香奈と沙織 その1



「そんな大事なこと、どうしてもっと前に相談してくれなかったのよ?」
 リビングルームの空気が沙織の声でびりびり震えた。
「だって……そんなこと相談したら沙織ったら絶対に反対するって思ったんだもん……」
 ちょっと拗ねたみたいな口調で香奈がぼそっと呟いた。
「あったりまえでしょ。私じゃなくたって反対するわよ、そんなこと」
 うわ。沙織の声、めっちゃくちゃ機嫌わるそう。
「……だから相談しなかったのよ……」

 しゅんって感じで、でもなんとなく沙織の顔を睨み返すみたいにしてる香奈。

「あ、あんたって子はいっつもそうなんだから……だいたい、そんなことじゃ、あんたを預かってる私の立場っていうものがないじゃないよ」

 沙織の頭からは今にも湯気が立ちそう。

「なによ、それぇ。いつ私が沙織に預かってもらったっていうのよ?」
 今度は香奈、ぶすっとした表情。
「だってそうでしょ? 私と一緒だからってことで香奈の御両親に許してもらったんだから、私があんたを預かってるのと同じよ?」

 沙織は勝ち誇ったみたいに言った。

「ううう。それはそうだけど……でも、そんな昔のことを今になって言わなくてもいいじゃないよぉ」

 香奈はぶすっとした口調で、ぶすっとした顔のままそっぽを向いた。
 香奈としても、そのことを持ち出されると沙織に逆らえなくなっちゃうから始末が悪い。

 香奈と沙織は高校に入学して以来の親友だ。お互いの家はちょっと離れていて中学は別々だったんだけど、私立の女子高に入った時にたまたま同じクラスになって、なんとなく気が合っちゃったってわけ。で、二人は高校の三年間ずっと同じクラスだったってこともあって、ますます親密になっていったんだね。
 それに、お互いの性格がちょっと違うってこともよかったのかもしれない。同じような性格の子どうしだと、最初はいいけどだんだん反発し合うようになってくることが多いものね。それが、香奈の方はちょっとトロいっていうか優柔不断っていうか、自分一人じゃ何もできないみたいなところがあるのと対照的に、沙織の方は何でもさっさとやっちゃう方で、そのへんが二人の結びつきを却って強めたんだろうと思う。
 物理や化学の実験とかでも香奈がもたもたしてるのを沙織が手伝ってやってなんとかかんとか時間内に終わらせたり、家庭科の実習でも、雑巾もまともに縫えない香奈の分も沙織が作ってやったりとかね。そういったことが(数えきれないくらい)あって、同じ学年なんだけど、いつのまにか香奈と沙織は頼りない妹としっかりしたお姉さんみたいな関係になっちゃってたんだ。ま、そんな香奈を沙織は苛々しながら眺めたりもするんだけど、でもどうしても放っておけないみたいな気にもなっちゃって。
 でもって高校の三年生になって、卒業後の進路を決めなきゃいけなくなった時。香奈は、とんでもないことを言い出した。「私、遠くの大学に入って一人暮らしをしてみたい」なんてことを(平気な顔で)言ったんだ。どっちかっていうとお嬢様生活をしてきて自分じゃ何もしなくても平気だった(そういう生活を続けてきたからお裁縫もできないし、人よりもワンテンポ遅れるのよって沙織はぶつぶつ言ってた)香奈だけど、そんな生活にちょっとばかり飽きてきたのかもしれない。それに、行動はトロいけど意外と(なんて言うとおこられちゃうかな?)勉強はできるんだよね、香奈。だもんで、ちょっと都会へ出て有名な大学へ入ってみたいよ〜とかも思いついちゃったのかもしれないね。
 だけど、(沙織には充分に予想できたことだけど)香奈の両親が許す筈がなかった。
香奈が一人で都会へ行ってちゃんと生活できるわけがないってことを(世間のことをよーく知ってる)両親は前もって見抜いてたんだね。なんたって、「お料理? お料理くらい私にもできるわよ。えと、ハンバーグでしょ、ピラフでしょ、それにグラタンだってできるもん」なんて、しらっとした顔で言っちゃうような子なんだから。――みんな知ってると思うけど、これって全部、冷凍食品をチンすればできる料理ばっかりなんだよね。
 もちろん、香奈は粘ったよ。どうしてもダメだっていう両親に対して土下座してみたり父親の肩にしなだれかかって甘えてみたり母親のヘアスタイルを褒めてみたり。
最後には床の上で手足をじたばたさせて「行かせてよ〜」とか泣いてみせたり。でも、どうしても両親の許しは出なかった。
 
