女医・笹野深雪  〜白衣をまとった甘い陥穽〜





女医・笹野深雪  〜白衣をまとった甘い陥穽〜 (4)



「だけど、乳首に歯を立てたりしちゃ嫌よ」
 あやすみたいに言いながら、美香は、にっと笑って付け加えた。
「昔――といっても一年前のことだけど、そんなことをした子がいたの。わざと私の乳首に噛みついた子がね。それがどんなに痛かったか、祐ちゃんにはわからないでしょうね。もちろん、その子にはちゃんとお仕置きをしてあげたわよ。もう二度とそんなおいたができないように、歯をみんな抜いてあげたの。だからその子、今でも普通の食べ物は食べられないのよ。うんと軟らかい離乳食みたいな食べ物か飲み物以外わね」
 実をいうと、美香の乳房から逃げ出すために思いきり乳首を噛んでやるのもいいかもしれないと祐一も考えていた。それを見透かしたような美香の言葉に、祐一は背中をぞくりと冷たくして唇を動かし続けるしかないことを思い知らされた。口の中の歯をみんな抜かれてしまうかもしれないという恐怖にかられた祐一には、そうするより他にできることはなかったのだから。





 祐一が唇を動かすたびに、美香の乳首から勢いよく母乳が溢れ出てくる。たしかにそれは、誰かに吸ってもらうのを待っていたのだろう。誰かに――本当なら優香という名前の赤ん坊に――吸ってもらうために美香の体が作り出した、かけがえのない滋養だった。汗や尿とはまるで違う、それは体液と呼ばれるような物とはまるで異なった、命を育む、何物にも代えがたい貴重な白い液体。
 気がつくと祐一は、鼻を塞がれる苦痛からではなく、歯をみんな抜かれてしまう恐怖からでもなく、まるで自らの意志ででもあるかのように、貪るように美香の母乳を吸い続けていた。休むことなく唇を動かし、ぴちゃぴちゃと舌を鳴らして、美香の生命そのものを飲みほさんばかりに、美香の体から絶え間なくこんこんと湧き出る生命の液体を。自分でもなぜそんなことをしているのかわからぬまま、いや、自分がそうしていることに気づいてさえいないまま。体の渇きを癒すためだけでなく、まるで今まで自分でも気がついていなかった心の渇きを癒すためでもあるかのように。
 ただ、ひたすらに。

 美香の右手が動いて、乳房に顔を埋めるようにして母乳を貪り飲んでいる祐一のおむつカバーの中にもぞもぞと入ってきた。
 微かな気配があったのは、祐一のおむつがまだ濡れていないことを確認して、美香がおむつカバーの中に差し入れた右手を元に戻しかけた時だった。20分ほど前に取り替えたばかりの新しいおむつはまだ汗で湿めることもなく、さらっと乾いたいたままだった。それが突然、じとっと重くなってきたのだ。
 美香はそれまで浅く差し入れていたおむつカバーの中の手をゆっくりとお尻の方に動かした。お尻のあたりはもうぐっしょり濡れていた。美香が手で探ってみると、少しだけおむつが盛り上がった部分――たぶんペニスがあるあたり――がびしょびしょになって、まだそこからちょろちょろとおしっこが流れ出し、布おむつに吸収されながら少しずつ周りに広がっていた。
 祐一はそれでも、そんなことにも気がつかないように、無心に乳首を吸っている。
「やっぱり祐ちゃんは赤ちゃんなのね。おっぱいを飲みながらおむつの中におしっこをおもらししちゃうなんて、赤ちゃんじゃなきゃそんなことしないもの」
 おむつカバーからそっと引き抜いた右手で祐一のお尻をぽんぽんと優しく叩いて、とびっきりの笑顔をみせた美香が言った。
 不意に祐一の顔に表情が戻った。
 ようやく自分が何をしていたのか思い出したように、はっとした顔になって、豊かな乳房越しに美香の顔を見上げる。
「もういいの? もうお腹はいっぱいになったの? なら、いいわ。私もおっぱいの張りがなくなってすっかり楽になったから。うふふ、たくさん飲んでくれたのね」
 祐一と目が合った美香は相変わらずとろんとした目で言った。その表情は、まぎれもなく母親の顔だった。
 急に気恥ずかしくなってきて、慌てて祐一が目をそらした。
「いいのよ、恥ずかしがらなくても。祐ちゃんは赤ちゃんだもの。赤ちゃんだったら、ママのおっぱいを飲みながらおむつを汚しちゃっても、ちっともおかしくないのよ」
 うっとりした顔で、言い聞かせるように祐一に囁きかける美香だった。
「わかるわね? 祐ちゃんは私のおっぱいを飲みながらおむつを汚しちゃったのよ。だから、祐ちゃんは今日から私の赤ちゃん」
 言いながら、美香の左手が祐一の髪の毛を結わえているカラーゴムに触れた。
「こうして近くで見ても、やっぱり祐ちゃんは可愛いい顔をしてるわ。こんなにベビードレスがお似合いなんだもの、祐ちゃんは本当に女の子なんだわ。いい? 祐ちゃんは私の可愛い二番目の娘。優香の妹になるのよ」
 祐一の体をベビーベッドに戻しながら美香は口を閉じようとはしなかった。祐一の戸惑いに気づいているのかいないのか、熱に浮かされたみたいに、一方的に喋り続けている。
「もうおしっこは出ちゃったかな。さ、それじゃ、おむつを取り替えてあげましょうね。祐ちゃんのおむつを取り替えてあげるのはこれで何度目かしら。でも、今度のは特別ね。私のおっぱいを飲みながら汚したおむつだもの。祐ちゃんが私の娘になった記念のおむつだものね」
 祐一の唇の端に残っている母乳をよだれかけで優しく拭き取り、深雪から受け取ったオシャブリを祐一の口にふくませてからおむつカバーのホックを外す時も、美香は喋り続けた。
「女の子なんだから、祐一っていう名前はおかしいわね。祐ちゃんか、うーん、どんな名前がいいかしら。――そうだ。私の名前から一字、『香』をあげる。それで、『祐香』でどう? 優香の妹で祐香。うん、素敵な姉妹だわ。これで決まりよ、ね?」
 ぐっしょり濡れた水玉模様の布おむつをポリバケツに投げ入れ、祐一の下腹部をタオルで綺麗に拭いて、ベビーパウダーを優しく擦り込んで新しいおむつをおむつカバーの上に重ねる間も、新しい布おむつで祐一の下腹部をくるんで、その上からおむつカバーで包んでしっかりマジックテープとホックを留める間も、美香は一人はしゃいでいた。
「はい、できた。新しいおむつは気持ちいいでしょ? いつでも取り替えてあげるからたっぷり濡らしていいのよ」
 祐一の顔に微笑みかける美香の表情はひどく上気していた。





