第六章 あした




「人は結局、そうありたいと願ったものにしかなれない。応用医療技術研究所と応用総合科は、そうありたいと願う人たちの気持ちを具体化してあげるために必要な技術を産み出すためにある場所。この患者たちはみな、願いをかなえた幸福な人たちなのよ。同時に、これから続く人たちのために我が身を実験台として捧げてくれた偉大な先達なの」
 いつのまにか深雪は未由を、鈴本真澄、島田恵美、須藤雅美と美鈴それに宗田美也子の五人に取り囲まれるような場所に移動させていた。
「みんな、新しい仲間よ。仲良くしてあげてね」
 深雪が言った。
 滅多に開かない瞼を細く開けて、真澄が未由を見た。まるで瞼を持たないかのようにずっと開いている丸い目を向けて、恵美が未由を見た。柔らかな視線で美鈴を見つめていた雅美と、甘えるように雅美の顔を見上げていた美鈴(元哉)が揃って未由を見た。周りのことなど一切知らぬげに毛づくろいに余念のない美也子が、のそっと顔を上げて未由を見た。
 異様な姿の、人間とも人間でないともつかない者たちの視線を浴びて、未由は身をすくめた。けれど、未由の体に集まった視線は、思ったよりも冷たくはなかった。
「私は……私はどうなるんですか」
 車椅子に乗った未由はおどおどと振り返って深雪の顔を振り仰いだ。
「どうしてほしい? さっきも言ったように、ここは、そうありたいと願う人の思いをかなえてあげる場所よ。あなたの望み通りにしてあげるわ。但し、お家に帰してほしいという願いだけはかなえてあげられないけどね」
「どうしてほしいって訊かれても……」
 未由は言葉に詰まった。もともと、願いがあってここへ来たわけではない。知らぬ間に連れて来られて、強引に収容されてしまったのだ。
「わからない? そう、自分じゃわからないんだ」
 深雪は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「自分じゃわからないってどういうことですか? まるで、先生には私が何を願っているのかわかっているような言い方ですけど」
 人を小馬鹿にしたような深雪の言い方に少しばかりむっとして、未由は口を尖らせた。
「もちろん、わかっているわよ。未由さんが何を望んでいるのか、未由さんが何になりたがっているのか、何度も何度も慎重に分析してきたのだから」
 笑みを浮かべたまま、深雪はこともなげに言った。
「私は……私の願いは何ですか? 私は何を望んでるんですか?」
 自分の心の中を他人に尋ねる。それは、なんとも妙な感じのする行為だ。けれど、未由は深雪に尋ねずにはいられなかった。
「教えてほしい?」
 深雪は未由の目を見据えた。
「……」
 一瞬、未由は応えられなかった。自分でもわからない自分の望みを知りたいのはやまやまだ。けれど、自分の心の中にどんなものがひそんでいるのか、それを正面から突きつけられるのが怖くないかと訊かれれば怖いとしか応えられない。
「じゃ、いいのね」
 急に興味を失ったように深雪は声を落とした。
「あ、いえ……教えてください、お願いだから」
 奥歯を噛みしめて言う未由の声は震えていた。
「未由さんは、これまでの生活に随分と失望しているようね。なんていうか、今まで生きてきた十九年間の人生を無かったことにしたいなんてことを思っているみたいな感じがするくらいに」
 深雪は言葉を選んで言った。
 未由はおずおずと頷いた。これまで感じてきた違和感。周りの人間の中で自分だけが浮いてしまっているような感覚。いい子でいることの虚しさ。大人たちから感じる狡さ。そんな諸々のことを一言で表現しようとするなら、深雪の言葉がまさにそうだった。
「それが、つまり、未由さんの望みなのよ。未由さんが願っていることは、それなの」
「それが……私の望み?」
「そう。これまでの人生を無かったことにして、もういちど人生をやり直すこと。未由さんの心はそんな思いでいっぱいになっている」
「人生をやり直す。……でも、どんなふうにして?」
 未由は無意識のうちに深雪の言葉を繰り返していた。それが具体的にはどういうことなのかわからないけれど、確かにその言葉に強く惹かれるのも事実だった。だから、ついつい、深雪がどんな方法を使おうとしているのか訊いてしまうのだった。
「簡単なことよ。いい見本もいるんだしね、未由さんの目の前に」
 なんでもないことのように深雪は言った。
「見本?」
「美鈴ちゃんのことよ。そうは思わない?」
 ほらというように深雪は美鈴の方に顔を向けた。つられて、未由もそちらに顔を向ける。
 いつのまにか、真澄と恵美と美也子の三人は再び自分だけの世界に戻っていた。けれど、美鈴と雅美は、まだ未由のことをじっと見つめている。
「もともとは瀬田元哉という男の子だったのに、心だけ赤ちゃん返りしてしまったのが美鈴ちゃん。私たちは、心が先に幼い女の子になってしまった美鈴ちゃんを、体もそういうふうに作り変えることで、雅美さんの可愛い娘にしてあげた。――その逆の場合はどうなるのか、私はそれを知りたいの」
 美鈴と雅美を見据えたまま深雪は声を弾ませた。
「逆の場合?」
 深雪と同じように二人の姿を見つめる未由は、いいしれぬ不安にかられる。
「つまり、心より先に体を赤ちゃんみたいに作り変られた人がいたとしたら、その人は精神的にも赤ちゃん返りするのかな、ということ。それが、美鈴ちゃんと逆の場合という意味」
「ま、まさか……」
 はっとしたように未由は振り返った。
「いい考えだと思わない? それがうまくいくなら、未由さんは赤ちゃんに戻って人生をやり直すことができる。この病棟に新しいアイドルが生まれる。それに、私の研究にも役立ってもらえる。ほら、いいこと尽くめじゃない」
 深雪は未由の顔を見おろした。
「冗談ですよね? いくら私が心の中では人生をやり直したいって思ってるとしても、本当に赤ちゃんの頃からやり直すだなんて、そんなの、冗談ですよね?」
 そう言って、未由は車椅子からおりて床に立とうと脚を伸ばした。が、自分では伸ばしたつもりの両脚がまるで動かない。
「あら、冗談じゃないわよ。その証拠に、もう手術は済ませてしまったもの。未由さんをこの病棟に預かった日から今日が何日目だと思う?」
 面白そうに深雪は言った。
「知りません、そんなこと」
 いつのまにか自分の脚が動かなくなってしまっていることにパニックに陥りかけている未由は、ちょっと怒ったように言った。
「八日目なのよ、今日で。手と足の腱に細工をして、その痕を目立たないように処置するのに、一週間もあれば充分なのよ、私なら。うふふ、それがどういう意味か、未由さんにもわかるわよね?」
 深雪は、それまで未由の顔を見ていた目を未由の足首のあたりに向けた。
 少しだけ、ほんの少しだけ沈黙があって、未由の顔がこわばった。
「そう、未由さんの脚が動かないのは、私が施した手術のためよ。もっとも、手術だなんて呼ぶほど大げさな処置じゃないけどね。美鈴ちゃんは三歳児ということだったから、よちよち歩きくらいはできるようにしておいたけど、未由さんの場合は赤ちゃんに戻ってもらうんだから、美鈴ちゃんの時よりも少しだけ筋肉の弱体化を進めておいたの。頑張れば伝い立ちくらいはできるかなという程度にね。でも、ま、最初のうちは這い這いくらいしかできないと思うけど。ああ、それと、両手にも同様の処置を施しておいたから、食事の時は誰かに手伝ってもらえないと食べられないと思うわ。お箸もスプーンもちゃんと使えないでしょうから」
 深雪の真っ赤な薄い唇が紬ぎ出す言葉を、未由は大きく目を見開いて、信じられない思いで聞いていた。けれど、いくら信じられなくても、実際に脚を伸ばすこともできないでいるのだ。それに、確かに、車椅子の肘置きから両腕を持ち上げることもままならない。
「未由さんはもう、誰かの助けを借りないと生きていけない体になっているのよ。一歳くらいの赤ちゃんみたいにね。体が赤ちゃんみたいになった未由さんの心がどんなふうに変わってゆくのか、とても興味深い研究になりそうだわ」
 深雪の言葉が終わらないうちに未由はぶるんと大きく首を振って両脚に力を入れた。それまでは殆ど動かなかった両脚が、今度は微かに動いた。それに力を得て、深雪は両手の掌を車椅子の肘置きの上に突っ張って、強引に体を起こそうとする。
 そのタイミングを見計らったように、深雪がすっと車椅子を退いた。
 かろうじて立ち上がりかけていた未由にしてみれば、たまったものではない。そのまま前方に投げ出されるみたいにして、床の上に俯せで倒れこんでしまう。普通なら、倒れそうになっても両脚を突っ張って体を支えることもできただろう。倒れてしまうにしても、両手で衝撃をやわらげることもできただろう。けれど、深雪が施した処置によって両手と両脚の自由を奪われてしまった未由には、それもできない。胸と顔を固い床に打ちつけるようにして倒れこんでしまった。
「つ……」
 思わず涙目になりながら、未由は両手に力を入れた。
 万歳するみたいな格好で伸びきってしまった腕を体のそばまで引き寄せるだけでも大仕事だった。肩から肘まではなんとか動かせるものの、そこから先が自由にならない。倒れた時の痛みのせいというよりも、自分の体が自分の思うように動かないもどかしさのためにひどく情けなくなりながら、小刻みに震える指先を睨みつけ、未由は少しずつ少しずつ体を進めた。
 床の上に倒れこんでから二分ほどが経って、ようやくのこと、未由は両手と両脚で自分の体を支えることができた。とはいっても、立ち上がれたわけではない。両手の掌と両脚の膝を床についた、赤ん坊が這い這いする時のような格好だ。
 そんな未由に向かって、おいでおいでをするみたいに美鈴が手招きしてみせた。
 けれど、未由はその場から動けない。美鈴の手招きに誘われるまま二人がいる場所に行ったりしたら、深雪の思い通りになってしまいそうな気がしてならない。かといって、こんな体では、この場から逃げ出すこともできない。
「どうして行かないの? せっかく、お姉ちゃんが呼んでくれているのに」
 車椅子を壁際に置いて、あらためて未由の近くにやって来た深雪が言った。
「お姉ちゃん?」
 要領を得ない表情で未由は深雪の顔を振り仰いだ。
「そう、お姉ちゃんよ。未由さんはこうして這い這いしかできないけど、美鈴ちゃんはちゃんと歩けるもの。頼りない足取りのよちよち歩きだけど、自分の足で歩けるんだから、這い這いしかできない赤ちゃんの未由さんから見れば、ずっとお姉ちゃんだわ。もっとも、まだおむつは取れそうにないけどね」
 くすっと笑って深雪は言った。
「私、赤ちゃんじゃありません」
 よつん這いの格好で顔だけ深雪の方に向けた未由は声を震わせた。床に打ちつけたおでこが僅かに赤くなっているのが、少し痛々しいと同時に、どことなく可愛らしい感じを見る者に与える。
「赤ちゃんじゃない? うふふ、いつまでそう言っていられるかしら」
 深雪は意味ありげに笑うと、すっとしゃがみこんで、未由の下腹部をさわっと撫でた。
 未由が身に着けているのは、少し丈の短いベビードールタイプのナイティだ。未由がよつん這いになっているため、裾がお腹の下でふわっと広がって、下腹部のあたりはまるで無防備になってしまっている。そのせいで、深雪の掌が直に触れる感触が生々しく伝わってくる。
 未由の体がびくっと震えた。
 けれど、それは、ぞっとするように冷たい掌の感触のせいだけではなかった。
「そろそろじゃないの? いつまでも我慢してちゃ体に悪いわよ」
 言いながら、深雪は未由の下腹部を撫で続ける。
「やめて、やめてください」
 今にも泣き出しそうな声で未由が言った。これ以上そんなところを刺激されたら……。
「思った通りだ。我慢してたのね?」
 未由の懇願を無視して、深雪は手の動きを止めようとはしない。
 深雪の手に、未由の下腹部のひくひくした動きが伝わってくる。
 深雪は、未由の下腹部を軽く押し上げた。
「駄目! 駄目だったら!」
 未由の声が悲鳴に変わった。
 未由は唇を噛みしめて、ぶるぶる震える右腕を前に出した。同時に、こちらも小刻みに震える左脚を、引きずるみたいにして前に進める。
 深雪の手から逃れようとしているのはわかるが、あまりにものろのろした動きだった。けれど、深雪が施した処置のせいで歩くことはおろか立ち上がることさえ難しい未由には、それが精一杯だった。
 ゆっくりゆっくり這って行く未由の速度に合わせて体を動かしながら、深雪の非情な手は未由の下腹部をなぶり続ける。
「やめてください。お願いだから、その手を離してください」
 未由の声は悲痛でさえあった。しかし、決して大きな声ではない。大声を出そうとすれば、どうしてもお腹に力が入ってしまう。そうなったらどんなことになってしまうか、未由自身がよく知っている。