そして香奈が最後の手段として持ち出したのが沙織だった。

「じゃ、沙織と一緒ならいい?」

 訳も言わずに自分の家に沙織を招いて、で、何も知らない沙織がのこのこやってきてソファに腰をおろした途端に香奈は両親に言ったんだ。

「ううむ、沙織さんかね。むう……しっかり者の沙織さんと一緒なら、まあいいかもしれんが……」

 家に遊びにくる度に香奈と一緒に勉強をしたりお茶の後片づけをしてる姿を目にして沙織に好意を抱いていた父親は深く考えもせずに応えた。
「わ〜い。それじゃ、沙織と一緒に行ってくるね♪」

 香奈は子供みたいにはしゃぎ回った。でもって、沙織の横にちょこんと腰かけると沙織の腕をぎゅっと抱きしめて

「沙織もいいよね? 私と一緒に行ってくれるよね?」

なんて顔を輝かせて言ったんだ。
 もちろん、沙織は何のことだかわからない。
 でもまあ、香奈がこんなに喜んでるんだし。遊園地かどっかへ誘ってるのかなとか思いついて。

「え? うん、まあ。香奈がそんなに行きたいなら付き合ってもいいけど……」

 沙織ったら、なんとなく上の空みたいな感じで応えちゃった。
 で、その後でちゃんとしたことを聞いたんだけど……本当のことを知った沙織の顔、みんなに見せてあげたいくらいだった。
 でも今さら断れなくて(あ、断ろうとはしたんだよ。まさかそんな大事な話だなんて思ってもみなかったんだから。でも、床に寝転がって手足をばたばたさせる香奈を見てるとついつい、ね?)、何か詐欺にでも会ったみたいな顔をしながら結局、沙織は溜め息をついておっけーしちゃったんだ。でも、ま、これって沙織にとっても悪い話じゃなかったのかもしれない。沙織も成績は優秀で心の中じゃ都会の大学で勉強したいって思ってて、でもなかなか言い出せなかったのが香奈のおかげで踏ん切りがついちゃったみたいな感じになったんだから。
 そうして、「しっかり者の沙織がちゃんと香奈を見張ってる」って条件付きで香奈の希望は叶えられることになったわけ。だからつまり、香奈の両親にしてみれば娘を沙織に預けたようなものだったんだね。でもって、そうして沙織に助けてもらったからこそ香奈がこっちへ出てこられたんだ。だからこれって、香奈にとっちゃ大きな負い目で、沙織にこのことを言われたら逆らえなくなっちゃうという弱点だったりするんだ。

 ――と、まあ。香奈と沙織との間柄はそういうことなんだけど。

 ついでだから、その二人が何をもめてるのかも説明しておいた方がいいよね。
 んと、二人は結局、揃ってI大学に合格してマンションで二人暮らしを始めることになったんだ。で、相変わらず沙織が食事の準備も掃除も洗濯も引き受けることになった(っていうか、なっちゃったっていうか)。いいチャンスだから香奈にお料理や掃除なんかを教えてみようって考えてた沙織なんだけど、お米を洗剤で洗ったり小指をナマスに刻みかけたりする香奈を見てると考えが変わっちゃったんだ。だって考えてもみてよ。布団を丸ごと洗濯機に押し込もうとする香奈を見てて、そのまま根気よく一から教える気になれると思う? 「いつまでも皮が剥けないよ〜」なんて叫びながらタマネギを一枚一枚剥がす香奈を見ててピーマンと唐辛子の違いを説明しようって気になれる?

