第四章 春までなんぼ




 一九九五年一月十七日午前五時四十六分、兵庫県北淡町を震源とする直下型地震が阪神間と淡路島の街に襲いかかった。北海道の奥尻島を襲って百七十二名の死者を出し、大津波と火災の恐ろしさを全国の人々に知らしめた北海道南西沖地震から約一年半後のことだった。後に阪神淡路大震災と俗称されるようになる兵庫県南沖地震は、人口が密集する都市部に近い場所の地表浅い所が震源となったため、甚大な被害をもたらした。高速道路の倒壊は専門家も想定していない事態だったし、埋め立て地を中心に発生した地面の液状化現象は想定以上に被害を増大させた。それは、関東大震災以来の都市直下型地震だった。
 被害を増大させたのは、地震による揺れの激しさのせいばかりではない。朝食の準備を始めていた家庭も多く、料理に使っていた火が倒壊した家屋に燃え移り、無惨なまでに周囲を焼き払った。また、地震発生と同時に停まっていた電力供給が時間の経過とともに次々に回復したおかげで、スイッチが入ったまま放置されていた電気ストーブやコタツが熱を発生し、更にあちらこちらで電線がショートして火災に至った事例も数多く報告されている。神戸市東灘区や芦屋市で建物の倒壊による圧死事例が多かったのとは対照的に、神戸市長田区周辺では、火災による死亡が目立っていた。そんな中、消火活動に駆けつけた消防署員ならびに民間の消防団員は、自分たちがあまりにも無力であることを思い知らされた。消火活動に必要な水を確保できなかったのだ。消火栓は倒壊した建物の下敷きになり、遠く離れた取水場まで長く伸ばしたホースは、一刻も早くその場から逃げようとする車のタイヤに轢かれて次々に破裂してしまう。そして、まるで役に立たないホースを手に立ち尽くすばかりの消防署員に対して、住民が罵声を浴びせ、ひどい者は、消防署員や消防団員に殴りかかりもした。
 医療体制も機能麻痺に陥っていた。次々に運び込まれる怪我人に対して、医療スタッフの数は圧倒的に不足していた。それに、消毒や手術に必要な水さえも確保できない。自家発電装置を持たない中小の医療機関では、照明さえままならない状態だった。医師はまず、運び込まれた怪我人を一目見て、助かりそうなのか治療をしても無駄になるのかを判断する必要に迫られた。治療をしても無駄な怪我人に向ける時間と薬品を、助かりそうな患者に振り向ける必要があったからだ。運び込まれた患者にとりあえずの緊急処置を施すことさえできない状況だった。だいいち、医療機関そのものが被災していて、中には、五階フロアが全て押し潰されて患者・医療スタッフともに犠牲者となった神戸市立西市民病院のような例さえある。加えて、広域に渡る救急救命活動が必要になった場合に指揮母体となる筈だった中央市民病院が、神戸港の一部を埋め立てて造成したポートアイランドの中にあり、ポートアイランドと市街地を接続する唯一の手段である神戸大橋の橋脚が傾いたため通行できない状況では、その使命を果たすことなど到底できるわけがなかった。
 地震発生直後から現地入りした世界各国の特派員たちは、これだけの災害に遭遇しても暴動も起こさず、水や食料の配給をきちんと並んで辛抱強く待つ被災者たちの姿を、驚きの言葉とともに母国に伝えた。しかし、他の国の場合に比べればその数は多くなかったかもしれないが、レイプ事件や窃盗事件はやはり頻発していた。避難所に指定された公立高校の校長室を暴力団の幹部が占拠した例さえあった。
 地元の放送局もスタジオが倒壊してしまい、ラジオ局は駐車場にバラックで急ごしらえのスタジオを建てて放送を続けていた。その放送は、どの地域に避難勧告が出されたとか、どこの地盤が雨で弱っていて崖崩れの恐れがあるといった情報の他は、電話で寄せられた生存者確認ばかりだった。大阪府にあるラジオ局も似たような番組で、地震発生から一週間くらいはラジオから歌謡曲も流れてこなかった。
緊急速報に時間を割いていたせいもあるけれど、被災した人々の心中をおもんぱかって、娯楽めいた内容を避けていた放送局側の配慮もあった。けれど、逆に少しでも元気を与えてほしいという被災者からの要望が放送局に伝えられるに及んで、次第次第に音楽も流されるようになっていった。とりわけ、ZARDの《負けないで》やユーミンの《春よ来い》といった曲が流れるたび、被災者たちは唇を噛みしめて、その歌詞に聴き入った。
 死者を納める棺も足りない、死者の体を冷やすためのドライアイスを手に入れることもできない、それは未曾有の災害だった。
 そして、被災した者は例外なく、その時に負った心の傷とともに生涯を送ることを宿命づけられた。最愛の者たちを失った人々はみな、一日も早い春の到来を待ちわびながら、暗く冷たい冬の空の下で歯をくいしばって生き続けた。