 深雪の手から逃れようとして僅かずつでも体を動かしていた未由の手足が、やがて、ぴたっと止まってしまった。顔は脂汗でびっしょりだ。
「あら、もうそろそろ我慢もできなくなってきたのかしら」
 頼りない両手と両脚でかろうじて体を支えているのがやっとで、もうこれ以上は前にも後ろにも動けない未由に向かって、深雪は面白そうに言った。
 未由は応えもせず、ただ、ぜいぜいと肩で息をするばかりだ。自由にならない体を無理矢理動かしたせいだけでなく、何かに耐えているような荒い息づかい。
 そう、さっきからずっと未由は耐えていた。
 次第に強くなってくる尿意に、未由は必死に耐えていた。
 けれど、それは、深雪が下腹部を撫でまわしたために感じ始めた尿意というわけではない。実は、それよりも前から尿意を覚えていたのだ。それをなんとなく言いそびれているうちにじわじわと尿意が強まっていた。どういうわけかそのことを知って未由の下腹部を刺激し続けた深雪の手の動きは、実は、尿意をほんの少し刺激したにすぎない。そんなことがなかったとしても、未由の尿意はひどく激しくなっていたに違いない。
 車椅子からおりたのは、深雪のそばから少しでも離れたいというのもあったけれど、それよりも、尿意から逃れるためというのが本当のところだった。ここが病院の中なら、どこか、あまり遠くない所にトイレがある筈だと思った。だから、トイレを探すために、自由にならない手と脚を振りまわして車椅子からおりたのだ。いくら力が入らないとはいっても、まさかこれほどには腕も脚も自由に動かせなくなっているとは思いもしなかった。
 もう、少しでも変な力の入れ方をしたら危ない。進むにも退くにも、ちょっとでも体を動かせば、それだけで下腹部の緊張が解けてしまいそうなほど切羽詰まっている。
 ただ、どうして深雪が未由の尿意を知っていたのか、それが未由にはわからなかった。車椅子からおりるまで、おしっこをしたいだなんて思わせるようなそぶりは見せていない筈なのに。
 膝を折ってしゃがみこんだ姿勢のまま、深雪が未由の目の前にまわりこんできた。そうして、未由の顔をじっとうかがうと、未由の胸の内を読み取ったかのように言った。
「不思議そうな顔をしてるわね。未由さんがトイレへ行きたがっているのを私が知っていることがそんなに不思議? でも、不思議でもなんでもないのよ」
 未由は、上目遣いに深雪の顔をちらとだけ見返した。
「未由さんが意識を失っていた一週間、排泄物の処置はどうしていたと思う?」
 『排泄物の処置』という無機質な言い方だからまだいいが、普通の言葉にすれば『おしっこやうんちのお世話』ということになる。深雪の口から出たそんな言葉に未由の顔が真っ赤に染まる。
「排泄物の量や排泄間隔も立派な医療データだから丹念に記録していたのよ。そのデータを基に考えれば、未由さんがそろそろおしっこだろうなというくらいのこと、推測するのは難しいことじゃないわ」
 深雪はこともなげに言った。そうして、少し間を置いてから、僅かに首をかしげて付け加えた。
「もっとも、そんなデータを見なくても、私には未由さんの排泄間隔がどのくらいになるか、およそのことは最初からわかっていたけどね。――未由さんの膀胱の大きさを変えてあげた時点で」
「膀胱の大きさを変える?」
 弱々しい声で未由は聞き返した。
「腕と脚の力を弱くする手術を施したことはもう話してあげたわよね。実は、その時、もう一つの処置も施しておいたの。それが、膀胱の大きさを変える手術。未由さんの膀胱は四時間くらいのおしっこを溜められる容量があったけど、それを二時間くらいで一杯になるよう小さくしてあげたの。私が手術したんだもの、未由さんがどれくらいの間隔でトイレへ行きたくなるのかわかるのも当たり前といえば当たり前ね」
「どうして、そんなことを……」
 呆然とした声で未由は言った。けれど、大声で叫ぶことはできない。
「未由さんの手と脚の腱を少し切ったのは、赤ん坊と同じような動きしかできないようにするため。膀胱への処置もそれと同じよ。未由さんの身体機能を赤ん坊なみにするため。そうすることで、未由さんは人生をやり直すためのきっかけを得ることができるの。そのために私がこの手でメスを握って手術してあげたのよ」
 深雪の目がきらきら輝いていた。
 そんな深雪の目を直視していられなくて、未由は目をそらした。
「で、どうするの? このままじゃトイレには間に合いそうもないみたいだけど」
 言いながらすっと立ち上がった深雪は雅美のそばに近づくと、雅美に向かって何やら囁きかけた。
 深雪に軽く頷き返して、雅美がソファから立ち上がった。それを見て慌てて立ち上がろうとする美鈴の肩をそっと押さえて深雪は言った。
「大丈夫よ、ママはすぐに戻ってくるから。おばちゃまが頼んだ物を持ってすぐに戻ってくるから、それまで、おばちゃまと一緒にいましょうね」
 一度は立ち上がりかけた美鈴も、深雪に言われておとなしく座り直した。深雪を信頼しきっているのが一目でわかる仕種だった。

 しばらくして戻ってきた雅美は、両手でオマルを抱えていた。白鳥の形をした幼児用の可愛い便器だ。
 雅美は、その大きなオマルを未由の体のすぐ横に置いた。
「可哀想に、ずっと我慢してたのね」
 オマルを床に置いた雅美は未由の背後にまわりこんだ。
 雅美の動きを、美鈴と深雪がじっと見守っている。
「いや、触らないで」
 突然、よく注意していないと聞こえないような細い声で未由が言った。雅美の手が未由の脇腹に触れていた。
「だめよ、おとなしくしてなくちゃ。ママがおしっこさせてあげるんだから」
 未由の声など気にするふうもなく、雅美は未由の脇の下に両手を廻した。
「ママ? おしっこをさせてあげる?」
 雅美が何を言っているのか、すぐにはわからなかった。
 けれど、体のすぐそばにある幼児用の便器と雅美の言葉を合わせてみれば、雅美が何をしようとしているのか、容易に想像がつく。
 未由は身をよじりかけて、でも、その動きをすぐに止めてしまった。思わず体を動かしてしまったせいで、我慢に我慢を重ねていたおしっこが少しだけ溢れ出る感じがあった。慌てて下腹部に力を入れて、両脚の腿が擦れ合うくらいに股間を引き締めたものの、じゅわっと湿っぽい感じが股の間に広がるのがわかる。
 少しでも溢れ始めたおしっこを止めるのは難しい。それでも、未由は、ショーツの舟底を幾らか濡らしただけで、それ以上はなんとか防ぐことができた。
「ほら、暴れちゃ駄目よ。未由ちゃんはまだ立っちできないんだから」
 じくっと濡れたショーツの肌触りと、雅美の『未由ちゃん』という呼び方に、未由の目の下が熱くほてる。
 思わず顔を赤く染める未由の羞恥や屈辱などまるでおかまいなしに、雅美は両手に力を入れた。細っこい体つきとは裏腹に、雅美の力は半端ではなかった。深雪が施した筋力増強処置のおかげで、僅かながら自分よりも背の高い未由の体を軽々と抱え上げてしまう。
 思いもしなかった事態にうろたえた未由は、雅美の手から逃れようとして咄嗟に体をひねった。
 その直後、未由の唇から弱々しいが漏れた。
「あ……」
 絶望的な呻き声だった。
 もうぎりぎりというところで体を動かしたものだから、一度は我慢できたおしっこが、今度こそ、未由の意志とはまるで無関係に溢れ出した。ショーツが吸い取れる量など、たかが知れている。せいぜいが寝汗を吸い取ることができる程度だ。それに、身に着けているのが比較的吸水性のいいシルクのナイティとはいえ、それでおしっこを全て吸収してくれるわけがない。
 雅美は脇の下に掌を差し入れて未由の体を引き起こしているものの、まだ完全に抱え上げてしまったわけではない。雅美の手に上半身を支えてもらって、未由は膝立ちしているような格好だ。丈の短いナイティの裾が雅美の手に引っ張られるみたいな感じで少し捲れ上がっているため、フレアパンツが殆ど丸見えになっている。
 もじもじと擦れ合わせる内腿の間を伝って、透明な雫が一つ、すっと流れ落ちた。ショーツでは吸い取れなくなり、シルクのフレアパンツでも吸収しきれなくなったおしっこが、フレアパンツと内腿の肌との隙間から滴り落ちた雫だった。見れば、もうすっかりフレアパンツのお尻のあたりはぐっしょりと大きなシミになっていた。かなりのおしっこを吸い取ったのだろう、その重みのせいで、ずり落ちかかっているようにさえ見える。それでも吸い取りきれなくなったおしっこがフレアパンツからしみ出て未由の腿を濡らしている。
 内腿を伝わる雫は次第次第に数を増やしながら、未由の張りのある肌の上を転がり落ち、あるいは伝い落ちして、膝頭を濡らして床に落ちてゆく。
「あ、あ、あ……」
 なす術もなく、自分の股間から溢れては絶え間なく床を濡らし続けるおしっこの滴りをただじっと眺めながら、未由は言葉にならない呻き声を漏らすばかりだった。




 最後の雫が床に落ちた。
 まるで焦点の合わない目でぼんやりと、自分の体のすぐ下にできたおしっこの水溜まりを見つめる未由の体を、今度こそ雅美が抱き上げるようにしてその場に立たせた。深雪が施した処置のせいで放っておけばすぐにでも倒れてしまいそうになる未由の体を雅美の頼もしい両腕が優しく支える。
 足音も立てずに深雪が近づいてくる。
「申し訳ありませんけど、先生がこの子のパンツを脱がせてやっていただけませんか。私はこの子の体を支えるので手一杯なものですから」
 傍らに立った深雪に、雅美は大人びた口調で言った。雅美はもはや高校生などではない。美鈴という最愛の娘を持つ若い母親なのだ。母親としての自負が、雅美を、年齢相応の少女などではない、本当の年齢からは思いもつかない大人びた女性に変貌させたのだ。
「いいわ、雅美さん。フレアパンツとショーツを脱がせばいいのね?」
 深雪も、まるで同年代の友人に対するような口調で応えた。
「ええ。ナイティの丈が短かったのがよかったんでしょうね。濡れてるのはボトムだけで、トップの方は大丈夫みたいです」
 素早く未由の体に視線を走らせて、雅美は軽く頷いた。
「ん、わかった」
 短く応えて、深雪は未由の右の足首を掴んだ。そうして、そのまま足首を床から三十センチほど持ち上げてから、もう一方の手でフレアパンツをさっと引きおろす。ぐっしょり濡れたフレアパンツは未由の肌に貼り付くみたいにしてまとわりつくけれど、深雪がそんなことまるで気にとめず、力まかせに引きおろすと、ショーツまで一緒に膝の下までずり落ちた。深雪はなかば強引にフレアパンツとショーツをまとめて右の足首から抜き取り、続いて、今度は左の足首を持ち上げて同じようにしてフレアパンツとショーツを未由の下腹部から剥ぎ取った。
 未由の下着を脱がせ終えた深雪の目の高さと未由の下腹部とが殆ど同じ高さだった。深雪の目に、全く飾り毛の生えていない幼女のような未由の股間が映った。けれど、深雪は驚きもしなかった。未由の飾り毛を剃り落とし、もう二度と黒い茂みが生えることのないように処置を施したのも深雪だったのだから。未由は今、その幼女のような下腹部にお似合いの粗相をしてしまったのだ。まだ無毛の幼い女の子のように、おしっこを洩らしてしまったのだった。
「いいわよ、雅美さん。次はどうすればいい?」
 未由のおしっこをたっぷり吸ったフレアパンツとショーツをそっと床に置いて深雪は腰を伸ばした。
 深雪が立ち上がると雅美よりも頭一つくらい背が高くなる。けれど、雅美はそんなこと気にするふうもなく堂々としている。地震で家族を失って自分を責め続けていた雅美はもうどこにもいない。深雪の目の前にいるのは、美鈴という新しい家族、それも、雅美がいなければ何もできない愛すべき娘を持つ、母親としての威厳と自負に満ちた雅美だ。
 そして、今また、未由という新しい娘を手に入れたばかりの悦びに胸を躍らせる雅美だった。そう、未由を入院させると決めた時に深雪が真っ先に思い浮かべたのは、雅美と美鈴の顔だった。未由を預かると両親に言った時にはもう深雪は未由にどのような処置を施すか決めていた。つまり、手足を自由に動けなくした上で膀胱も小さくするという、未由の身体機能を赤ん坊なみにしてしまうことを決めていたのだ。そうして、赤ん坊みたいな体に変えてしまった未由を雅美に預けることも。初めてそのことを話した途端、雅美は二つ返事で頷いた。自分が家族を守ることのできる大人になったのだという証になるものなら、幾らでも手に入れたいと願っていた雅美だった。深雪の予想した通り、深雪の申し出を断るわけがなかった。美鈴にしてもそうだ。まだ僅かながら元哉としての意識も持っている美鈴は、心のどこかで妹を欲しがっていた。夢に見るのだろうか、時おり寝言で「まま、みすず、いもうとがほしいの」と言うことさえあったのだから。
「ここには着替えもありませんから、とりあえず部屋へ連れて行きましょう。裸のお尻のままだと体によくないけど、少しの間くらいなら大丈夫でしょう」
 そう言って雅美は、深雪が壁際に置いた車椅子に目を向けた。
「そうね。じゃ、取ってくるわ」
 雅美に言われるまま、さっと歩き出した深雪は車椅子の取っ手に手をかけた。厳密に言えば医師と患者(あるいは、研究素材)という関係の深雪と雅美だが、未由が間に入ると、対等のパートナーになってしまう。