「お待たせしました、先生」
 ブラのホックを手早く留めてブラウスと白衣の乱れを直した美香が爽やかな声で深雪に言った。
「無事に授乳も終わったみたいね」
 再びベビーベッドに横たわり、どこか拗ねたように天井を見上げている祐一の顔にちらと目をやって深雪が応えた。
「はい、先生。祐ちゃん――祐香もすっかりいい子になってくれましたから」
 美香は、それまでの上気したようなうっとりした表情が嘘みたいに晴れ晴れした顔で言った。
「よかったわね。じゃ、点滴も終わってるし、お家へ連れて帰ってあげましょうか」
 深雪の言葉を聞いた祐一の眉が不安にかられてぴくんと動いた。
「そうですね。妹ができて、優香も喜ぶと思います」
 どこまで本気なのか、美香の声はあくまで爽やかだった。
「そうね。今だって宿舎に一人きりだもの。小さな子供を一人きりにしておくのは感心できないわね。」
「でも、仕事場に連れて来るわけにはいきませんから」
「ま、そうか」
 軽く肩をすくめて、深雪がベビーベッドから離れた。
 その間に美香はベッドのサイドレールを倒して祐一の体を抱き上げた。けれどそのまま横抱きにするわけではなく、そっと膝から床におろしてしまう。
 そうしておいて、美香は祐一の体から両手を離した。
 手足の筋肉の力を深雪が注射した薬に奪われたため、立ち上がることはできない。両脚の膝と両手の掌を床についてかろうじて体重を支えるのが精一杯だ。そのままの姿勢で手足をぶるぶると震わせ、その場から進むことも戻ることもできないでいる。
「ここまでいらっしゃい、祐香ちゃん。ここまで来れたら、これに乗せてあげるわよ」
 どこからか深雪の声が聞こえてきた。
 床の上によつん這いになってそのまま床の一点をみつめるばかりの祐一がふと顔を上げると、深雪はドアのすぐ横にいた。これといって深雪が指差しているのは、祐一がこれまでに見たこともないような大きさのベビーバギーだった。故郷の姪が使っていたベビーバギーに比べれば二回りほども大きいように思える。
 祐一は力なく首を振った。
 深雪や美香に抵抗し通すことができないのはわかっている。それは、この医院に足を踏み入れてからこれまでの間に身にしみて思いしらされた。でも、だからといって、二人のいうまま何の抵抗もせずに従うことはひどい屈辱だった。
 祐一は再び床に視線を落とした。このままいつまで体重を支えていることができるのかわからないけれど、せめてここでこのままこうしていることが祐一にできるたった一つのささやかな抵抗だった。このまま体重を支ええきれずに寝そべってしまえば、それをまた口実にして二人がからかいの言葉を投げかけてくるだろうということは火を見るより明らかだった。
 からんころん。
 不意に、深雪が立っているあたりから柔らかな音が響き渡った。
 反射的に顔を上げた祐一の目に映ったのは、プラスチックでできたガラガラを振っている深雪の姿だった。
「ほら、おいでおいで。祐香ちゃんの大好きなガラガラよ。ここまで来たら、ご褒美にこれをあげるわよ」
 深雪は盛んにガラガラを振ってみせた。
 祐一は羞恥で顔が熱くなるのを感じた。冗談事ではなく、これでは本当に赤ん坊扱いだった。
 祐一は口にふくまされたオシャブリを悔しそうに噛みしめて手と足を踏ん張った。今にも体重が支えきれなくなりそうに、腕も脚も小刻みに震えだしている。
「祐香、どうしたの? 先生がガラガラをあげようって言ってるわよ。ほら、行ってきなさい」
 いつのまにか祐一の後ろにまわりこんできた美香がおむつの上から祐一のお尻をぽーんと叩いた。その反動で、祐一の手足が動いて一歩二歩と深雪の方へ進んでしまう。
 急にお尻を押されてバランスを崩しそうになり、慌てて手と足に力を入れた祐一は恨みがましい目で美香の方を振り返った。
 美香は床の上にしゃがみこんで、おむつで大きく膨らんだ祐一のお尻をおもしろそうに眺めていた。
「今のハイハイ、とっても可愛いかったわよ。祐香のアンヨが動くたびにおむつのお尻も揺れるんだもの」
 美香がくすっと笑った。
 赤ちゃんがハイハイをする姿勢にさせられたせいで丈の短いベビードレスの裾からおむつカバーが丸見えになってしまい、祐一が手と足を動かすと、おむつで膨らんだお尻が大きく左右に揺れる。普通に這うぶんにはそんなでもないのだろうけれど、自由にならない腕と脚をぎこちなく動かすものだから、余計に体が大きく動いて、お尻が目立って揺れてしまう。
「ほら、もう一度その可愛いいハイハイをしてみせてちょうだい」
 美香は再び祐一のお尻を押した。
 けれど今度は祐一もそうなることを予想して身構えていたおかげで、かろうじてその場にとどまることができた。
「ふぅん。祐香ったら、ママの言うことがきけないんだ?」
 ふくむところがありそうな声で美香がぽつりと言った。そうして、不意に、祐一の背中にのしかかってくる。
 二人分の体重を支えきれるわけもなく、祐一の体はその場に崩れ落ちた。
 祐一の背中に馬乗りになったまま、美香は祐一の股間をまさぐるようにして、おむつカバーのホックを一つ外した。
「ママの言うことをきけない子にはお仕置きをしてあげなきゃね。でも、心配しなくていいのよ。とっても気持ちのいいお仕置きなんだから」
 美香はおむつカバーのホックをもう一つ外した。
「お浣腸をする時にも見せてもらったけど、祐香のお尻、とっても素敵な形をしてたわよね。先生にも、可愛いい菊ちゃんだって褒めてもらってたし」
 美香は三つめのホックを外して、おむつカバーの上から祐一のお尻を撫でた。お尻の割れ目の線に沿って、人差指でつっとなぞってゆく。
「祐香の可愛いい菊ちゃんがどんなに締りがいいのか、ママも知りたくなってきちゃった。ママが人差指を入れてあげるから、ちゃんと教えてちょうだいね。祐香のお尻の締り具合を」
 美香の指が四つ目のホックを弾いた。残るホックは二つだけになった。
 冷たい床に横たわったまま、祐一は激しく首を振った。
「あら、嫌なの? だって、祐香がちっとも前へ行かないから、てっきりお尻を可愛がってもらいたがってるもんだと思ったのに」
 わざと残念そうに言って、美香が祐一の体から離れた。それでもまだ動きださない祐一をからかうように、両手の掌で祐一のお尻を二度ほどゆっくり揉んだ。
 弱々しく首を振って、祐一が腕と脚に力を入れた。いったん倒れてしまった体を持ち上げるのは簡単なことではなかったけれど、このまま倒れこんでいては、本当にお尻に指を突っ込まれそうだった。それも、人差指だけですむとは思えない。美香が面白がってどんなことをするのかと思うと、いやでもその場から逃げ出すしかなかった。
 やっとのことで床から体を浮かせて、祐一は最初の一歩を踏み出した。右手と左足をほんの少しだけ動かすと、かろうじてその分だけ前に進むことができる。
 あとは、その繰り返しだった。
 少しでも油断すると腕と脚がへなへなと崩れ落ちそうになるのを歯を食いしばって――実際にはオシャブリを噛みしめて――
耐え、大仰な身振りで一歩ずつ、少しずつ少しずつ進んで行く。
 からころからころ。
 そんな祐一の動きに合わせて、深雪がガラガラを振ってみせる。傍目には、やっとハイハイを覚えた幼児をガラガラで励ましているようにしか見えないかもしれない。本当の赤ん坊なら、その柔らかい音に惹きつけられて盛んに手足を動かすだろう。けれど、いくら幼女の装いに身を包まれているとはいえ、実際に床に這いつくばっているのは20歳を超えた祐一だ。ガラガラから響き渡る軽やかな音色はひどい羞恥の源でしかない。それでも祐一が必死になって進むのは、冗談で言っているとは思えない美香の手から逃れる、それだけのためだった。
 祐一が手と足を動かすたびにお尻が揺れて、ホックを四つ外されたためにだらしなく垂れさがってしまったおむつカバーの前当てがお腹のすぐ下で揺れる。下を向いた時に見えるその光景が、自分がもう逃げ出すことのかなわない囚われの身になってしまったことを改めて告げているように思えて、ひどい無力感に包まれる。祐一には、目の前でガラガラを振ってみせる深雪のもとへ這って行くしか道は残されていなかった。

 ベビーベッドからさして離れていないドアのそばまで這って行くのに5分以上もかかったろうか。深雪の足元に辿りついた時にはすっかり息があがってしまっていた。
「はい、お利口さん。よく頑張ったわね、祐香ちゃんは本当にいい子だわ。約束通りご褒美よ」
 床にお尻を落としてぺたんと座りこんだまま肩で息をしている祐一の手に深雪がガラガラを握らせた。ただでさえ力の入らない両手からハイハイのせいですっかり力が抜けてしまっていて、さほど重くない筈のプラスチック製の玩具を落としてしまいそうになる。
「ほら、ちゃんと持ってなきゃ駄目よ。せっかくのご褒美なんだから」
 ガラガラを落としでもしたらひどい目に遇わせるわよと言外ににおわせながら、深雪が祐一の手にガラガラを握り直させた。
 祐一はプラスチック製の玩具をぎゅっと握りしめた。深雪の見ている前で落とさないように、両手で抱きかかえるみたいに。
「うふふ、それでいいのよ。赤ちゃんは音の出るオモチャが大好きなのよね。そんなにしっかり握るなんて、祐香ちゃんもガラガラが大好きなのね」
 笑い声でそう言って、深雪は祐一が握りしめたガラガラをぴんと指で弾いた。
 ガラガラが小さく揺れて、からころと微かな音をたてる。
 自分の持っているガラガラがからころと鳴ることがこんなに恥ずかしいとは思わなかった。その音を聞きたくて自分でガラガラを動かしたわけではないのに、傍目からはそんなふうに見えるのかもしれないと思っただけで顔から火が出る思いだった。
「そう、そのまま落とさないように持っているのよ」
 祐一の羞恥に満ちた表情を満足げに眺めてから、深雪が祐一の体を抱き上げた。美香がするような横抱きではなく、脇の下に掌を差し込むような抱き方だった。
 脇の下を支えるようにしてひょいと祐一の体を持ち上げた深雪は、そのまま祐一をベビーバギーの座席に座らせた。そうして、体を固定するベルトの金具を留めようとして、おむつカバーのホックが外れていることに気がついた。いや、実際には美香がホックを四つ外してしまうところをちゃんと見ていたから、ホックが外れていることに今さら気がつくふりをしてみせたと言った方が正確かもしれない。
「どうしたの、これ?」
 深雪は、ベビーバギーに座らせた祐一の下腹部から股間へだらりと垂れたおむつカバーの前当てを元通りにして一つずつホックを留めながら美香に訊いた。
「おむつを嫌がって、自分で外しちゃったんですよ。ほんと、祐香はお転婆なんだから」
 本当のことは深雪も知っている。知っていながらわざわざ訊いてくる深雪に調子を合わせて美香は答えた。
「そうなの。こんなおとなしそうな顔をしてるくせに、本当はお転婆さんだったのね、祐香ちゃんは」
 おむつカバーのホックを四つとも留めて、深雪が祐一の頬を指先でつんつんと突いた。
「そうなんですよ。おねえちゃんの優香をいじめなきゃいいんだけど」
 美香はわざとらしく苦笑してみせた。
「それじゃ、祐香ちゃんが暴れてベビーバギーから落っこちちゃわないように、しっかりベルトを留めておかなきゃいけないわね」
 言いながら深雪がベビーバギーのベルトに手をかけた。
「そうですよ、先生。勝手にベルトを外さないよう、しっかり留めておいてくださいね」
 さも当然のことのように美香は言った。
「もちろん、そうするつもりよ」
 美香はベルトを金具で留めると、小さな鍵を使って金具をロックしてしまった。もちろん、普通のベビーバギーのベルトにはそんなものは付いていない。自動車のシートベルトと同じで、金具のボタンを押せば――もっとも、幼児の力くらいではボタンは押せないようになっている――簡単に外れるようになっている。それなのに、深雪が用意したベビーバギーのベルトにはロック機能までついていた。それは、とりもなおさず、このバギーが特別製だということの証しだった。祐一を閉じ込めたこの小児科処置室の他の備品と同じ、深雪が狙いをつけた哀れな獲物を無力な赤ん坊として扱うために特別に準備した、ごくありふれた育児用品にしか見えない外見からは想像もつかない、その本性は、情け容赦のない無慈悲な拘束具だった。
「浜野さんに渡しておくわ。なくさないように注意してね」
 なくなっても私はちっとも困らないけどねというような口調で言って、深雪が美香に金色の鍵を渡した。
「さ、これで、お転婆な祐香ちゃんも悪戯はできないでしょう。手にはガラガラを持ってるから、勝手におむつカバーのホックを外しちゃう心配もないわ」
 そう言って、深雪は大きなベビーバギーの把手を握って車輪のロックを外した。
「あ、私が押します」
 今にもドアを開けてベビーバギーを廊下に押し出そうとする深雪をやんわり押しとどめて美香が言った。
「いいの?」
「もちろんですよ。私の新しい娘なんだから、ママの私が押さずに先生に押させるなんて、そんなこと」
 深雪に代わって把手を握りながら、美香は祐一を見おろして言った。
「そうだったわね。祐香ちゃんは優香ちゃんの妹になったんだものね」
 深雪も美香と一緒に祐一の体を見おろして納得したように頷いた。





