かなえちゃんのえがお

かなえちゃんのえがお(1)

高木かおり



 香苗ちゃんは、さくらんぼ幼稚園にかよっています。
 今年の四月から年長さんになりました。それに、香苗ちゃんはクラスの誰よりもお誕生日が早いものだから、さくらんぼ幼稚園の中でも一番のおねえさんです。ちょっと体は細いけど、背も高くてとっても元気があるから、クラスのみんなをまとめたり年少さんのお世話をしたり、いつも笑顔で頼りになる、ほんとにみんなのおねえさんみたいな香奈ちゃんです。
 だから、さやか先生も大助かり。

 でも、元気いっぱいだった香苗ちゃんが最近、しょんぼりしています。さやか先生が何か言っても聞いているのかどうかわからないみたいにぼんやりしてることもあるし、年少さんが廊下で転んでも気がつかないでそのまますたすた歩いていっちゃうこともあるくらいです(これまでの香苗ちゃんなら、こんな時にはまちがいなく起こしてあげてたはずなのに)。それに、素敵な笑顔もこのごろはちっとも見せてくれません。
 それだけじゃなくて、なんとなく聞き分けの悪い子にもなっちゃったかもしれません。さくらんぼ幼稚園では、火曜日と木曜日がお昼寝の日になっています。その他の日は給食を食べたあと、少しだけ絵を描いたり粘土細工をしてお家に帰るのですけど、火曜日と木曜日は給食を食べ終わってから、みんなでパジャマに着替えてお昼寝することになっています。これまでなら他の子の着替えを手伝ってあげたり(年長さんでも、パジャマのボタンをきちんと留めるのが上手じゃない子もいたりするからね)、さやか先生が毛布を広げたりするのをお手伝いしてた香苗ちゃんなのに、このごろはお昼寝をとってもいやがって、ちっとも先生の言うことをきかないんです。わざとのろのろとパジャマに着替えたり、だって眠くないんだもんとか口ごたえをしてみせたり。
「でもね、香苗ちゃん」
 香苗ちゃんがお昼寝を嫌がるたびに、さやか先生は優しく言いきかせます。
「ちゃんとお昼寝しなきゃ、おっきくなれないのよ」
 でも、そのたびに香苗ちゃんも負けずにこんなことを言うのです。
「いいもん。あたし、クラスのだれよりもせがたかいもん。もうおっきいもん」
 こう言うとのき香苗ちゃん、まるで何か拗ねてるみたいに顔を横に向けちゃいます。
「困ったわねぇ……。でも、他のお友達はお昼寝してるでしょ? 香苗ちゃんだけ起きてるとみんなも目を醒ましちゃうかもしれないから、香苗ちゃんも毛布に入ってくれないかなあ。お昼寝のまねっこだけでいいから、ね?」
 さやか先生は優しい声で言いました。
「だって、まだおひるなのに。よるでもないのにおふとんにはいるなんて……」
 香苗ちゃんはやっぱり嫌がってるみたい。それでも、元々がいい子だもの、香苗ちゃん。だから、みんなが目を醒ましちゃうって言われるとちょっと考えて、でもって、仕方なさそうにこくんと頷いて毛布にもぐりこみます。
 そうやって毛布に入ると、あんなに嫌がっていた香苗ちゃんもうとうとし始めちゃいます。いくらしょんぼりしてても、給食の時間になるまでは一生懸命に駆けっこをしたりクレヨンでお友達の顔を描いたりしてるんだから、もう疲れちゃって疲れちゃって。
 なのに、大きなお目めがとろんとしてくると、香苗ちゃんは慌てて瞼をぱちくりさせて首を振ります。ねちゃいけないんだぞ、あたしはぜったいにおひるねなんてしないんだぞっていってるみたいにして、香苗ちゃんは目を開けるんです。
 そうやって、お昼寝の時間が終わるまで香苗ちゃんは本当に目を開けたままです。
「いったい、どうしちゃったのかしらね」
 教室の入口からみんなの寝相をこっそり見ていたさやか先生は、そんな香苗ちゃんの様子に困ってしまいました。

