第五章 ひとり上手




 素人劇団に毛の生えたような、世間でもまるで知られていない小さな規模の劇団だったから、芝居だけで食べてゆけるわけがない。
 ひょっとしたら、大学の演劇サークルあたりの方が資金が潤沢かもかもしれない。いや、かもしれないというより、確実にそうだろう。そう思っただけで寂しくなってくる。
 今回の公演のスポンサー探しが成功しなければ、真田昌幸と宗田美也子が二人で始めた劇団が解散の憂き目を見るのは明らかだった。けれど、そこそこ才能のありそうな劇団員に関しては、知り合いの大手の劇団から引き合いがきているから、そうなっても心配することもない。ただ、せっかく二人で立ち上げた劇団が解散するということになれば、これまで二人が肩を寄せ合うようにして生きてきた、その生き方そのものが否定されるように思えて、ただそれだけを避けるために必死になってスポンサー探しを続けているみたいなものだ。
 昌幸と美也子は、某私立大学で同じ演劇研究会の仲間だった。どちらかというと理屈が先行して観客を喜ばせようという姿勢に乏しい学生演劇サークルの中で、わかりやすい演劇を目指す二人は、他のサークル仲間から少しばかり疎んじられていた。前衛演劇にお涙頂戴の古典なんて邪魔なだけなんだとあけすけにこきおろされたことも少なくない。そんなこともあって、二人が揃って演劇研究会を脱退して新しく演劇愛好会を結成したのも、ごく自然な流れだった。新しい演劇愛好会は、ちゃんとした演劇研究会の芝居とは違って、かなりコミカルな演目や派手で大げさな振り付けもあって、大学祭での公演や、学内の体育館を借りて行った不定期の公演でも、かなりの好評を博した。しかし、それを自分たちの実力だと勘違いしたのが、二人が人生につまずくきっかけだった。理論だけの堅苦しい研究会の演目と対照的な、一般受けを狙った愛好会の演目は、研究会へのアンチテーゼというか研究会のパロディとして学生たちに受け容れられたに過ぎなかった。なのに、二人はそこを勘違いして、自分たちの実力が認められたのだと思い込んでしまった。そうして、大学を中退して、愛好会を一気にプロの劇団へと格上げすることにしたのだった。もちろん、成功するわけがなかった。大学の中と実社会との想像を絶するような違いに加えて、実際に劇団を運営する時に必要な資金や時間管理について、あまりにも知識がなかったのだから。それでも金策に駆けまわり、才能のありそうな人間を強引に引っ張り込んで今まではなんとか凌いできたのだが、それももうおしまいになりそうだった。
 昌幸と美也子の青春は、劇団創立からの二年間で無念の中に幕を閉じようとしていた。

 突然、携帯の着メロが賑やかに鳴り響いた。暗くなりがちな気分を変えるつもりでうんと明るい脳天気な着メロにしておいたのだが、実際に聴いてみると、妙にしらじらしい。
 美也子は苛々したような顔つきで乱暴にボタンを押した。
「あ、俺だけど。今、どこ?」
 電話の相手は昌幸だった。
「タウン誌の編集部から出てきたとこよ。演劇に興味があってスポンサーになってくれそうな会社がないか教えてもらおうと思ったんだけど無駄足だった」
 美也子は歩道の雑踏に背を向けて手短に応えた。
「じゃ、こっちに来られるかな? ちょっと手応えのありそうなとこがあったんで、美也子からも頼み込んでもらいたいんだよ」
「本当? 本当にスポンサーになってくれそうなとこを見つけたの?」
「うん、ま、ね。資金を援助してもいいよと言ってくれてるんだけど、その代わり、劇団を協同主宰してる美也子にも会ってみたいということなんだ」
「行く。すぐに行く。場所は?」
 住所と詳しい道筋を昌幸から聞いた美也子は背筋を伸ばして歩き出した。




「どうして昌幸が、こんなお屋敷に住んでるような人と知り合いなのよ?」
 見るからに豪奢な造りのソファにおそるおそるといった感じで腰をおろした美也子が、すぐ横に座っている昌幸の脇腹を肘でつついて囁いた。
 美也子が昌幸にそんなことを尋ねるのも無理はない。教えられた通りにバスを乗り継いでやって来た先で見たのは、想像を絶するような広大な敷地に建つ豪邸だったのだから。美也子と同じようにいつも金策に駆けずりまわっている昌幸がそんなお屋敷の住人と知り合いだとはどうしても思えなかった。
「ああ、なんて言うか……バイト先の知り合いなんだけど」
 昌幸も言葉をひそめて応えた。なんだか、ひどく曖昧な言い方だった。
「何のバイト?」
 なんとなく気になった美也子は重ねて訊いた。
「あ、いや、ちょっとしたステージ関係で……」
 昌幸は言葉を濁した。
「ステージって、ど……」
 尚も問い詰めようとする美也子だったが、分厚いドアが開いて、銀色のトレイを捧げ持った家政婦が入ってきたため、途中で口をつぐんでしまう。
