に押さえつけていた祐一の右手の手首をつかんで、ぐいと引いた。同時に、それまでかろうじて自由を保っていた左手も同じようにかなり強引に引っ張られる。
 祐一は自分の両手を引き戻そうとしたけれど、今となっては、それができないことは明白だった。
 美香の力強い手は、祐一の両方の手首をしっかり掴んだまま、祐一の膝の裏側とお尻の間くらいへ動いて行った。
 そうして、脚の付け根のあたりで、祐一の右手と左手とを組ませた。
「いい? そのまま手を離しちゃ駄目よ」
 祐一の右手の指と左手の指とを半ば強引に絡ませて、美香は自分の手をそっと離しながら鋭く言った。
「そのまま、ゆっくり脚を上げてごらんなさい。――そう、それでいいわ。それから、両手で脚を支えるのよ。そうすれば腹筋にあまり負担がかからないから」
 祐一は、赤ん坊がおむつを取り替えられる時のように高く足を上げ、その脚を自分の両手で支える姿勢を取らされた。
 美香の指がジーンズにかかった時には反射的にその手を払いのけようとした祐一だが、改めて考えてみれば、治療のためには仕方のないことだった。この恥ずかしい姿勢も、そうして、深雪が手にしている屈辱的な器具も。全て、治療のため――美香の威厳に満ちた声に抵抗する気力も奪われてしまったのか、無理矢理にそう思い込み、なんとかして自分自身を納得させようと努める祐一だった。僅かな救いは、深雪と美香の白衣姿だった。もしも二人が私服で、ここが医院などではなかったとしたら、とてもではないけれど耐えられない。白衣の少し厳格で威圧的な雰囲気が、かろうじて祐一の羞恥をやわらげているといってもよかったかもしれない。
 とはいえ、自分の下腹部にゆっくり近寄ってくる深雪の顔を正視するだけの勇気はなかった。祐一は顔を横に向け、頬を処置台の冷たいシートに押しつけるようにして目を閉じた。
 誰かの温かい手が祐一のお尻に触れたのは、そのすぐ後のことだった。少し汗ばんだような、なんとなくじっとりした感触だった。
 祐一はびくっと体を震わせた。
「駄目よ、じっとしてなさい」
 声は深雪のものだった。
 言われるまま、祐一は体を固くした。
「それも駄目よ。じっとしてなさいとは言ったけど、そんなに力を入れちゃ駄目。もっとリラックスして」
 そう言われても、こんな状況でリラックスできる筈もない。祐一はますます緊張してしまい、拳をぎゅっと握りしめた。
「やれやれ、しようのないクランケね。少し準備運動をした方がいいかしら」
 くすくす笑いながら、深雪は誰かに同意を求めるみたいに言った。
「そうですね、先生」
 応えたのは、こちらも笑いを噛み殺しているような声の美香だった。
「そうね、そうよね」
 確認するように深雪は頷くと、祐一のお尻を撫で擦するみたいに掌を動かし始めた。それは、まるで、満員電車の中で若い女性のお尻を撫でまわす中年男性のように執念深くていやらしい手の動きだった。祐一の若くて張りのあるお尻の形を楽しむようにひとしきり撫でまわしてから、ねっとりした動きで、じわじわと肛門の方に近づいてくる掌。
「ん……」
 思わず口から漏れ出しそうになる声を慌てて唇を噛んで押し殺した祐一は、ぎゅっと瞼に力を入れた。
 目を閉じた祐一の顔を見おろす白衣の二人は、お互いに目を細くして軽く頷き合った。二人はまるで姉妹のように、揃って、唇の端を吊り上げるような奇妙な笑みを浮かべていた。
 不意に、深雪の中指が祐一の肛門を貫いた。ずぶりという音が聞こえてきそうな感じさえする、それは容赦のない貫きようだった。
「あん……」
 たまらずに祐一は呻き声を漏らし、弱々しく体をくねらせた。