 深雪が医院の表玄関と裏口に頑丈な鍵をかけるのを待って、慣れた手つきでバギーを押す美香が宿舎に向かって歩を進めた。
 深雪の自宅と美香の宿舎は医院と同じ敷地内にあって、医院の裏口を出ると、20歩も歩かないうちに着いてしまう。もちろん深雪の自宅の方が豪華な造作になっているが、美香の宿舎にしても、よくある建て売りの一軒屋くらいの面積はあるし、造りも悪くはない。それに、医院の表玄関以外の場所は背の高い生け垣に囲まれていて、周りから敷地の中を覗きこまれる心配もない。あまり流行らない小さな医院とその医院の職員の宿舎にこれほどの経費をかけることができるのも、笹野内科医院の背後に慈恵会が控えているからこそ、そうして、美幸と笹野内科医院の秘密が世間に知れ渡ることをなにより恐れる笹野秀和の指図があったからこそだった。
「あ、そうだ。月曜日でいいから、祐ちゃんのカルテを処分しておいてね、浜野さん」
 じきにバギーに追いついた深雪が、美香と肩を並べて歩きながら、思い出したように言った。
「はい、先生。レセプトの方も忘れずに処分しておきます。もう、清水祐一なんて人はいないんですものね。ここにいるのは私の娘、浜野祐香なんだから」
 綺麗に生え揃った芝生の上を医院と宿舎の中ほどまでバギーを押し進めた美香が目を細めて応えた。
「うう、ううう……」
 美香の言葉に、祐一が言葉にならない呻き声をあげ、ベビーバギーの上で激しく首を振って抗議した。
「あら、何をむずがっているのかしら。せっかく、優香おねえちゃんが待ってるお家に帰れるっていうのに」
 バギーを押す手を止めて、美香が祐一の正面にまわりこんだ。
「でも、無理もないわよ、浜野さん。本人は下痢と腹痛を治してもらうつもりでうちの医院にきただけなのに、それが、こんな格好をさせられて、いつのまにか浜野さんの娘ってことにされちゃったんだもの。こんなひどい話ってないわよ。そうよね、清水君?」
 美香の横に並んだ深雪が不意に祐一の苗字を呼んで、いつにない真顔で言った。
 祐ちゃんや祐香ではなく、『清水君』とちゃんと呼んでもらえるのが随分と久しぶりのことにように思える。祐一は首を振るのをやめて、おそるおそる深雪の顔を見上げた。
「だから、最後は清水君に選ばせてあげる。私達にしたって、このまま君を強引に宿舎へ連れ帰ったりしたら後味が悪いもの。
清水君が自分で私達と一緒に行くって言ってくれれば嬉しいけど、でも、自分のアパートへ帰りたいって言うのなら、それはそれで仕方ない。帰らせてあげわ。どうする?」
 深雪は祐一の口からオシャブリをつまみ上げた。
「……本当に?」
 なんだか信じられない思いで祐一は訊き返した。ひどい腹痛を治してもらおうと飛びこんだ医院で、わけのわからないまま手足の自由を奪われ、屈辱に満ちた監禁状態に置かれてきたのを、急に開放してあげるわよと告げられたのだ。祐一が疑ってかかるのも無理はない。
「本当よ、約束する。だから、君自身が選ぶのよ。清水祐一に戻るのか、それとも、浜野祐香になるのかを」
 深雪は真剣な表情で頷いた。
「じゃ、それじゃ、アパートへ帰らせてください。僕のアパートへ、今すぐ」
 迷っている余裕はなかった。いつまた深雪が気まぐれを起こすかと思うと気が気ではない。
「いいわ。清水君が決めたことならね。浜野さん、清水君を帰してあげましょう」
「でも、先生……」
 せっかく買ってもらった玩具を元の売場に返してきなさいと言われた子供みたいに、美香は不満そうに深雪を睨みつけた。
「私の命令です。今すぐ清水君を帰してあげるのよ。今すぐ、ね」
 『今すぐ』というところを妙に強調して深雪が繰り返した。
「――わかりました、先生。今すぐですね」
 何かに気づいたようにはっとした表情を浮かべて、美香があっさり頷いた。
「さ、行きましょうか、清水君。医院の表玄関で見送ってあげる。最後まで送ってあげたいけど、私達は君のアパートがどこにあるか知らないし、優香ちゃんが浜野ナースの帰りを待っているから、それで失礼するわね。――楽しませてもらったお礼に治療費はサービスしておくわ」
 そう言うと、深雪が先に立ってさっさと歩きだした。
「待って、待ってください。このまま――この格好で出て行けっていうんですか!?」
 深雪の後ろ姿に向かって、祐一はバギーから身を乗り出さんばかりに叫んだ。
「そうよ。祐一君が着ていた物は君自身の排泄物で汚しちゃったんだもの、仕方ないでしょう? それに、まだ脚も自由に動かせないんでしょう? だったら、そのバギーに乗ったままじゃないとどうしようもないんじゃない。大丈夫よ、誰か親切な人に頼んでアパートまで押してもらえばいいんだから。あ、そうそう。替えのおむつを入れた袋をバギーに掛けておいてあげるから、途中で取り替えてもらうのね」
 くるりとバギーの方を振り返って、深雪は、これ以上はないというくらい楽しそうに言った。
「そんな、そんな……」
 祐一は茫然とした顔で唇を震わせた。
 小石に乗り上げたのか、バギーが揺れて、祐一が手に持ったガラガラが小さくからんと鳴った。
「そのガラガラはプレゼントするわ。アパートまでバギーを押してもらう間、退屈でしょうから、それで遊んでいるといいわ」
 深雪の眼鏡のレンズに夕焼けの赤い空が映っていた。
「日が暮れるといけないわね。早く行きましょう」
 もういちどくるりと背を向けて深雪が歩きだそうとする。
「待ってください。お願いだから待って」
 祐一が懇願するように言った。
「どうしたの?」
 顔だけ振り返って深雪が訊いた。
「こんな格好を誰かに見られるなんて……このまま医院の外へ出て行くなんて……」
 思い詰めたような表情で祐一は口の中で呟いた。
「じゃ、どうしたいの?」
 追い討ちをかけるみたいに深雪がぴしゃりと言った。
「……手と足が動くようになるまで……ひとりで歩けるようになるまで……ここにいさせてもらえませんか?」
 目を伏せて、敗北感にまみれた顔をして、祐一は途切れ途切れに言った。
「つまり、前言撤回ってことね? 自分のアパートに戻りたいんじゃなくて、私達と一緒にいたいのね?」
 たたみかけるように深雪は言った。
「あの、だから、ひとりで歩けるようになるまでの間だけ……」
 祐一はおどおどした顔で言った。
「いいわよ。清水君がそう言うのなら、私達は大歓迎。ひとりで歩けるようになるまでの間? いいわよ、それで。でも、忘れないでちょうだいね。これは清水君が自分で言い出したことなのよ。私達は何も強制してないわよ。わかってるわね?」
 そう言われて、ようやく祐一は深雪の意図に気づいた。気づいたけれど、もう手遅れだった。
「……はい」
 祐一は、自分が狡猾な蜘蛛にからめとられた哀れな獲物だということを痛いほど思いしらされた。アパートに帰してあげましょうかといった深雪の言葉が、実は自分を周到に張り巡らせた罠に誘いこむための甘い蜜にすぎなかったことをいやというほど思いしらされた。深雪は巧みに、祐一が自分から二人と一緒にいたいと言うように仕向けたのだった。それが本当は祐一の意志ではないにせよ、ひとたびそのことを口にさせれば深雪にとってはそれで充分だった。
 人を屈服させた瞬間の、強い酩酊にも似た快感が体中を駆け巡る。