「いましばらくお待ちください。じきにまいりますので」
 優雅な身のこなしで香り高い飲み物のカップを応接卓に並べた家政婦は二人に向かって笑顔でそう言うと、足音も立てずに出て行った。
「……どんなステージ?」
 家政婦が廊下に出てドアを閉めるのを待って美也子はもういちど訊いた。
「たいしたことじゃないんだよ。暇を持て余してるお金持ちばかりで作ったちょっとした劇団サークルがあってさ、そこの演技指導みたいなことをしてるだけなんだ」
 昌幸は応えた。
 が、美也子には、昌幸の説明がどことなく胡散臭く感じられた。説明する時に美也子の顔を見なかったし、本当に微かにだけれど声が震えていた。美也子も演劇にかかわる者だ。昌幸の、いつもと違うそんな雰囲気はすぐに感じ取ることができる。しかし、いくら問い詰めても昌幸の口からはそれ以上の説明を聞けないだろうということも美也子は直感していた。
「そうだったの」
 渋々ながら、美也子は小さく頷いた。
 美也子が頷くのを見て、昌幸があからさまにほっとした表情を浮かべる。昌幸が美也子に何かを隠しているのは明らかだった。

 二人の間に奇妙な沈黙が落ちてしばらく経ってから、微かにドアが軋む音がして、恰幅のいい初老の男性が姿を現した。
「いやいや、そのままで結構です。どうぞ、お座りください」
 慌てて腰を浮かせかけた二人にそう言うと、初老の男性は美也子の方に目を向けて穏やかに微笑んだ。
「あなたが宗田さんですな。なるほど、真田君が言うように利発そうな意志の強い大きな目をしてらっしゃる。――ああ、申し遅れましたが、私は妹尾万作といいます。よろしくお願いしますぞ、宗田美也子さん」
「あ、はい、こちらこそ」
 なぜとはなしに気圧されるような思いを抱きつつ、ソファに腰をおろし直した美也子は曖昧な笑みを浮かべた。
「どうぞ、冷めないうちにお飲みください。ハーブティーというんですかな、この年齢になるまで飲んだことはなかったのですが、新しく雇った家政婦が煎れてくれたものを初めて飲んでみて、こんな飲み物があったんじゃと驚いた次第でしてな、それからは、お客様にも勧めるようにしております」
 万作は二人に、家政婦が並べた飲み物を勧めた。
「では、いただきます」
 勧められるまま皿と一緒にカップを持ち上げた美也子は、手にしたカップを鼻の下でそっと揺らしてみた。ラベンダーをメインに少しカモミールを混ぜているのだろうか、気持ちがすっと落ち着くような香りがした。昌幸と二人で劇団を立ち上げてからこちら、こんなにいい香りのする飲み物に触れたことはない。せいぜいインスタントコーヒーがいいところだった。
 そっと一口啜ってみると、今度は、香りが口から鼻へすっと抜ける感じがあって、思わず溜息を洩らしてしまいそうになる。
「いかがですか。こんな年寄りの勧める飲み物じゃが、お気に召しますかな」
 麻のシャツと深い茶色のジャケットに絹のスカーフを組み合わせたダンディーな装いの万作が自分のことを『こんな年寄り』と言うと、なんだか、とてもお洒落な感じがした。ついさっきまで体中を包み込んでいた気圧されるような感覚が嘘みたいに薄れてゆく。
「おいしいです。なんだか、体中がリラックスするみたいですし」
 お世辞抜きで美也子は言って、再びカップを傾けた。
「それはよかった。お代わりを作らせますので、遠慮なさらずにおっしゃってください」
 万作は相好を崩した。
「ありがとうございます」
 そう言って美也子はカップを半分ほど空にすると、今更のように昌幸のカップに目をやった。
「あら、いただいてないの?」
 昌幸のカップが全く減っていないことに気づいて、少しばかり非難がましい声で美也子は言った。
「うん、ま、ね」
 昌幸は曖昧な返事をよこしただけだった。
「どうやら真田君は、お茶の話よりも先に本題を済ませておきたがっておるようじゃの」
 とりなすように万作が言った。
「はい、ま、そういうことです」
 ばつ悪そうに顎の先をぽりっと掻いて昌幸は頷いた。
「いや、正直でよろしい。真田君の今回の申し出、確かにこの妹尾万作が引き受けましたぞ。このように小切手も用意しております」
 万作も昌幸に頷き返して、ジャケットの内ポケットから引っぱり出した小切手を昌幸に手渡した。
「三千万円、それでいいのじゃな」
「はい、確かに。本当にありがとうございます」
 小切手の数字を確認して昌幸は深く頭を下げた。
「三千万円ですって?」
 口にしたハーブティーを思わず吹き出しそうになりながら、美也子が素っ頓狂な声で叫んだ。今回の公演に必要なのは、会場使用料、光熱費、劇団員のギャラに客演の役者のギャラを合わせて三百万ほどだ。小切手の数字とは一桁違う。
「おやおや、宗田さんは何をそんなに驚いておられるのかな」
