もういちど

もういちど(1)

高木かおり



 それは、母娘二人が静かに夕食を食べ終わってお茶を飲んでいた時のこと。
「ねえ、恵美ちゃん?」
 ちょっとどきどきしてそうな表情で、英子さんが娘の恵美ちゃんに話しかけたんだ。
「うん?」
 中学三年生の恵美ちゃんは、持っていたティーカップを唇から離して英子さんの顔を見た。
「あのね……」
 英子さんはなぜかためらっているふうだった。
「だから何よ? 私だって忙しいのよ。来年には高校受験だし、のんびりもしてられないんだから早く言ってよね」
 最近の若い子は親を親とも思わないような話し方をするんだね。もっとも、それは話し方だけで、ほんとに親を毛嫌いしてるとかそういうことでもないみたいだから一安心なんだけど。
「恵美ちゃんね、一人っ子で寂しいなーなんて思ったことないかしら?」
 英子さんはなんとなくもってまわったような言い方をした。
 でも、そこは実の娘。目の前に座って幸せそうに紅茶を飲んでる母親が何を言おうとしているのかピンときたみたいだ。恵美ちゃんはちょっとばかり意地悪そうな顔をして、英子さんの顔を下から見上げるみたいにして言った。
「本気で言ってるの、ママ? 中学三年生にもなって妹か弟ができちゃったりしたら私がクラスのみんなからなんて言われると思う? ──私、絶対みんなの笑い物になっちゃうよ?」
「そんな……笑い物だなんて……」
 そんな大袈裟な……って感じで、英子さんは苦笑してみせた。
 でも、それは英子さんの認識不足ってもんだよ。英子さんくらいの年齢(あ、英子さんの年齢をまだ書いてなかったっけ。英子さんは今年、三十三歳になったばかりなんだ。恵美ちゃんが十五歳だからすごく若いお母さんだよね。ま、それについては英子さんなりに事情ってものもあったんだからいいとして。でも、いくら若い母親だとはいっても、自分が十五歳の多感な少女だった頃の感覚なんて忘れちゃってたしてもムリはないよね)にもなればどうってことないようなことでも、現役の少女・恵美ちゃんにとっちゃ大問題ってことも少なくないんだから。なんたって、恵美ちゃんの年齢というのは人生の中でも一番敏感な時期なんだよね。体はぐっと大人びてくるし、性への目覚めなんてものもあるし、いろんな情報が口コミで飛びまわったりするし。で当然、どうすれば子供が生まれるかってことについても並々ならない興味を持ってるし、ちょっと好奇心に充ちた知識で頭の中がいっぱいになってる。そんなところへクラスの誰かに妹(か弟)ができちゃったとしたら、その誰かさんのせいでもないのにムリヤリみたいに話題の中心に据えられちゃうのは当たり前のことなんだ。なのに英子さんたら……。
「とにかく、私は絶対にイヤだからね」
 英子さんの表情を見てちょっとムッとしたみたいに英子ちゃんはほっぺを膨らませた。
「あ、ごめんごめん。そんなに気を悪くしないでちょうだいよ。──それにね、絶対にイヤだって言われても、もうできちゃってて……」
 英子さんはちょっと慌てて、とりなすみたいな口調で言った。そして言葉の最後の方に、とんでもない事実を付け加えるのも忘れなかった。さすが年の甲、みごとな作戦だった(かな?)。
「ふぇ……?」
 英子さんの言葉を耳にした恵美ちゃんの目が点になった。そんで、その点目でもってさかんにまばたきを繰り返してから、ぜんっぜん感情のこもっていない声でかろうじて訊き返したんだ。
「……もう、できちゃった……?」
「あははは、そうなのよ。昨日お医者様に診てもらったら二ケ月だって」
 照れくささをごまかすつもりなのか、英子さんは笑って認めたよ。
「だ、だって……パパは単身赴任でお家にいないのよ。なのにどうして……」
 恵美ちゃんは固い声で尋ねようとしたみたい。でも、パパとママがこうなって、そんでもってママのお腹に赤ちゃんが──とかいうようなことを想像しちゃって、ほっぺを赤く染めると口を閉ざしちゃう。なんたって恵美ちゃんは多感なお年頃なんだから。でも、だけど、パパが単身赴任中にどうやって……?
「えへへへ、実はね……」
 英子さんは赤い舌をぺろっと出すと、恵美ちゃんの顔からちょっと目を逸らせて言った。
「……恵美ちゃんが学校からキャンプに行ってた日があったでしょ? あの時にちょっと飛行機に乗ってパパに会いに行っちゃったのよ。だって恵美ちゃんもいなくて寂しかったんだもん」
「ねえ、ママ?」
 恵美ちゃんの顔には、はっきりと”あきれた”って書いてあったよ。
「もしもその時に私がキャンプ場で怪我でもして緊急の連絡が家に入ってたらどうするつもりだったの?」
「だいじょーぶよ。だって恵美ちゃんはしっかりした子だもん、怪我なんてするわけないわよ。げんに、こうしてぴんぴんしてるじゃない?」
 英子さんは遠い所を見るみたいな目をして恵美ちゃんに応えてた。
「でね、その夜のパパったらすごいのよ。なんたってすっごく久しぶりだったじゃない? ママがもう許してって言ってるのに……」
「もういい〜!!」
 カップをテーブルにどんと置いた恵美ちゃんは肩で息をしていた。
 ま、それも仕方のないことなんだけどさ。
 で、恵美ちゃんはガタンって椅子を引っくり返しちゃうような勢いで立ち上がったんだ。それから両手の拳をぐっと握りしめて小声で言った。
「ママもパパも大っ嫌いだ」
「え? でも、だって……パパとママが仲良くするのがどうしていけないの?」
 英子さん、おろおろ。
「ケダモノ」
 恵美ちゃんはぼそっと呟いて、ダイニングから廊下へ足を踏み出した。
「そんなぁ……ケダモノって言われても……だけど恵美ちゃんだって、パパとママがそうやって仲良くしたからできた子なのに」
 英子さん、ちょっぴり寂しそうに言った。
「そんなこと、聞きたくないや〜い」
 言い残して、美奈ちゃんは自分の部屋へ駆け出した。
「やれやれ、困ったお姉ちゃんねぇ。どうして素直に喜んでくれないのかしらね?」
 ひとり残された英子さんは自分のお腹をさすりながら、恵美ちゃんの妹(弟かな?) に話しかけたものだった。