 そんな、ある日のことです。
 その日も、さやか先生に言われて仕方なく毛布に入った香苗ちゃんは何度も何度も瞼をぱちくりさせていました。でも、その日から運動会の練習が始まって運動場で入場行進の練習や鼓笛隊のお稽古をしたせいでいつもよりも疲れちゃった香苗ちゃん、まわりのお友達の寝息やイビキを聞いてるうちにとうとうガマンできなくなってきました。
 いつのまにか香苗ちゃんもしっかり目を閉じて、すやすやと気持ち良さそうに眠ってしまいます。
 それから少しした頃、いつものようにみんなの様子を見にやってきたさやか先生、あらあらと呟いてちょっと呆れてしまいました。だって、ちゃんと毛布の中で眠ってる子なんて一人もいなかったのですから。みんな、体にかかってる毛布をぼーんとはねとばして、お腹を出してお昼寝してるんです。その日は暖かくて(というか、ちょっと暑いくらいだったかもしれません)、みんな、眠ってるうちにいつのまにか毛布をはねとばしちゃったんでしょう。でも、そのままじゃ風邪をひいてしまいます。
 さやか先生は一人ずつ優しく毛布をかけ直してあげました。
「ほらほら、佳太くん。体にわるいわよ」「美登理ちゃんも、もう少しちゃんと寝ましょうね」
 さやか先生はにこにこ笑いながら、みんなが目を醒まさないように小さな声でそんなふうに優しく声をかけて毛布をきちんとかけていきます。
 そうして、香苗ちゃんの所へやってきました。
「あら、今日は静かにお昼寝してるのね」
 香苗ちゃんが目をつぶって静かな寝息をたてているのを見て、さやか先生はちょっぴりびっくりしました。
「だけど、うふふ。せっかくおとなしくお昼寝してるのに、香苗ちゃんもみんなと同じね。毛布がくしゃくしゃだわ。さてと……あら?」
 香苗ちゃんの足元で丸くなってる毛布を広げようとして手を伸ばした先生ですが、何かをみつけたのか、ちょっと驚いたような顔をして、香苗ちゃんのお尻のあたりをじっと見つめました。香苗ちゃんが着ているパジャマのズボンが濡れているみたいです。それに、お布団のシーツがぼんやりしたシミになっているようにも見えます。
 さやか先生はびっくりした表情のまま、お布団に顔を近づけてみました。
 ちょっとつんつんと突き刺すみたいな、でもなんとなく甘いみたいな、なんていえばいいのか少し迷っちゃうような匂いがほんわかと先生の鼻をくすぐります。
 その匂いで、さやか先生ははっきりわかりました。そうです、香苗ちゃんはお昼寝でオネショをしちゃったんです。
「あら、まあ。しっかりしてるように見えてても、やっぱり子供ね。こんな失敗をしちゃうこともあるのね」
 さやか先生は、くすぐったいような表情で優しく微笑みました。
 けれど、さやか先生の笑顔はすぐに消えてしまいました。何かを思いついたのか、あっと声をあげると、真剣な顔つきになって香苗ちゃんの顔をじっと見つめます。
 そういえば香苗ちゃん、お昼寝を嫌がるようになってたわよね。それに、いつもしょんぼりしてるみたいだし、まわりのことなんて何も気がつかないみたいにぼんやりしてることも多いし。ひょっとしたら……?
 ひょっとしたら香苗ちゃん、お家でも夜ねむってる時にずっとオネショしてるんじゃないかしら? だから幼稚園でも失敗するかもしれないって心配になってお昼寝を嫌がってたんじゃないかしら?
「香苗ちゃん香苗ちゃん、ちょっと起きてちょうだい」
 さやか先生は、他の子供たちに聞こえないような小さな声で香苗ちゃんの耳元に口を近づけて呼びました。
 う〜んと呻いてのろのろと両手を伸ばしながらぼんやり目を開けた香苗ちゃんは、すぐそばに先生がいることに気がついてびっくりしました。
「あ、せんせい……」
「あまり大きな声を出さないでちょうだいね。他のお友達はまだお昼寝中だから」
 驚いて大声をあげそうになった香苗ちゃんに向かって、さやか先生は人差指を唇に押し当ててみせました。
「あ、おひるね……あたしもねむっちゃったんだ……」
 香苗ちゃんは急いで体を起こすと、さやか先生と目を合わさないようにしながら、ちらと自分のお股の方を見ました。自分が失敗しちゃってるってことには目を醒ました時にもう気がついてたんだけど、でもやっぱり目で見るまでは……とか思ったんでしょうね。びしょびしょになってるパンツが夢の中のことならいいのになあとか思って。
「……」
 シミになってるパジャマとシーツをじっと睨みつけてから、香苗ちゃんは先生の顔を見ました。香苗ちゃんの下瞼には涙の雫が盛り上がってて、大きな目から今にもこぼれ出しそうになっています。
「いいのよいいのよ、香苗ちゃん。先生がちゃーんと片付けてあげるから。だから泣かなくてもいいのよ」
 さやか先生は香苗ちゃんの体をきゅっと抱きしめると、年少さんにするみたいに背中をとんとんと叩いてあげました。
 香苗ちゃんは恥ずかしそうに下を向いて、でも、なんとなくほっとしたみたいにこくんと頷きました。
「パジャマもシーツも年少さんのと一緒にお洗濯しておいてあげるからね」
 さやか先生は、ちょっと悪戯めかして言いました。
「ええ? ねんしょうさんのといっしょに?……あたし、もうねんちょうさんなのになあ」
 香苗ちゃんはぽっと頬を染めて唇を尖らせました。
「でも、仕方ないでしょ? さ、もう気にしなくていいんだから」
 さやか先生はもういちど香苗ちゃんの体をきゅっと抱きしめてあげました。