 両目をまん丸に見開いた美也子の顔を面白そうに眺めながら万作が言った。
「ちょっと、昌幸。あんた、本っ当に三千万円出してくださいってお願いしたの?」
 万作の前だということも忘れて、美也子は昌幸に今にも掴みかからんばかりの勢いで尋ねた。
「ああ、うん」
 昌幸はこそこそと顔をそむけて小さく頷いた。
「なんでそんな大金が必要なのよ。あんた、何か企んでるわね」
 カップを応接卓の上に戻した美也子は昌幸の胸ぐらを掴んだ。
「ま、いいじゃありませんか。三千万くらい、いつでも用意させていただきますよ。それで宗田さんが私のものになるなら安い買い物だ」
 取りなすように言って万作は目を輝かせた。
「私が……妹尾さんのものになる? 安い買い物? 何のことですか」
 万作が口にしたとんでもない言葉に、思わず昌幸の胸ぐらから両手を離して訊き返してしまう美也子。
「おや、宗田さんはご存じじゃないとみえる。いや、てっきり真田君が話したと思っていたのだが」
 万作はにやりと笑って昌幸の顔を見た。
「では、私から説明しようかね。どうも、真田君からは話しにくいようだから」
「……お願いします。説明してください」
 万作の方に向き直った美也子の顔は蒼白い。
「お二人の劇団が市民会館の小ホールでミュージカル仕立ての公演を打ったのは五ケ月前でしたかな。実は、その観客席に私もおったのですよ、私が主宰する劇団員と一緒に。いや、劇団といっても、暇を持て余しておる年寄りばかりの、ま、道楽の一つじゃと思ってもらって結構です。その時にお二人の劇団が舞台にかけたのは、『キャッツ』をモチーフにしたミュージカルふうの芝居でしたな」
 美也子の顔が僅かに赤くなった。有名なブロードウェイミュージカル『キャッツ』をモチーフにしたどころではない、まんまパクったのだ。それも、できの悪い物真似にしかならなかったが。
「その舞台を観たうちの劇団員たちが真田君のことをえらく気に入りましてな、そこで、うちの劇団の演技指導をお願いすることにしたわけです。私としても異論はありませんでしたからな。真田君と近しくなっておけば、宗田さん、あんたを紹介してもらうこともできるだろうという気持ちもありましたしな」
 万作は、頭のてっぺんから爪先まで、嘗めるようにして美也子の体を無遠慮に眺めまわした。
 美也子の背筋がぞくりと冷たくなった。
 万作の説明は嘘ではない。嘘ではないが、実態よりも随分と控えめな説明だった。昌幸に自分たちの劇団の演技指導を引き受けさせた万作は、ことあるごとに、金にあかせた遊びに昌幸を連れ出した。貧乏劇団を維持するためにつましい生活を余儀なくされていた昌幸は、たちまたちにして、万作に連れられての豪遊の虜になってしまった。格式ある料亭、きらびやかなナイトクラブ、会員制のカジノ、それまでに経験したことのない遊びに昌幸がのめりこむのに、さして時間はかからなかった。そうして、いつしか、そんな生活から離れられなくなってしまう。昌幸がそんな状態になるのを見計らって万作は囁きかけたのだった。どうだろう、真田君。宗田さんを私のものにできるよう協力してくれたら、こんな生活をずっと続けられるだけのお金を工面してあげることもできるのだがね。そう、目先の欲に目がくらんだ昌幸は、パートナーともいえる存在である美也子を万作に売り飛ばしたのだった。
 万作は控えめな説明をしただけだったが、事実がどんなものだったのか、美也子と目を合わすまいとして顔をそむける昌幸の態度を見れば、おおよその見当はつく。美也子はその場から逃げ出すために大急ぎでソファから立ち上がった。――だが、気持ちだけは立ち上がっているのに、実際にはソファに腰かけたままだった。どういうわけか体中から力が抜けて行くような感覚があって、手も足も自由に動かせない。
 その時になってようやく美也子は気がついた。万作も昌幸も、家政婦が運んできたハーブティーに手をつけていなかった。香り高いハーブティーをおいしそうに飲み干したのは美也子だけだった。
「どうかな、心から落ち着くことのできるハーブティーだったと思いますぞ。体中がリラックスできる素晴らしい飲み物だったと思いますぞ」
 万作は満足げに目を細めた。
「昌幸、助けてよ、昌幸ったら」
 かろうじて動く首だけを昌幸の方に向けて、美也子は悲痛な声を絞り出した。
「ごめん、美也子。ごめん……」
 首をうなだれたまま立ち上がった昌幸は、ちらとも美也子の方を振り向きもせずに、足を引きずるようにしてドアに向かって歩き出した。
 その昌幸の後ろ姿を見送る美也子には、もう、口にすべき言葉は残っていない。
「心配することはありませんぞ、宗田さん。なにも、取って食おうというわけではない。念のために言っておくが、この年寄りの夜の相手をさせようというわけでもありませんぞ。そのてん、誤解せんように願いたい」