 つまり、いつまで経っても香奈は世間知らずのお嬢ちゃまのままだった。そして沙織は、軽い溜め息を一つ洩らすだけでそんな香奈を許しちゃうようになってる自分に気がついたんだ。もういい。香奈に家事なんて教えようとするのが間違ってたんだ。
この子はいつまでも『可愛い香奈ちゃん』のまま生きていくんだわ。
 香奈にいろんなことを教え込むつもりだった意気込みはどこへやら、いつのまにかすっかり香奈に丸めこまれちゃった沙織だった。で沙織は決心したんだ。このまま自分は香奈の保護者をつとめようって。どこでどうしてこんなことになったのか知らないけど、私は香奈の母親代わりなんだって。
 香奈って子はつまり、周りの人間にこんなふうに思わせる才能にたけてるのかもしれない。それはひょっとしたら、自分じゃ何もしなくてもほいほいと生きていくことのできる、とてつもない才能なのかもしれないね。
 あ、勘違いしないでね。知らないうちに自分が家事をみんな引き受けることになっちゃったっていうような理由で沙織が怒ってたとかいうようなことじゃないんだから。
むしろ沙織にしてみれば、高校の時みたいに(ううん、それ以上にもっと、だ)香奈の世話をやくのが楽しかったんだから。

 沙織が怒ってるのはもっと別の理由――香奈がボーイフレンドと一緒に旅行に行くって言い出したのが原因だった。沙織としても香奈がそんなことを言うなんて予想外もいいところだった。何をするのもトロくていつまでもネンネみたいな香奈にボーイフレンドができること自体が予想外だったのに(でも、そういう香奈のことを可愛いって思っちゃう男の子って確かにいるんだよね。ぽやっとしてるところがいいなんていって)、その上、二泊三日の温泉旅行に誘われて香奈がそれにほいほいノっちゃうなんて。
 で、お嬢様育ちの香奈のことだから男の人がほんとは怖いものなんだってことがどうももうひとつはっきりわかってないのかなぁとか考えた沙織、ここは保護者としちゃ簡単に許せるわけがないってことで。でもって、冒頭のセリフになったんだ。
 以上、説明は終了。おっけーだね?
 じゃ、その後の展開を見てみようか。

「とにかく、ぜ〜ったいに許さないからね」
 追い討ちをかけるみたいな沙織の言葉。
「ケチ」
 そっぽを向いたまま、下瞼にじわっと涙なんか溜めた香奈がぷっとほっぺを膨らませる。
「ケチですって? 私はね、あんたの為を思って……」
「もういいやい。なによなによ、沙織なんて。これじゃママと一緒に住んでるのと同じじゃないよぉ。せっかく家から離れられたのに」
「仕方ないでしょ? 私は香奈の御両親から頼まれてるんだし……」
「ふ、ふ〜んだ。いいもん、沙織が許してくれなくても勝手に行っちゃうもん」
 そう言うと香奈、ほっぺをハムスターみたいにしたまま立ち上がってクルリと背を向けた。
「待ちなさいよ、香奈。香奈ったら……」

 沙織も急いで立ち上がったけど、でももう遅かった。
 香奈はすっごい勢いでドアを叩きつけるみたいにしてリビングルームを出て行くと、ばたばたと足音をたてて廊下を走って行った。

 香奈が出て行ったドアを睨みつける沙織の目に妖しい光が宿り始めていた。そう、そういうつもりなのね。いいわよ。香奈がそういう気なら私にだって考えがあるんだから。たしか、出発は二週間後だって言ってたわね。みてなさいよ。そんな旅行、絶対に行かせてあげないからね。
 それは保護者としての心配というよりも、これまでずっと一緒だった自分よりも新しくできたボーイフレンドの方を選んだ香奈に対する激しい嫉妬だったのかもしれない。




 なんとなく気まずい雰囲気のまま一週間が過ぎた。
 香奈が旅行に出発するまで、あと一週間という日の朝。
 いつもなら目覚ましのベルが鳴るとすぐに目を醒ます香奈(これだけは高校時代に比べると進歩していた。なんたって、お家にいる頃は目覚まし時計の後で母親に起こしてもらってたんだから)なのに、この日はぐっすり眠りこんだままだった。

