美奈の夏休み

オープニング




 かるいノックの音が聞こえた。それから少し間があって、カチャッという小さな音と一緒にドアが開く気配が伝わってくる。ふと顔を上げた私の目に、銀色のお盆を抱えて室に入ってくる美奈の母親の姿が映った。どうやら、そろそろ休憩時間らしい。
母親がお盆をそっと床に置くのと、横に座っている美奈に私が声をかけるのとが同時だった。
「いいわ、美奈ちゃん。ちょっと休憩にしましょ」
 その声に、問題集を睨みつけながらうんうん唸っていた美奈がホッとしたように表情を緩め、照れくさそうに顔を上げた。
「ふぇ〜ん。今日のところ、むっちゃくちゃ難しいよぉ」
「なに言ってるの。先週やった公式を思い出してごらんよ、そしたらすぐに解けちゃうような問題ばかりじゃないの」
 私は呆れたように言った。それから、ちょっとばかり意地の悪い口調でこうも言ってやる。
「そんなことだから、期末テストの結果があんなだったのよ? 
美奈ちゃんが本気になったらもっともっといい点数が取れるんだから、頑張ってちょうだいね」
「あ、でも……」
 美奈は僅かに唇を尖らせた。そこへ、ティーカップとケーキのお皿を並べながら母親も口をはさんできた。
「先生のおっしゃる通りですよ。ママの目から見ても、美奈は少し注意が散漫になることが多いみたいですよ。もっと集中してごらんなさい」
「だって……」
 美奈は拗ねたようにぷっとほっぺを膨らませてみせた。だけど、お皿の上のケーキを見るなり目を輝かせ、それまでが嘘のように屈託のない声で言ったものだった。
「うわ、M堂のシフォンケーキじゃない。ママ、よく買えたわね」
 M堂というのは駅前の商店街の中にある、初老の夫婦が経営している小さなケーキ店だ。特に、いま目の前に並んでいるチョコレート生地のシフォンケーキはちょっと他のお店の商品には比べられるものがないほどのおいしさで、すぐに売り切れてしまう。それが香りの高い紅茶と一緒に出てきたものだから、成長期まっただ中の美奈はたちまち御機嫌になっちゃったんだろう。
「今日は特別よ。ちょっと先生にお願いしたいことがあってね、それでわざわざ並んで買ってきたのよ」
 母親はちょっとばかりもったいぶるように言った。それから、意味ありげな視線を私の顔に向けて微かに笑ってみせた。
「先生にお願い……?」
 母親の言葉になにか引っかかるものを感じたんだろう、要領を得ないような顔つきになって美奈が問い質した。
「……私に関係あること?」
「もちろんよ──中野先生には美奈の家庭教師をお願いしてるんだから」
 いまさら何をいってるのとでも言いたげに、軽い笑いを含んだ声で母親が応えた。

 えと、ちょっと簡単に自己紹介をしておこうかな。
 いま母親が言ったように、私は美奈の家庭教師をしている。
 私、中野亜紀は名門(なんだよ?)S女学院大学の三年生で、仏文が専攻ってことになってる。『なってる』っていうのは……教養過程でもさんざフランス語じゃしごかれた筈なのに、いまいちワケわかんないっていうような状態にいるから。でも、さすがに名門(しつこいぞ)大学に入学できただけあって、中学校レベルの英語や数学ならなんとかなる。
で、四月からゼミに配属になって卒論の準備なんかに追いまわされてる先輩の代わりに美奈の家庭教師を引き受けたんだ。
 ただ、この四月から中学二年生になったばかりのこの美奈って子がちょっと問題児だったりするんだね。あ、問題児ったって、すぐに暴力をふるうとか夜遊びをするとかってことじゃなくて、なんていうか……集中力に欠けるっていうか、妙にそわそわすることが多くて落ち着かないんだ。だからほんとは頭のいい子なのに、そのせいでケアレスミスを連発して試験じゃあまりいい成績を取れないし、私が教えてても、もひとつちゃんと聞いてないってことが多い。
 私と美奈との関係はつまり、そういうことだ。