 微かにドアを軋ませて部屋を出て行く昌幸の背中に憐れむような視線を一瞬だけ投げかけて、万作は、いたわるように言った。

「何を……私に何をさせるつもりなんですか?」
 怯えきった顔で美也子は訊いた。
「いや、簡単なことじゃ。あの時の舞台で見せてもろうた宗田さんの演技は大したものだった。あの演技を私の家でずっと続けてもらいたい、それだけのことじゃ」
 そう言う万作の顔は、むしろ、にこやかだった。
「演技を……?」
 要領を得ない顔つきで美也子は聞き返した。
「そうじゃ。あの舞台の、リーダーとして野良猫たちをまとめていった銀色の毛をした雌猫の演技を続けてもらいたい、それだけのことでしてな」
 諭すように万作は繰り返した。
 その言葉を聞きながら、体だけではなく意識の方にも薬剤の効果が表れてきたのだろう、美也子はゆっくり目を閉じた。




 意識を取り戻した美也子が最初に見た物は、白い陶器の皿だった。美也子の頭のすぐ横に、七分ほどミルクを満たした皿が置いてあった。
 どうしてこんな所にミルクの入った皿なんて置いてあるんだろうと思いながら僅かに頭を持ち上げて、美也子は自分が堅い木の床に直に横たわっていることに気がついた。正確に言えば、体の右側をして体を丸めた姿勢で床の上に寝そべっていた。
 美也子はのろのろした動きで体を起こしかけたが、ハーブティーと一緒に飲まされた薬のせいで、まだ体中がだるい。美也子は両手を伸ばし、両脚を突っ張って、少しずつ少しずつ体の筋肉に力を入れていった。
 不意にドアが開いて、例のハーブティーを美也子の目の前に置いた家政婦が姿を現した。家政婦は美也子が体をくねらせているのを見ると、目を輝かせて小走りに部屋から出て行った。
「旦那様、旦那様、ミィが目を覚ましました。早くこちらにおいでくださいまし」
 ドアからあまり離れていない場所から家政婦の声が聞こえた。どうやら万作を呼んでいるようだが、『ミィが目を覚ました』という意味がわからない。いや、たぶん自分のことを言っているのだろうとは美也子も思ったが、なぜ美也子のことを『ミィ』と呼ぶのか、その理由がわからない。生まれてこのかた、小学校時代のニックネームも含めて、そんな呼び方をされた憶えはない。
「そうか、そうか。すぐに行く」
 家政婦の呼びかけに応える万作の声が廊下の奥から聞こえた。
 すぐに足音が近づいてきて、ダンディな初老の男性が姿を見せた。
「おお、私のミィ、目を覚ましたんだね。こうして見ると本当にミィは可愛いのう。うむうむ、こうして手に入れることができて本当によかったわい」
 万作は膝を折って美也子の顔を覗きこんだ。
 万作の目から逃れようとして美也子は尚も身をよじった。そうして、まだ立ち上がることはできないものの、かろうじて両手と両脚を床に突っ張って体を持ち上げることだけには成功する。
 美也子は、よつん這いの姿勢でさっと身を退いた。
「ミィは何を怖がっておるのじゃ、うん? 怖がることは何も無いじゃろうに」
 もう若くはないのに、想像もできない身の軽さで、万作は美也子の首筋をぎゅっとつかんで自分の方に引き寄せた。それは、まるで、逃げ出そうとする子猫の首筋を掴んで手許に引き寄せる飼い主さながらだった。
「嫌です。離して、離してください」
 まだ自由にならない体をくねらせて美也子は震える声で言った。
「おやおや、ミィは自分が何なのかわかってないようだね。ちゃんとわかっていたら、人間の言葉なぞ口にできない筈じゃのに」
 万作はおかしそうに笑って、家政婦に目配せしてみせた。
 合図を受けた家政婦は、大きな姿見の鏡を美也子の目の前に立てかけた。
 美也子は、鏡に映る自分の姿に息を飲んだ。鏡に映る美也子は、殆ど裸と言ってもいい姿だった。全裸ではないものの、身に着けているのはブラとショーツだけ。それも、普通のブラやショーツではない。たぶんサテンだろう、淡く銀色に輝く生地でできたブラとショーツは、申し訳程度に美也子の体を隠しているにすぎない。しかも、美也子の髪はいつのまにか脱色処理されていて、蛍光灯の光を受けて銀色に輝いていた。はっとして、美也子は鏡に映る自分の下腹部を覆うショーツに目を凝らしたまま腰を振ってみた。と、それまでは両脚の後ろに隠れていた、細長い布の房みたいなものが、腰の動きに合わせてゆらゆら揺れているのが見える。それは、ショーツに縫いつけられた布の房だった。