「ほら、お尻の力を抜きなさい。でないと、よけいに痛くなるわよ」
 深雪は、祐一の肛門に突っこんだ中指をじわりと動かした。同時に、人差指と薬指で肛門の周りの柔らかいところをねっとりとくすぐってみる。
「そ、そんなこと言われても……」
 祐一は喘いだ。
 高く上げた脚を支える両手がぶるぶる震えている。
「あら、すごい。私の指がどんどん締めつけられちゃう。清水君のここ、とっても敏感なのね」
 深雪は中指をほんの少し鈎みたいに曲げて、ゆっくりした動きで前後に動かした。
「そんなこと……」
 祐一の唇がひきつってくる。
「顔に似て可愛いい菊ちゃんなのに、こんなに締めつけてくるんだもの。本当はこういうの好きなんじゃないの?」
 深雪はわざとのように意地悪く言った。
「そんなこと……」
 熱に浮かされたように、祐一は同じ言葉ばかり繰り返す。
「へーえ、ちがうって言うの? でも、こうしたらどうかしら」
 深雪は中指をそろりと伸ばすと、そのまま更に奥深くへ突っこんだ。そうして、直腸の襞を通して、そのすぐ近くにある前立腺を指先で軽く押した。
「う……」
 これまで前立腺を直接刺激されたことなどない祐一は、深雪が何をしているのかさえわからない。ただ、これまでに経験したことのない淫靡な感触に自分のペニスがむくむくと起き上がろうとしている感覚に戸惑うだけだった。
「あらあら、やっぱり。ほら、目を開けて自分で見てごらんなさい。私はエネマの準備のために肛門をマッサージしているだけなのに、それで感じちゃって元気になってきたじゃない。これでも、こういうの好きじゃないって言うのかしら?」
 自分が本当は何をしたのか祐一には告げずに、深雪は胸の中で舌を出して言った。
「……」
 祐一はぎゅっと目を閉じたまま、力なく首を振るだけだ。
「いいのよ、恥ずかしがらなくても。赤ちゃんでもね、便秘を治すのに浣腸してあげると、小っちゃなペニスを元気にしちゃうことが少なくないんだから。
本当は誰でもそうなのよ。でも、大人になるにつれて、それを恥ずかしいと思うようになるのね。でも、いいのよ。ここでは、そんなことを気にする必要はないの。治療のためだもの、あなたのありのままを私たちは知らなきゃいけないだから」
 深雪は中指の腹にぐっと力を入れた。
「あ……ん」
 祐一は、呻き声とも喘ぎ声ともつかない、弱々しい吐息を漏らした。
 深雪が指を動かすたびに祐一の体が震え、次第次第に力が抜けてくる。
 いつしか祐一は、はあはあと熱い息を吐き出しては、まともに空気を吸っていない、回数ばかり多いくせに浅い呼吸をするようになってきた。
 それまで強張っていた表情も、どことはなしにとろんとしてくる。
「そろそろいいわね」
 いくぶん赤みがさして火照り気味になってきた祐一の顔を見おろして、深雪は中指をそろそろと抜いていった。
 そうして、自分の指の代わりに今度は、ガラスでできた浣腸器の先を押しつける。
 深雪の妖しいマッサージのために力が抜けてしまった祐一の体が、ガラスの冷たい感触に再び固くなった。
 けれど、深雪は容赦しなかった。
 浣腸器の冷たい嘴口を激しく拒む肛門を無理矢理こじ開けるようにして、深雪は右手に力を入れた。
「ん……」
 祐一は歯を食いしばって苦痛に耐えた。
 苦痛とはいっても、それは、痛みそのものではなく、女医が手にする無機質な器具に肛門を貫かれた羞恥と屈辱だった。
「そのままでいるのよ。動かないでね」
 深雪の指がピストンを押すと、シリンダーの中の薬液がじわじわと押し出され始めた。
 肛門よりも僅かに奥、もう殆ど直腸の端のあたりに冷たい薬液が注ぎこまれ、じわりと広がってゆく。