「さ、もういちどあれに乗りましょうね。お尻が裸ん坊だからちょっと冷たいかもしれないけど、少しの間だから我慢してね」
 雅美は、未由の体が、車椅子を押してこちらに近づいてくる深雪と向き合うよう両手を動かした。
 その時になって初めて、未由は、深雪が押しているのが普通の車椅子ではないことに気がついた。町中などでよく見かけるような、タイヤの大きな、どちらかというとごつごつした感じの車椅子ではなく、車輪も小径で、日除けの付いた、淡いピンクを基調にした材料でできたそれは、車椅子というよりも、幼児を乗せるベビーバギーのようだ。いや、ようだという言うよりも、大きさこそ未由を乗せられるくらいのサイズだけれど、見た目はベビーバギーそのものだった。
 ぶるんと未由は首を振った。
「どうかしたの、未由ちゃん?」
 雅美が言った。
「いや」
 もういちど首を振って未由が応えた。
「いやって、何がいやなの?」
「あんな……あんな、赤ちゃんが乗るようなのなんて、いや」
「赤ちゃんが乗るようなのがいやって言っても、未由ちゃんは赤ちゃんだもの、あれでいいのよ。自分で歩けない、自分でトイレも行けない赤ちゃんなんだから、未由ちゃんは」
「赤ちゃんじゃない。私、赤ちゃんなんかじゃない!」
 未由は何度も首を振った。
「赤ちゃんじゃないですって? じゃ、教えてちょうだい。その水溜まり、誰のおしっこだったけ? そのパンツ、誰のおしっこで濡れちゃったんだっけ?」
 未由の真向かいにベビーバギーを停めた深雪が腰に手を当てて言った。
「……」
 未由は言葉をなくした。
「代わりに答えてあげるわ。水溜まりもパンツも、未由ちゃんのおしっこなのよ。みんなが見ている中でおしっこをお洩らししちゃうような子は赤ちゃんよ。それも、今はお返事さえできない赤ちゃんね、未由ちゃんは」
 雅美と同じように『未由ちゃん』という呼び方をして、わざと未由の羞恥を煽るみたいに深雪は言った。
「さ、おとなしくバギーに乗ろうね。バギーでお部屋に戻ってちゃんと着替えようね」
 続いて、あやすみたいに雅美が言った。
 雅美の年齢は十七歳だから、未由の方が二つ上だ。そんな年下の少女に子供扱いされる自分が惨めだった。けれど、未由は言い返すことができない。深雪が施した処置のせいとはいえ、床と下着を濡らしたのは確かに未由自身のおしっこなのだから。未由には、幼児が嫌々をするように首を振ることしかできなかった。
「いつまでも駄々をこねてちゃ駄目よ! 言ってわからない子にはお仕置きね」
 不意に雅美の声が厳しくなった。
 その直後、ぱしんという音が響いて深雪のお尻がぶるんと揺れた。
「ひ……」
 思わず未由は悲鳴をあげた。
 続けて二度三度と雅美は未由のお尻に手を振りおろす。
「やめて、もうやめて……」
 未由は泣き声で懇願した。思いきりぶたれる痛みのせいもあるけれど、それ以上に、まるで幼い子供みたいに裸のお尻をぶたれる屈辱が我慢できない。
「いい子になるのね?」
 僅かながら自分よりも背の高く年上の未由の目をじっと覗きこむようにして、言い聞かせるような口調で雅美は言った。
 けれど、未由は唇を噛みしめて押し黙っている。
 もういちど雅美の手が容赦なく未由のお尻をぶった。
「ごめんなさい。いい子になります。いい子になるから、もうぶたないで」
 咄嗟に身をかがめるようにして未由は慌てて言った。
「そう、それでいいのよ。やっぱり、小っちゃい子には、言葉で言って聞かせるより体に教える方がいいみたいですね」
 あらためて未由の体を両手で支えて、雅美は深雪に同意を求めるように言った。
「うふふ、そうね。小っちゃいうちのしつけが大事なのよ、育児には」
 笑い声で言った深雪は、ベビーバギーをすっと前に押し出した。
「さ、乗りましょう」
 未由が倒れないよう支えながら、雅美は自分の体ごとベビーバギーに近づいた。
 けれど、口では許しを乞いながら、まだ本心では雅美に従う決心のつかない未由だった。ベビーバギーの方に押しやられても、ついつい両脚を突っ張ってしまう。
「あら、未由ちゃんはまだわかってなかったのかしら?」
 厳しい声ではない、むしろ優しい声で雅美が言った。却ってその方が凄みがある。
「ご、ごめんなさい」
 無意識のうちに雅美に謝って、未由は、自由にならない右足を引きずるみたいにしてベビーバギーのステップに置いた。
「いい子ね。でも、ごめんなさいだけじゃ駄目。誰に謝っているかわからないもの。誰にごめんなさいなのか、ちゃんと言ってごらん」
 雅美の声には威厳があった。未由をすっかり自分のものにしたという自信があった。
「ごめんなさい……ママ」
 しばらく迷ってから未由は蚊の鳴くような声で言った。
「それでいいわ。じゃ、先生にも謝っておこうね。先生にもご迷惑をかけたんだから」
 雅美は未由の体を深雪の方に向け直した。
「……ごめんなさい、先生」
 未由の声は屈辱に震えていた。
「はい、よくできました。でも、私のことは『先生』じゃなくて『おばちゃま』でいいわよ。先生なんて呼び方は他人行儀で好きじゃないし、美鈴ちゃんもそう呼んでくれているから」
 深雪は目を細くして言った。
「ごめんなさい……おばちゃま」
 未由は言い直した。ちゃんとしておかないと今度は何をされるかわからない、そんな、恐怖にも似た不安がいつのまにか心の中を満たしていた。
「いいわ、それで。じゃ、落ちないようにしっかり座るのよ。――こっちへいらっしゃい、美鈴ちゃん」
 両方の足をステップに揃えて置かせ、未由の体を大きなベビーバギーのシートに押し込んだ雅美は、美鈴の方に向き直って手招きをした。
 それまでじっと床に座って事の成り行きを見守っていた美鈴が、雅美に呼ばれて嬉しそうに立ち上がった。身体の機能を二歳〜三歳児なみに作り替えられている美鈴だから、ぎこちなくしか立ち上がれないし、歩くにしても、足もとのおぼつかないよちよち歩きになってしまう。それでも、今のところは伝い歩きもできない未由に比べれば、ずっとお姉ちゃんだ。
 お尻を右に左に大きく振りながら歩いてくる美鈴は、夏の空をイメージさせる鮮やかなコバルトブルーのサンドレスを着ていた。胸元から裾の少し上のあたりにかけて、大きなヒマワリのイラストがプリントしてある。そのヒマワリがコバルトブルーの生地に映えて、可愛らしさとすがすがしさを同時に感じさせるようなデザインに仕上がっている。ノースリーブの袖口は、サンドレスが体から落ちないよう細い紐を肩の上できゅっと結んで留めるようになっている。サンドレスの裾からは、ドレスと同じ生地でできたオーバーパンツが半分ほど見えていて、その下のおむつのせいだろう、オーバーパンツがぷっくり膨れて、サンドレスの裾を少し捲り上げるような感じになっている。美鈴は三歳ということになっているから、普通なら、そろそろおむつが外れてもいい頃だ。けれど、いつまでもおむつが外れなければいつまでも雅美にかまってもらえると無意識のうちに感じているのか、美鈴がおむつ離れする気配はいっこうになかった。雅美の方もそんな美鈴がいとおしくてたまらず、トイレトレーニングをする気もないらしく、美鈴がおむつを汚してもいつも優しく取り替えてやるばかりだった。ただ、美鈴の体は本当は高校生・元哉のものだ。本当の幼児とは違って、一度のお洩らしの量は半端ではない。それを洩らさず吸収するためには、おむつの枚数も多くなる。そのために、いつも美鈴のお尻はたくさんのおむつで大きく膨れているのだった。その姿は、幼児特有の可愛らしさでいっぱいだった。

 たっぷり時間をかけてようやくみんながいる所まで歩いてきた美鈴は、早速、ベビーバギーのシートに座っている未由の顔を覗きこんだ。
「みゆちゃん? みすずのいもうと?」
 雅美と一緒に前もって未由のことを聞かされていた美鈴は、未由の顔をじっと見つめて、確認するみたいに深雪に言った。
「そうよ、美鈴ちゃんの妹になる未由ちゃんよ。可愛がってあげてね」
 深雪は笑顔で言った。
「うん。みすず、みゆちゃん、かわいがってあげる」
 美鈴もにっと笑って顔を上げた。
「いい子ね、美鈴ちゃんは。じゃ、未由ちゃんもお姉ちゃまにご挨拶しなきゃね。『お姉ちゃま、こんにちは』って言ってごらん」
 笑顔のまま深雪は未由に言った。顔は笑っているが、言うことを聞かなきゃひどいわよと言外に言っているのがありありとわかる。
「こんにちは……お、お姉ちゃま」
 ようやく絞り出した未由の声は、よく聞いていないと聞こえないほどだった。自分よりも二歳下の男の子に向かってそんな挨拶を強要された未由の声は羞恥と屈辱に満ちていた。
「それじゃ、お手数ですけど、バギーは先生にお願いしてもよろしいでしょうか。私は美鈴の手を引きますので」
 いつまでも未由のそばから離れようとしない美鈴の手を取って、雅美はゆっくり歩き始めた。
「いいわよ。部屋まではちょっと距離があるから、ちゃんと手を引いてあげないと美鈴ちゃんが転んじゃうかもしれないものね。あ、そうだ。床の水溜まりとパンツのことは私の方から清掃スタッフに連絡しておくから気にしなくていいわよ」
 不安と怯えに満ちた表情の未由を乗せたベビーバギーの取っ手を握った深雪も、雅美と美鈴から少し遅れて歩き出した。




 応用総合科五〇五号室。それが、ベビーバギーに乗った未由が連れてこられた部屋だった。
 ドアには、須藤雅美と須藤美鈴の名札が填め込んである。そして、真新しい《須藤未由》の名札が、二枚の名札のすぐ横に並んでいた。