 鏡に映るその姿が五ケ月前の舞台衣装を模した姿だということに美也子は気づいた。舞台の時は、レオタードの上に銀色のチューブトップとオーバーパンツに、布でできた作り物の尻尾という組み合わせで銀色の毛を持った猫の扮装をしていたが、今は、レオタードこそ着ていないものの、その他は舞台の時殆どそのままの姿をしているのだった。そんな姿でよつん這いの姿勢をしているものだから、まんま猫みたいだった。それも、飼い主に首筋を捕まれて逃げられないでいる、無力な子猫。
「ほれ、これでわかったろう? ミィは儂の可愛い飼い猫なんじゃ。人間の言葉を喋るわけがないんじゃよ」
 万作の口調は、初めて会った時の言葉使いではなくなっていた。ひどく威圧的な口調になっていた。
「どういうことなんですか? なんのために私にこんな格好を……」
 ビシッという音が部屋の空気を震わせて、美也子の言葉が途切れた。
「今度こそわかったかな? 猫というのは愛玩用のペットじゃ。大型の獣とは違うから、こんな物を使うのは気にいらんのじゃが、あまりにもミィが聞き分けなさすぎるのがいかんのじゃぞ。猫が人間の言葉を喋るわけがない、わかったかの」
 万作は言い聞かせるようにそう言うと、美也子の脇腹をたった今打ちすえたばかりの革製の短い鞭を再び振り上げ、もういちど美也子の体に向かって振りおろした。今度は、背中の肌に鞭の音が弾けた。
「ひっ……」
 あまりの痛さに悲鳴をあげることもできず、美也子は唇を震わせた。
「わかったかの」
 みたび万作は美也子を鞭で打ちすえた。白い肌に赤い筋が三条、鮮やかに浮かびあがった。
「わかったら返事をしなさい。ただし、人間の言葉ではないぞ。にゃおんと啼いてみせるのじゃ」
 言いながら万作は再び鞭を振り上げた。
 それを目にした美也子は体をこわばらせて、弱々しく
「に……にゃおん」
と啼いた。屈辱のために体中の肌が真っ赤に染まって、鞭の跡が僅かながら目立たなくなった。
「よしよし、それでいい。可哀想に、怯えきってしまったようじゃの。さ、ミルクをお飲み」
 万作は鞭を床に置いた手で美也子の首筋を掴むと、ミルクの入った皿に美也子の唇を押し当てた。
 美也子は思わず激しく首を振って万作の手から逃れようとする。
 万作は、美也子の首筋を押さえつけているために塞がっている右手ではなく、今度は左手で鞭を拾い上げ、無言で美也子の体を打ちすえた。それも容赦なく、三度、四度と鞭は振りおろされる。そのたびに皮膚が弾ける音が響き、力ない美也子の悲鳴が部屋中に広がる。
「もう一度にゃおんと啼いてみせい。それから、ミルクを飲んでみせい」
 万作は声を荒げた。
「にゃおん、にゃおん、にゃおん」
 逃げ出せるあてのない密室でふるわれる暴力は、意外とあっけなく人を服従させる。人は、自分が思っているより、肉体的な苦痛に弱いものだ。今度こそ美也子は服従の意志をしめすかのように何度も啼いてみせてから、皿を満たしたミルクの表面を舌の先でぴちゃっと嘗めた。
「それでいい。一時も忘れるでないぞ。ミィは儂の飼い猫じゃ。もはや人間に戻れることはないと覚悟しておけ」
 鞭でびしっと床を叩いて万作は言った。
「にゃおん」
 よつん這いの姿勢で床に置いた皿のミルクを嘗めながら、美也子は首をうなだれて弱々しく啼いた。

 万作は、幼い頃から支配欲の強い人間だった。とは言っても、子供の頃は、気のいい餓鬼大将といった感じで、多くの友人たちを子分のように従えこそすれ、苛めなどには無縁な性格の持ち主だった。
 けれど、両親が早くに亡くなったために親類の間をたらい回しにされながら育つ間に、性格がどこか歪んでしまい、長じて一代で財を成してからは、持ち前の支配欲ばかりが突出して目立つような人間になってしまった。結婚に失敗し、子供もいない万作は、親類の間をたらい回しにされた子供時代の辛い思い出を反芻し、金だけを目当てに近づいてきて形だけの妻になり結局は若い男と一緒になって自分のもとを離れて行った女の面影に心の中で唾を吐きかけ、世間を呪いながら日々の生活を送る、そんな生活を続けていたのだ。
 働き盛りを過ぎ、老境に一歩足を踏み入れた頃には人間も少しは丸くなって、一時のようなぎらついた雰囲気は影をひそめたが、本当のところは若い頃と全く変わっていない。むしろ、持って生まれた支配欲の強さに陰湿さが加わって、サディスティックと表現してもいいような性格の持ち主になっていた。
 万作が劇団を主宰するようになったのも、自分の支配欲を満足させるためだった。有り体に言って、芝居に手を染めているような人間の中には、その日の生活にも困っている者も少なくない。万作は、そこに目をつけたのだ。自分も演劇に興味があるといって近づき、いいアルバイトがあるからと言って誘いこみ、やがて抜き差しならない状況を作りあげて、これはと狙いをつけた人間を手許に置くために。それは、もちろん、自らの支配欲を存分に満足させられるだけの振る舞いにおよぶのが目的だった。手許に置いた人間の見た目や性格によって、万作は様々な方法を使い分けた。万作に逆らう者には容赦ない仕打ちをくわえ、鉄製の狭い檻の中に何日間も監禁したこともあった。妙に媚びへつらう者なら、その両手と両脚を縛りあげて一切の自由を奪い、万作の目の前で排泄物を垂れ流させてプライドをずたずたにして満足したこともあった。ただ怯えて泣き喚くだけの者には一かけらの食物も一滴の飲み物も与えず、やつれきったところに万作のペニスを突き出してみせ、口で奉仕をさせて、その褒美として精液を飲ませてやったこともある。
