香奈と沙織 その2



 両腕で支えるようにして香奈が上半身を起こすと、体にかかっていた毛布が静かに下半身の方へ滑り落ちた。でも、おヘソのすぐ上から爪先にかけてはまだ毛布の中に隠れてる。
 覚悟を決めようとしてかすーっと大きく息を吸いこんで、香奈は右手を伸ばした。
そうして、おヘソから下を覆っている毛布をつかむと、それをおずおずとベッドの下へ滑らせてみる。
 ピンクの生地に白いハートの柄があしらわれたパジャマのズボンが現れた。
「ああん、やっぱり……」
 思わず叫びそうになった口を慌てて左手で押さえた香奈の顔が熱くほてった。
 自分のパジャマのズボンがぐっしょり濡れてるのを目にして落ち着いていられる子なんていないよね。で、今の香奈がほんと、その状態だったんだ。
 下半身から伝わってくる感触で或る程度は予想していたとはいえ(というか、なまじ予想してたから余計に)、パジャマがお尻の方から内腿へかけて水を吸ったみたいに(あ、『みたいに』どころじゃないや。ほんとにたっぷり吸いこんでるんだ)ぐっしょりになって気味わるく肌に貼り付いてるのを実際に自分の目で確認しちゃうと、ますます惨めな気分になってくる。薄い生地のパジャマは濡れてるせいで中のショーツや肌の色が微かに透けて見えるみたいだし、お尻の下のシーツもべたーって感じで敷布団の上に広がってるし。ついでに言っておくと、本来は真っ白のシーツなのに、
うすく茶色のシミになってるのがとても情けなくて、香奈はそのシミをちらと見ただけで急いで目をそらしちゃったくらいだ。
 大学生にもなってオネショしちゃったんだぞ、香奈ちゃんは。シーツにくっきりとついたシミは無言でそう言ってるみたいだった。ちっちゃな子供でもないのにオネショしちゃったのよね、香奈ちゃんは。ずくずくに濡れたショーツの感触がそんなふうに囁いてるみたいに思えた。オネショだって、うふふふ。パジャマのズボンが笑ってるような気がした。
「どうしよう……私、どうすればいいの?」
 洗濯機の使い方も知らないし、バスルームでシーツを手洗いするなんてことも思いつかない香奈、次第に冷えてきたオネショの感触に耐えかねて体をぶるっと震わせながら、室の壁に向かってどうしようどうしようと呟き続けるばかりだった。

 それから三時間ほどが経った頃、不意に玄関の方から微かな金属音が聞こえてきた。
ちょうどヘアドライヤーを止めて室の中が静かになった時だったからその音が香奈の耳にも届いたんだけど、もしもヘアドライヤーが動いてる最中だったら聞こえなかったかもしれない。
 香奈は反射的に時計に目を向けた。やだ、まだお昼前じゃないよ。どうしてこんな時間に沙織が帰ってくるの? ――玄関の方から聞こえてくるのは、ドアのロックを外す音だったんだ。でもって、玄関のキーを持ってるのは香奈と沙織しかいないんだから、いま玄関にいるのが誰なのかなんてこと簡単に想像がつく。
 香奈は急いでドライヤーをドレッサーの上に戻すと、床の上に散らかっているパジャマを慌てて毛布の中に引っ張りこんだ。
 香奈が毛布の中にもぐりこむのと沙織が室に入ってくるのとが同時だった。
「気分はどう?」
 一週間前の機嫌の悪さが嘘みたいなとっても優しい口調で尋ねる沙織。
「あ、うん、まあまあ……かな」
 すんでのところで沙織にみつからずにすんだって安心しながら、でもまだ胸をドキドキさせながら曖昧に応える香奈。
「そう。……あれ?」
 何かに気がついたのか、沙織がちょっと首をかしげてみせた。
「な、なに? どうかした?」
 今にも逃げ出しそうになる自分を必死で押さえて、香奈がひきつった声で問い返す。