 ドアを開けて祐一が乗っているバギーを玄関に押し入れると、すぐに美香は大きな声を出した。
「優香、帰ってきたわよ。遅くなってごめんね」
 夕暮れが近いというのに、蛍光灯が灯ったままで昼間みたいに明るい廊下に美香の声が響き渡ると、廊下の奥の方から、とてとてと誰かが動くような足音らしき物音が微かに聞こえてきた。
 待つほどもなく姿を現したのは、ブルマードレスというのだろうか、腰のあたりがスカートになっていてふわりと広がったロンパースふうのベビーウェアを着た赤ん坊だった。ベビーウェアの上の方は幅の広いレースふうの肩紐が背中から胸の方へ伸びていて、中に着ている白い柔らかそうな生地のブラウスにとてもよく合っている。下の方はスカートとその中のブルマーが一体になっていて、ロンパースみたいに、お尻のところがボタンを外せば大きく開くようになっていた。もちろん、ブルマーはおむつのせいで大きく膨らんでいる。
 おむつで膨れたブルマーのお尻を左右に振りながら廊下を這ってきた赤ん坊は、美香の姿をみつけるなり、
「ママ、ママ」
と甘えた声を出して急いで近づいてきた。
「ごめんね、優香。せっかくの土曜日なのに遅くなっちゃって」
 美香は近づいてきた赤ん坊を軽々と抱き上げると軽く頬にキスをして、ベビーバギーに乗ったままの祐一に向き直った。
「ほら、これが優香おねえちゃんよ。よろしくね」
 赤ん坊の体を心もち祐一の方へ突き出すように抱き直して美香が言った。
 廊下を這ってこちらに近づいてくる赤ん坊の姿を目にした瞬間から、祐一は大きく両目を見開いて言葉を失っていた。
 美香が祐一に優香おねえちゃんよと紹介したその赤ん坊は、普通の赤ん坊ではなかった。可愛らしいベビーウェアも、おむつで大きく膨らんだお尻も、そうして、ベビーウェアの上に着けているよだれかけも、どれを見ても赤ん坊の装いだったけれど、その身長も、微かに膨らんだ胸も、優香と呼ばれたその女の子が実は赤ん坊などではないことを物語っていた。
 身長は祐一と同じくらいありそうだったし、よだれかけのせいではっきりしないものの、美香ほどではないにせよ、胸もその装いとはまるで似つかわしくないくらいには発育しているようだった。――美香の娘だという優香もまた、祐一と同じ大きな赤ん坊だった。年齢ははっきりしないけれど、ひょっとすると祐一よりもいくらか上かもしれない。
「今日ママの帰りが遅くなったのは、この子を連れて帰る準備をしていたからなの。今日から優香の妹になる祐香よ。仲よくしてあげてね」
 言われて、きょとんとした目で優香が祐一の顔を見た。その時になって初めて祐一に気づいたみたいな、なんだかとても驚いたような目だった。
「言ってごらん。祐香よ、祐香」
 美香は祐一の方に優香の顔を向けさせながら繰り返した。
 優香は祐一のようにオシャブリを口にふくんでいるわけではない。それに本当の赤ん坊ではないのだから、そんなことは簡単に口にできる筈だ。なのに、どことなくためらってでもいるように、なかなか口を開こうとしない。
「ほら、優香のお口で妹の名前を呼んであげるのよ。このお口で祐香ちゃんて」
 美香が何度も促した。
「ゆ……ゆかちゃん……」
 やっと口を開いた優香が、どこか遠慮するように祐一の新しい名前を呼んだ。
 やっと開いた優香の口元を目にした瞬間、祐一の顔がこわばった。さっき美香をママと呼んだ時にははっきりしなかったけれど、こうして近くで見るとよくわかる。――優香の口の中には一本も歯がなかった。ピンクの歯茎には、白い歯が一本も生えていなかったのだ。
 突然、小児科処置室で美香が言った言葉が祐一の頭の中に響き渡った。無理矢理ふくまされた美香の乳首に噛みついてやろうかと考えた祐一に美香は「もう二度とそんなおいたができないように、その子の歯はみんな抜いてあげたわ。だからその子、今でも普通の食べ物は食べられないのよ」と言って笑ったのではなかったか。
 それじゃ、この子が。
 祐一と同じように美香の乳首を咥えさせられて、その乳首に噛みついたというのが。そうして、そのお仕置きとして歯を全て抜かれてしまったというのが、この優香という女の子――正確に言えば、美香よりも少し年下の女性なのか。
 痛くはなかったろうか。麻酔はちゃんと打ってもらえたろうか。いや、たとえ麻酔を打たれたとしても、痛みを感じないのはその時だけだ。一度に何本の歯を抜かれたのか知らないけど、一本も残さずに歯を抜かれたりしたら、それはひどい負担だったろう。それに、歯を失ったために、食べ物にも不自由するにちがいない。それこそ美香が言うように、すごく柔らかい物や飲み物しか口にできない筈だから。
 思わず祐一は身震いした。
「えらいわ、ちゃんと呼べたわね。そう、祐香ちゃんよ。優香はまた一つ言葉を憶えることができたのよ、よかったね」
 美香は優香の頬にもういちどキスをした。
 はにかんだような顔で優香が小さく頷く。
「じゃ、おむつを取り替えようね。妹の祐香に見てもらいながら取り替えてあげる」
 美香は満足そうに微笑むと優香の体を廊下に戻して仰向けに横たわらせ、ふわりと広がったスカートと一体になったブルマーの股間に並んでいるボタンを外し始めた。
 優香の顔がほんのり赤く染まるのを祐一は見逃さなかった。初めて出会った祐一の見ている前でおむつを取り替えられることを恥ずかしがっているのが明らかだった。
 それを見て、祐一は少し混乱した。歯を全部抜かれるようなひどい仕打ちを受けてまで美香のことをママと呼んで甘えてみせる優香の様子を目にして、ひょっとしたら何か奇妙な薬でもって心の方も支配されてしまっているのかと祐一は疑っていた。祐一の――おそらくは優香も――腕と脚の自由を奪ってしまうような薬をいとも簡単に調合してしまう深雪のことだから、強力な向精神薬を作って優香に投与し、精神の自由まで奪って強制的に美香に甘えるように仕向けているのではないかと思ったのだ。それなのに、優香は恥ずかしがってみせた。つまり、優香にはちゃんと羞恥心が残っているということになる。それは、優香の心が薬なんかで縛られているのではないことを意味していた。だから、尚さらわからなくなってくる。どうして優香は美香なんかに甘えるんだろう?
「どうしたの、祐香。そんな難しい顔は赤ちゃんには似合わないわよ」
 ひとり思い沈む祐一をからかうように言って、美香は、ボタンをみんな外してしまったブルマーを優香のお腹の上に捲り上げた。そのまま手を休めることなく、ブルマーの中から現れたクリーム色の生地に小熊のアップリケが縫い付けられたおむつカバーの前当てを優香の両脚の間に広げ、横羽根を外してお尻の横に広げてゆく。
 優香の下腹部を包みこむ動物柄の布おむつはぐっしょり濡れていた。もうすっかり冷えきっているのだろう、僅かな湯気も立っていない。
「可哀想に、びしょびしょじゃない。でも、そうよね。お昼前の休憩時間に取り替えてあげただけだもん。お尻、気持ちわるかったでしょう?」
 そう言いながら、優香の白い肌にべったり貼り付いている布おむつを美香が外していると、いつのまに上がりこんでいたのか、両手に荷物を抱えた深雪が廊下の奥の方から姿を見せた。
「はい、これ」
 深雪は、持ってきたポリバケツを美香の手元にそっとおろした。
「あ、すみません」
 美香は優香の両足の足首をまとめてつかむと、そのまま高く持ち上げて優香のお尻を床から浮かせ、その隙間から濡れた布おむつを手元にたぐり寄せた。
 眩いばかりに白い股間があらわになった。
 祐一は目をそむけることも忘れて、まるで吸い寄せられるように、若い女性の下腹部に見入ってしまった。優香の股間は、童女のように無毛だった。ピンクの肉の谷間が黒い茂みに覆い隠されることなく三人の目にさらされている。
「見てごらんなさい、祐香。優香おねえちゃんのここ、綺麗でしょ? 黒くてちぢれたいやらしい毛もないし、誰かさんみたいに邪魔なおちんちんも付いてないのよ。つるつるですべすべでしょ?」
 顔だけ振り向いた美香は祐一の顔を斜に見て言った。
 ベビーバギーに座らされたまま美香の背中越しに優香の下腹部に見入っていた祐一は慌てて目をそらせた。
「いいのよ、今さらそんなことしなくても。姉妹なんだから、よく見ておくといいわ。今まで、女の子のここをちゃんと見たことなんてないんでしょう?」
 美香にベビーパウダーの容器と新しい布おむつを手渡しながら、からかうように深雪が言った。
 祐一は顔を真っ赤にして目を伏せた。
「もういいの? じゃ、新しいおむつで隠しちゃうわよ」
 美香も深雪に調子を合わせて言うと、優香の股間にベビーパウダーを擦りこんで、優香のお尻とおむつカバーの間に新しい布おむつを敷きこんだ。
 ふと顔を上げた祐一の目に、美香が手を動かすたびに優香の両脚が閉じたり開いたりする様子が飛びこんできた。そうして、その動きに合わせてピンク色の肉の谷間が微かに開く様子も。祐一は再び慌てて目を伏せた。

「はい、できた。新しいおむつは気持ちいいでしょう?」
 おむつカバーの裾ゴムからはみ出た布おむつをおむつカバーの中に押しこんで、美香は優香の体を抱え起こした。
「ぱいぱい、ぱいぱい?」
 上半身だけ体を起こした優香は、美香にすがるようにして声を出した。優香の唇が動くたびにピンクの歯茎が見えて、顔を伏せたまま優香の様子をそっと窺い見ている祐一は胸の中で溜め息をついてしまう。
「そうね、お腹が空いてるのね。はいはい、おっぱいにしましょうね」
 優香の顔をいとおしそうに見おろして、あやすように美香は言った。そうして少しだけ間を開けて、悪戯っぽい口調で続ける。
「でも、ママのおっぱいはみんな祐香にあげちゃったの。だから優香は離乳食にしましょうね」
「や。ぱいぱい、ぱいぱい」
 少し拗ねたような表情で優香は繰り返した。その様子だけを見ていると、赤ん坊そのままの優香だった。
「やれやれ仕方のない子ね。いつまでも甘えんぼうだと、妹の祐香に笑われちゃうわよ。――ま、いいわ。そんなにおっぱいが欲しいのなら、下のミルクをあげる」
 満更でもなさそうな表情でそう言うと、美香はその場に膝立ちになった。そうすると、ちょうど優香の顔と美香の下腹部が同じ高さになる。
 なんだか、とても奇妙な光景だった。
 なぜだかわからないけど、胸がざわめいてくる。祐一は思わず顔を上げた。
 優香と向き合って膝立ちになった美香が、やおら白衣を脱ぎ捨てた。そうして、白衣の下に穿いている濃紺のスカートの裾に手をかける。
 美香が自分のスカートをさっとたくし上げた。ブラとお揃いの黒いレースのスキャンティが丸見えになった。
 祐一は息を飲んだ。
 美香が身に着けているスキャンティの股間のあたりが異様に大きく膨らんでいた。
 左手でスカートの裾をたくし上げたまま、美香は右手でスキャンティを膝の上まで引きおろした。
 それまでレースのスキャンティの中で窮屈そうにしていた肉棒がやっと自由になって、優香に狙いをつけるみたいに屹立した。
「上のおっぱいは祐香が飲んじゃったけど、こっちはまだ残っているわよ。本当はこっちも祐香に飲ませようかと思ったんだけど、優香が寂しがるといけないから残しておいたの。さ、たくさん飲むといいわ」
 怒張したペニスを右手で下から支えるようにして、美香は下腹部を優香の口に向かってぐいと突き出した。
 おずおずと美香のペニスを口にふくむ優香の顔には、もう、おむつを取り替えられる時にみせた恥じらいの表情はなかった。
 優香がペニスを咥えると、美香は両腕を優香の首筋に巻きつけ、更にぐいと下腹部を突き出した。
 はらりと落ちたスカートの裾が、優香の首筋をつかまえている腕に掛かった。そのせいで、祐一のいる所からは優香の表情が見えなくなってしまったが、時おり洩れてくる美香と優香の呻き声が却ってひどく淫靡な響きに思えてくる。
「ほら、先の方を嘗めるのよ、ほらったら」
 ゆっくり腰を動かしながら美香が命令している声が微かな呻き声に混ざって聞こえてくる。祐一は、自分が何を見ているのか全くわからないまま、それでも目の前の光景に釘付けになってしまう。
「そう、そうよ。もう少し舌を使いなさい。優香が上手に吸えば吸うほどこのミルクはたくさん出るんだから」
 円を描くように美香が腰を動かし、それに合わせて優香も顔を動かし続ける。
「いいわよ。本当に優香は下のおっぱいを吸うのが上手だわ。祐香が上のおっぱいを吸ってくれた時もママ感じちゃったけど、それよりもずっとすごいわよ。うふふ、やっぱり、おねえちゃんだけのことはあるわね」
 美香の声がどことなくかすれてきた。
「駄目よ、舌を休ませちゃ。顎の上で休んでないで、ほら、ぴちゃぴちゃしなさい」
 口の中に溜った唾を飲み込むのに、優香の咽喉がごくりと動いた。その動きがひどく猥褻な感じがする。
「いいわよ、噛んでも。歯のない優香の歯茎に噛まれても、ちっとも痛くないから。ううん、とっても気持ちいいんだから」
 美香は腰を前後に動かし始めた。美香のペニスの上を優香のピンクの歯茎と真っ赤な唇が滑る。
「軟らかい唇ね。それに、ぷりぷりした歯茎。ママのあそこ、いくらでも大きくなりそうだわ。大きくなればなるほど特別なミルクもたくさん溜るんだから、優香も嬉しいでしょう?」
 髪にピンで留めているナースキャップがずれてくるのも気にする様子もなく、美香は身悶えしながら腰を振る。
「いい? もっと奥に突っ込むわよ。ママのあそこの太いところをきゅっと噛んでちょうだい」
 両腕に力を入れて、美香は優香の顔を抱き寄せた。
「そう、そこよ。そこを噛んで――ほら、舌はどうしたの。舌を丸めて先の方をくすぐるのよ」
 濃紺のスカートのむこうがわで優香はどんな顔をしているのだろう。どんな顔をして美香のペニスに奉仕しているのだろう。
「いいわよ。優香は本当に上手ね。上手なご褒美に、もうすぐミルクをあげるからね」
 美香の肉棒に貫かれた優香の顔を想像すると、前立腺を弛緩させられたために僅かも勃起しなくなっている筈の祐一のペニスさえもがもぞもぞと動きだしそうに思えてくる。
「さ、そろそろよ。もうすぐミルクが出るから、ちゃんとそのお口で受けとめるのよ」
 喘ぐような声で言って、美香は微かな悲鳴めいた声をあげて体をのけぞらせた。
 実際には聞こえる筈がないのに、どくんという音が聞こえてきそうだった。
 優香の咽喉がぐびぐび動く。
 美香は優香の首筋にまわしていた手を背中までおろして、そのまま優香の体に体重を預けるような姿勢で優香の体を引き寄せた。
「おいしい? おいしいに決まってるよね、ママの特別のミルクだもん。上のおっぱいよりも何倍もおいしいよね?」
 かすれた声で美香は何度も繰り返した。