 淀川を越えて兵庫県から大阪府に入ると、そこはまるで別の世界だった。大阪府でも豊中市あたりでは大手運送会社の車庫が倒壊するなどの被害があったが、大阪市内に入ると、それらしい傷跡は全くといっていいほど目立たない。街を行き交う人々の服装もいつもと同じで、その中にリュックサックを背負って埃よけのマスクを着けた人物が混ざれば、兵庫県からやって来た被災者だということが一目でわかってしまうほどだった。

 大阪市内にある慈恵会系列の総合病院の一室に一人の男子高校生が収容されていた。高校生の名前は瀬田元哉、兵庫県の県立高校の一年生。兵庫県東部にある街で被災した多くの人々の内の一人だった。
 元哉の家は閑静な住宅街の中に建つ、基礎も建て付けもしっかりした二階建ての一軒家だった。しかし、その近くを断層が走っていたため、堅固な造りの家も、二階部分が一階部分を押し潰すような格好で倒壊してしまった。
 揺れるというよりも、途方もなく巨大なハンマーが振りおろされるような衝撃を感じて元哉は目を覚ました。なんだか家そのものが大きな独楽にでもなったみたいにぐるんと回転する感覚があって、どこかで何かが壊れる音がしたかと思うと、直後に元哉は、寝ていたベッドから放り出されて床に叩きつけられた。いや、床というのは正しくないだろう。正確に言えば、床の上に散乱した梁や天井材に叩きつけられたのだ。屋根材や壁材が次々に頭の上に降りそそぐ光景を、コンクリートの塊が体に当たりでもしたら大変なことになるということも忘れて、元哉はぽかんと口を開けたまま眺めていた。
 しばらくして、弱々しい幼児の泣き声が聞こえてきた。
 はっとして元哉は声のする方に振り向いた。聞こえてくるのは、年齢の離れた妹・美鈴の声だった。まだ三歳になったばかりの幼い妹は、一階の奥にある寝室で両親と一緒に寝ている。今にも消え入りそうな弱々しい声は、確かに両親の寝室の方から聞こえていた。
 元哉は慌てて床に立ち上がった。途端に足の裏に激しい痛みが走る。砕け散った窓ガラスの破片が足の皮膚を突き破って刺さっていた。元哉は強引にガラスの破片を抜き取ると、唇を噛みしめながら周囲を見回した。と、部屋履きのスリッパがあった。元哉の部屋の床はフローリングになっているため、冬は冷たい。その冷たさを避けるために部屋の中で履いているスリッパだった。元哉は急いでスリッパに足を突っ込んだ。傷ついた右足が疼いたが、そんなことにかまっている余裕はなかった。
 散乱した建築材を乗り越えるだけでも大仕事だった。
 ようやく両親と幼い妹がいる寝室の前にたどり着いた時、元哉が着ているパジャマはぼろ雑巾みたいになっていた。
「父さん、母さん、美鈴!」
 大声で叫びながら元哉はドアのノブを引っ張った。しかし、家屋の大半が押し潰される中、かろうじて部屋の形をとどめている寝室も、いつ崩れ落ちても不思議ではない状態だった。ドアも傾いでいて、ノブを引っ張ったくらいでは開かない。
「元哉、元哉なんか?」
 ドア越しに、父親の声が微かに漏れ聞こえる。
 躊躇っている余裕はなかった。元哉は肩からドアに突進した。地震の衝撃で蝶番の付け根が脆くなっていたドアは思ったよりも簡単に内側に開いて、今にも倒れそうになりながら寝室に飛び込んだ元哉は、かろうじて両足を踏ん張った。
 目の前の光景に元哉の息が止まった。
 寝室がまだ部屋の形をとどめていると見えたのは外側だけだった。一歩足を踏み入れると、二階部分の廊下だった木材や太い梁が寝室の大半を押し潰し埋め尽くしていた。そうして、巨大なコンクリートの塊が両親の体を直撃している。
「大丈夫か、どないなんや、父さん。母さん、どないやねん」
 元哉は崩れ落ちるように床に膝をつくと、弱々しい息を繰り返すばかりの両親に呼びかけた。
「どないや言われても、自分でもわからへんわ。もう、痛いんか痛ないんか、それもわからへんようになってきたしな」
 弱々しい笑顔を作って父親が言った。
「美鈴は……美鈴はどないやのん? お父さんと私とで咄嗟に庇うたつもりやけど、美鈴は大丈夫なんか?」
 母親の方は息も絶え絶えだった。ひょっとしたら、体の感覚だけでなく、もう目も見えていないのかもしれない。
 言われて元哉は布団の中を覗き込んだ。
 さっきまで弱々しいながら泣き声をあげていた美鈴。けれど、もう今は、泣く気力さえ失ったようにぐったりしている。
「待っとけよ、三人とも待っとけよ。こんなもん、じきにどかしたるからな」
 元哉はぎりっと奥歯を噛みしめると、両親にのしかかっているコンクリートの塊に手をかけた。そのまま腰を伸ばそうとするが、コンクリートの塊はびくともしない。堅固な作りの壁が、粉々に砕け散ることなく、巨大な塊のまま崩れてきたのだ。人間の力でどうなるわけがない。それでも、元哉は諦められない。踏ん張り続けたせいで、足裏の傷から再び真っ赤な血が噴き出す。その痛みも忘れて、元哉はコンクリートの塊を動かそうと、あがき続ける。
 不意に、全てのガラスが砕け散った窓から熱風が吹き込んできた。
 何が起きたのかわからず慌てて顔を上げた元哉の目に、囂々と燃えさかる真っ赤な炎が映った。このあたりの住宅街は、それぞれの家と家との間隔が広くとってある。普段なら火災が発生しても、広い間隔や広大な庭のために類焼は免れる。けれど、倒壊した家屋の燃えやすい破片が広く周囲に散乱する今の状況で、どこかで発生した火事が、あっという間に周囲の全てを焼き払いながら元哉の家にまで迫ってきたのだ。
「……」
 呆然と立ちつくす元哉。
「元哉、逃げなさい。わしらはもうあかん。そやけど、お前は動ける。わしらのことはもうええから、お前は早よ逃げなさい」
 気配を察したのだろう、声を振り絞るようにして父親が叫んだ。
「けど、けど……」
 どうしていいのかわからずに、元哉は真っ蒼な顔で体を震わせた。
「ええから、お前だけでも逃げてくれ。わしら三人の分まで、お前が生きてくれ。頼むから」
 父親の目に涙が浮かんでいた。
 父親の涙を見るのはこれが初めてだなと、なんだか不思議な思いにかられて元哉は父親の顔を見おろした。
 熱風がいよいよ激しく吹き込んでくる。
「お父さんの言う通りにして……お願いやから……」
 虫の息で母親も懇願するように言った。
「けど、けど……」
 両親と幼い妹の顔を交互に見比べながら、元哉はいつまでもその場に立ちすくんでいた。