「あ……」
 体内に侵入してきた硬い感触。そして、それに続く、冷たくてとろりとした感触。祐一は下腹部をぷるぷる震わせて小さく口を開いた。
「いい子ね。すぐに済むから、少しだけ辛抱するのよ」
 深雪は、まるで小さな子供をあやすみたいに言った。
 祐一は肩で息をしている。
 そんな状態なのに、ついさっき深雪の手で前立腺を刺激されて屹立したペニスは衰える気配もない。とはいっても、若い祐一のことだから、それも仕方ないことかもしれない。きちんと処置するまで、そのまま萎えることなく起き上がったままだとしても。
 蛍光灯の光をきらきらと幻想的に反射するガラス器具に肛門を貫かれたまま自分の意志とは無関係にペニスを屹立させた、見ようによってはひどく滑稽な、また見ようによってはひどく情けない、悲惨とも思えるくせに妙にエロチックな祐一の姿に、浣腸器のピストンを押す深雪は倒錯的な悦びを覚えていた。
 ふと見ると、美香も顔を火照らせて深雪の手元をじっと覗きこんでいる。
 二人の目は、共通の秘密を楽しむ子供のようにきらきらと輝いていた。あるいは、黒く妖しい火を瞳に宿していたと言った方が正確なのかもしれない。

 やがて、薬液が全て祐一の腸内に注ぎこまれた。
 深雪は左手を祐一の肛門のすぐ下に当てがって嘴口を支えるようにしながら右手ですっと浣腸器を抜いた。
「気分はどう?」
 テーブルの上に置いてある銀色のトレイに浣腸器を戻した深雪は、まだぎゅっと瞼を閉じている祐一の耳元で聶くように言った。
「……」
 けれど祐一の方は無言のままだった。きゅっと唇を噛んでいる。
「ふーん。――ま、いいわ」
 自分の言葉に反応がないことに、でも、深雪は平然としていた。薄く笑ってさえいるように見える。
 それもその筈だった。祐一の無言がいつまでも続くわけがないことを深雪はよく知っているのだから。
 そうして、案の定。
 深雪が顔を上げて待つほどもなく、祐一の表情が変わってくる。
 処置台に頬を押しつけるようにして無表情を装おうと努めていた祐一の顔が僅かに歪み、呼吸が荒くなってきたことに深雪も美香も気がついた。いうまでもなく、速効性の薬液のためにじわじわと高まってきた便意に耐えているのだった。
「く……」
 祐一は、我慢しきれなくなって、それまで自分の両脚を支えていた手を離した。もちろん、高く上げていた足も処置台の上に力なく落ちてしまう。
「ん……ん」
 体の横にだらりと伸ばした両手をもぞもぞ動かして、祐一は掌をお腹の上に置いた。微かに、ぐるぐる鳴り始めたお腹の音が二人の耳に届く。
「気分はどう?」
 どことなく意地悪く聞こえる声で深雪がもういちど訊いた。
 ようやく祐一は目を開けた。
 けれど、すぐ目の前にある深雪と美香の顔が見えているものかどうか。落ち着かぬげにしばたかせる瞼の奥で、大きな瞳が微かに潤んでいる。
「まだ駄目よ。10分間は辛抱しなきゃ駄目。でないと、お薬だけが出ちゃうから」
 応えない祐一に向かって、深雪はゆっくり言った。
「で、でも……」
 ようやく、祐一の口から言葉らしい言葉が漏れた。可愛いい顔に似合わない、しわがれた、弱々しい声だった。
「だーめ。ちゃんと言うことを聞くの」
 深雪の横から、まるで小さな子に言い聞かせるみたいにして美香が言った。
 ぐるる。祐一のお腹が、さっきよりずっと大きく鳴った。
 途端に、うっと呻いて祐一が顔をしかめ、自分のお腹を落ち着かせようとするみたいに掌に力を入れた。
 ぎゅる、ぐるる。お中の音は鳴きやみそうにない。
「トイレ……トイレへ行かせて……」