「香奈、パジャマ着替えたの?」
 沙織はどうやら、毛布からちょっとのぞいてる香奈のパジャマを目敏くみつけたみたいだ。
「え? あん、そう。んと、汗で濡れちゃったから……」
 香奈、どっきーんって思いきり胸を高鳴らせて口の中でもごもご。で、急いで話題をそらそうとして逆に訊いてみる。
「……それより、どうしたの? ずいぶん早く帰ってきたのね」
「うん。香奈が困ってるといけないから、問題の社会学だけ出席して帰ってきたの。
あ、そうそう。代返うまくいったから安心していいよ」
「うわ、らっき〜」
 沙織の一言で香奈の顔が明るくなっちゃう。単純なんだから、もう(それが香奈の可愛いとこなんだけどね)。
「それと――はい、これ」
 沙織が小さな紙袋を差し出した。
「なに?」
 今度は香奈、怪訝な顔。
「お薬よ。帰りに買ってきたの」
「え、わざわざ? そんなのいいのに」
「なに言ってるのよ。ひどくなっちゃ困るでしょ? さ、飲んで」
「だって……」
 甘やかされて育ってきた香奈は、薬っていうのが大の苦手だった。しかも今はほんとに風邪をひいてるわけじゃない。オネショしちゃったのを隠すために思わず沙織に風邪だなんて嘘を言っちゃっただけなんだから。風邪でもないのに薬なんて――香奈はげんなりした表情で沙織の顔をちらと見上げて言った。
「……にがくない?」
「とってもにがいお薬よ」
 沙織はにこっと微笑んで優しく言った。
「良く効くお薬はにがいものよ。このお薬はと〜ってもよく効くそうよ」
「わーい、沙織が意地悪だよ〜」
 でも、そんな言葉で沙織が薬を諦める筈もなかった。沙織はさっさとコップに水を汲んでくると香奈の上半身を起こしてやり、ムリヤリみたいに粉薬を口の中に放りこむのだった。
「にがいよ〜。苦しいよ〜。えすえむだよ〜」
 香奈は喚いた。喚めいたけど、許してくれる沙織じゃない。
「そーれ、うりうりうり」
 沙織は楽しそうに薬を香奈の舌に押しつけ、コップを唇に押し当てる。
 ん〜と。ひょっとするとこれって、たしかに、新しいSMプレイになるのかもしれないぞ。

 そんなこんなで香奈がなんとかかんとか薬を飲んじゃうと。
「パジャマはどこ?」
 空になったコップを片付けてきた沙織が尋ねた。
「え、パジャマって?」
 香奈は一瞬ぽかんとした表情を浮かべて尋ね返す。
「香奈、汗で濡れたからパジャマを着替えたって言ってたじゃない? 脱いだパジャマ、どこに置いたのよ? 洗濯物のカゴには入ってなかったわよ」
 どうやら沙織、コップを持ってキッチンへ行くついでに洗濯機の側に置いてあるカゴを見てきたらしい。
「あ、と。ええと、その……いいの」
 ぜいぜいと肩で息をついていた香奈、思いもかけないことを言われたみたいにぎょっとした表情を浮かべて言葉を濁した。
「いいの、じゃないわよ。汗を吸ったパジャマなんて早めに洗濯しとかなきゃいけないんだから」
 だから家事の基本も知らない子は困るのよとでも言いたそうな口調の沙織。
「でも、だって……」
 香奈は両手の人差指と親指とを絡ませて力なく顔を伏た。けれど、無意識のうちに香奈の目がパジャマを隠した毛布の方を向いてしまう。
「……どうしてそんな所に隠しちゃうのよ?」
 香奈の目の動きを追った沙織が呆れたような声を出した。そして、微かに膨れている毛布をさっと剥がしてしまう。
「いや……」
 香奈の悲鳴が室の空気を震わせた。
「香奈ったら、なんて声を出すのよ」
 思わず香奈の顔を睨みつける沙織。で、そのすぐ後。
「え……?」