 引き戸になっている木製のドアを雅美が開けて、ベビーバギーを押す深雪を先に通した。
 ベビーバギーに乗ったまま部屋に入った未由は、途端に呆然とした顔つきになった。とてもではないが病室とは思えない広さにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、その部屋の内装だった。病室という言葉から想像するような真っ白の清潔そうな壁も、鈍い光沢のあるリノリウムの床も見当たらなかった。その代わりにあったのが、淡いピンクの壁と、少しくらい転んでも痛みを感じないようにさえ思えるくらいに毛足の長いカーペットだった。しかも壁際には、大振りの整理タンスと木製のベビータンスが並んで置いてあるし、部屋の真ん中よりも少し窓に近い所には、クイーンサイズのダブルベッドがあった。それは、病室で普通に見かける介護用のベッドではなく、裕福な家庭の寝室に置いてあるような豪奢な造りのベッドだった。そうして、そのダブルベッドのすぐ横には、真新しいベビーベッド。
 とてもではないが、病室とは思えなかった。半ば本気で、どこかの家庭の寝室にでも迷いこんでしまったのかと思ったほどだ。
 けれど、雅美の
「今日からここが未由ちゃんのお部屋よ。ママと美鈴お姉ちゃまと未由ちゃんのお部屋。新しいベビータンスもベビーベッドも先生が――深雪おばちゃまがプレゼントしてくださったのよ。よかったわね」
という言葉で、やはりここが病院の中なのだとあらためて思い知らされる。
 同時に、ひどい不安が胸をよぎった。(ベビータンスもベビーベッドも深雪おばちゃまのプレゼント? いったい、どういうことなの?)
 深雪に続いて部屋に足を踏み入れた雅美は、美鈴をダブルベッドの端に腰かけさせると、二つ並んだベビータンスのうちの新しい方の前に立って一番下の引き出しを引き開けた。そうして引き出しに入っていた布地を両手で抱え上げて、今度はベビーベッドの横に立つと、ベビーベッドのサイドレールを静かに倒して、両手に抱えていた布地をベビーベッドの上にそっと置いた。
 深雪がベビーバギーをぐいと押してベビーベッドに近づけた。
 ベビーベッドを間近に見た未由の顔がこわばった。そのベビーベッドは、隣にあるクイーンサイズのダブルベッドと同じくらいの長さがあった。さすがに幅はダブルベッドと比べるべくもないけれど、それでも、普通のシングルベッドくらいの幅はある。つまり、見た目こそ赤ん坊のベッドだけれど、大人が一人ゆったり眠れるサイズに作ってあるということだ。そのことに気づいた未由の頭の中を、さきほどにも増して激しい不安がよぎる。
 こわばった顔で未由が見上げているのを意識してか、雅美はわざとのようにゆっくりした手つきで、ベビーベッドの上に置いた布地を一枚つかみ上げて、未由の目の前で広げてみせた。それは、一見したところでは長さ八十センチ、幅四十センチ足らずの柔らかそうな布地だったが、よくよく目を凝らすと、その倍の長さの布地の端と端とを縫い合わせて輪にしてあるのがわかる。
 三色の水玉模様をプリントした輪っかになった柔らかそうな布地。それと同じ物を未由はどこかで見た憶えがある。どこで見たんだっけと思った瞬間、高校の家庭科の授業を思い出した。たしか、育児実習とかで、赤ん坊の格好をした人形を使って沐浴のさせ方とか体の洗い方とかを習って、その後、お湯から上げた人形をタオルの上に寝かせて、それから……。
 未由の顔から血の気が退いた。
 もしも育児実習で使ったのとあれとが同じだとしたら、でも、まさか。
「いつまでもお尻が裸のままで風邪をひいちゃったら可哀想だもの、すぐに新しい下着を着けてあげるわね。今度は、お洩らししても大丈夫なように、赤ちゃんの未由ちゃんにお似合いの下着よ。ほら、水玉模様のこんなに可愛いおむつ。嬉しいでしょう?」
 『おむつ』という言葉をわざと強く言って、雅美は、両手で広げた布おむつを未由の目の前に突き出した。
 まさかと思っていたものを突きつけられて、思わず未由は顔をそむけた。
「あら、どうしたの? 未由ちゃんは水玉模様は嫌いだったのかな。じゃ、動物柄を用意してあげた方がいいかな」
 わざとのように不思議そうな顔をして雅美は言った。
「いや。おむつだなんて、そんなの、いや」
 自分で口にした『おむつ』という言葉に顔を赤らめながら、未由は俯いた。
「どうしていやなの?」
 ベビーバギーの上で俯く未由の顎先に指をかけて、くいっと持ち上げるようにして深雪が言った。
「だって、赤ちゃんじゃないのに、おむつだなんて……」
 半ば強引に深雪の顔と正面から向かい合わせにさせられながら、それでもおどおどと目をそらして未由は小さな声で言った。
「あらあら、何度言えばわかるのかしら。未由ちゃんは一人で立っちもできない、一人でおしっこもできない赤ちゃんなのよ。赤ちゃんだったら、おむつでしょう?」
「でも、でも、おむつだなんて、恥ずかしいから……」
「いいのよ、恥ずかしがらなくても。美鈴お姉ちゃまだっておむつなんだから、妹の未由ちゃんもおむつなの。お姉ちゃまもおむつだから、恥ずかしくないのよ」
 深雪は未由の顎先を人差指と親指でつまむようにして、クイーンサイズのベッドの端に腰かけている美鈴の方に顔を向けさせた。
 美鈴が着ているサンドレスの裾が無造作に捲れ上がっていて、おむつで大きく膨らんだオーバーパンツが丸見えになっている。けれど、美鈴は、まるでそんなことを気に留めるふうもなく、にこにこ笑って未由の顔を見ている。
「……あの子と私は違うから……」
 自分のことでもないのに、ぷっくり膨れた美鈴のオーバーパンツを目にしてかっと顔を熱くした未由の唇がぴくぴく震えている。
「あら、何がどう違うと思うの?」
「だって、あの子は……あの子は、自分から赤ちゃん返りしたがってたんでしょう? 自分のことを自分の妹だと思いこんで……でも、私は赤ちゃんになりたいわけじゃないから」 目をそらしては、もういちど美鈴のオーバーパンツをちらと見、また慌てて目をそらすということを繰り返しながら、考え考え未由は言った。
「いいえ。同じよ、美鈴ちゃんと未由ちゃんは。未由ちゃんはまだ自分の本当の気持ちに気づいていないのでしょうけど、私にはわかる。言った筈よ、未由ちゃんが何を望んでいるのか、未由ちゃんが何になりたがっているのか、私は何度も何度も慎重に分析してきたって。そうして、未由ちゃんがそうするための処置を施してあげたんだから。人生をやり直すため――もういちど赤ちゃんに戻るための処置を。赤ちゃんみたいにしか動けない体にしてあげたんだから、今度は心の方も赤ちゃんになるのよ。美鈴ちゃんの妹になるの。それに、手術が終わってからずっと、未由ちゃんはあのベッドで眠っていたのよ。おねむだからおしっこも言えなくて、ずっとおむつをあててね。今さら恥ずかしがらなくてもいいのよ」
 深雪は未由の耳元に唇を寄せて囁きかけた。
 そうしているうちに、おむつカバーを広げ、その上に水玉模様の布おむつを重ねて、すっかり用意を整えた雅美が近づいてきた。
「準備できたわよ。いつまでも裸ん坊のお尻で気持ち悪かったでしょう? すぐにおむつにしましょうね」
 そう言って、雅美は未由に向かって両手を伸ばした。
「いや。いやなの、おむつは」
 未由は、雅美の手から逃れようとベビーバギーの上で身をよじった。
「おばちゃまからちゃんと説明してもらったのに、まだわからないの? 本当に困った子だこと。でも、いつまでもこのままじゃいけないから、ほら、これで静かにしててちょうだい」
 自由にならない体で抵抗する未由に苦笑しながら、雅美はエプロンのポケットに手を突っ込んでオシャブリを取り出すと、おむつはいやと繰り返す未由の唇に押し当てた。
 一瞬、静寂が訪れる。
 けれど、未由はすぐにオシャブリを吐き出して激しく首を振った。
「あら、おかしいわね。小っちゃい子はオシャブリが大好きなのに。大好きなオシャブリを吐き出すなんて、どこか悪いのかしら」
 オシャブリを拾い上げる雅美に向かって言うみたいに、けれど実は未由の耳に届くように深雪は言って、白衣のポケットから舌圧片をつかみ上げた。風邪の診察の時などに舌を押さえつける、薄い金属製の器具だ。
「未由ちゃんが暴れないように体を押さえていてちょうだい。口の中を調べてみるから」
 蛍光灯の光に鈍く光る舌圧片を未由の目の前にかざして、深雪は雅美に言った。
「わかりました、先生。どこか悪いところがあるかもしれないなら、早くみつけておかないといけませんものね」
 深雪の意図に気づいた雅美は未由の両肩をベビーバギーの背もたれに押しつけた。
「いや、い……ぐ……」
 体を押さえつけられるのを拒んで叫び出した未由の声が途切れた。深雪が、手にした舌圧片で未由の舌をぐっと押さえつけたからだ。
「ぇぐ……」
 目の端にじわっと涙を浮かべた未由の喉から、くぐもった喘ぎ声が漏れた。診察の時でも、舌を押さえつけるのは十秒程度だ。ただでさえ患者の負担が大きい診察方法だから、それ以上の時間になることはない。ところが、深雪はそんなこと気に留めるふうもない。
「おかしいわね。肉眼で観察する限りじゃ炎症も見当たらないんだけど――こっちはどうかしら」
 独り言のように呟きながら、深雪は舌圧片を未由の喉の奥に突っ込んだ。
「ぅぐぅ……」
 聞いているこちらの方が体がむずむずしてくるような、苦痛に満ちた未由の喘ぎ声だった。
 けれど、深雪はお構いなしだった。むしろ、楽しそうな笑みさえ浮かべて舌圧片で未由の舌をぐっと押さえつけ、舌圧片の端で喉の粘膜を掻きむしる。出血こそないものの、それは想像もできないほどの苦痛を与える行為だった。
「変ね、悪いところはどこにも見当たらないわ」
 ひとしきり未由に苦痛を与えて、おもむろに深雪は舌圧片を手元に引き寄せた。
 患部が見当たらないのは当然だった。それは、オシャブリを吐き出した未由にお仕置きを与えるために深雪が思いついた口実――今度またオシャブリを吐き出したりしたらこんなひどい目に遭うのよと未由に教えこむための口実だったのだから。
「でも、悪いところがないことがわかったし、これで一安心ね。さっきは何かの拍子でオシャブリを落としちゃっただけかもしれないし。今度は大丈夫だと思うわよ」
 舌圧片を白衣のポケットにしまいこんで、深雪は雅美に言った。
 けれど、その言葉が実は未由に向けられているのは明らかだった。もう二度とオシャブリを吐き出しちゃ駄目よ。もしもまたそんなことをしたら、もっとひどいことになるんだからね。雅美に言葉をかけながら、深雪は本当は未由に対してそう告げたのだ。
 拾い上げたオシャブリを雅美が再び未由の唇に押し当てた。少しだけ、ほんの少しだけ間があって、けれど未由はおどおどした顔つきでオシャブリを口にふくんだ。一瞬、羞恥に顔をしかめたものの、今度は吐き出さない。もっとも、吐き出さないというよりも、吐き出せないという方が正確なのだろうけれど。
 オシャブリを咥えた未由は言葉を失ったも同然だった。実は、オシャブリを咥えても、それだけで喋れなくなるわけではない。舌と唇の動きが制限されるから少しはっきりしない発音になるものの、充分に聞き取れる言葉を発することができる。けれど、今の未由は、今度またオシャブリを落としたらどんな目に遭わされるかと思うと、迂闊に口を動かしてオシャブリを落としてしまうのが怖くて喋れないという状態だった。何か喋ろうとして唇を動かして、そのために間違ってオシャブリを落としでもしたらという思いに怯えて口を動かせなくなってしまったのだ。舌圧片による『診察』は、それほどに苦痛に満ちた折檻だった。
「ま、可愛いこと。こんなにオシャブリがお似合いなんだもの、やっぱり未由ちゃんは赤ちゃんね。じゃ、赤ちゃんの未由ちゃんにもっとお似合いのおむつをあてようね」
 未由がおとなしくオシャブリを咥えたことに満足した未由は笑顔で言って両手を伸ばした。
 相変わらず未由は首を振って雅美の手を拒む。それでも、激しく身をよじって抵抗したさっきみたいな体の動きではない。言葉を失って、最後の抵抗の術まで奪われてしまったような気になってしまったのかもしれないが、それは、抵抗というよりも、幼い子供が駄々をこねているみたいだった。
 深雪が施した筋力増強処置のおかげで、雅美は、自分よりも大柄な未由の体を軽々と抱き上げた。右手が背中の下、左手が太腿のあたりで体重を支える『お姫様抱っこ』という抱き方だ。雅美の両腕が未由の体を抱き寄せると、未由が少しくらい暴れても逃げることはできない。