 その次の日のことです。
 その日はお昼寝の日じゃないから、子供たちはお昼すぎにお家に帰りました。園児バスを見送ったあと、さやか先生は後片付けやお掃除をすませると、香苗ちゃんのお家に行ってみることにしました。香苗ちゃんにも香苗ちゃんのお母さんにも言っていない、急の家庭訪問です。
 さやか先生がお家に行ってみると、香苗ちゃんは庭で一人でボール遊びをしていました。なんとなく寂しそうに見えたのは先生の気のせいでしょうか?
「こんにちわ、香苗ちゃん」
 さやか先生は手を振りながら、大きな声で香苗ちゃんを呼びました。
「え、さやかせんせい?」
 急なことに、香苗ちゃんは大きな目を余計に大きくして先生を見つめました。
「急に来てごめんね。ちょっとお母さんとお話しがしたくなったの。お母さん、いらっしゃる?」
 さやか先生は、幼稚園でもよくそうするように、腰をちょっとかがめて香苗ちゃんと目の高さを合わせるようにして言いました。
「うん、いるけど……」
 思いもしなかった家庭訪問に、せんせいったらママになにをはなすのかしら?とちょっぴり心配になって、香苗ちゃんは小さな声で応えました。
「じゃ、ちょっと入るわね」
 白い木の扉を開けて、さやか先生は庭の中に入りました。そこからだと、玄関がすぐ近くです。香苗ちゃんが年少さんの時も年中さんの時も年に一度は家庭訪問に来ていた先生は(それに、香苗ちゃんが年長さんになってすぐの時にもちゃんと家庭訪問に来ていたんだから)、香苗ちゃんのお家の様子もすっかり知っているみたいです。
 でも、そんなさやか先生にも知らないことがあったみたい。
「あら……?」
 さやか先生は少し驚いたみたいに庭の奥の方を見ました。
 そこは、ちょうどお日様の光がよく届く場所で、洗濯物を干す場所になっています。
その干し場に張ってある細いロープに、いろんな色の小さなお洋服が干してありました。
「ねえねえ、香苗ちゃん」
 さやか先生は、先に立って玄関の方へ歩いて行く香苗ちゃんを呼び止めました。
「はい?」
 香苗ちゃんは立ち止まって振り返りました。
「赤ちゃんが生まれたの?」
 さやか先生は洗濯物に目を向けたまま香苗ちゃんに訊きました。
「うん……」
 妹か弟ができたんだもの、本当ならもっと嬉しそうにしてもいいのに、香苗ちゃんはどうしてか(最近ずっとそうしてるみたいに)しょんぼりと応えました。
「ふーん、そうだったの。先生、ちっとも知らなかったわ」
 寂しそうに肩を落とす香苗ちゃんの姿を見ながら、さやか先生は納得したように頷いてみせました。