 絡み合う二人の姿から目を離せないでいる祐一の体に誰かの手が触れた。
 はっとして祐一は我に返った。
 目の前にいたのは深雪だった。祐一の肩に触れた深雪の手がそのまま祐一の体の上を這って、ベビーバギーのベルトを留めている金具に届いた。
「浜野さん、鍵を借りるわよ」
 はあはあと大きく胸を動かして荒い呼吸を繰り返している美香とは対照的に、こちらはいたって冷静な声で深雪が言った。
「どうぞ、先生。でも、私の方は手を離せませんよ」
 荒い息をつきながら、上気してほてった声で美香が応えた。
「わかってるわよ。勝手に取るから気にしないで」
 深雪は、美香が廊下に脱ぎ捨てた白衣のポケットを探って金色の鍵をつかみ上げた。それを金具の鍵穴に差し込んで軽くまわし、小さなボタンを押すと、祐一の体をベビーバギーに縛りつけていたベルトがいとも簡単に外れてしまう。
「優香ちゃんがママのミルクを飲んでる間に、祐香ちゃんは私がおむつを取り替えてあげるわね。うふふ、びしょびしょなんでしょ?」
 ようやく自由になった祐一のベビードレスの裾をさっと捲り上げて、深雪は右手をおむつカバーの中に差し入れた。
 祐一は体をひねったけれど、そんなことで深雪の手から逃れられるわけがない。おむつカバーの中に差し入れた手をもぞもぞ動かして様子を探っていた深雪の顔に、満足したような笑みが浮かんだ。
「やっぱりだ。ほんと、祐香ちゃんは少しも我慢できないのね。一日の間にどれくらいのおむつを汚しちゃうのか、心配になってきたわ」
 輸液に混入した利尿剤は、点滴が終了してもすぐに効果がなくなるようなものではない。個人差はあるけれど、少なくとも3時間くらいは持続する。自分が投与した薬剤のせいで祐一がおもらしを続けていることなど全く知らぬげに、深雪は、さもそれが祐一自身のせいだと言わんばかりだった。
「ほら、優香ちゃんの隣でおむつを取り替えてあげる。今度は祐香ちゃんがおねえちゃんに見てもらいながらおむつを取り替える番だからね」
 深雪はバギーから軽々と抱き上げた祐一の体を、そのまま美香と優香のすぐそばにおろした。
 深雪の手が導くまま、祐一はその場に横たわった。ベビードレスの裾はもうお腹の上に捲れ上がっていて、レモン色の生地にキャンディーの柄をあしらったおむつカバーが丸見えになってしまっている。
 美香のペニスを口にふくんだまま、優香が祐一の顔をちらと見た。今の場所からだと、美香のスカートが邪魔になることもない。一瞬、優香と祐一の目が会った。祐一は慌てて目をそらせた。頬が熱くなるのがわかる。ついさっき見た優香と同じように自分も顔を赤くしているんだろうなと思うと、そう思うだけで、ますます顔中が熱くなってくる。
「それじゃ先生、祐香の方はお願いします」
 顔だけ深雪の方に振り向いた美香が甘い声で言った。そうして、もういちど優香の顔に視線を戻してそっと下腹部を退く。
「祐香がおむつを取り替えてもらっている間に優香はママのあそこを綺麗にするのよ。ほら、舌を出してちゃんと嘗めなさい」
 鈍い音と共に美香が優香の口からペニスを引き抜いた。大きく屹立していたペニスはもうすっかりおとなしくなり、美香の股間で小さくなっている。
 廊下に両手をついて美香の股間を見上げるような姿勢になった優香が、真っ赤な唇の間からちろりと舌を突き出した。まだ美香の精液にまみれたままの、表面が白い膜に薄く包まれたような、見るからに淫靡な感じのする舌だった。
 美香は両手でスカートの裾を持ち上げた。
 真下から美香の股間を振り仰ぐようにして、まだ微かにひくひくと動いているペニスに向かって優香が舌をのばした。ちぢこまった美香のペニスは自分が溢れ出させた精液にまみれて、皮膚のところどころが白くなっている。皺になった皮膚にこびりつく白い体液を、優香の舌が丁寧に嘗め始めた。ぴちゃぴちゃと聞くに堪えないようないやらしい音をたて、まるで、目の前に突き出された餌を嘗めまわす子猫みたいに。
 優香が自分の舌で美香のペニスを綺麗にしている間に、深雪はすっかり祐一の下腹部を丸裸にしてしまっていた。おむつカバーは前当ても横羽根も廊下の上に広がり、ぐっしょり濡れたおむつは、美香が優香のおむつを投げ入れたポリバケツにおさまっている。
 深雪は、優香とお揃いの動物柄の布おむつを祐一のお尻の下に敷きこんだ。
 深雪がちらと横を見ると、優香が美香のペニスから舌を離して、祐一の股間を少し驚いたような顔で覗きこんでいた。
「ほら、さぼってちゃ駄目でしょ。ママの大事なところを綺麗にしてくれなきゃ」
 舌を離した優香を美香は叱ってみせたけれど、本気で怒っている声ではなかった。どこか笑いを含んだ、優香が祐一の股間をじっと見つめるのも仕方ないというような、どちらかというと柔らかい声だった。
 優香はおずおずと美香の顔を見上げた。
「やれやれ、仕方ないわね。妹の祐香がおちんちんを持ってるなんて、優香じゃなくてもびっくりしちゃうわよね。いいわ、ママのことはもういいから、祐香がおむつを取り替えてもらうところを見てなさい」
 くすっと笑って、美香はスキャンティを引き上げた。黒いレースのスキャンティの股間は相変わらず膨らんでいたものの、優香が唇と舌で奉仕したために、スキャンティを引きおろす前に比べれば、その膨らみはいくらか小さくなっていた。
 美香がスカートの乱れを直し始めるのと同時に、優香が再び祐一の方に向き直った。
 優香の顔からは驚いたような表情は綺麗に消え去っていた。その代わり、どことなく物欲しそうな、何かを懐かしがってでもいるような表情が浮かんでいる。
「あらあら、優香ちゃんも祐香ちゃんみたいにおちんちんが欲しいのかしら?」
 優香の視線を意識してか、わざとゆっくり祐一に新しいおむつをあてながら深雪が笑い声で言った。
 はにかんだような顔になって、こくりと優香が頷いた。
「そうよね、優香だって祐香みたいにおちんちんが欲しいよね。そりゃ、すごく懐かしいよね?」
 ブラウスの上に白衣をはおり、ずり落ちそうになっていたナースキャップを元に戻してすっかり装いを整えた美香が悪戯っぽい口調で言った。
「なんたって、一年前までは優香にもちゃんとおちんちんが付いてたんだもの」
 祐一は自分の耳を疑った。
 優香にもおちんちんが……?
 わけがわからなくなって、祐一は優香と美香の顔を何度か見比べた。そうして最後に、おそるおそる深雪の顔に目を向ける。
「知りたい?」
 深雪は短く訊いた。
 よく見ていないとわからないほど小さく、祐一は無言で頷いた。
「じゃ、教えてあげる。浜野ナースと優香ちゃんと、そうして私の秘密を」
 祐一の下腹部を動物柄の布おむつでくるみながら、深雪は全てを話し始めた――。