 未由の体を抱いた雅美がベビーベッドのすぐそばで立ち止まった。
 雅美に抱かれたままちらと下を見た未由の目に、ベビーベッドの上に用意してあるおむつが飛び込んできた。赤ん坊用ではないことが一目でわかる大きなおむつカバーの横羽根の上に広がった横当ての布おむつと、それに直角に何枚も重ねて広げて置いてある股当ての布おむつ。おむつカバーの前当てに縫い付けてあるマジックテープまではっきり見える。
 未由は慌てて目を閉じたが、瞼には、今目にしたばかりの水玉模様の布おむつが焼き付いてしまっていた。
 雅美が腰をかがめる気配があった。
 思わず未由は雅美の首筋にまわした両手に力を入れた。それは、まるで、もっと抱っこしてほしいとせがむ子供の仕種みたいだった。もちろん、未由は抱っこをせがんだわけではない。そのままベッドにおろされたら恥ずかしいおむつが待っているから、それから逃げるためについつい雅美の首筋にまわした両腕に力を入れただけだ。
 けれど、雅美は未由の動きの意味をわざと取り違えて言った。
「あらあら、未由ちゃんは抱っこが好きなのね。本当に甘えん坊さんなんだから」
 その言葉に未由は、はっとしたように両腕の力を抜いた。同時に、雅美がすっと腰をかがめ、未由の体を抱いた両手を伸ばした。
 未由は、お尻に触れる柔らかい布の感触に身震いした。お尻の下に敷いてある布おむつの感触だった。おむつがこんなに柔らかくてふんわかしたものだとは思ってもいなかった。想像したこともない柔らかな感触がどういうわけか激しく羞恥心をくすぐる。
 未由の耳たぶが真っ赤に染まった。
「どう、お日様の光をたっぷり浴びたおむつはふかふかしてるでしょう? ふかふかのおむつ、気持ちいいでしょう? これから未由ちゃんのお尻はふかふかのおむつに包まれるのよ。お日様の匂いがするおむつに包まれてほこほこするのよ」
 気がついた時には未由のお尻の方に移動していた雅美が、未由の両方の足首をまとめて掴んで言った。言っている本人は未由の羞恥をくすぐるつもりなどないのかもしれない。ないのかもしれないけれど、雅美の言葉は、否が応でも未由の羞恥心を掻き立てる響きに溢れていた。
 しかし、雅美の言葉はそれだけでは終わらなかった。もっともっと恥ずかしいことを雅美は囁きかけた。
「でも、よかったわね。未由ちゃんのここ、綺麗にしてもらっておいて。これからずっとおむつなんだから、ひょっとしたら、おむつかぶれになっちゃうかもしれないでしょう? だけど、ちゃんと綺麗にしてあるから、おむつかぶれのお薬を塗らなきゃならなくなっても、邪魔になる物がないもの。うふふ、ベビーパウダーもちゃんとできるしね」
 囁きながら、雅美は未由の下腹部をそっと撫でた。雅美は、飾り毛をなくして幼女みたいになった未由の股間のことを言っているのだった。
 敏感なところを撫でられて、未由は思わず両脚の腿を擦り合わせた。すると、お尻の下の布おむつがずれて、少しシワになってしまう。
「駄目よ、じっとしてなきゃ。おむつがずれると、お洩らしした時、横漏れしちゃうかもしれないからね」
 おむつがずれるのを目にした雅美は、あらためて未由の足首を掴み直すと、そのまま高く持ち上げた。未由は、赤ちゃんがおむつを取り替えてもらう時そのままの姿にさせられた。
 未由のお尻と布おむつとの間に少しだけ隙間ができる。雅美はその隙間を使って左手だけでおむつのずれを手早く直したかと思うと、前当てのおむつの端をつかんで、未由の両脚の間を通してお尻の方からお腹の方へおむつを伸ばした。両脚の間を通ってお腹の方へ動く布おむつが、お尻の下だけでなく、おヘソのすぐ下まで包みこむ感触が広がる。
「あん」
 口にふくんだオシャブリを噛みしめたが、未由の意志とは無関係に漏れ出る喘ぎ声を止めることまできなかった。存分に羞恥を含んだ、妙になまめかしい喘ぎ声だった。
「嬉しそうな声だこと。そうよね、ふかふかのおむつだものね。おしっこで濡れちゃったショーツじゃない、新しいふかふかのおむつだもの、気持ちいいよね」
 言いながら、雅美は、高く差し上げていた未由の脚をベッドの上にそっと戻した。そうして、前当ての布おむつの左右を軽く引っ張ってシワを取り、未由の肌と隙間ができないようにあて直す。それから、未由のお尻の下で左右に広がっている横当てのおむつの端を持ち上げると、お腹の上で重ね合わせて、今度はおむつカバーの横羽根を持ち上げる。先ず左の横羽根をおヘソのすぐ下で横当てのおむつに重ねておいて、その上に右の横羽根を重ね、マジックテープでお互いをしっかり留める。こうすると、未由が少しくらい体を動かしても、もう殆どおむつはずれない。それからおむつカバーの前当てを持ち上げて、大きく広げさせた両脚の間を通して前当てのおむつに重ね、更に横羽根に重ねて、これもマジックテープで留めてしまうと、もう殆ど出来上がり。あとは、裾のスナップボタンを留めて腰紐をきゅっと結わえ、おむつカバーの裾からはみ出している布おむつを指の腹でおむつカバーの中に押し込んでやれば、それでおしまいだった。
「おむつはこれでいいわよ、未由ちゃん」
 股のダブルギャザーを指で引っ張っておしっこが漏れないようにしてから、雅美は、おむつで大きく膨れた未由のお尻をおむつカバーの上からぽんぽんと叩いた。お仕置きとして未由のお尻を思いきりぶった時とはまるで違って、本当に優しい叩き方だった。未由の耳に届くのも、肌を直に叩くぱしっという音ではなく、何枚もの布おむつを包み込んだおむつカバーを叩くものだから、くしゅんというような音だった。だけど、その少しばかり間の抜けたような音が、本当におむつをあてられちゃったんだということを、あらためて未由に教える。
「ほら、自分の目で見てごらんなさい」
 おむつをあててしまった雅美がベビーベッドの横に廻りこんで未由の体を抱え起こした。
 未由の上半身が起きると、お腹の上まで捲れ上がっていたナイティの裾がすっと滑って元に戻ったけれど、もともと丈の短いナイティだから、おむつカバーを隠してしまうことはできない。未由がおそるおそる脚を動かすたびに、色とりどり大小様々の水玉模様がプリントしてあるおむつカバーの生地が小さなシワになったりぴんと伸びたりして、裾ゴムとギャザーがきゅっきゅっと音をたてるような気がする。本当に音をたてるわけではないけれど、脚が動くと、まるで生き物みたいに動いて未由の腿をきゅっと締めつけるみたいだった。
 丈の短いナイティの裾から水玉模様のおむつカバーを覗かせ、唇にオシャブリを咥えて大きなベビーベッドの上にぺたんとお尻をおろした女子大生。それは、異様な光景だった。異様だけれど、倒錯的な、奇妙な色香を漂わせる光景だった。むっちりした白い太腿と、それをきゅっと締めつけるおむつカバーの裾ゴムとの対比が、いいようのないほどなまめかしく見える。
 自分の下腹部を包む大きなおむつカバーに、未由は思わずオシャブリを落としそうになった。そうしなかったのは、そんなことをすればどんな目に遭わされるかしれないという、身をもって体に憶えこまされた怯えのためだった。
「よくお似合いよ。サイズもぴったりみたいだし、作ってくれた業者さんにお礼を言わなきゃね。でも、やっぱり、こういう物を特別に作ってもらう時は病院っていうのは便利だわ。未由ちゃんの体に合わせたベビーベッドだって、大きなベビーバギーだって、こんなに大きなおむつカバーだって、介護用品の業者さんにお願いすればすぐに用意してもらえるんだものね」
 未由に聞かせるためとも独り言ともつかない深雪の呟きだった。そして深雪は、こんなふうにも呟いた。
「院内着を作ってくれる縫製業者にお願いすれば、美鈴ちゃんが着られるようなサンドレスも仕上げてくれるんだもの。でも、いくら未由ちゃんが美鈴ちゃんの妹でも、お姉ちゃんのおさがりばかりじゃ可哀想だものね、未由ちゃんの着る物もちゃんと作っておいてもらったわよ」
「そうでしたね、先生。未由ちゃんがおねむの間に採寸して仕上げてもらって、一昨日のうちにベビータンスにしまったんでしたっけ」
 深雪の呟きに雅美が目を輝かせた。
「早く取ってきてあげなさいよ。やっぱり、ママに選んでもらった方が未由ちゃんも嬉しいでしょうから」
 今度は呟きではなく、しっかりした声で深雪は言った。

 しばらくして戻ってくるなり、雅美は、未由の目の前でレモン色のロンパースを広げてみせた。
 ロンパースというのは、子供が暴れてもお腹が出ないように上下がつながった、幼児用の遊び着の一つだ。遊び着として使うのもいいし、お腹が出ないから、お昼寝の時にも寝冷えをすることがないようにパジャマ代わりにも使える、何かと重宝なベビー服だ。上下がつながっているため、おむつを取り替える時にいちいち脱がさなければいけないのが面倒だと思われるかもしれないが、股の部分がボタンになっていて、ボタンを外せば、お尻からお腹のあたりまで大きく開くようになっている。だから、おむつを取り替える時にも脱がせる必要はない。
 雅美が広げて見せたのは、ウエストから下がスカートになった、女の子向けのロンパースだった。丈の短いスカートの下から、股間にボタンが五つ並んだボトムが三分の一ほど覗いていて、背中のボタンが木の実の形を模した愛らしいデザインに仕立てられたロンパースだった。デザインこそ幼児向けだが、未由のお尻を包み込んだばかりのおむつカバーや、未由が乗せられたベビーバギー同様、サイズは未由の体に合わせて仕上げた大きなロンパースだった。
「せっかくオシャブリとおむつで可愛らしくなったんだから、これを着てもっと可愛くなろうね」
 いったん未由の目の前で広げてみせたロンパースをそっとベビーベッドの上に置くと、雅美は未由が着ているナイティのボタンに指をかけた。
「いや、いやです。お、おむつだけでも恥ずかしいのに……そんな、そんな赤ちゃんが着るような服なんて……」
 とうとう堪らなくなって、未由は口を開いた。
 その拍子に、それまで咥えていたオシャブリがぽろりと落ちてしまう。はっとして未由は深雪の顔を見上げた。
「あら、やっぱり見落としたところがあったのかしら。もういちどちゃんと診ておいた方がよさそうね」
 未由の視線を意識しながら、わざとのようにゆっくりした動きで深雪は白衣のポケットから舌圧片を取り出した。
「ご、ごめんなさい。もうオシャブリは落としません。落とさないから、それだけはいや」
 未由は真っ蒼な顔になって声を震わせた。未由は、肉体的な苦痛よりも、赤ん坊のようにオシャブリを咥えさせられる屈辱を選んだのだ。けれど、逃げ出すあてのない場所に監禁された上で与えられる肉体的な苦痛がどれほどのものかを知れば、大半の人間がそうするに違いない。
「そう言うなら、今度だけは許してあげる。でも、念のために聞いておきましょう。未由ちゃんはオシャブリが大好きなのね? だから、もうオシャブリを落とさないのね?」
 深雪は、舌圧片による折檻はやめてあげるから、その代わり、オシャブリが好きですと自分で言いなさいと命令しているのだった。
「もうオシャブリは落としません。それで許してください。本当に落としませんから」
 もう落としませんと未由は何度も繰り返した。未由には、そうするより他になかった。いくらなんでも、オシャブリが好きですとは言えない。
「どうして、もう落とさないと約束できるの? ちゃんと説明してくれなきゃ信じられないわね」
 深雪は執拗だった。そうして、鈍く光る舌圧片を蛍光灯の光にかざしてみせる。
「……わ、私は……オシャブリが好きです。オシャブリが好きだから、もう落としません」
 肩を落とし、顔をうなだれて、とうとう未由はそう言った。言わざるを得なかった。
「そう、未由ちゃんはオシャブリが大好きな赤ちゃんなのね。赤ちゃんだから、おむつなのよね。――赤ちゃんだったら、ベビー服がお似合いよね?」
 未由が言いもしていないことを、けれど、さもそれが当たり前のことのように雅美は言った。
「そんな、それは……」
 それは違いますと言いかけて、雅美の手で再びオシャブリを口にふくまされた未由は言葉を失った。
「はい、もうお口はいいから、お手々をあげて」
 いつのまにかナイティのボタンを三つとも外してしまっていた雅美は、未由にオシャブリを咥えさせてから、未由の手首を掴んで高々と差し上げた。
 両腕に力が入れられなくなっているとはいっても、肩から肘にかけては処置は施されていない。雅美の手で高く差し上げられた両腕をそのまま支えることもできないではなかった。
「いいわよ、そのままにしててね」
 雅美は袖口を持ち上げるようにしてナイティを引っ張り上げ、そのまま、高く差し上げた両腕を通して脱がせてしまった。そうして、その代わりに、ベビーベッドの上から掴み上げたレモン色のスカート付きロンパースをさっと広げると、ボタンを五つとも外して大きく開いたボトムから未由の頭にすっぽり被せた。そのままボトムの端を引っ張ってずりおろし、高く差し上げていた未由の両腕をおろしてから肩口の乱れを直して、今度はスカートの裾をぐいっと引いて全体を未由の体にフィットさせる。背中に三つ並んだ柔らかい素材でできた木の実みたいなボタンを手早く留めて袖口の内側をくるっと撫でつけて整えれば、残っているのは股間のボタンだけになる。
「少しの間だけねんねしようね」
 深雪から代わって未由の背中に右手を廻した雅美は、右手をゆっくり動かした。
 その動きに合わせて、未由の上半身も静かにベビーベッドの上に倒れてゆく。
「はい、それでいいわ。ちょっとの間だけ待っててね」
 未由を横たわらせた雅美は未由のお尻の方に移動して、おむつをあてた時と同じように右手で未由の足首を持ち上げ、左手でロンパースのボトムの端を手前に引き寄せた。そうしておいて、未由の両脚を元に戻してから、お尻の方とお腹の方に別れたボトムの両端を股の間よりも少しだけお腹に近い所で重ね合わせて、すべすべした感触のボタンを順番に留めてゆく。
「うん、ロンパースはこれでいいわね。あ、でも、もう少し待っててね」
 袖口からスカートの裾、ボトムまで嘗めるように眺め回して満足そうに頷いた雅美は、もういちどベビーベッドの上に手を伸ばした。雅美がベビータンスの引き出しの中から持ってきたのはロンパースだけではなかった。ロンパースと一緒に、サクランボみたいなボンボンの付いたソックスも持ってきていたのだ。ロンパースを着せ終えた雅美は、未由の右足を少しだけ持ち上げてソックスを履かせ、続いて左足を持ち上げて、そちらにもソックスを履かせた。
「これでいいわ。さ、起っきしましょうね」
 ソックスの足首の所にあしらったサクランボのボンボンを指先で弾いて、雅美は未由の体を引き起こした。
 パフスリーブになった袖も、丸みを帯びた襟も、ふんわり膨れたスカートも、全部が丸っこい曲線でできたロンパース。ロンパースのボトムからにゅっと突き出た両脚は、たっぷりあてられたおむつのせいで、ちゃんと揃えることができずにO脚になってしまっている。そんな両足をサクランボのボンボンが付いたソックスに包まれ、両方の足の裏どうしをそっと触れ合わせるような格好でオシャブリを咥えてベビーベッドの上に座っている未由。
「あらあら、本当に可愛らしくなったこと。あとは髪だけね」
 未由の頭のてっぺんから爪先まで満足そうに眺めていた雅美が声を弾ませた。そうして、エプロンのポケットから小振りの櫛を取り出して未由の髪を撫でつける。
 未由は、肩よりも少し上のあたりで左右の髪を切り揃えていた。後ろ髪もその長さに揃え、前髪は額が半分ほど隠れるくらいの長さで、ゆるやかな曲線を描くようにカットしている。雅美は、未由の頭のてっぺんよりも少し右のあたりで周りの髪を一つの房にまとめて、ソックスとお揃いのサクランボのボンボンが付いたピンクのカラーゴムできゅっと結わえた。そうすると、随分と幼い感じが強調される。
「さ、できた。可愛いベビー服にお似合いのヘアスタイルになったわよ」
 雅美は、カラーゴムで結てぴんと斜めに立たせた髪の房の先を櫛で整え直して、にっと微笑んだ。
 雅美の目の前にいる未由は、大きな赤ん坊に変貌していた。レモン色のロンパースのボトムをおむつで膨らませ、オシャブリを咥えた、自分では何もできない大きな赤ん坊に。