 そう言ったきり、信じられない物をみつけたように言葉を飲みこんで沙織はシーツをみつめた。
「やだ、見ちゃやだってば」
 香奈は身をよじった。
 だけど、香奈のお尻よりもずっと大きく広がったシミは沙織の目にはっきり映っている。香奈が一時間近くもヘアドライヤーの熱風を当て続けたおかげでシーツはすっかり乾いてたんだけど、そのシミは濡れていた時に比べるとくっきり変色しちゃってて、一目見ただけですぐにそれとわかるくらいになってたんだ。洗濯機の使い方も知らない香奈の自業自得だって言っちゃうのは、あまりにも可哀相だよね。
 で、沙織が目にしたのは、その大きなシミだけじゃなかった。
 沙織が呆れたような顔をそっと動かしてみると、香奈の両足の間に丸まってるハート模様のパジャマが目にとびこんできたんだ。香奈があっと思った時にはもう遅かった。
「……ふーん、そういうことだったの」
 ベッドの上からつまみ上げたパジャマ(の特にお尻の辺り)をしげしげと眺めながら沙織がぼそっと呟いた。
「あのね、沙織……」
 オネショの証拠を必死になって隠してて、でもとうとう母親にみつけられちゃったちっちゃな子みたいな顔をして香奈が口を開いた。誰が聞いてもおどおどしてるのがはっきりわかる情けない声。
「可哀相に。よほど熱にうなされたのね?」
 でも、沙織の方はなんだか妙な方向に誤解してるみたい。香奈がオネショしちゃったのを昨夜のうちにじゃなくて、沙織が大学へ行ってる間に熱にうなされてって具合に勘違いしてるみたいだ。それって、香奈にしてみれば少しよかったのかな? オネショそのものの恥ずかしさは同じでも、病気のせいだってことになれば言い訳にもなるんだし。
「え? あ、ああ、うん……」
 わざわざ沙織の勘違いを訂正する必要もないって咄嗟に考えた香奈、曖昧に頷いてみせた。
「それじゃ、もっとゆっくり休まなきゃね。もうそろそろ、さっき飲んだお薬が効いてくる頃だわ。ゆっくり眠ってゆっくり休むといいわ」
 沙織は奇妙な笑みを顔に浮かべて甘く囁いた。
 それが合図になったみたいに、香奈は急に意識が濁り始めるような感覚におそわれた。頭の中に白い霧が立ちこめて、何も見えなくなるような感覚。
 香奈はいつのまにか目を閉じて安らかな寝息をたて始めてた。




 夢なんてぜんぜん見ない、なんとなく妙な眠りだった。
 ほんとに眠くて眠るんじゃない、なんていうかムリヤリ眠らされてるみたいな違和感があった。だから、目が醒めた時にももうひとつ爽やかな気分じゃなくて。
「あ…ふ」
 睡眠時間だけはたっぷりあったみたいなんだけどなんとなくまだ気だるくて、溜息みたいなアクビを洩らしながら香奈が目を醒ました。
 窓から差し込むお日様の光が意外に眩しい――反射的に目を向けた目覚ましは午前十時をしめしていた。
 えええ? 香奈は思わず呆れたような声を出した。じゃ、なに? 私、昨日のお昼前から今まで眠ってたの?
 香奈はもう一度目覚ましを睨みつけた。でも、間違いはない。日付は確かに一日進んでるし、お日様の光の強さから考えてもお昼が近いのははっきりしてる。
 やだなぁ。私、どうかしちゃったのかしら。丸一日近くも目を醒まさないなんて、どう考えても普通じゃないわよね。それに、昨日は昨日でちっちゃな子供みたいにオネショなんてしちゃうし……。
 あ。
 そのことを思い出した途端、香奈は突然みたいに気がついた。昨日と同じような、なんとも表現しようのないじくじくした感触が下腹部から伝わってくる。湿っぽくて生温かいみたいな冷たいみたいな、ぞくぞくするようなねっとりした感触。
 これって……昨日の朝と同じ?