 どんどんどん。

 ドアが壊れちゃいそうなノックの音が香奈の部屋の響き渡った。

 どんどんどん。

「ふみ〜ん。――誰よぉ、朝早くから騒がしくしないでよぉ」
 そのノックの音でやっとこさ目を醒ました香奈、まだぼんやりしてる意識の中で眠そうにドアの向こうに声をかけた。
「なに言ってるのよ。いま何時だと思ってるの?」
 ドア越しに聞こえてきたのは苛々したような沙織の声だった。
「何時って……。えええ! なんだ、これ?」
 沙織の声にせっつかれて、ぬくぬくの毛布にもぐりこんだまま枕元の目覚ましに目をやった香奈、デジタルの数字がとんでもない時刻を知らせてるのを見てたまげちゃう。しかも、ベルを止めるボタンはちゃんと押してある。
「ひぇぇ、遅刻だよぉ。今日の社会学の先生、とっても厳しいのに〜」
 急速に澄み渡ってくる意識を感じながら、だけど何から手をつければいいのかわからないみたいに香奈はじたばたするだけだった。
「こらこら、暴れてたってどうにもならないでしょ。手伝ってあげるからちゃんとなさい。入るわよ?」

 室内の様子を敏感に感じ取った沙織がなだめるように言いながら入ってきた。いくら仲たがいしてるっていっても、やっぱりこういう時は頼りになるんだ。

「どうしようどうしよう。髪もとかなきゃいけないし顔も洗わなきゃいけないし。ああん、何を着ていくのかも決めてないよ〜」

 パニクりかけてる香奈、毛布の中で手足をじたばたさせてるだけ。

「ええい、あんたは幼稚園児か」
 そんな香奈の様子を目にした沙織、ずけっと言って、それでも香奈のために整理タンスを開けて洋服を引っ張り出してやる。それから、香奈がかぶってる毛布に手をかけて……。
「あ。……ちょ、ちょっと待って」
 急に香奈が叫んだ。しかも、沙織に剥ぎ取られるのを嫌がるみたいに毛布を中からぎゅっと握りしめて。
「ん、香奈ったら何してるのよ? さっさと用意して学校へ行かなきゃいけないっていうのに」
 沙織、叱るみたいな呆れたみたいな、なんとも表現しようのない声で言った。
「あ、ううん……いいの」
 でも香奈は毛布をすっぽりと被ったまま、もごもごと応えるだけ。
「いいのって……何がいいのよ?」
「えと、だから……あ、そうそう、ちょっと頭が痛いのよ。風邪かもしれないし……その、今日はお休みするから……」
 香奈の返事はなんとなくしどろもどろだった。
「ほんとにいいの? あの先生、三回休むと単位くれないのよ。無理しても社会学だけでも出た方がいいよ?」
 なんか要領を得ない顔で、でも毛布から手を離しながら沙織は念を押すみたいに言った。
「う、うん。いいの……だから今日は沙織、一人で行ってきて」
 大学の講義のことなんてどうでもいいような、ちょっと上の空みたいな香奈の声だった。
「ま、香奈がいいって言うんなら私はかまわないけど……。じゃ、行ってくるわよ。
おとなしく寝てなさいね、帰りにお薬買ってきてあげるから」
 人の形に膨れた毛布にもう一度だけ目を向けた後、沙織はちょっと肩をすくめて室から出て行った。
 沙織が廊下を歩くとんとんとんという音が離れていって、玄関のドアが開く音が廊下の向こうから聞こえてくる。で、もう一度ドアが閉まってカチャンとロックがかかる音。

 その時になって、香奈はやっとこさ毛布から顔を出した。
 香奈の顔はなんとなく赤いみたいだ。――でも、風邪のせいで熱っぽいって感じじゃないぞ。なんていうか、何か恥ずかしがってるみたいな顔の赤さ。
 毛布から出した顔を二度三度ときょろきょろさせて、マンションの中に人の気配がないことを確認した香奈はぐったりしたみたいに顔を枕に押し当てた。でもって、情けない声で独り呟く。
「わ〜ん、どうすればいいのよぉ。大学生にもなってこんなことになるなんて……。
いくらなんでもこんなこと沙織に話せるわけないよ〜」
 香奈はそのまま、まるで現実から逃げ出そうとでもするみたいに目を閉じた。
 でも、毛布の中――下半身から伝わってくるいやーな感触のせいで、じっとしてもいられなくなってくる。
「ふぇ〜ん。夢ならいいんだけどなぁ」
 ゆっくりした動きで仰向けになった香奈はそう呟くと、おそるおそる上半身を起こしてみた。いつまでもこうしていたってどうにもならないんだし、もしも本当に……だったら、沙織が大学から帰ってくる前に後始末しとかなきゃいけないんだってことに気がついたから。



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