「これでいつお洩らししてもいいから、安心してお姉ちゃまに遊んでもらうといいわ」
 すっかり赤ん坊の装いに身を包まれた未由の体を雅美は軽々と抱き上げて、毛足の長いカーペットを敷きつめた床の上に、おむつで膨れたお尻をぺたんとつけるような格好で座らせた。
 いつのまにダブルベッドからおりていたのか、目の前に美鈴がいた。
「みゆちゃん、おきがえ、おわったの?」
 未由と同じように床にお尻をぺたんとつける座り方をした美鈴が、未由の顔と雅美の顔を見比べて、幼児そのままの甲高い声で言った。
「そうよ。おもらしで濡れちゃったパンツじゃなくなったの。新しいふかふかのおむつをあててあげたのよ」
 雅美は床の上に膝を折って美鈴に言った。
「みゆちゃんもおむつ? みすずといっしょだね。みすずもおむつだもん」
 サンドレスの裾から覗くオーバーパンツの生地を人差指と親指で引っ張りながら、美鈴は嬉しそうに言った。
「そうね、一緒ね。でも、美鈴ちゃんの方がお姉ちゃんなんだから、いつまでもおむつじゃ駄目なのよ。もうそろそろ大っきい子のパンツにならなきゃいけないのよ、美鈴ちゃんは。いつまでもおむつのままじゃ、妹の未由ちゃんに笑われちゃうよ」
 たしなめるみたいに雅美は美鈴に言った。けれど、その顔には、そんな美鈴が可愛らしくてたまらないというような表情が浮かんでいる。
「だって、みすず、ぱんつぬらしちゃうもん。みゆちゃんみたいに、ぱんつ、おしっこでぬらしちゃうもん」
 たどたどしい口調で、それでも真剣に訴えかける美鈴。その言葉に、あらためて自分の醜態を思い出して顔を赤くする未由。もっとも、今の未由は、その時よりもずっと恥ずかしい格好をしているのだけれど。
「そうね。美鈴ちゃんはずっとおむつだったから、これからもおむつかもしれないわね。美鈴ちゃんは三歳なんだから本当はおむつが取れるよう練習すればよかったんだけど、おむつの美鈴ちゃんが可愛かったから、ママ、ついついそのままにしちゃったね」
 おむつで膨れたオーバーパンツの生地を指で引っ張っている美鈴の仕種に雅美は目を細めた。そして、何か思いついたみたいな表情になると、美鈴のオーバーパンツの裾から右手を差し入れて、おむつカバーの中の様子を探り始めた。
「あらあら、言ってるそばから。おむつぐっしょりよ、美鈴ちゃん」
 オーバーパンツの裾から右手を引き抜いた雅美は、指先で美鈴の頬をつんと突いた。
「いつも言ってるでしょう? おしっこが出ちゃったらすぐママに教えてちょうだいって」
「だって、まま、みゆちゃんにおむつあててあげてたから。だから、みすず、おしっこいえなかったの」
 雅美に叱られたと思いこんだ美鈴は、しょげかえった声で懸命に訴えた。
「あ、そうだったの。ママが未由ちゃんのおむつで忙しそうだったから美鈴ちゃんはおしっこ言えなかったのね。いいのよ、美鈴ちゃん。ママは美鈴ちゃんを叱ってるんじゃないの。ママ、いつまでもお洩らしの治らない美鈴ちゃんが大好きなのよ。ママがいないと何もできない美鈴ちゃんが大好きなんだから」
 雅美は満面の笑顔を浮かべていたが、その声は、いつ泣き出してもおかしくないような声になっていた。今の雅美は美鈴の母親としての意識しか持っていない筈だが、やはり心のどこかに、本来の女子高校生としての意識も残っているのだろう。僅かに残ったその意識が、両親と共に幼くして命を失った妹のことを思い出しているに違いない。そうして、幼い妹の代わりにかけがえのない家族になってくれた美鈴のことがたまらなくいとおしいに違いない。雅美が涙をこぼすことがあるとすれば、それは悲しみの涙であると同時に、美鈴に向けた愛情の涙でもある筈だ。
「ほんとう? まま、みすずのこと、しからない?」
 甘えきった表情の美鈴もまた涙声だった。雅美と同様、幼い妹が両親と共に絶命する場面に立ち会ってしまった元哉。自分のあまりの不甲斐なさに、男子高校生である元哉としての存在を捨て、自分を幼い妹と同一視することでようやく精神の均衡を保ち、自ら命を絶つことだけはかろうじて避けることができた元哉。そんな元哉に限りない愛情を注いでくれる雅美は、疑うことなく元哉(美鈴)の母親だった。僅かに残った元哉の意識も、ようやく自分の居場所を探し当てることができた喜びにひたっているに違いない。
「当たり前じゃない。どうしてママが可愛い美鈴ちゃんを叱るもんですか。さ、おむつを取り替えようね。さっきは未由ちゃんのおむつを取り替えるところを美鈴ちゃんが見てたから、今度は美鈴ちゃんのおむつの交換を未由ちゃんに見てもらおうね」
 雅美は、こぼれそうになった涙をそっと人差指で拭って、わざとのように明るい声で言った。
「うん、まま」
 言われた美鈴は、その場でころんと横になる。毛足の長いカーペットだから、床の上で直に寝転がっても背中も頭も痛くない。
「おむつを取り替える間、ウサギさんを抱っこしてようか」
 横になった美鈴に、雅美はウサギのヌイグルミを手渡した。
「うん。みすず、うさぎさん、だいすき」
 美鈴はウサギのヌイグルミをぎゅっと抱きしめた。その仕種は幼児そのもの、美鈴が実は幼児ではないことを教えるのは、体の大きさだけだった。
 ヌイグルミを胸元に抱いた美鈴のサンドレスをお腹の上に捲り上げてから、雅美はオーバーパンツに手をかけて膝の下までさっと引きろした。オーバーパンツの下から、前当てに小熊のアップリケをあしらったおむつカバーが現れた。未由のおむつカバーに比べると、腰紐も無くて幾分コンパクトな感じがする。
 雅美はおむつカバーに指をかけて、マジックテープでしっかり留まっている前当てを広げた。マジックテープを剥がす、べりりっという音が部屋の空気を震わせる。どういうわけか未由は、その音を耳にした途端、急に恥ずかしくなってきた。それが、ついさっき未由ちゃんのお尻もおむつカバーに包まれたんだよと教えているように思えたのかもしれない。
 前当てに続いて横羽根を美鈴のお尻の右と左に広げると、おしっこでぐっしょり濡れた布おむつがあらわになる。未由とは違って、横当てのおむつを使わない、股おむつというあて方だった。本当の赤ん坊の場合は、股関節脱臼を防ぐ効果があるということで、未由のようなおむつのあて方ではなく、この股おむつが広く普及している。ただ、本当の赤ん坊ではない美鈴の場合、一度のおしっこの量もそれなりに多いだろうし、それに、だいいち、美鈴の体は男の子だ。女の子とは違ってペニスのせいでおしっこがおむつの中でどんな広がり方をするかしれたものではない。だから本当なら横当てのおむつを使うあて方の方がいい筈だった。
 けれど、実は、股おむつでも支障はなかった。美鈴のぐっしょり濡れたおむつのどこを見ても、男の子特有の膨らみが見当たらない。確かに深雪がペニスの短小化手術を施してはいるが、完全に切除してしまったわけではない。それなら、いくら小さくても、どこかに盛り上がりがあってもよさそうなものなのに、それが見当たらない。雅美の手が美鈴の肌に貼りつくおむつを丁寧に剥ぎ取ってゆくと、その理由もわかってくる。おむつの中で、美鈴の小さなペニスは、おヘソの方ではなく、お尻の方を向いていたのだ。深雪の手によって幼児なみに作り替えられた小さなペニスがお尻の方を向けておむつに押さえつけられているものだから、一見したところではペニスの膨らみがみつけられなかったのも無理はない。そうして、股おむつでも差し支えがない理由というのが、それだった。短小化され勃起する能力も失った美鈴のペニスは、一度お尻の方に向けられれば、誰かの手で動かさないとそのままおとなしくしている。だから勝手におヘソの方を向くこともなく、そのため、横当てのおむつが必要なおしっこの広がり方をすることもないというわけだった。だから、美鈴のおむつは、まるで女の子みたいに、前の方よりもお尻の方がたくさん濡れていた。
 未由におむつをあてる時にもそうしたように、雅美は美鈴の右と左の足首をまとめて掴むと、高く持ち上げた。そうして、おむつカバーの上に広がったおむつを素早く手元に引き寄せて、深雪が差し出した小振りのポリバケツの中に滑らせる。それから、左手だけで器用に新しいおむつを美鈴のお尻の下に敷き込んでから、お尻からお腹の方へ、特に脚の付け根みたいに汗の溜まりやすいところを念入りに、柔らかいパフでベビーパウダーをはたいて、美鈴の足をカーペットの上に戻した。
 雅美がそうしている間、ウサギのヌイグルミを抱いて美鈴はにこにこしていた。その表情からは、美鈴が実は高校生の男の子だとは思えない。母親を信頼しきって、母親に甘えきっている幼女そのものだった。
(このままここにいて赤ちゃん扱いされているうちに私もあんなふうになっちゃうんだろうか。あんなふうに、おむつを取り替えられてるところを誰かに見られても恥ずかしくなくなって――おむつが恥ずかしくなくなって本当に赤ちゃんみたいになっちゃうんだろうか)おむつを取り替える雅美の手と美鈴の顔を交互に見比べて、未由は不安にかられた。十九歳の自分がいつか美鈴みたいに赤ちゃんになってしまうのかと思うと、体がぞくっと震える。
 けれど、未由は意識していないものの、もう一つの思いが心の中に芽生えていたのも事実だった。(でも、そうなるならそれでいいかもしれない。いい子でいることには疲れたし、大人のずるさもたっぷり見てきたし。それならいっそ、何も知らなかった頃に戻る方がいいかもしれない。何も考えることもなく、何も迷うこともなかった頃に。あの子みたいに)その思いは、意識の表面にまでは浮かび上がってはこない。未由の心の一番深いところ、最も手の届きにくいところに芽生えていたのだ。未由のそんな思いを知っているのは、未由自身ではなく、深雪だけだった。

 未由がじっと見守る中、雅美は、お尻の方に向けた美鈴のペニスを動物柄の布おむつで押さえつけ、おむつカバーの横羽根と前当てを重ねて、マジックテープでしっかり留めていった。もう何度も同じことを繰り返してきたのだろう、みるからに慣れた手つきだった。
「さ、できた。いい子にしてたから、美鈴ちゃんにはご褒美をあげなきゃね」
 おむつカバーのギャザーをそっと整え、サンドレスの乱れを直して、雅美は美鈴の手を引いて体を起こした。
「ごほうび? おっぱいがいい。みすず、ままのおっぱいがいい」
 美鈴は顔を輝かせた。
「そうね、美鈴ちゃんはママのおっぱいが大好きだもんね。でも、今は他のにしようね。ちょっとだけ待っててちょうだい」
 言い残して立ち上がった雅美は、部屋の一角にある大きな冷蔵庫の扉を開けると、プリンの容器を持って戻ってきた。
「美鈴ちゃん、プリンも大好きだったよね。今はこれにしようね。もう美鈴ちゃんはお姉ちゃんだから一人で食べられるよね」
 ほどよく冷えたプリンの容器の蓋を開けて、雅美はプラスチックのスプーンと一緒に美鈴に手渡した。
「どうして? どうして、おっぱいじゃないの?」
 美鈴は拗ねたような表情で唇を尖らせた。
「だって、美鈴ちゃんはお姉ちゃんだもの。おっぱいは赤ちゃんのごはんだから、赤ちゃんにあげなきゃいけないの」
 雅美は美鈴に言い聞かせるようにして、未由の方に向き直った。
「お姉ちゃまがプリンを食べてる間に未由ちゃんはおっぱいにしようね。お腹すいたでしょう?」
 未由の顔をじっと見つめて、雅美はエプロンを脱いだ。そうして、手早くブラウスのボタンを外すと胸元をはだけて、授乳用のブラのパッドを外してしまう。
 突然のことに未由は身を固くした。咄嗟のことに、どうすればいいのかわからない。
 雅美の両手が伸びて未由の体を抱き寄せた。雅美は軽々と未由の体を抱き上げて膝の上に横座りにさせ、未由の唇にオシャブリの代わりに自分の乳房を押しつけた。
 未由は激しく首を振ったが、力強い雅美の腕から逃げ出すことはできない。
 雅美は未由の唇を強引に押し開けるようにして、ぴんと立った乳首をふくませた。
 少し汗ばんだ微かにしょっぱい乳首が舌に触れた瞬間、未由は雅美の乳首を噛んでいた。意識してのことではない。雅美の手から逃れようとして、意識しないまま体が動いてしまったのだ。
「あ、つ……」
 呻き声をあげながら、雅美は慌てて未由の口から乳首を引き離した。
 出血こそしていないものの、乳輪のあたりにくっきり歯型が残って赤くなっていた。