「まあまあ、先生。ようこそいらっしゃいました」
 香苗ちゃんのお母さんは、さやか先生をリビングルームに通してお茶を出しました。
 先生が何をお話しするのか気になって香苗ちゃんもお部屋にいたかったのですけれど、大人どうしのお話しだからってお母さんに追い出されてしまいました。仕方なく香苗ちゃんは廊下に出て、ドアの近くで静かに立っていることにしました。そうすればお部屋の中の話し声が聞こえることを香苗ちゃんも知っているのです。
「突然、すみません」
 ドアに顔を押し当てるみたいにして立っている香苗ちゃんの耳に、さやか先生の声がはっきり聞こえます。
「少し、香苗ちゃんのことで御相談したいことがあったものですから」
「あの……香苗が何かいたしましたでしょうか?」
 お母さんの声はちょっと心配そうです。
「実は、ですね……」
 さやか先生が少しだけ声をひそめたように香苗ちゃんには思えました。
「……昨日のお昼寝の時に、香奈ちゃんがちょっとしくじっちゃいまして……」
「しくじった……?」
「はい。つまり、えと……お布団を濡らしちゃったんです」
 さやか先生は、香苗ちゃんのお母さんが驚かないようにと思って、『オネショ』という言い方をしないように気を遣っているみたいです。でも、さやか先生が何を言おうとしているのかは香苗ちゃんにもはっきりわかります。香苗ちゃんのの顔が真っ赤になりました。
「お布団を? ということは……お昼寝の時にオネショを? 香苗ったら何も言わないから、ちっとも知りませんでしたわ」
 お母さんの声が少し大きくなりました。
 香苗ちゃんの胸がどきんと鳴りました。ああん、やっぱりママにしょうじきにはなしておいたほうがよかったかしら。でも、でも……。
「ええ、まあそうなんですけど……だけど、香苗ちゃんを叱らないであげてほしいんです。パジャマは私の勝手な判断で洗濯させていただいたのですし、気にしないでねって言っちゃいましたし」
 あ、さやか先生がお母さんをとりなしてくれているみたいです。
「ええ、まあ、先生がそうおっしゃるなら叱らないでおきますけど……」
 ああ、よかった。お母さんの声が穏やかになったみたい。
 香苗ちゃんはほっとしました。
「ありがとうございます。ただ、そのことでちょっと確認しておきたいと思って急におじゃましたのですけれど――香苗ちゃんの昨日の失敗がたまたまの偶然なのかどうか心配になってきたんです。香苗ちゃん、お家ではいかがです?」
 さやか先生がそう言うのを聞いて、香苗ちゃんの胸はもう一度どきんと鳴りました。
あ、せんせい、あたしがおうちでもオネショしてるのかどうかママにききにきたんだわ。どうしようどうしよう。ママ、ほんとのことをせんせいにはなしちゃうのかしら。
でも、そんなことになったら……。
「……香苗も恥ずかしがるでしょうから秘密にしておきたかったんですけど、幼稚園のお昼寝で粗相しちゃうようなら先生にはお話ししておいた方がよろしいのでしょうね」
 少し考えてから、お母さんは話し始めました。
 香苗ちゃんはぎゅっと手を握って、ドアに耳を押し付けました。

「香苗は赤ちゃんの頃からオムツが外れるのも早くて、おシモは堅い子でしたのよ。それに母親の口から言うのも気がひけますけど、とてもしっかりした良い子で、まさかこんなことになるなんて思ってもいなかったのですけど……少し前から、眠るたびにしくじるようになってしまいまして……」
 ああん。ママったらせんせいにつげぐちするきなんだわ。どうしよう、あたしのひみつ、せんせいにしられちゃうよお。
「それじゃ、お家でも」
「はい。下の子――香苗の妹で、香澄という名前なんですけど――が生まれたばかりでただでさえ洗濯物が多いのに、香苗のパジャマやシーツまで増えちゃって……」
 お母さんの溜め息が聞こえてきそうです。
「それは大変ですわね……」
 さやか先生も同じように溜め息をつきました。
 香苗ちゃんは泣きたくなってきました。あたし、もういいこじゃないんだわ。だって、オネショをしちゃうんだもん。しっかりもしてないし、せんせいにきにいってもらえるいいこじゃなくなっちゃったんだわ。
「……ところで少し思い出していただきたいんですけど、香苗ちゃんの失敗が始まったのと、下のお子さんが生まれたのと、同じような時期じゃありませんでした?」
 目が少しうるうるし始めてきた香苗ちゃんの耳に、さやか先生がお母さんに尋ねる声が聞こえてきました。なぜだか、どきんとしてしまいます。
「そういえば――そうですね、香苗のオネショが始まったのと香澄のお誕生が殆ど同じ頃だったと思いますわ。もっとも、私が病院にいた頃に香苗がお家でどうだったのかはわかりませんけど」
「うふふ。だんだんわかってきましたわ」
 さやか先生の優しい笑い声がドアのむこうから聞こえてきます。
「どういうことですの……?」
 お母さんは少し戸惑っているみたいです。
「実は、庭に干してある洗濯物を見て思いついたんですけど――香苗ちゃん、ひょっとしたら”赤ちゃん返り”をしているのかもしれませんわね。新しく生まれた妹にお母様をとられちゃうのが寂しくて、とってもしょんぼりしてて、そうして、自分も赤ちゃんの頃に戻ったらお母様に優しくしてもらえるかもしれないって無意識のうちに思いついて」
「赤ちゃん返りですか? でも、香苗は香澄をとてもかわいがってくれますし、私にもそれほど甘えるわけでもありませんわよ」
 お母さんはちょっと困ったように応えました。
「そのあたりが香苗ちゃんの香苗ちゃんらしいところかもしれませんわ――ほんとは思いきりお母様に甘えたいのに、しっかり者の香苗ちゃんにしてみたらそんなことは恥ずかしくて。ずっとずっと、しっかり者の良い子だったんですからね。でも心の中じゃ無意識にお母様の優しいを求めて……それが知らず知らずのうちにオネショという形になっているのかも。もしもそうだとしたら、このさい、香苗ちゃんの気がすむまで甘えさせてあげた方がいいと思いますわ」



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