 もはや、異様なくらいに肥大化した支配欲というよりも、サディスティックで変質的な性癖と表現した方が正確なのだろう。万作は今や、自らの本能的な欲望だけに忠実な、その汚らしい真の姿をダンディなうわべに隠した、変態と呼ばれても仕方ない醜い存在になり果てていた。
 そんな万作の新しい生贄に選ばれたのが美也子だった。有名なブロードウェイミュージカルであり日本でも劇団四季による公演で好評を博している『キャッツ』を模した芝居に主演した美也子のほっそりしたしなやかな肢体に目を奪われた万作は、これまで何度も何人もにそうしてきたのと同じような方法で昌幸に近づき、まんまと美也子を我が物とすることに成功した。そうして万作は己の汚らしい支配欲を満たすために、新しい獲物である美也子に対して、人間としての生活を捨てて万作の飼い猫として暮らすよう命じたのだ。別に、猫である必要はない。犬でもいい。一人の人間を人でないもの、家畜やペットとして扱うことで、心の奥底にひそむ歪んだ欲望がひどく刺激される万作だった。意志を持った人間を、まるでその意志など無視して、己の意のままに沿わせることに加虐的な悦びを覚える万作だった。だから、たまたま目にした舞台をヒントに、美也子を飼い猫として扱うことを思いついたのだ。その思いつきは、万作に倒錯的な悦びを与えてくれた。そうして実際に鞭をふるって美也子を『しつけ』た時、それまでに味わったことのない、ぞくぞくするような身の震えを覚えた。
 これまで何人もの生贄を手に入れてきたが、万作の悦びはせいぜい数ケ月程度しか続かなかった。しかし、今度の新しい獲物は、猫の衣装をまとい、子猫のようにミルクを嘗める美也子は、いつまでも万作を満足させてくれそうな気がしてならなかった。




 屈辱的な格好でミルクを飲み干した美也子を待っていたのは、更に屈辱的な行為だった。空になった皿をさげた家政婦が、ミルクの皿の代わりに美也子の目の前に置いたのは、食事を盛りつけた底の深いボウルだった。ボウルに入っているのは、白米に味噌汁、それに海老フライだった。内容だけを見ればいたってまともな食事のように思えるかもしれないが、味噌汁は別のお椀に入っているわけではなく、白米と混ぜて汁かけ飯になっているし、海老フライも汁かけ飯の中に無造作に置いてあるだけという、およそ人間の食事の盛りつけではなかった。それは、海老フライこそ豪華なものの、キャットフードが普及する以前に飼い猫がよく与えられていた汁かけ飯そのものだった。
「ほら、お食べ。今日はミィがうちの猫になった記念の日だから特別に海老フライをつけてあげたんだよ。こんなご馳走は滅多に口にできないから、よく味わって食べるといい」
 口調だけは優しく、しかし左手に鞭を持ったまま万作は言った。
 万作が手にしている鞭をちらと見て、美也子はボウルの中にのろのろと顔を突っ込むと、舌の先で白米を掬いあげるようにして口にふくんだ。冷めた味噌汁のしょっぱい味が口の中に広がる。
「おや、元気がないね。猫というのは、もっとがつがつと食べるんじゃなかったかな」
 万作は、嫌々ながら口を動かす美也子に、これみよがしに鞭の先を突きつけた。
 途端に美也子は顔色をなくして、ボウルを満たした汁かけ飯の中に顔を突っ込んだ。鼻の穴に味噌汁が入ってくるが、そんなことを気にしているゆとりもなくしてしまっている。鼻の穴から口の中いっぱいに広がる塩からい味が味噌汁のせいなのか、知らぬまに溢れ出していた涙のせいなのか、美也子にはわからなかった。ただ痛みから逃れるため、もう二度と苦痛を味わいたくないという動物めいた本能だけのため、美也子は、味噌汁の味がしみこんだ白米を食べ続けた。
「そうじゃ、それでいい。じゃが、白米ばかりでは味気なかろう。せっかく特別に用意したのじゃ、海老フライも口にしてほしいものじゃな」
 万作は美也子の首筋から背中にかけて、ごつごつした右手で何度か撫でた。
「にゃおん」
 しょっぱい白米でいっぱいの口で啼いてから、美也子は海老フライに囓りついた。もちろん、両手は使えない。汁かけ飯の中に半分ほど埋もれたようになってしまっている海老フライを口と鼻でほじくりかえし掘り出して咥えるしかない。フライの衣も味噌汁を吸って、もうべとべとだった。噛んでも、さくさくした感じは全くしない。そんな海老フライをゆっくりゆっくり咀嚼する美也子。