「ま、怪我というほどの怪我じゃないけど、このままじゃ駄目みたいね。美鈴ちゃんと違って、未由ちゃんは随分とお転婆みたいじゃない」
 雅美の乳房を手早く診察し終えた深雪が言った。
「そうみたいですね。まさか、おっぱいを噛むだなんて思ってもいませんでした。でも、やっぱり母乳をあげたいんです。哺乳壜のミルクだと寂しいから」
 まだ膝の上で横座りに抱いたままの未由の顔を慈しむように見おろして雅美は言った。
「だけど、同じことの繰り返しになると思うわ。それでもいいの?」
「痛いのは困るけど、でも……」
 助けを求めるみたいに、雅美は深雪の顔を見上げた。
「わかった。いい方法があるわ」
 眼鏡のレンズの奥で深雪の目が光った。
 激しい不安が未由を包みこむ。
「どんな方法ですか?」
 雅美が訊いた。
「抜歯しちゃえばいいんだから、簡単なことよ。未由ちゃんの歯をみんな抜いちゃえば、少しくらい噛まれても痛くないでしょう? それどころか、いい刺激になっておっぱいがよく出るようになるかもしれないわ」
 こともなげに深雪は言った。
 未由の顔から見る見る血の気が退いてゆく。手と足の腱を切り、膀胱まで作り変えてしまった深雪のことだ。冗談で言っているとは思えない。
「ゆ、許してください。歯をみんな抜くだなんて、そんなひどいこと……」
 雅美の乳房から引き離されたばかりでまだオシャブリを咥えさせられていない未由は、かすれた声で懇願した。
「あら、ひどいのはどっちかしら。とても敏感な乳首に歯を立てるなんて、それがどんなに痛いか、同じ女性ならわかる筈よ」
 深雪は眼鏡のレンズ越しに未由を睨みつけた。けれど、すぐに唇の片方の端を吊り上げるような笑みを浮かべて言った。
「ああ、でも、赤ちゃんの未由ちゃんには、そんなこと言ってもまだわからないんだっけ。まだ小っちゃな未由ちゃんには」
「からかってないで、本当に許してください。お願いだから」
「いいわ、今回だけは許してあげる。でも、今度また同じようなことをしたら、その時は容赦しないからね」
 深雪の眼鏡が蛍光灯の光を反射してきらっと光った。
「雅美さんもそれでいいわね? じゃ、おっぱいをあげてちょうだい。――痛むから無理かな?」
「いえ、大丈夫です。せっかく未由ちゃんがおっぱいを飲んでくれるって言ってるんだから、痛みなんて感じません」
 雅美は気丈に首を振ると、あらためて未由の体を抱き寄せて乳首を唇に押し当てた。
 もう今度こそ逃げることはできなかった。かといって、いつまでもこのままこうしていることもできない。未由はおずおずと乳首を口にふくんで、おそるおそる唇を動かした。
 たいして甘くもない、どこか青臭いみたいな、ちょっと表現するのに困るような味が口の中いっぱいに広がった。雅美の体から溢れ出てくるものだから、体温そのままに温かくて、冷たい物を飲んだ時のような爽快感もない。物心ついてから初めて口にする母乳は決しておいしくはなかった。
 おいしくはなかったけれど、どういうわけか、飲むのをやめられない。意識を取り戻してからいろいろなことがありすぎて喉がからからになっていたのもあるけれど、それだけではない。どこか懐かしくて、どこか切なくて、どこか甘酸っぱい香りに満ちたその白い液体が、すっかり忘れていた筈の郷愁をかきたてるのだろうか。
 最初は雅美の手で強引に抱き寄せられて無理矢理押し当てられた乳房に今は自分から顔を埋めて、いつしか未由は雅美の乳首を一心に吸っていた。二歳年下の本当なら高校生の乳首を、大学生の未由が、むさぼるように求めていた。そうして、そんな二人の傍らには、プラスチックのスプーンで掬ったプリンで口元とサンドレスの胸元をべたべたにした男子高校生が床にお尻をつけて座っていた。




 気がつけば、両方の乳房に溜まった母乳をすっかり飲み干してしまっていた。
「いい子ね、未由ちゃんは。張っていたおっぱいがすっかり楽になったわ」
 まだ名残惜しそうに唇を動かし続ける未由の口からそっと乳房を引き離して雅美は言った。
 その時になってようやく未由は自分が何をしていたのか思い出したように、はっとした表情を浮かべた。そうして、自分の顔のすぐ近くにある雅美の、母乳の白い膜でうっすら覆われた乳首を目にして、体中を真っ赤に染めた。あまりの羞恥に心臓の鼓動が高くなる。
 未由は慌てて雅美の乳首から目をそらした。
 けれど、じきに、おどおどした顔つきで雅美の顔を見上げた。なんだか、助けを求めるみたいな目だ。
「どうしたの、何か困ったことがあるの?」
 右手で授乳用ブラのパッドを留め、ブラウスのボタンを留めながら、雅美は未由の背中を左手で優しくぽんぽんと叩いて言った。
「お……」
 言いかけて、未由は言葉を濁した。少し開いた唇の隙間から見えた未由の舌も、母乳の膜に覆われてうっすらと白い。
「言ってごらんなさい。ママのおっぱいを飲んだ未由ちゃんはママの赤ちゃんなのよ。赤ちゃんが遠慮だなんておかしいわよ」
 あやすみたいに雅美は促した。
「……おしっこがしたいの。トイレへ行きたいの」
 どう言えばいいのか迷いながら、ちょっと間を置いて未由は応えた。
「あら、おしっこだったの。いいわよ、おむつをあててるんだから、ママが抱っこしてる間にお洩らししても」
 雅美は、ブラウスのボタンを留め終えた右手で未由のお尻をロンパースの上から優しく叩いた。
「いや。おむつはいやなの。トイレがいいの」
 未由は雅美の言葉を拒んだ。
「どうして? 未由ちゃんは赤ちゃんだもの、おむつにお洩らしでいいのよ」
 ロンパースの裾からそっと右手を差し入れ、おむつカバーの裾ゴムがきゅっと締めたけているあたりの腿を指先でつつきながら、あやすみたいに雅美は言った。
「いや。おむつはいや。いやなの」
 雅美の指の動きのせいで、自分がおむつをあてていることを否が応でも意識してしまう未由。けれど、おむつでのお洩らしを未由は頑なに拒み続ける。もちろん、おむつの恥ずかしさはある。赤ちゃんでもないのにおむつなんて。
 だけど、未由が拒み続けるのには、もう一つの理由があった。もしもこのままおむつの中にお洩らししたら、ひょっとしたらそれが習い性になってしまうんじゃないかという思いがあった。ついさっき、あれほど拒みながら、気がつけばおっぱいにむしゃぶりついてしまった未由だ。まさかとは思うけれど、おむつのお洩らしもそうならないとは限らない。心の奥底にそっと芽吹いた思いの存在に薄々ながら気づいている未由には、そうならないと自分に言い聞かせるだけの自信はなかった。
「そう、そんなにおむつはいやなの。じゃ、せっかく未由ちゃんがおしっこを教えてくれたんだから、トイレへ行かせてあげようね」
 少し困った顔をして雅美は言った。まだおむつも外れないのにお姉ちゃんぶってトイレトイレと繰り返す幼児を相手にした時の母親の顔だった。
「トイレ、早く」
 未由は一刻も早く雅美の膝から床におりようとして手足をばたばたさせた。
「いいわよ。でも、トイレまで這い這いで行くつもりなの? トイレは、さっきの場所よりも向こうの曲がり角にあるんだけど」
 手足をばたつかせる未由向かって雅美は面白そうに言った。
「そんな……」
 未由の顔がこわばった。
 自由にならない体でそんな距離を這って行けるとは思えない。たとえ行けたとしても、どれほどの時間がかかることか。
「……お願い、トイレへ連れて行って」
 唇を噛みしめて未由は言った。大の大人が他人にトイレへ連れて行ってとせがむ行為がどれほどの屈辱と羞恥を伴うことか。それでも、今の未由にはそうするより他になかった。
「仕方ないわね。せっかくおしっこを教えてくれたのにそのままにしてちゃ、本当にいつもでもおむつの外れない子になっちゃうかもしれないものね」
 くすっと笑って雅美は未由の体を抱いたまま立ち上がると、ドアの横に置いたままになっているベビーバギーのすぐそばまで足を運んだ。
「早く、早く」
 未由は目の前のベビーバギーに向かって、自由にならない両手を伸ばした。
「さっきまであんなに嫌がってたベビーバギーなのに、今度はそんなに乗りたいの? 未由ちゃん、やっと自分が赤ちゃんだってことわかってきたのかな」
 雅美が未由をベビーバギーに乗せるのを手伝いながら、からかうように深雪が言った。
「そんな、違います」
 言われて、未由は顔を赤らめた。
「あら、どう違うの?」
 わざとらしく大きく首をかしげて深雪は訊き返した。
「……」
 未由は無言で顔を伏せた。少しでも早くトイレに連れて行ってほしいから。そうしないと失敗してしまいそうだから。そんなこと、とてもではないが言葉にできない。
「ま、いいわ。じゃ、可愛い未由ちゃんのせっかくのお願いだから早速トイレへ連れて行ってあげましょうか、雅美さん。――美鈴ちゃんも一緒に行く?」
 最後は美鈴の方に振り返って深雪が言った。




「お願い、もう少し速く……」
 今にも消え入りそうな声で未由が言った。
 まだ、部屋を出てから幾らも進んでいない。巨大な水槽があって大きな鉢植えが置いてあるあの場所より、まだずっと手前だ。
 未由を乗せたベビーバギーの動きはのんびりしていて、遅々として進まない。
「そんなこと言っても無理よ。この速さだって、美鈴ちゃんがついてくるのに精一杯なんだから」
 ベビーバギーの動きがのんびりしているのは、美鈴が歩む速さに合わせているためだった。未由とは違って自分で歩けるとはいっても、よちよち歩きだ。おぼつかない足取りでは、深雪に手を引いてもらっても、ゆっくりとしか歩けない。そんな美鈴に合わせているから、自然とベビーバギーの進む速度も限られてしまう。

 それでも、ようやくのこと、ベビーバギーは廊下の曲がり角を過ぎた。ここからならトイレまで五メートルもない。
 不意に雅美がベビーバギーを押す手を止めて、車輪止めをロックした。そうして、何が起きたのかわからずに不思議そうな顔をしている未由の体をベビーバギーのシートから抱え上げると、這い這いをする格好で廊下におろしてしまった。
 膝と掌にひんやりした感触を覚えながら、わけがわからずに未由は上目遣いに雅美の顔を見上げた。
「ここからなら這い這いで行けるわね。自分からトイレへ行きたいって言い出したんだから、最後は自分の力で行った方がいいと思うわ」
 未由をおろしたベビーバギーを壁際に寄せて、こともなげに雅美は言った。
 深雪と美鈴は未由の姿をじっと見おろしている。
 未由が僅かに首を動かすと、トイレを示す表示板が目にとまった。
 すっと息を吸いこんで、未由は表示板に向かって這って進み始めた。さっきまでいた部屋の毛足の長いカーペットとは違って、リノリウムの廊下は固く冷え冷えしている。幾らも進まないうちに膝頭が痛くなってくる。それでも、這うのをやめることはできない。このままこの場に崩れ落ちてしまえば、その瞬間におむつを汚してしまうだろうということが自分でわかっていた。そんなことにならないためには、三人の視線を浴びながら、屈辱に満ちた格好で前に進むしかなかった。
「ほらほら頑張って。トイレはもうすぐよ」
 雅美が大声をあげた。けれど、それは未由にとっては声援などではなく羞恥をかきたてる言葉でしかない。
「見てごらん、美鈴ちゃん。未由ちゃん、お尻を振って這い這いしてるよ。お尻が揺れて可愛いね」
 未由の背後では、深雪が未由のお尻を指さして美鈴に話しかけていた。
 自由にならない脚と手では、いきおい無駄な動きが多くなってしまう。そのせいで、お尻が右に左に大きく揺れる。そのたびに、短いスカートの下から丸見えになっているロンパースのボトムが揺れる。
「うん。みゆちゃん、かわいい。おっきなおしり、ぷるぷる。おっきなおしり、おむつなの?」
「そうよ。未由ちゃんはおむつのお尻なのよ。美鈴ちゃんと一緒、おむつのお尻」
 深雪と美鈴の言葉は未由の耳にも容赦なく届く。
 けれど、そんな言葉に構っていられるほどの余裕はなくなっていた。いつのまにか、それほどに切羽詰まっていた。