「あの……お願いっていうのは?」
 母親の言葉に、私はわざと訝しそうな表情を浮かべて尋ねてみせた。
 それにつられるように、美奈も興味いっぱいって顔で母親の返事を待ってる。
「さっきも言ってたように、美奈ったら落ち着きがないでしょう?」
 二人の視線を受けながら母親が切り出した。
「ええ、まあ……」
 私はちょっと考えるような仕種をしてから応えた。
「それで、しばらく先生のマンションに預かって鍛え直していただけないかと思うんですけど……御迷惑かしら?」
 母親のお願いっていうのは、このことだった。
 美奈が妙にそわそわすることが多いっていうのは先に言ったよね?
 そこで母親と私とで前もってこっそり相談して、夏休みの間、美奈を私のマンション(私はちょっとばかり遠い所の出身で、親にムリを言ってマンションを借りてもらって大学へ通ってるんだ)で預かってみようかってことしたんだ。親と一緒だとどうしても甘えが出て、神経を集中する訓練ができそうにないから。つまり、特別合宿みたいなもんかな。
ま、私としては最初ちょっと迷ったんだけど、少なくないお礼も用意させていただきますよという言葉に、つい心が動いちゃったんだね。それにやっぱり、私としても可愛い教え子の少しでも役にたちたいし。
 ただ、四月に知り合ってまだ数ケ月しか経っていない私のマンションへおいでって言ってもなかなかウンとは応えないだろうから、美奈が見てる前で母親が私にお願いするっていうお芝居みたいなことをしてみようってことになったわけ。
「ああ。そういうことでしたら今年の夏は帰郷の予定もありませんし……私はかまいませんよ」
 いなかへ帰る予定がないっていうのはほんとのことだった。私には少し年の離れた兄がいるんだけど、その奥さん、つまり私からいえば兄嫁となんとなくそりが合わないんだよね。だから、あまり帰郷はしたくないんだ。もともと、いなかから離れて独りで生活してみようって思いついたのも、そういう事情がちょっと絡んでるんだから。
「そう。それじゃ、お願いできますわね?」
 母親はにこやかに微笑んだ。
「はい、私の方は」
 私も明るく応えてみせた。
 そこへちょっと慌てたみたいな声で割り込んできたのは美奈だった。
「ちょっと待ってよぉ。なによ、二人だけで決めちゃって。私の意見も聞かないでさ」
 そりゃ、美奈にしてみればせっかくの夏休み、いろいろと計画をたてていただろう。
中学二年にもなればボーイフレンドもいるかもしれない。それなのに家庭教師のマンションに預けられそうになってるんだもの、M堂のケーキでほこほこしてる場合じゃないってことに気がつかない方がヘンだ。
「あら、なにを言ってるの。ママは美奈のことを思ってこうして先生にお願いしてるんじゃないの。それを先生も快く引き受けてくださったっていうのに、どうしてあなたがそんなことを言うの?」
 母親は表情を引き締めて美奈に向き直った。
「だって……」
 母親に睨みつけられた美奈は僅かに顔を伏せた。まだ中学二年になったばかりの美奈にしてみれば、そんなふうに母親に反抗めいたことを口にするのはよほど勇気の要ることだったんだろう。
 それでも、美奈は再び勇気を奮いおこすようにおずおずと顔を上げ、ごくりと唾を飲みこんでから再び口を開いた。
「……でも、だって……」
 だけど、美奈の言葉はそこまでだった。頬をぷっと膨らませて何か言いたげにしているのだけど、それ以上は口にできない様子で、ちょっとばかり拗ねたような目つきで母親を睨んでいる。
 そんな美奈の顔を見ているうちに、私はなんとなく妙な思いにとらわれてきた。美奈の表情からは、ちょっと予定があるからとか、知り合ったばかりの家庭教師のマンションになんてとかいうような簡単な理由で断ってるんじゃないわよとでもいうような雰囲気が漂い出ているように思えたからだ。なんていうか、もっと切羽詰まったみたいな、ちょっと私には想像もつかないような理由があるように思えてしまう。
 私も少しマジな顔を母親の方に向けた──ひょっとしたら、母親は私に何か隠してるんじゃないかしら?
 この前の相談の時には話してくれなかったことがあるような気がしてくる。
 私の視線に気がついた母親が、やれやれとでも言うように微かに口許を歪めて苦笑した。それから、ちょっと唇を舌で湿らせて美奈の目を正面から覗きこむみたいにして、まるであやすみたいな口調で話しかけたんだ。
「ねえ、美奈──もうそろそろ中野先生には事情を知っておいていただいた方がいいんじゃないかしら。その上で先生に協力していただけば、きっと美奈のためにもなると思うんだけど?」
「……そんなこと言ったって、でも……」
 母親の言葉に、それまでの少し怖いような表情を和らげながら美奈は瞳をきょときょと落ち着きなく動かして曖昧に応えた。
 その目はまるで、救いを求めてでもいるように私には感じられた。美奈のそんな目を見ていると、私はなんだか、自分がイジメっ子にでもなったような気がしてくる。
「え、あの、えーと……どんなことかわからないけど、美奈ちゃんの事情っていうの、私にも教えてもらえないかな?……これでも一応は美奈ちゃんの家庭教師なんだし、美奈ちゃんさえよければ夏休みの間、だから、あの……」