 浜野美香の本名は、『香』と書いて『かおる』と読む。まぎらわしい名前だが、れっきとした男性だ。看護士と理学療養士の資格を持っている上に合気道の有段者ということもあって、勤務先の病院でも特に咄嗟の判断や体力が要求される救急部門の中核的な存在として活躍していた。
 そんな香に笹野秀和が目をつけて深雪の見張り役を命じたのは前述した通り。いざという時に力ずくで深雪の行動を阻むだけの体力はあるし、香ひとりで充分に深雪をアシストできるだけの医療知識と経験を持っているのを見込んでのことだった。深雪の秘密を世間に知られないようにするには、彼女の周囲にいる人間も極力少なくする必要があった。
 新しい医院のスタッフだといって秀和が香を初めて引き合わせた時、深雪はあっさり頷いた。が、それは、香の持つ知識や資格を認めたためというよりも、香の一見したところでは女性と見間違ってしまいそうなほどに整った顔やスレンダーでしなやかそうな体つきが気に入ったためだった。深雪が若い男性に求めるのはそれだけだった。明晰な頭脳や力強さなら、もう既に深雪自身が備えている。自分に備わったものをわざわざ他人に求める必要など微塵もなかった。
 こうして、深雪は香を引き連れて真新しい笹野内科医院に赴任した。
 が、そこには先客がいた。
 やはり若い男性で、名前を上村優という。優(まさる)も慈恵会の職員で、看護士資格も持ってはいるものの、香とは別の病院で主に事務系の仕事を担当していた。笹野内科医院でも経理をはじめとする事務処理一切をまかせると秀和に言われて赴任してきたのだ。優が二人よりも先に赴任していたのは、医院が建設途中から備品の調達や建築会社との折衝等もまかされたためだった。秀和がわざとそういう男性を選んだのか、優も香に劣らぬほどに整った顔とスレンダーな体の持ち主だった。ただ、香や深雪に比べるとかなり小柄で、どことなく華奢な感じがするのは否めない。
 もちろん、一目見て深雪は優を気に入った。しかし、優に心惹かれたのは深雪だけではなかった。香も、また。
 香が合気道を習い始めたのには理由がある。女性と間違われそうな顔と細っこい体のせいで、香は、中学生時代から何度か痴漢に体を触られたことがある。通学途中のバスや電車の混雑の中で、お尻や股間のあたりをいやらしい手つきで撫でまわされたことが数えきれないほどあった。それも、殆どが男性の手だった。そんな日が続いて、香は半ば本気で身の危険を感じるようになった。ひょっとしたら痴漢行為以上のことをされるかもしれないと、恐怖にも近い不安を覚えるまでになった。その不安から逃れるために、香は高校に入学すると同時に合気道を習い始めたのだ。自分の身を護ってくれる者は結局、自分しかいないのだから。合気道を習い始めて幾らかは精神的な落ち着きを取り戻しはしたものの、それでも、不安に苛まれる日は続いた。多感な少年時代に心に植えつけられた不安や恐怖は深い傷になって残り、その上に張った薄いかさぶたは、ちょっとしたきっかけですぐに剥がれてしまうのだった。高校時代も看護専門学校に通っている間も、香は周囲の目にびくびくと怯える日々を送り続けた。そんな香に転機が訪れたのは、慈恵会に採用され、系列の総合病院に勤め始めてからのことだった。病院の看護スタッフとして働きだした香が相手にするのは、当然のことながら、体の不調を訴える患者ばかりだった。自分ひとりでは満足に体を動かすことのできない患者も少なくはない。そんな患者たちの介護をし、世話をやいているうちに――そうして、時に患者を叱責しているうちに、香の精神状態が微妙に変化してきた。周囲の目にびくびくしながら生活してきた反動なのか、自分の指示に素直に従う患者たちを見ているうちに、他人を従わせる悦びに酔い痴れるようになってきたのだ。凌辱されていた者が凌辱する側に立った時、抑えがきかなくなることは珍しくない。それも、幼い頃から心にトラウマを抱えて生きてきた香だ。これまで周囲から受けてきた怯えを今度は逆に周囲に発散させることで、ようやく心の平静を覚えるようになったとしても不思議ではない。いつしか香は、氷のように冷たい目で患者たちを見下すようになっていた。
 そんな香の目の前に現れた優は、まるで昔の香自身だった。整った顔と華奢な体。どこかおどおどしているみたいな、下から見上げるようにして人と話す仕種。そのどれもが、周囲の目にびくついていた頃の香そのままだった。昔の自分を見るようなその姿に激しい嫌悪感を抱くと同時に、香は強く心を惹かれた。昔の自分さながらの優をいとおしんでのことではない。激しい嫌悪感と表裏になった加虐的な興味のためだった。初めて出会ったこの瞬間に、香は、優をぼろぎれのようにしてやろうと思いたったのだ。

 なにごともない時間が流れて行ったのは最初の半年間だけだった。
 開院間もない内科医院を訪れる数少ない患者を診療するだけの淡々とした日常の中で、けれど、その後に来たる非日常の芽は着実に育ちつつあった。香は優への思いを弱めるどころか、ますますその思いを募らせ、深雪の心に巣くう異様な支配欲は新たな獲物を求めて悶々としていた。
 胸の中に普通ではないものをひそませたまま日常を送る続ける二人の心がいつしか共鳴し合ったとしても不思議はない。互いの存在、互いの在りようといったものは、言葉や行動が介在しなくても、いとも簡単に互いを衝き動かしてしまう。特に、秀和から深雪の秘密を聞かされていた香が、それと意識して行動を起こせば尚のこと。
 最初に動いたのは、そう、香の方だった。
 香は、秀和から与えられた自らの役割を深雪に告白した。笹野内科医院の医療スタッフとしての役割ではない、深雪の見張り番としての役割のことを。が、そのことを告げられた深雪は驚く気配もみせなかった。己の欲望を妨げようとする者を嗅ぎわけることに関しては極めて敏感な臭覚の持ち主である深雪は、秀和によって引き会わされた時から香の正体に薄々気づいていた。気づいていて、敢えて香を自分の近くに置くことにしたのだ。それは、深雪の本能的な判断だった。深雪の嗅覚が香の体から立ちのぼる匂いを敏感に嗅ぎわけて、それが自分の匂いと驚くほど似ていることに気がついたからだった。今は秀和の指示に従う香が、けれど心の深い所では実は自分と同類なのだと深雪の本能は告げていた。
 そうして深雪が一瞬で見抜いた通り、香は遂に深雪の側に立った。秀和から与えられた役割を捨て去り、深雪の指示に従うと申し出たのだ。その代わり、香の欲望を満たす手助けをしてほしい、と。
 香自身の欲望。いうまでもない、優を自分のものにすることだ。昔の自分そのままの優と一体になってこそ、ようやく自分がここにいると思える――昔の自分を吸収してしまわなければ、昔とは違う今の自分の在りように確固たる自信を持てないような気がしてならない香。ワンペアの片割れのカード、ハーフムーンの影の部分、そうして、嘘つき鏡に映った自分自身。とてもよく似ているのに、それ自体ではないもの。そんなものを自分の一部にすることで、やっと自分自身に安心することができるんだと思いこんでいる香。
 欲望を満たすために香が選んだ方法は、優を犯すことだった。他人を――ひとりの独立した人間の存在を否定し、自分に従属させるための最も手っ取り早く効果的な方法は、自らの男根で相手の最も恥ずかしい部分を貫き、喘ぎ声をあげさせることだった。それも、暴力的に。少年時代からそうされることに激しく怯え、そうされることから逃れるために合気道を習い始めさえした、屈辱に満ちた行為。そうされる立場になればそれがどれほど惨めなことなのか想像することさえ憚られるのに、そうする立場になることを思うだけで体が疼いてくるのは、昔の自分に思う存分しっぺ返しをしてやれる悦びのためなのだろうか。あるいは、自分を怯えさせ続けてきた世間と、昔の自分を犯すことでやっと対等な存在になれると思えるからなのだろうか。
 香が深雪に依頼したのは、優を犯す瞬間を見守っていてほしいということだった。過去を精算する瞬間に、証人として深雪に立ち会ってほしい、と。
 が、深雪は拒否した。
 といっても、香の依頼を無碍にあしざまにしたのではない。もっと面白い方法があるわよと深雪は香に囁きかけたのだった。――優君を女の子に変えちゃいましょうよ。きっと、可愛いい女の子になるわよ。深雪は香に、優に性転換手術を施そうと提案したのだ。
 同じ犯すにしても、その方がやりやすいわよ。それに、優君が感じる屈辱はその方がずっと大きくなるんじゃない? 深雪はそう言って香をそそのかした。が、深雪の本当の目的は別のところにあった。笹野内科医院に赴任して半年。内科の診療ではメスを使う機会は滅多にない。そのため少なからず欲求不満になりかけていた深雪は、香の申し出を幸いと、メスを握るチャンスを作ることにしたのだった。女性から男性への性転換手術は患者への負担も大きく、執刀する医師にも高度な技量が要求される。それに比べて、男性から女性への性転換手術は意外に簡単なものだ。患者の体を固定できる手術台と無影照明、それに電気メスがあれば、深雪くらい腕のたつ医師なら易々とやってのけられる。
 香はあまり考えもせずに頷いた。自分の過去を精算するためとはいえ、やはりホモセクシュアルな行為には抵抗感もある。それならいっそ、優を女性に変えてから。言われるまま、深雪の企みに乗る香だった。そのことが香自身の将来を大きく変えてしまうことになることも知らずに。
 そうして、或る日曜日。
 休診日だというのに言葉巧みに宿舎の部屋から医院の内科処置室に呼び出された優を待っていたのは、手術着に身を包んで右手に注射器を持った深雪と、やはりこちらも手術着をまとった香だった。
 わけがわからず驚いた顔をして処置室の入り口に立ちすくんでいる優のすぐ前にやってきた深雪は、何も言わずに注射器の針を優の腕につき立てた。注射器を満たしているのは、退屈な医院暮らしにかまけて深雪が合成した薬――祐一の腕と脚とそうして膀胱の筋肉を弛緩させた例の薬だった。反射的に深雪の手を振り払おうとする優の体を香が押さえつけている間に、深雪は両方の腕と両脚に注射器の薬を投与してしまった。そうしておいて抵抗する術を失った優の体を処置台の上に固縛し、強引に麻酔ガスを吸引させて、いよいよ深雪はメスを握った。どこからか手に入れてきた中古の無影照明を受けて額の汗を光らせる深雪は、久しく忘れていた妖しい悦びに満ちた顔をしていた。