 でもって恵美ちゃんは結局、お風呂にも入らずに自分の部屋に閉じこもってた。
 でも英子さんはさして心配するふうもなくさっさと後片づけをしちゃうと、ぬるめのお風呂にゆっくりつかって丁寧に体を洗い、ネグリジェに着替えて髪をブローしてからベッドに横たわったんだ。
 もちろん、英子さんにしても恵美ちゃんのことが気にならないわけじゃない。でもさ、今から恵美ちゃんに何をどう言って説得すればいい? それよりも恵美ちゃんが自分であれこれ考えて納得してくれるのを待つ方がいいんじゃないかしら──ちょっぴり楽天的な性格をしてる英子さん、そんなふうに考えてた。このへん、自分自身もまだ若い、どっちかっていうと姉妹みたいな母親の感覚かもしれないけど。
 だけど、英子さんのそんな考え方も決して間違ってたわけじゃない。
 だって、ほら。誰かが英子さんの寝室のドアをノックする音が聞こえてきたんだから。
「開いてるわよ」
 英子さん、ノックが聞こえるのと同時に、それが誰なのかなんて確かめもしないで優しい声をかけたんだ。ノックの主が誰かなんてこと、英子さんにはお見通しだもんね。
 カチャという小さな金属音と一緒にノブがまわった。ギッと微かに軋むような音をたてて木製のドアが開き始める。パパが帰ってきたら蝶番に油をさしてもらった方がいいかしら──英子さんはそんなことを考えながら、上半身を起こしてドアが開ききるのを待っていた。
 で、ドアから寝室に入ってきたのは(英子さんの予想通り)恵美ちゃんだったりするんだね。
「あら、どうしたの?」
 英子さんは胸の中で微笑みながら、でも、わざと意外そうな声で尋ねた。
「……」
 いくらなんでも実の母親にあんなひどいことを言っておいて今さらのこのこやってきた恵美ちゃんにしてみれば、英子さんの言葉が胸に深ーく突き刺さるみたいで何と言っていいのかわからない。
「ケダモノが寝てる所になんて入ってきちゃ危ないんじゃないかしら?」
 英子さんが、とどめをさすみたいに言った。
「もう……」
 恵美ちゃんはぷっとほっぺを膨らませた。顔が赤く染まってるのがあいくるしい。
「うふふ、冗談よ。──寂しくなったの?」
 英子さんの目がすっと細くなった。
 そうして英子さんの穏やかな視線を浴びると、このまま意地を張っているのがなんだかバカらしく思えてきちゃう。
「うん……」
 恵美ちゃんは素直な中学生に戻って小さく頷いたんだ。
「さ、いらっしゃい」
 英子さんはベッドの自分のすぐ右の所を軽く叩いて言った。
「いいの?」
 恵美ちゃんはちょっと上目遣いで訊いてみた。
「当たり前でしょ? 可愛い娘をイヤがるなんて、私はそんなひどいママじゃないわよ?」
「でも……私、ひどいことを言っちゃったし……」
「いいわよ。恵美ちゃんがどんな気持ちであんなことを言ったのかはわかってるつもりだもの。だから、ね?」
 英子さんはちょっとだけ首をかしげてみせた。
「てへへ。それじゃ、と」
 そう言われて恵美ちゃんはホッとしたような顔になった。それからベッドに這い上がると、英子さんに寄り添うみたいに両足を毛布の中にもぐりこませて、少しだけ照れたように唇の端を歪めるみたいにして笑ってみせた。
「久しぶりよね、恵美ちゃんとこうして一つのベッドに入るなんて」
 英子さんは恵美ちゃんを気遣うように優しく言った。
「うん……さっきはごめんね、ママ」
 恵美ちゃんは英子さんの耳元に口を寄せて囁いた。
「いいわよ、そんなに何度も」
「あ、ううん。でもやっぱり、きちんと謝っとかなきゃ。──あんなこと言うつもりなんてなかったのよ、ほんとは」
「わかってるわよ、恵美ちゃんがあんなことを言うような子じゃないってことは」
「ありがとう、ママ。でもね、あの時は私、普通じゃなかったと思うの。大事な優しいママをお腹の中の赤ちゃんにとられちゃいそうな気がして、それで……」
 恵美ちゃんは両手の指を絡めるみたいな仕種をしながら顔を伏せちゃった。
「わかってる。わかってるわよ、恵美ちゃん……」
 そう。英子さんには、恵美ちゃんの気持ちが痛いほどにわかってたんだ。恵美ちゃんが小学校の五年生になる頃からパパは単身赴任で遠くへ行っちゃって運動会や音楽会も観てもらったことがないし、お花見や盆踊りだって、クラスの友達が家族揃って出かけてきた様子を聞くばかりだったんだから。そしてその上、たった一人しかいない母親まで赤ちゃんにとられたりしたら、恵美ちゃんはどうすればいいんだろ? そんな恵美ちゃんの気持ちをわかっていながら、新しい家族が増える喜びをついつい口にしてしまった英子さん、少しは反省してるんだよ。
 英子さんは恵美ちゃんの肩に掌を載せて、いたわるような口調で言った。
「心配しなくても、ママはずっと恵美ちゃんのママよ。どんなことがあってもね」
「うん……」
 恵美ちゃんはやっとのことで晴れやかな顔を上げた。