「よしよし、しっぽも食べるのじゃぞ。大切なカルシウムじゃからな。きちんとカルシウムを取らんと毛並みも悪くなるでの」
 満足そうに頷きながら万作は言った。いたわるような口調ではあったけれど、それは明らかに命令だった。
 もう殆ど身の残っていない海老フライに美也子はむしゃぶりついた。ばりぼりという音が響き渡る。フライにした海老の尻尾は本当に固いし、先の方が尖っている。へたをすると歯茎を傷つけることさえある。けれど、そんなことを気にして躊躇いなどしたら、どんな目に遭わされるかしれたものではない。鞭による激しい痛みによって従順を強いられた美也子には、ばりぼりと音を立てて海老フライの尻尾を噛み続けるしかなかった。




 屈辱的な食事を終えてすぐ、美也子が小刻みに体を震わせ始めた。ついさっきまではなんともなかったのに、不意に尿意を覚えて、しかも、その尿意が、これまで経験したことのないほど急に激しくなってきたのだ。万作が家政婦に命じてミルクに混ぜておいた利尿剤のせいだが、美也子は全く気づかない。
「お、おしっこなんです……トイレへ……」
 また鞭で叩かれるかもしれないと思いつつ、怯えきった顔つきで、それでも美也子は人間の言葉で懇願した。それほどに切羽詰まっていた。
 けれど、万作が鞭を振るう気配はなかった。むしろ、よく知らせたというように軽く頷くと、ぱんぱんと手を打って家政婦を呼びつけた。
「お呼びでしょうか、旦那様」
 足音も立てずに万作の傍らに立った家政婦が恭しく頭を下げた。
「ミィがおしっこをしたがっておるようじゃ。用意してやってくれ」
 万作は鷹揚に頷いて言った。
「承知しました」
 家政婦は短く応えると、すっと姿を消し、しばらくして部屋に戻ってきた。戻ってきた家政婦が両手で捧げ持っているのは、直径一メートル足らずのプラスチックでできたお盆のような物だった。
 家政婦が腰をかがめてプラスチック製のお盆を床に置くと、その中に細かな砂がびっしり敷きつめられているのがわかる。家政婦は、床に置いたお盆を美也子のお尻の近くに置き直して立ち上がった。
「よいぞ、ミィ。おしっこは、その中にするがいい」
 家政婦が用意した『大きな猫用のトイレ』を満足そうに眺めて万作は言った。
「そ、それだけは許してください。お願いですから、ちゃんとしたトイレへ……」
 ひゅんと鞭が空気を切り裂く音がして、フローリングの床がびしっと鳴った。万作がふるった鞭は、美也子の爪先から十センチも離れていない場所を激しく打った。
「さっきは、おしっこを教えるためだったから特別に人間の言葉を許してやった。じゃが、二度はない。にゃおんと啼いてから、その砂におしっこをするのじゃ」
 両手で鞭を何度もしならせる万作の姿に、美也子はおずおずと砂を敷きつめたお盆の中に這って入った。目の細かい砂は、少しざらざらした感触こそするものの、掌や膝に痛みを感じることはない。けれど、それが自分専用のトイレだと思うと……。
「どうした、おしっこではなかったのか?」
 砂の上によつん這いになったまま身動きしない美也子に、万作は下卑た笑い声で言った。 美也子は、許しを乞うように万作の顔を見上げた。
「そんな憐れみを誘うような顔をしても無駄じゃ。しつけは最初が肝腎じゃからな」
 万作は美也子の顔を見おろした。
 そうして、すっと右手を振り上げる。
 今度は、床を叩く音ではなかった。人間の肌を打つ、弾力に富んだ手応えが万作の右手に伝わった。
「ひ……」
 短い悲鳴をあげた美也子の体がぶるっと震えた。
 それまで我慢に我慢を重ねていたのに、鞭に打たれた痛みのせいで思わず体から力が抜けてしまう。
 サテンは、あまり吸水性のいい生地ではない。美也子の下腹部を覆っているのが普通のショーツなら、秘部から溢れ出た恥ずかしい液体は、まず幾らかはショーツに吸収された後、ゆっくり滴り落ちたかもしれない。けれど、殆ど吸水性のないサテンのショーツは、その中に溜め込んだ美也子のおしっこを、ショーツと肌の隙間からとめどなく溢れ出させる。美也子の内腿を伝い、砂の上に折り曲げた膝の裏側を伝って、ショーツから溢れ出たおしっこは美也子の足首を濡らして、砂の中に消えて行く。
「よく憶えておくのじゃな。これがミィのトイレじゃ。他の場所で粗相なぞしたら、それはひどいお仕置きが待っておるぞ。もっとも、猫は最初におしっこをした場所を匂いで憶えるというからの、これで自分のトイレを忘れることもないじゃろうがな」
 とめどなく流れ続けるおしっこの雫を眺めながら、これ以上はないくらいに満足したような笑い声をあげた。