 手術が終わって麻酔が切れても、優の体に自由が戻ったわけではない。むしろ、それからが生き地獄の日々だった。
 手術の前に注射された薬の効果が長く続いた上(結局、一度の注射の効果が薄れるまでにおよそ一週間の時間が必要だということが後になって判明した。いってみれば、初めての『動物実験』が優への投与だったのだ)、自分の全く知らないうちに女性のものに造り変えられてしまった性器には、膣が癒着してしまわないよう硬質ゴムでできた分離具を常に挿入している必要があり、ただでさえ精神的な混乱の極みに追い込まれた優には、自分自身の体だというのに、術後の後処置でできることは何ひとつありはしなかった。性器の改変に合わせて短く切断された尿道から血液の混ざった尿を溢れさせ、そのたびに香に綺麗に拭き取ってもらう時の羞恥。日に何度か硬質ゴムの分離具を消毒しては、そのたびに再び挿入される時の惨めさ。腕が自由にならないために三度三度の食事さえ香の世話にならなければどうしようもない屈辱。それに、大量に投与される女性ホルモンのために頭がぼんやりしてしまい、自分がどんな状況に置かれたのかさえ時おり思い出せなくなる苛立ち。手術後のおよそ三周間というもの、この世のものとは思えぬ苦痛にさいなまれ続けた優だった。
 そうしてまた、香も。
 優の手術が終わって一週間ほどが経った頃から、香の体にも異変が起き始めていた。妙に胸のあたりが窮屈で、体全体が丸みを帯びてきたように思えてならない。それだけではない。自分では何一つできずにただ寝台の上に寝ているだけの優のことがひどく気にかかって仕方なくなってきたのだ。もともと凌辱の対象として特別な目で見つめていた優だが、それともまた違う、これまで一度も覚えたことのない奇妙な感覚に包まれて、ついつい、いとおしげな目を優に向けてしまうのだった。どこかうっとりしたような、なんだか、優以外の他のものが何も見えなくなってしまうような、夢の中にでもいるみたいな感覚だった。自分のことが何一つできない優のことがひどく可愛らしく思えてくる。そうしている間にも胸はますます窮屈になってくる。最初は胸の筋肉がなんらかの原因で異様に発達してきたのかと思ったが、そんなことではなかった。発達していたのは筋肉ではなく、乳房そのものだった。乳房が異様に発育してきたせいで、いわゆる「おっぱいが張った」ような状態になってしまい、それが圧迫感の原因になっていたのだ。
 そうして遂に、香は、傍目からもそれとわかる豊かな乳房の持ち主になってしまった。それは、食事のたびに深雪が混入し続けた特殊な合成ホルモンのせいだった。学生時代にふとした発見をもとに合成したホルモンの効果を試したくてうずうずしていた深雪は、その実験台に香を選んだのだ。深雪にとって、他の人間は深雪を満足させるために存在するにすぎない。たとえそれが深雪に忠誠を誓うと言った香であろうが、いや、忠誠を誓い、秀和の側から深雪の側に移った、深雪自身と同じ匂いを立ちのぼらせている香であるからこそ、深雪は自分が合成したホルモンの実験台に選んだのだ。そうすることが、肥大化した支配欲の命ずるままに行動する深雪がしめす最高の愛情の証だった。他人を自分に従属させることに悦びを覚える深雪は、自分に従属させられることで他人も悦びを覚えるにちがいないと信じてやまなかったのだから。
 そうして、深雪が造った膣の状態も落ち着いて、いよいよ分離具も不要になった頃。もともと華奢だった優の体は、投与され続けた女性ホルモンのために丸みを帯び、僅かに胸も膨らみ始めて、まるで少女のような体つきに変貌を遂げていた。整った顔も輪郭が卵形になって、それと言われてもにわかには信じ難いほど、すっかり女性らしくなっている。
 香の方も同様だった。深雪が合成した特殊なホルモン(それは、ある種の女性ホルモンに近い組成を持っていた)のために急速に発育した豊かな乳房を突き出すようにして歩く、こちらもやはり丸みを帯びた体つきになった香は、どこから見ても完全に女性の姿になっていた。もうその頃には白衣の下にブラウスとスカートを身に着けるようになった香がスカートの下にペニスを隠し持っていることなど、誰にも想像できないだろう。それだけではない。優の人造の膣から分離具を抜き取るのを手伝っている最中に、香は胸のあたりがじとっと湿めってくる感覚を覚えた。慌てて白衣を脱ぎ、ブラウスのボタンを外した香は、豊かな乳房を包みこむブラ(豊満な胸が揺れて日常生活にも支障をきたすようになって、ついに観念した香はブラを着用するようになっていた)のカップが濡れていることに気がついた。水のようなさらっとしたものではない、もう少しねっとりした感触だった。
 それこそが、深雪が合成した女性ホルモン様物質の真の効果だった。これまで、男性の乳首から母乳が分泌した症例は幾つか報告されている。細心の分析でも、それがごく一般的な母乳の成分とちがわないことも確認されているし、その母乳を分泌した乳首の持ち主が遺伝学的に完全な男性だということも確認されている。つまり、なんらかの方法を使えば男性が母乳を出すことも可能だということは既に実証されていると言ってもいい。女性の場合でも、母乳を分泌する時期は出産以後、およそ一年間くらいに限られている。それ以外の期間は、女性でも母乳の分泌は極めて確実に抑制されているわけだ。だとすれば、男性の場合、その抑制期間が一生に渡って続いているだけだと考えることもできるのではないか。本来は母乳を分泌する潜在能力を有しているのに、女性よりも抑制期間が長いために結局、一生のうちに能力が顕在化しないだけだと。そういったことに興味を抱いた深雪が学生時代に没頭した研究テーマこそが、その抑制メカニズムの解析だった。そうして深雪は、ふとしたことから、抑制メカニズムの働きを制限するホルモンの構造式を見い出すことに成功した。しかも、そのホルモンを人工的に合成する方法さえ発見してしまったのだ。だが、自分で合成したホルモンを動物に投与して実験することもなく、深雪は自らの研究結果を公表することもしなかった。学問的な好奇心による研究ではなく純粋に個人的な興味によるものだということもあったし、なにより、どうせなら最初から人間に投与して効果を確認してみたいと思う深雪の欲望のためもあった。そうして、これまでじっと待ち続けて、いよいよ深雪は香という格好の実験台を手に入れることができたのだった。香の胸を濡らしたのは、深雪がこっそり香の食事に混入し続けた合成ホルモンの効果が表れ始めた乳首から溢れ出た母乳に他ならない。
 そうして、合成ホルモンの投与が香に及ぼした効果は、香の乳房を発育させ、母乳の分泌を促しただけにとどまることはなかった。動物実験も行われていないのだから、合成した深雪自身もそのことには気づいていなかったのだろうが、このホルモンには、肉体に及ぼす効果の他に、向精神薬のような作用を及ぼす効果もあった。それを副作用と呼ぶのがふさわしいことなのかどうか判然とはしないものの、確かにこのホルモンは香の精神状態に変調をきたす効果をありありと示した。胸を濡らしたのが自分の乳首から溢れ出た母乳だと気づいたその瞬間、香は、自らの体から湧き出たその母乳を優に飲ませたいという欲求にかられてしまったのだ。
 自分では何もできない優をいとおしく感じるようになっていたのも、その時既に合成ホルモンが香の精神に効果を及ぼしていたからだった。深雪が合成した特殊ホルモンは、それを服用した人間の母乳の分泌を促進すると同時に、服用した人間が女性であろうが男性であろうが、その母性本能を著しく高揚させるように作用するのだった。――香がいつしか、自分が世話をやいてやらなければ満足に食事もできない優のことを、無力な幼児を見守る母親のような目で見るようになったのも無理からぬことだった。だからこそ、自分の乳房が母乳で満ちていることに気づいた瞬間、ぴんと立った乳首を優の口にふくませたいという半ば本能的な欲求を覚えたのだった。
 欲求にかられると同時に、香は何も考えられなくなった。ぼんやりした意識の中、ブラのストラップをまるでむしり取るようにずらし、寝台に横たわる優の体を抱き上げて、香はピンク色の乳首を強引に優の口にふくませた。
 もちろん、優は抵抗した。同じ慈恵会に勤務する同僚の、それも男性の乳首を口にすることなど、想像するだにおぞましい行為だった。しかも香は、優の体を女性に作り変えるきっかけを深雪に与えた憎むべき張本人だ。そんな香の乳首を口に咥えさせられてそのままいられる筈もない。――意識しないまま、優は香の乳首に歯を立てた。
 香に幸いしたのは、手術が終了してからも深雪が優に例の注射を定期的に打ち続けていたことだった。自分の知らないうちに女性の体に作り変えられた優が自暴自棄になって何をしでかすかしれたものではないと考えた深雪は、手術が終わった後も一週間に一度、優の筋肉を弛緩させる薬を投与し続けたのだった。注射は脚と腕に打っていたのだが、顎や頬の筋肉にも幾らかはその効果が表れていたようで、無意識のうちに思いきり香の乳首に噛みついた筈の優なのに、その力は意外に弱かった。そのため、かなりの痛みを覚えはしたものの、香の乳房にうっすらと歯形が残っただけで、出血に至るようなことにはならなかったのだ。
 むしろ、このことがあって本当に悲惨な目に遭ったのは優の方だった。香の乳首に歯を立てたことへのお仕置きとして、そして、今後二度とこんなことができないようにするために、深雪は優の歯を全て抜いてしまうことにしたのだ。もちろん、一日のうちに全部抜いてしまったのでは優の体にかかる負担があまりに大きいため10日間ほどに分けて数本ずつ抜いていったのだが、それでも、実際にそんな処置を施される優にとってみれば、それは想像を絶する苦痛だった。麻酔が効いているのはほんの僅かな間だけで、その後は、いくら痛み止めを服用しても本当に痛みがおさまるわけではない。しかも、そんな痛みが10日以上に渡って続く上に、一日ごとに数本ずつ歯を失ってしまうために食事もとれなくなって、最後の方は点滴でかろうじて最低限の栄養を補給されるといった状況に置かれる日が続いたのだから。それだけではない。体への負担を少なくするためという名目で点滴の速度を極端に落としているため常に点滴チューブによって寝台の上に縛りつけられたままの優に、容赦なく尿意が襲いかかってくる。そのたびに香の手で女性用の差し込み便器を股間に当てがわれる時の屈辱。そうして、「男の子とちがって、おしっこがどこへ飛ぶかわらかないから気をつけるのよ」とあやすように言い聞かされるたびに覚える羞恥。
 手術が終わって本当なら3週間ほどで処置室から宿舎へ戻れる筈だったのが、そんなこともあって結局、優が自分の部屋に戻ったのは、処置室へ呼び出されてから1ケ月以上も経ってからだった。

 が、ようやく連れ戻された宿舎の部屋は、かつて優が生活していた部屋とはまるでちがっていた。清潔感の溢れる純白の壁は淡いピンクに塗り変えられ、造り付けのクローゼットの前には、扉を堅く閉ざすようにしてクリーム色のベビータンスが置かれ、シンプルなパイプベッドがあった筈の場所には、丸みを帯びたデザインの大きなベビーベッドが置いてあった。――かつての優の部屋は、完全に育児室に作り変えられていた。それは、ホルモンの向精神作用によって心の中に芽生えた歪んだ母性本能に突き動かされるままに行動するようになった香への、深雪からのささやかなプレゼントだった。優のことをまるで自分の赤ん坊のように思いこむまでになってしまった香が存分に欲求を満たすことのできる場所として深雪が用意した、擬似的な母娘が水いらずで暮らすことのできる部屋だった。
 新しい育児室で、あらためて香は優の体を抱き上げ、再び優の口に乳首をふくませた。力なく、それでも優は香の乳首に噛みついた。優にできることはそれしかなかった。手と足の自由を奪われた優にとって、最後に残った、たった一つの、ささやかな抵抗の術はそれだけだった。
 けれど、それはあまりに無力な抵抗だった。固く尖った歯は一本も残っていず、その代わりに香の乳首に触れたのは、ぷにぷにした感触の柔らかい歯茎だけだった。いくら優が香に痛みを与えようとしても、そんなものがどれほどの効果をあげるだろう。それどころか、弾力のある歯茎に愛撫された香の乳首はぴんと勃ち、その先から真っ白な母乳を溢れ出させるばかりだった。
 優の口の中いっぱいに母乳の味と匂いが広がった。
 まともな食事をとることができず、飲み物さえままならなかった優の咽喉がごくりと動いた。それは、優自身の意志ではどうにもならない行為だった。生きるために僅かでも多くの滋養と水分を求める本能の行為の前に、優の意志など、あまりにもちっぽけだった。香を憎みながら、それでも、香の乳首から溢れ出る母乳を貪り飲み続ける優。自分のあまりに惨めな姿に、優は涙を止めることができなかった。とどまることなく流れ続ける涙に頬を濡らしながら、香の豊かな乳房に顔を埋めるようにして乳首を吸い続ける優だった。