 それから英子さんは何か考えてたみたいだけど、うんっていうふうに頷くと、恵美ちゃんの左手を優しくつかんで自分のお腹の上にそっと置いたんだ。
 突然のことでびっくりした表情になった恵美ちゃんだったけど、英子さんのお腹の暖かさを掌に感じた途端にふんわかした気分になったみたい。恵美ちゃんはにっと微笑んでみせると、その左手をゆっくりゆっくり英子さんのお腹の上で動かし始めたんだ。
「わかる? このお腹の中に新しい命がいるのよ」
 くすぐったいのをガマンするみたいに英子さん、恵美ちゃんに微笑み返して穏やかな声をかけた。それから恵美ちゃんの体を引き寄せて、恵美ちゃんの耳に自分の胸を押し当てて言った。
「ドクンドクンっていう音が聴こえるでしょう? それがママの心臓の音。ママの体だけじゃなくてお腹の中の赤ちゃんにも栄養と酸素を送り続けてるのよ。もちろん、恵美ちゃんがお腹の中にいた時にもこの心臓がそうしてくれたわね。お腹の中で聞いたこの音、憶えてる?」
 恵美ちゃんは、ううんっていうように軽く首を振った。でもその顔は安心しきったみたいにとっても穏やかだったし、なんていうか、柔らかくて暖かな光に包まれたような優しさに充ち充ちてた。はっきりした形では憶えていない母親の鼓動の音が、それでも恵美ちゃんの記憶のずっと奥深い場所にぼんやりとでも残っていることは確かみたいだね。
 恵美ちゃんは次第次第にうっとりしたような表情になっていった。
 そうして英子さんの胸に顔を埋めたまま、やすらかな寝息をたて始めちゃう。



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