 香奈はとび起きた。とび起きて、慌てて毛布を捲くり上げてみる。
 うわ、うわわわ――香奈は泣き出しそうになった。香奈のお尻の下敷きになってるシーツには昨日のと比べてもいちだんと大きなシミが広がってるし、パジャマのズボンはべっとり太腿からお尻に貼り付いてるし。
 香奈の体温のおかげでまだほんのり温かかったパジャマの濡れたところが、毛布をどけた途端にすーって感じで冷たくなってきた。下腹部全体を包みこむみたいにぞくっとする冷たさが絡みついてくる。
 ふみ〜ん。香奈はとうとう両目をうるうるさせて天井を見上げちゃった。そうでもしなきゃ、それこそほんとに涙がこぼれ出しそうな気がしたから。オネショしちゃって、それで涙を流すなんて……そんなの、絶対にやだ。
「あら、起きてたの?」
 急に沙織の声が聞こえた。
 どうやら、香奈が心ここにあらずって感じで唇を震わせながら天井を睨みつけてる間にノックもしないで入ってきたみたい。沙織は、薬の包みとコップを枕元にそっと置いた。
「あ……」
 慌てて自分の下半身を毛布で隠そうとする香奈。
 でも、沙織の方が早かった。沙織は鋭い視線でシーツのシミをみつけると、その目を香奈の顔に向けた。
「……」
 香奈の肩がびくっと震えて、毛布の端を持った手の動きが止まった。
「やーれやれ、またしくじっちゃったか」
 でも沙織の声は、その鋭い目つきからは想像もできないほどに優しかったんだ。香奈を非難するみたいな調子なんてぜんぜんなくて、なんていうか、そうなることを予想してたみたいな、香奈がオネショしちゃうのも仕方ないとでもいうみたいな、まるでほんとにちっちゃな子供の失敗を温かく見守る母親みたいな感じで。
「ごめんなさい……」
 その温かい声に、思わずあやまっちゃう香奈。
「へ〜え、やけに素直じゃない。 どうした心境の変化?」
 優しいけど、でもちょっぴり皮肉めいた沙織の口調。
「……」
 香奈には返す言葉なんてない。
「うふふ。ま、いいわ。それよりも早く着替えないと体に毒ね。ただでさえ体調を崩してるんだから」
 沙織はもう一度香奈の顔を覗きこむみたいな仕種をした後、さっさと毛布を剥いじゃった。それから香奈の体に両手を廻して、抱き上げるみたいにしてベッドの上に立たせようとする。
「あん。いいわよ……自分でするから」
 香奈はおどおどした声で沙織の手を振りほどこうとした。
「なにを言ってるの。知らないまにオネショしちゃうほど具合がわるいんだから、ムリしちゃダメよ。ほら、私にまかせなさいって」
 でも沙織は香奈の言葉なんててんで無視して、手早く香奈のパジャマを脱がせ始めてる。
「だって……」
 と言いかけて、だけどその後を続けられなくなって香奈は口をつぐんじゃった。
 そりゃそうだよね。香奈はほんとのところ風邪をひいてるわけじゃないし、熱があるわけでもない。ただ、香奈はそんなことになっちゃった原因なんてちっとも思いつかないんだけど、どういうわけか一晩だけ(一晩だけだって香奈は思いたかった)大学生には似つかわしくない粗相をしちゃって、そのことをゴマかすために咄嗟に風邪だなんて嘘をついただけなんだ。そうして沙織が大学へ行ってる間に後片付けしちゃうつもりだった(恥ずかしさでいっぱいになりながら、ヘアドライヤーでお布団やパジャマを乾かしたりもしたんだから)のに、沙織が予想外に早く帰ってきて証拠をみつけられちゃって。で仕方なく熱にうなされてついつい失敗しちゃったってことにしただけ。なのに沙織ったらすっかりそれを信じこんじゃって、今もまた香奈の失敗の後片付けを手伝う気になっちゃってる。香奈にしてみれば、体もちゃんと動かせるのにオネショの始末を沙織にまかせるなんてこと、とてもじゃないけどできる筈がない。
とはいっても、今さらほんとのことを沙織に話せるわけもないし。



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