 やがて、優は香の母乳をすっかり飲み尽くした。
 ようやくのこと香の乳首から唇を離した優を待っていたのは更なる屈辱だった。
 優の体を横抱きにしたまま、香は部屋の真ん中あたりにある大きなベビーベッドに歩み寄り、ベッドの上を指差してみせた。そこには、何枚もの衣類がきちんと広げてあった。それを目にした瞬間、優は大きく瞳を見開いて激しく首を振った。――ベビーベッドの上に置いてあったのは、鮮やかなレモン色のベビードレスと、純白の生地を飾りレースで縁取りした大きなよだれかけ、それに、ベビードレスとお揃いの色のおむつカバーだった。もちろん、おむつカバーの上には、何枚もの水玉模様の布おむつが重ねてあった。それもまた、新しい育児室と同様、優を処置室に閉じ込めている間に深雪が用意したものだった。慈恵会と取り引きのある介護用品の業者に優の体のサイズを伝え、それに合わせて特別に作らせた衣類だ。サイズこそ優に合わせてあるけれど、基本になるデザインは、言うまでもなく育児用品だった。ベッドの上に置いてあったのは、優を香の赤ん坊に変身させるために深雪がわざわざ用意した育児用品だったのだ。
 抵抗する優の体からあっさりとペーシェントガウンを剥ぎ取って、香は優をベビーベッドの上にそっとおろした。もちろん、柔らかい布おむつの上に優のお尻がちゃんと載るように注意しながら。
 香の母乳でお腹を満たし、香の手でおむつをあてられ、香の指でよだれかけの紐を結わえられた優。この瞬間、上村優の存在はこの世から消えうせ、代わりに、浜野優香が誕生した。同時に、浜野香という笹野内科医院の看護士は浜野美香と名を変えて、笹野内科医院のナースに生まれかわった。それはまた、一組の母娘の誕生の瞬間でもあった。赤ん坊よりもたった二歳だけ年上の、しかも股間にペニスを持った母親と、もともとは母親と同僚だった、今はペニスを失って、その代わりに僅かに膨らみ始めた乳房を持つ、つい1ケ月前まではちゃんとした男性だった娘。
 美香と深雪は優香を厳しく躾けた。少しでも反抗しようものなら容赦なく折檻し、二人が許した言葉でない言葉を口にした時には(二人は優香に、「ママ」「ぱいぱい」「ちっこ」という三つの言葉しか口にすることを許さなかった)、優香の唯一の食事である美香の母乳を何日にも渡って与えなかった。そうしているうちに、優香は少しずつ『素直ないい子』に『躾け』られていった。そうしてやがて、自分から美香におっぱいをおねだりするほどの甘えんぼうの赤ちゃんに変貌してゆくのだった。

 こうして深雪と美香は、れっきとした成人男性を幼女に変身させる妖しい行為の禁断の味を憶えてしまったのだった。
 この時点で、秀和と深雪の立場は逆転していた。深雪は秀和に、香が秀和を裏切って自分の仲間になったことを告げ、優と香を生まれもつかない姿に変貌させたことを明らかにした。そうして、その事実を――慈恵会の理事長の娘が行なった行為の全貌を世間に知られたくなければ、笹野内科医院に干渉しないようにと要求した。秀和は、深雪の要求を飲まざるを得なかった。秀和が深雪の秘密を世間から隠しおおすために用意した医院は今や、深雪が己の欲望を存分に解き放つための、世間から隔絶された異世界への入り口に変貌してしまったのだ。
 そうして、闇の中にひそんで次なる獲物をじっと待っていた二人の前に現れたのが祐一だった。闇に通ずる扉をひとたび押し開けた祐一は、その瞬間に帰り途を失っていた。







 ――深雪が全てを話し終えると、一瞬の静寂が訪れた。
「私たちの秘密を知っちゃったんだから、もう自分のアパートへは戻れないわよ。わかってるわよね、祐香ちゃん?」
 静寂を破るような笑い声で深雪が言った。
「ママやおねえちゃんと一緒の方がいいよね、祐香も」
 念を押すように美香も言った。それから、おもむろに優香の顔を見てわざとのように心配そうに呟いた。
「でも、そうなると、本当に優香は離乳食にしなきゃいけないわね。いくらママでも、二人分のおっぱいは出ないもの。優香、ちゃんと食べられるかしら?」
「大丈夫よ、浜野さん。離乳食だけじゃなく、普通の食べ物も食べられるようになるわ」
 美香の呟きに深雪が応えた。
「でも、歯がありませんし……」
「大丈夫だってば」
 深雪は繰り返すと、意味ありげな目で祐一の顔を見つめて言った。
「歯を移植することもできるのよ。優香ちゃんの顎の骨に、誰かから貰った歯を直接埋め込んで固定する方法があるの。そうすれば自分の歯と同じだから、どんな物でも食べられるようになるわ」
「あ、そういうことですか」
 納得したように、美香も祐一の顔を見つめた。
「そういうことよ。祐香ちゃんは浜野さんのおっぱいを飲むんでしょ? なら、歯なんて必要ないじゃない。祐香ちゃんから歯を貰って優香ちゃんにあげれば、それでみんなうまくいくのよ」
「そうですね。それで、もしも祐香に妹ができたら、新しい妹から祐香が歯を貰えばいいんですよね」
 二人は揃って祐一の顔を覗きこんだ。
 祐一は思わず身震いした。
 が、どういうわけか、一本も歯のない口で美香の乳房に吸いつく自分の姿を想像した瞬間、股間が熱く疼いてしまったのも事実だった。白い母乳を溢れさせる美香の乳首に柔らかい歯茎が触れたらどんな感じがするんだろう。ふとそんなことを思って、なぜとはなしに顔がほてってしまう祐一だった。
「おねえちゃんになるんだから、もう注射はやめましょうね。ハイハイだけじゃなく、ちゃんと立っちできるようにならなきゃいけないものね」
 深雪が今度は優香の方に向き直って、あやすみたいに言った。
「でも、先生」
 美香も優香の方に向き直りながら、困ったような声を出した。
「注射をやめれば手も足もちゃんと動くようになるでしょうけど、でも、おしっこをちゃんと言えるようになるかしら。いつまでもおむつのままじゃ妹の祐香に笑われちゃいそうで心配だわ」
 祐一とちがって、優香がおむつを手離せないのは、膀胱の神経を薬によって麻痺させられているからではない。性転換手術を施す時に、深雪が面白がって膀胱と尿路の一部にメスを入れたからだ。だから、腕と脚の自由は戻っても、膀胱が元に戻るかどうかは美香にはわからない。
「大丈夫だと思うわ。そりゃ、かなり時間はかかると思うけど、気長にトイレトレーニングをしてあげれば、ちゃんとおしっこを言えるようになるわよ。普通の赤ちゃんよりもおむつ離れは難しいでしょうけど、頑張ってちょうだい」
 深雪は、メスを入れた部位を思い出しながら応えた。
「わかりました。じゃ、早速、トレーニングパンツを用意しないといけませんね。明日にでも採寸に来てもらいます」
 美香がそう言うと、優香の顔が赤く染まった。新しいベビーウェアやおむつカバーを注文するたびに、深雪はいつもの業者を宿舎に呼びつけて、恥ずかしがる優香の体を押さえつけるようにして採寸させていた。赤ん坊そのままの姿をまた人目にさらすのかと思うと、たいていのことには馴らされてきたつもりの優香でも顔が赤らんでしまうのをどうしてもとめられない。
「そうしてあげて。――ついでだから、祐香ちゃんのも作ってもらったら?」
 深雪は、祐一の顔をちらと見て言った。
「あ、そうですね。おねえちゃんのおさがりばかりだなんて可哀想ですものね」
 もちろん、美香も相槌を打った。
「で、おむつを卒業したら、優香ちゃんをどうするの?」
 深雪は美香に向かって、ちょっと眉を吊り上げてみせた。
「やっぱり、幼稚園かしら。女の子ばかりの私立の幼稚園に入れて、きちんと教育してあげたいですよね、母親としては」
 美香は、くすっと笑って応えた。
「それがいいわね。私が頼めば、お父様がちゃんと書類を揃えてくれると思うわ。天下の慈恵会の理事長なんですもの、死亡診断書も出生証明書も、きちんとしたものを作ってもらえるわよ」
「助かります、先生。それじゃ、祐香の出生証明もお願いします。もちろん、性別はちゃんと女の子にしておいてくださいよ」
「わかってるわよ。――で、祐香ちゃんにも手術をしてあげた方がいいかしら?」
「いえ、それはまだ。祐香は、おちんちんを付けたまま女の子として育て直してみたいんです。そうすれば、いつか自分の方から、邪魔なおちんちんを取ってほしいって言ってくると思うんです。その時まで待っても遅くないと思いません?」
 白衣の二人の哄笑が響き渡る中、恐怖と怯えと、そうして、どこかうっとりした気分に包みこまれて、祐一は優香の顔をおそるおそる見上げた。
 優香も祐一を見返した。
 生まれたばかりの無力な妹を気遣う、それは優しい姉の目だったのかもしれない。







 深雪の心にひそむどす黒い支配欲を狂気と呼ぶことはたやすい。それを狂気と呼んで納得していれば、それで心は休まるかもしれない。
 けれど、それは誰の心の中にもひそんでいる。美香も優香も祐香も、深雪のもとから逃れる機会は無数にあった。そのことに気づかず、あるいは気づかないふりをして深雪のもとにとどまったのは、誰もが深雪に魅せられたから――自分と同じ匂いを深雪から嗅ぎとったからに他ならない。それは、深雪に近づいたから芽生えたのではない。心の中で息をひそめていたものが、同類の匂いを嗅いで目を醒ましただけ。
 深雪が罠を仕掛けたのではない。
 深雪自身が罠なのだ。ひとたび足を滑らせたが最後、もう二度と這い上がることのかなわぬ底なしの落し穴。その中に満ちた甘い蜜の香りに誘われて、獲物は幾らでもやって来る。そうして、穴に落ちた獲物は、そこから這い出ることさえ忘れてしまうだろう。まとわりつく甘い蜜にいざなわれるまま、深く暗い闇の中に自ら体を沈めてゆく獲物たち。

 あなたの住む町にも、物憂げな目をして診察机に肘をついた深雪がいるかもしれない。
 まだ訪れたことのない町外れの小さな医院。そこであなたが訪れるのを待っているのが深雪だ。ドアを開けたあなたを迎えるのは、笹野深雪という名前の、白衣をまとった甘い陥穽にちがいない。


Fin.



戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る