 祐一は処置台に両手をついて立ち上がろうとした。
 その体を二人して再び処置台に押しつけてしまう深雪と美香。
「私が言ったことを聞いてなかったの? 今トイレへ行ったんじゃ、お腹はちっとも綺麗にならないのよ」
 祐一の肩を右手で押さえこんだ深雪が鋭く言った。
「でも、でも……」
 祐一はぜいぜい喘いでいた。
「我慢なさいったら」
 深雪は真上から祐一の顔を覗きこんで言った。そうして、こんな状態だというのにまだ屹立しているペニスに気がつくと、すっと目を細めて、誰に言うともなく囁いた。
「そうだ。こんな時は、何かで気をまぎらわすといいのよ。トイレへ行きたいってことを忘れられるくらいの何かでね」
 なんだか、とても思わせぶりな言い方だった。
 それに応えたのは美香だった。
「わかりました、私にまかせてください。――トイレのこと、忘れさせてあげるわ」
 最初の方は深雪に、そうして後の方は祐一に向かって、美香は意味ありげに言った。
 なんとなく嫌な予感がして、祐一は処置台の上で身を固くした。
「そんなに緊張しなくてもいいわよ。みんな私のまかせておけばいいの。ね、清水君。ううん、祐一君って呼んだ方が親しみがわくかしら」
 ちょっと見には細く見えるくせに実は豊かな胸をわざとみたいに揺すって、美香が祐一の上にかがみこむようにして腰を曲げた。
「な、何をするんですか!?」
 祐一はうわずった声で、叫ぶみたいに言った。
「怖くないから、ほら」
 説明する代わりに、美香は祐一のペニスをそっと握りしめた。
「あ」
 力のない声をあげて、祐一は大きく目を見開いた。
 その緊張ぶりを目にした美香は
「ふぅん、こういうの、初めてだったの?」
と笑い声で言うと、ペニスを握った手をゆっくり動かし始めた。
「やめ……やめて……」
 深雪に肩を押さえつけられた体をよじり、二人の手から逃げようとするものの、華奢で小柄な祐一が大柄な深雪と美香のいましめを解くことはできなかった。
「やめてあげないわよ。だって、ほら、祐一君のここ、こんなに元気なのよ。やめてって言いながら、体は正直なものよね。うふふ、いいわね、若いってことは」
 美香は舌なめずりせんばかりにねっとりした口調で言った。
「お願いだからやめて……」
 美香の手の動きに合わせてびくんと体をのけぞらせ、熱い息の混じった声で、懇願するみたいに祐一は言った。
「そんなこと言って、でも本当はいい気持ちなんでしょう? ほら、気持ちよくて、トイレのことなんて忘れられるでしょう?」
 美香は手の力を微妙に変え、祐一のペニスを絶妙の指さばきでいたぶりながら言った。
 固い処置台に押さえつけられたままの華奢な祐一と、その秘部を弄ぶ大柄な二人。それはまるで、男女が入れ替わったような倒錯的な光景だった。そしてまた、それは、深雪が求めてやまない光景でもあった。





 深雪の医局時代、秀和は、深雪が診断・治療にあたった時の記録を丹念に調べてみた。深雪が書いたカルテは言うに及ばず、指導医が残したメモの類も含めて。
 しかし、深雪の不安定さが何に由来しているのか、なかなか判然としなかった。深雪が診断や治療において驚嘆すべき腕の冴えをみせるケースと、まるでそれとは逆に、信じられないほど初歩的なミスを冒すケースとの違いは、患者の病状にはまるで相関していないことはすぐに判明した。同じような病状の患者どうしを比べてみても、片方は見事に治癒し、片方は指導医が後処置をしてようやく治癒にこぎつけたというケースが少なくなかったため、それは一目瞭然だった。それはつまり、深雪の技術的な得手不得手の問題ではないことを意味していた。
 では、なぜ?