 やっとのことでトイレの前までやってきた未由は、ドアが閉じていることに気がついて目の前が暗くなるような思いにとらわれた。鍵がかかっているわけではないけれど、ドアを開けるにはノブをまわさなければならない。
金属製の丸いノブは床から一メートルほどの高さにある。普通ならなんということのない高さだが、今の未由には絶望的な高さだった。
 とはいえ、そのままじっとしていられるわけもない。未由はドアのすぐ前まで這って行くと、両脚の膝と右手で体重を支えながら左手を伸ばして掌をドアに押し当てて、力の入らない左手をそれでもかろうじて突っ張るようにして体を支え、今度は右手の掌をドアに押し当てる。そのまま両脚に力を入れて両手でドアを押し下げるようにすると、僅かに膝が浮いた。それに力を得た未由は、ドアに体重を預けるようにして両手を突っ張って膝を伸ばした。
「すごいじゃない、未由ちゃん。一人で立っちできるなんて」
 背後から雅美が手を叩く音が聞こえた。幼児が自分の力だけで伝い立ちしたのを見て喜ぶ母親そのままだった。
 両脚に更に力を入れると、おぼつかない足取りながら、膝が殆ど真っ直ぐに伸びる。そのま右手でノブを握った未由は、ほっとした表情で緊張を解いた。
 つい油断したのががいけなかった。ようやく自分の力で立ち上がった未由は、自分の脚と手が本来の機能を奪われていることを一瞬だけとはいえ忘れてしまっていた。踏ん張りのきかない両脚から力が抜けて、膝がへなへなと折れてしまう。ノブを握りしめた右手だけで体重を支えきれる筈がない。
 雅美が背後から支えてくれなければ、そのまま未由は後ろ向きに倒れていただろう。
「大丈夫、未由ちゃん? まだ一人で立っちは無理みたいだから、ドアはママが開けてあげようね」
 囁くみたいにそう言った雅美は、未由の腰に右手をまわして体を支えたまま左手でノブをまわしてドアを引き開けた。
 未由の目に、清潔そうな便器が映った。純白で、蛍光灯の光を受けてきらきら輝く、シミ一つない便器だった。思わず未由は便器に向かって手を伸ばしそうになる。そこにあるのは、それほどに待ち望んでいたものだった。
 ドアを引き開けた雅美は、そんな未由の体を両手で抱えるようにして少しドアから遠ざけ、その場で再び這い這いの格好をさせた。
 もう少しで便器という所までやってきたのに、それを強引に引き離されて、未由は恨みがましい目で雅美の顔を見上げた。
「ドアは開けてあげたから、これでトイレに入れるわね。さ、おしっこしてらっしゃい」
 未由の恨みがましい目つきなど知らぬげに、しれっとした顔で雅美は言った。
 言われるままにするしかなかった。唇をきゅっと噛みしめて、未由は、雅美が引き開けたドアの隙間を通ってトイレの中に入って行った。そうして、ドアに手を突っ張って伝い立ちをした要領で、今度は便座に手をかけて膝を伸ばした。幸い便器の蓋は開いていたので、そのまま壁に体重を預けるようにして手の位置を変え、体をひねって膝を折れば、誰に手伝ってもらわなくても便座に座ることができる。
「お上手よ、未由ちゃん」
 伝い立ちした時と同じように、今度もまた雅美が手を叩いた。
 完全に赤ちゃん扱いだけれど、そんな言葉に反応しているゆとりはない。未由はロンパースのボトムに並んだボタンを外すために股間に手を伸ばした。そうして、ぎこちない手つきでボタンの一つに指をかける。
 けれど、ボタンを外すという本当なら簡単にできる筈のことが、今の未由には途方もなく難しいことだった。肘と手首の自由を奪われているため、力が入らないのは勿論、細かい作業をしようしても、指先が思った通りに動かせない。そのせいで、しっかり留めてあるボタンをボタン穴を通して外すというような、指先に力と意識を集中する必要がある動きができない。
 あせればあせるほど駄目だった。指先がつるっと滑って、ボタンを掴むこともできなくなってくる。
「どうしたの、未由ちゃん? 早くしないと失敗しちゃうんじゃないのかな」
 笑いを含んだ声で言ったのは深雪だった。
 未由は、ドアの外から未由の手の動きを面白そうに眺めている深雪の顔を睨みつけた。けれど、そうしたからといってどうなるものでもない。尿意は遠慮なしに高まってくる。それにつれて未由もますますあせりを感じ、そのせいで却って無為な時間だけが流れてゆく。
「お願い、ボタンを外して」
 とうとう我慢できなくなって、未由は喘ぐような声で言った。
「何のボタンを外してほしいの?」
 くすっと笑って深雪が訊き返した。
「ロ、ロンパースの……」
 普段ならなんでもない筈の『ロンパース』という言葉がこんなにも恥ずかしい響きだとは思ってもみなかった。高校の家庭科の授業でも何度も聞いたこともあるし口にしたこともある言葉だ。新聞に入っているベビー用品店の折り込みチラシでもいつも目にする言葉だ。なのに、それを自分が着せられているのだと思うと、おむつを取り替えやすいように股のところにボタンが並んだベビー服を自分が着せられているのだと思うと、途端に、その言葉の響きがとても恥ずかしく感じられる。
「あら、自分が着ているロンパースのボタンも外せないのに、トイレへ来てたんだ。自分が着ているロンパースのボタンも外せないような赤ちゃんがトイレに何の用があったのかしら」
 未由に向かって『自分が着ているロンパース』と何度も何度も繰り返しながら、深雪はトイレに足を踏み入れた。
 思わず未由は体を退いた。しかし、便器の蓋が背中に当たって、どこにも逃げ場はない。
「何を怖がってるの。ロンパースのボタンを外してあげるだけなのに」
 僅かに首をかしげて深雪は未由の顔を覗きこんだ。
「いや、来ないで。ボタンは自分で外す。自分で外すから」
 一度はボタンを外してと懇願した未由だが、これまで深雪から受けた仕打ちが次々に思い出されて、思わず叫んでしまう。
「遠慮なんて要らないのよ」
 怯えきった未由の顔つきを面白そうにじっと見つめて深雪は歩みを進めた。
 後ろには逃げられないと感じた未由は、反射的に便器の縁に手をかけて膝を伸ばした。嘘みたいに簡単に立ち上がることができたと思ったのは束の間、じきに体のバランスを崩して床にお尻を打ちつけるようにして倒れてしまう。
 あっというように未由の口が半分ほど開いた。
 直後、体をぶるっと震わせて、大きく見開いた目で深雪の顔を見上げる。深雪の顔に向けた目は、けれど、どこにも焦点が合っていないみたいだった。
 どこか遠くを見ているような目がじわっと潤む。
 突然、未由の両目から涙がこぼれ出した。そうして未由は声をあげて泣き出した。
「おむつはいや。おむつにお洩らしなんていやぁ。トイレがいいの。トイレがいいんだったらぁ」
 あれほど求めてやまなかった便器の上に一度はお尻をおろしたのに、まるで拒否されるみたいに便器から転げ落ち、すぐ目の前にある白い便器を見つめて大声で泣きじゃくりながらおむつを汚してしまう未由だった。
 おむつにお洩らしなんていやと叫びながら泣きじゃくる未由の姿は幼児そのままだった。大きなロンパースに身を包んで人目もはばからず大声をあげて泣きじゃくる未由の姿は、まだおむつの外れない小さな女の子そのままだった。




 それから数日後。
「で、斎木未由――今は須藤未由というのだったかな――の様子はどうなんだい」
 定期報告のため本部の理事長室を訪れた深雪に向かって理事長が興味深そうな口調で尋ねた。
「まだ本人は嫌がっていますけど、時間の問題だと思います。何かの拍子に本人が心の奥底にある本心に気づけば、あとは簡単なことです」
 いつもそうするように深雪は僅かに首をかしげて応えた。
「しかし、どうなんだろうね。須藤未由の精神は、一度赤ん坊のようになっても再び元に戻るほどの強靱さを持っているのかね。もしもそうでないなら、これから一生、赤ん坊のままということになりそうだが」
「その可能性の方が高いと思います。おそらくクランケは、これからの生涯を赤ん坊として暮らすことになるでしょう」
 深雪は事務的な声で言った。
「問題はないのかね」
「はい、全く問題はありません。大人の社会というものに適応できないクランケにとってはその方が本人のためでしょうし、両親の了解も取り付けてあります」
「両親の了解も?」
「ええ。或る大手企業の役員である父親ですから、定年で退職した後も生活に困ることはありません。最愛の娘が結婚して家を出て行くようなことになるよりも、ずっと手元に置いておくことができるわけですから、むしろ喜んでいるようです。年を取ってからの子ですから、尚更ですね。クランケが何の心配もしなくてすむよう、細かなことで悩むことのないよう、これまでにも増して存分に甘えさせてやると言っていました。母親も、もういちど育児の機会に恵まれるのかもしれないと顔を輝かせていました」
「そうか、ま、それならいい。――ところで、少し気になることがあるんだが」
 そう言って、理事長は深雪の顔をじっと見つめた。
「なんでしょうか」
 深雪も、意志の強そうな瞳で理事長を見つめ返す。
「お前、さっきから『クランケ』という言葉を何度も口にしているが……お前にとってはみんな研究素材であってクランケなどではないと言っていた筈だが、どういう心境の変化だね」
「ああ、そのことですか」
 深雪は苦笑した。苦笑というよりも、照れくさそうに微笑んだといった方が近いかもしれない。
「みんな研究素材だという思いは今も変わりません。これまでに処置を施して結局は提携先の研究機関に引き取られて言った者たちも、いま応用総合科に収容している者たちも、みな、本来の心を取り戻すことなく、今の姿に安住して生き続けています。結局は、そんな弱い心の持ち主でしかなかったということです。研究素材と呼ぶことにこれっぽっちも躊躇いはありません。――でも、あの子は違うような気がするんです」
「どういうふうに違うと思うんだい」
 理事長は顎の下で両手を組んだ。
「お父様は『真空蒸着』という言葉を御存じですか?」
「いや、聞いたことはあるが、実際にどんなものかは知らないな」
 深雪が不意に口にした言葉に、理事長は戸惑ったような表情を浮かべた。
「真空蒸着というのは、金属を高真空中で加熱し、蒸発した金属分子をフィルム等の基板表面に薄膜として凝着させる技術です。特に、実験用の試料に電極を形成する時は、腐蝕に強く安定した金を蒸着することが一般的です。私も大学院の時には実験室で小型の真空蒸着装置を使っていました。――お父様は、金はどんな色をしているとお思いですか?」
「金は……金色をしているんだろう」
 またもや面食らった顔つきになって、理事長はちらと天井を見上げて言った。
「そうです、金色です。金色をしているということは、光に含まれる金色を構成する波長の部分を金が反射しているから、人間の目には金色に見えるということです。もう一つ例をあげるなら、植物の葉。植物の葉は緑色をしています。それは、葉の細胞に多量に含まれる葉緑体が緑色をしているからです。そして、葉緑体は光合成の担い手です。だから、光合成には緑色の波長の光が必要なんだろうと思われがちです。言い換えれば、植物は緑色が好きなんだろうなと。でも、それは誤解です。光合成に必要なのは赤系統の波長です。赤色の波長が必要だから、それを葉緑体が取り込んで、不要な緑色の波長を捨てている。それが、葉緑体が緑色に見える本当の理由です」
 深雪は理事長の目をじっと見据えたままだ。
「それで?」
 深雪が何を言おうとしているのか、理事長にはまだわからない。
「金を試料に真空蒸着する際、蒸着の具合を確認するために、蒸着装置の覗き窓から中の様子を覗きます。もちろん、その覗き窓のガラスにも金の原子が当たるけど、覗き窓は試料に比べれば元の金の小片から離れた処にあるから、そこに凝着する原子の数は多くはありません。だから、覗き窓には、中の様子を観察するのに支障が無い程度の薄膜しか形成されません。――金の薄い膜を通して見える光景がどんなものだと思います?」
「……金色に輝いて見えるのじゃないかね」
 理事長はぽつりと呟いた。
「違うんです。全っ然、違うんです」
 深雪は面白そうに笑った。
「金の薄い膜を通して見ると、周囲の風景はうっすらと蒼みがかって見えるんです。まるで、蒼色のフィルターを通したみたいに」
「そうなのか?」
「ええ。理由は簡単。葉緑体が緑色に見えるのと同じで、金色に見える成分の波長を金が反射して残った部分が人間の目に届くから蒼く見えるんです。初めてそれを知った時、私は悩みました――金色と蒼、どっちが金の本当の色なんだろうって」
「……」
「でも、悩む必要なんてなかったんです。どちらも金の本当の色。もともと金はどちらの色も持っている。見る者がどちらの色を感じるか、そういうことだったんです」
 深雪はふっと閉じた瞼を大きく開いた。
「あの子は今、金が本当はどんな色をしているのか悩んでいるところです。これまでの自分の人生が金色に輝いているのか、くすんだ蒼色をしているのか、そのことを思い悩んでいるんです。でも、大丈夫だと思います。あの子の精神は脆くて弱い。ひとたび赤ちゃん返りしたら、もう二度と大人に戻ることはないかもしれません。だけど、赤ちゃんのままでも、あの子は素晴らしい人生を送ると思います。これまでのように記憶の色に思い悩むこともなく、蒼色にきらきら輝く、いつまでも終わることのない明日という日を生き続けると思います。永遠に続く、いつまでも希望を抱いていられる、明日という時を生き続けると思います。でも、それは、誰かから与えられた時間ではありません。あの子が自分の手で掴み取った時間です。人生に絶望することなく、生きるために思い悩み、自分の生命に積極的にかかわろうとしている未由ちゃんだからこそ手に入れることができる時間です。
私の手から与えられた今という時間の中でのうのうと安住の生活を続けている他の研究素材とは違います。だから、あの子だけは、私もクランケと呼ぼうと思います」
 深雪が言い終わると沈黙が訪れた。

 三十歳を越えても深雪が結婚をせずに独り身を通しているのには理由がある。仕事が面白くて仕方ないというのもあるが、それよりも、もっと辛い理由があった。医学部時代、深雪はレイプされたことがある。レイプ犯は、同じ大学の男子学生だった。――正確に言えば、男子学生が若い男を金で雇って深雪をレイプさせたのだった。理由は簡単。男子学生の深雪に対する嫉妬だった。笹野家という、医療に従事するものなら知らぬ者のない名門の家に生まれ、ありあまる才能の持ち主である深雪に激しい嫉妬を抱いた男子学生が、彼女を貶めるために企てた薄汚いレイプ事件だった。
 その事件以来、深雪はひどい男性不信に陥った。いや、男性だけではない、全ての人間に対して、抜きがたい不信感を抱いてしまった。それは、もはや、不信感というよりも憎悪と呼んだ方がいいかもしれない。その時から深雪は全ての患者を研究素材と呼んで憚らなくなったのだった。
 そんな深雪が未由だけはクランケと呼んでもいいと言う。
 幼い子供の存在が大人の心を癒すことがあるという。今の深雪と未由の関係もまたそういうことなのだろうか。あるいは、心のどこかに響き合うものがあるのだろうか。
 ともあれ、僅かながら、深雪の中で何かが変わろうとしていた。ひょっとしたら、応用総合科を最も必要としていたのは深雪自身なのかもしれない。
 理事長はふと立ち上がると、窓際に歩を進めた。
 深雪も理事長に寄り添うようにして窓際に立った。
 秋のようにどこまでも澄んだ青空が広がっていた。
 遠く離れた高原に建つ研究所の様子を本部ピルから伺い知ることはできない。それでも、五〇五号室のベランダいっぱいに揺れるたくさんの布おむつが深雪には見えるようだった。太陽の光を浴びて風に揺らめく布おむつが確かに深雪の瞼には映っていた。



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