 私はつい、自分が美奈を苛めているような後ろめたさのためにしどろもどろになりながら美奈に声をかけた──ヤだなぁ。なんか、母親との打ち合わせとはぜんぜん違う展開になってきちゃったじゃないよ。
 美奈の目が私の方に向けられた。
 ちょっと顔を伏せ気味にしている美奈は上目遣いに私の目をじっと見つめながら、何か考えているようだ。私は思わず、笑みを浮かべてみせた。だけどそれは、とってもわざとらしい笑顔になっちゃった筈だ。
 それでも美奈はそんな私の笑みをどういうふうに受け取ったのか、不意に小さく頷くと、おずおずと話しかけてきた。
「……ほんとにいいの、先生? 夏休み、先生だって何か予定が入ってたんじゃないの? なのに、ほんとに私が行ってもいいの?」
 どうやら、美奈は私たちの提案を受け容れてくれる気になったようだ。私はホッとしかけて……あれ、でもちょっと待てよ。美奈がその気になってくれるのはいい。もとはといえば母親と私とで、そうなるように仕組んだようなものなんだから。
だけど。
そうよ、だけど。さっき母親が言いかけた美奈の事情ってのが気になるじゃない。それを聞いておかなきゃ、今度は私の方が困ったことになったりしちゃうんじゃないかしら。
「ええ、もちろん。さっき、お母様にもそう御返事した筈よ?」
 私はちょっぴり迷いながら、でも、いつのまにかそう応えていた。
 私の返答を聞いた美奈はもう一度なにかを考えるような顔つきになった。そして母親と私の顔をちらちらと見比べて──で、やっとこさ決心がついたのか、年齢にふさわしい邪気のない明るい表情を浮かべて言った。
「じゃ……先生がそう言ってくれるならお願いしようかな」
「そうよ、是非そうなさいな」
 美奈の溌剌とした声に、私は思わず応えていた。だけど、すぐにちょっと口ごもりながらこう訊いていたのも事実だった。
「ただ……なんていうか、えと……事情っていうのを先に教えておいてもらえればと思うんだけど?」
「あ、それは……」
 美奈は頼りなげな視線を母親に投げかけた。
 けれど、母親はなにも言わなかった。穏やかな目で美奈の顔を見返すと、そっと頷くだけだった。それはまるで、自分の口で説明なさい、とでも言っているような仕種だった。
 美奈は少しばかり困惑した感じで、え?とでも問い返すようにもう一度母親の顔を見た。それでも母親はちっとも表情を変えずに静かに微笑んでみせるばかりだった。
 美奈はそれからもまだしばらく躊躇っている様子だったけど、さっき固めた決心が変わらないうちにとでも思い直したのか、形のいい唇をちょっとだけ開いて何か言いかけた。……でも、すぐに目をシフォンケーキの方に向けて口を閉ざしちゃう。
「ケーキは喋ってくれないわよ?」
 私はなんとなくおかしくなって、からかうような調子でそう言った。
 見る間に、美奈の頬がぱあっと赤く染まってゆく。
 私はそんな美奈がとても可愛らしく思え、つい調子に乗って、聞きようによってはとっても意地悪く聞こえるかもしれない口調で続けちゃったんだね。
「いつまでもそうして黙っててもわからないわよ。それともなーに、美奈ちゃんはお口のきけないちっちゃい子だったのかしら?」
「……」
 私の言葉に、美奈は何かを言い返そうとしてこちらを向いた。それなのに、半ば開きかけた唇はやっぱり力なく塞がっちゃうだけだ。
 私は少し考えてから、軽い調子で言ってみた。
「うふふふ。そんなに秘密にしたいことなの? でもまさか、ほんとにちっちゃい子みたいにオシモの失敗をしちゃうってわけでもないでしょうに?」
 それは美奈の緊張を解きほぐそうとして言ってみただけの、ほんの冗談みたいなことだった。私は、やだぁまさかぁとか笑ってから本当の事情を話し始める美奈の姿を期待してたんだから。
 だけど、それなのに──美奈ったら私の言葉を明るく笑いとばすどころか、ますます頬を赤く染めて、両手で顔を覆うみたいにしてうつむいちゃったんだよ?
 え?
 私は一瞬わけがわかんなくなって、慌てて母親に視線を向けた。
 母親はちょっと困ったように弱々しく笑ってみせると、美奈の両肩にそっと掌を載せた。それから美奈の耳元に唇を寄せて、優しくいたわるように言った。
「ねえ、美奈。これがひょっとしたら最後のチャンスかもしれないのよ。せっかくだから中野先生にみんなお話して、お力になっていただきましょう。今はとっても恥ずかしいかもしれないけど、でも、今しかないのよ?」
 あ、じゃ……図星なの?
 私がちょっとした冗談のつもりで言ったこと──美奈がオシモの失敗(それはつまり、オモラシってことだよね?)をしちゃうってこと、ほんとだったの?
 でも、だって、美奈は中学生だよ?
 三歳や四歳の幼児じゃないんだよ?
 私は自分の顔がこわばっていくのを感じながら、美奈と母親の姿に目を惹きつけられていた。その、美奈をあたたかく慰めるみたいな母親の仕種は、そしてその言葉は、私の言葉が事実だってことを直接じゃないにせよ、でもだからこそ妙にはっきりと私に伝えていた。



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