 秀和は、考えられるかぎりの調査を行なった。自分のかけがえのない娘だということもあるし、なにより、一人の医療関係者としての目が、深雪が本来的に持っている技量の高さを認めていたからこそだった。
 そうしてようやく、これだと断言できるような要因の手がかりが姿を見せてきた。それは、調査を進める過程で明らかにされた患者ひとりひとりの個性だった。男性、女性、老人、若者、子供。様々な年齢層の様々な人たちが深雪の診断を受け、治療に身を委ねていた。その時の様子を指導医や看護婦たちからの聞き取り調査を含め、深雪自身の記憶も重ね合わせて再現し、相互チェックを繰り返して或る方法でチャート化してみると、一つの
顕著な傾向が表れたのだった。
 すぐに感情をあらわにする患者。何を考えているのかわからない患者。怒りっぽい患者。弱気な患者。楽天的な患者。今にも泣きだしそうにする患者。――患者を性別や年齢や職業といったもので分類するのではなく、その性格で分類してみた時、或るグループに属する患者に対しては深雪は素晴らしい技量を発揮し、或るグループの患者に対してはミスを頻発するといった傾向が、統計的に処理されて、くっきりとチャートに描かれたのだ。
 深雪が腕の冴えをみせる患者グループは、きまって、他人に対する依存心の強い、どちらかというと自立性に乏しいパーソナリティーを持っていた。
検査から治療まで全てを医師や技師にまかせきりにしてしまい、自分からは何もこうしてくれとかああしてほしいとか決して言わない人たち。それが医師を信頼しているからかどうかはともかく、自ら判断することを放棄してしまったような患者たちだった。それとは逆に、深雪が治療ミスを冒すのは、自分たちの考えをはっきり言い、疑問があれば口にするような人たちに対してだった。
 自分に頼りきってくれる患者に、そうでない患者に対してよりも、より丁寧な診察と治療を行うことは、ひょっとしたら自然な感情の動きかもしれない。
意識的に区別するわけではないけれど、どうしても、そういった患者には親身になってしまうというような経験は秀和にもなくはない。けれど、深雪の場合は、そんなことで説明されるようなレベルでは到底なかった。医師としてというよりも、ひとりの人間として、それはどこか異常さをさえ感じさせる行動だと断じてもおかしくはないくらいに。
 当然、秀和はこの調査結果を誰にも言わずに伏せた。伏せたまま、注意深く深雪の精神分析を行なった。
 そうして、彼女の心の奥深い所にひそむ病んだ部分を発見してしまったのだった。――もともと、人間の心の中には、独占欲や支配欲といったものが存在する。けれど、だからといって、それで人の心が歪んでしまうわけではない。独占欲や支配欲があるからこそ、人は自分自身を向上させようと努めているのだとも言えるのだから。適度な支配欲は医師に威厳を与えさえするだろう。
 しかし、それが異様に成育し増殖したとしたら。
 深雪の場合がそれだった。彼女の場合、特に支配欲が異常とも思えるくらいに発達してしまい、そのために心の動きが正常ではなくなってしまっているのだ。
 本来は正常な、それまでは胃や肺や血液の一部として人間の体を形づくっていた細胞が、突然なんらかの原因で癌細胞化することがある。癌化した細胞は正常な細胞だった頃とは比べものにならない生命力を発揮して短時間のうちに増殖し、正常な細胞を圧迫し、栄養を奪い、他の部位の細胞を癌化させ、遂には、宿主そのものの生命を奪ってしまう。――秀和が深雪の心の中に見い出したのは、精神的な癌と化し、異様に発育して、正常な精神活動を蝕んで悪性の腫瘍になっているような、どす黒い支配欲だった。
 なぜ深雪の支配欲がそのように変質してしまったのか、それがどのような原因でそうなってしまったのか、はっきりしたことはわからない――いくつかの推測はできたけれど、そうだと断定することは難しかった。それに、もう今更その歪みを矯正することが殆ど不可能だということも、秀和の優れた精神科医としての冷徹な目は見抜いていた。

 深雪の心を蝕む病巣を発見した秀和が、先の調査結果とともに、精神分析の結果をも闇の中に葬り去ることにした時、微塵の迷いもありはしなかった。守られるべきは笹野の名声である。その名声にいささかも傷をつけられるものはこの世にはない。よって、笹野の血を引く深雪の異常を証言する調査結果も精神分析の結果も、この世に存在を許されないのだから。
 そうして秀和は、深雪の欲望が暴れ出すのを防ぐために笹野内科医院という玩具を与え、とりあえずはおとなしくさせることにしたのだった。
 祐一は、そんな笹野内科医院におびき寄せられた憐れな犠牲だった。異様な支配欲の命ずるままに行動する冷血動物のような――そのくせ冷徹で知的で高度な医療技術を持つ――深雪の毒牙に、それとは知らずにかかった無力な小動物だった。



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