 絶望的な色を浮かべた瞳で万作の顔を振り仰いだまま、美也子は自らのおしっこで冷たくなってゆく砂の感触に耐えなければならなかった。




 それから一ケ月ほどが経った或る日、市内を流れる比較的大きな川の岸壁に男性の水死体が引っかかっているのが発見された。所持していた運転免許証から、警察は水死体の身元を真田昌幸と断定した。しかし、事故による水死なのか自殺なのか、それを判断する材料があまりに乏しかったため、そのあたりについては曖昧さが残る発表がなされただけだった。
 昌幸が死亡したという事実は、美也子にも、万作の口から告げられた。
 美也子が精神に変調をきたしたのは、その知らせを耳にした直後だった。
 万作からどんなに屈辱的な生活を強いられても、昌幸が生きている間はまだよかった。昌幸が助けに来てくれると考えるほど甘くはなかったが、少なくとも、昌幸を憎むことはできる。美也子を万作に売り飛ばしておいて自分はのうのうと遊んで暮らしている昌幸に向ける憎悪があるうちは、まだ、生きる意欲が湧いてくる。いつか昌幸に復讐してやるという思いが、生きる糧にはなる。
 それなのに、激しい憎悪を向けるべき対象がこの世から消え去ったと知らされてしまったのだ。それは、美也子の心を支えていた唯一の物が消え去ってしまったことを意味する。それまでぎりぎりに張りつめていた弓の弦がぱちんと音を立てて切れてしまったようなものだ。屈辱的な生活から抜け出せるあても見えず、憎悪を向ける対象も失ってしまった今、美也子の心が異様に歪んでしまったのも無理はないだろう。
 美也子の大きな瞳から精気が失われ、どよんとした目つきになるのが万作にもよくわかった。そうして、日に日に自堕落な生活を送るようになる美也子。それは、すっかり野生を忘れ去った飼い猫特有の怠惰で物憂げな生活そのままだった。眠りたい時に眠り、食べたい時に食べ、獲物を捕獲するでもなく日がら毛づくろいにいそしみ、家政婦や万作にさえ興味をしめさない生活。排泄こそちゃんと美也子専用の砂箱を使うが、その時も羞恥心など微塵もうかがえない。ただ、そこにそうするようにしつけられたからそうするのだといわんばかりの、すてっぱちめいた仕草だった。
 そう、日に日に美也子の仕草からは人間らしさが姿を消し、代わりに、本当の猫みたいな行動を取るようになってきていたのだ。
 そうなると、皮肉なことに、万作の方も美也子に対する興味をなくしてくる。もともと、美也子に猫のような生活を送るよう強制したのは、異様に強い支配欲を満足させるためだった。人が人としてのプライドを踏みにじられ、屈辱と羞恥にまみれる姿を目にすることで満足する、そんなタイプの人間が万作だった。だからこそ、昌幸の死によって美也子が自暴自棄になって、万作の命ずるまま人としての生活よりも猫としての生活を送るようになってしまっては、万作としては己の支配欲を満たす手段をなくしたことになってしまうのだった。
 屈辱の表情も浮かべず、羞恥の色もみせずに唯々諾々として万作の命ずるような生活を送る美也子に、万作が次第に興味をしめさなくなったのも、だから、それはそれで理屈としては通っているのかもしれない。それは、あまりに身勝手な理屈ではあるけれど。
 美也子に対する興味を失った万作は、いとも簡単に、美也子を処分する方法を考え始めた。いくら猫のような生活をさせてきたといっても、少なくとも外見だけは人間だ。保健所に連れて行って薬殺を申請することなどできない。かといって、心を病んだ美也子をいつまでも自分の手許に置いておくのも鬱陶しい。そこで万作が選んだのは、医療保護入院の手続きによって美也子を精神科の病院に収容させてしまうことだった。万作は美也子の家族というわけではないが、ありあまる金にあかせて、どこかの病院の医師に手続きをさせてやればいいと考えてのことだった。あまりに安易な考えだろうが、しかし、そんな安易な考えに乗ってしまう医師が存在するのも事実だった。
 そんな事情で美也子は、私立のあまり大きくない精神科の病棟に収容され、ふとしたきっかけで慈恵会系の病院に勤務する医師がその私立病院の医師から美也子の存在を聞かされて、深雪が興味を持つかもしれないと報告書を寄越してきたのだった。
 もちろん、深雪はすぐさま美也子を私立病院から自分の手許に移送させた。そうして美也子に、ショーツに縫いつけた布製のまがいものではない、大型猫から切り取って特殊な遺伝子操作を施した尻尾を移植してやり、サテン生地でできたブラやショーツなどではない、本物の銀色の毛を体中に植毛してやった。
 それから美也子は応用総合科において、来る日も来る日も、自堕落で物憂げな生活を送っているのだった。



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