 元哉を救出したのが近くの住民だったのか警官だったのか、それとも消防隊員だったのか、それは誰にもわからない。元哉がどんなルートで兵庫県を離れて大阪にある病院に運び込まれたのか、一切の記録は残っていない。ただ一つ確かなのは、元哉が慈恵会系列の総合病院の精神科病棟に収容されたという事実、それだけだ。
 元哉が外科ではなく精神科に収容されたのには理由がある。もともと、足の裏の傷以外には大した外傷はなかった。だが、元哉の振る舞いは誰の目にも異様だった。最初の頃は、その振る舞いも、精神的なショックによる一時的なものと思われていた。だから、救急外来の当直医師は、足の裏の傷に丹念な消毒を施して包帯を巻いただけでよしとしようとしていた。治療中に元哉が時おりみせる奇妙な行動もいずれ落ち着くだろうと軽く考えていた。が、落ち着くまでと休ませていたカウンセリングルームで、元哉はますます常軌を逸した行動をしめすようになっていた。そこで、あらためて診察に当たった精神科の医師が、速やかに精神科に収容するよう指示したのだった。
 精神科に収容された後も、元哉の異様な振る舞いは続いた。むしろ、日を追うごとにひどくなっているようだった。
 精神科の医師は、元哉の行動に関する報告書を直ちにメールにして送った。送信先は、応用医療技術付属応用総合科の部長である笹野深雪だった。




 大阪の医師からメールで受け取った報告書をプリントアウトした深雪は、その書類の束を持って慈恵会本部の最上階にある理事長室を訪れた。

「で、どうする気なんだね?」
 素早く報告書を読み終えた理事長は、どっしりしたマホガニー製の応接卓の向かい側に座った深雪に言った。
「もちろん、応用総合科で引き取ります。とても興味深い素材ですから」
 どういうわけかにっと笑って深雪が応えた。
「そう言うだろうと思ったよ。いかにも深雪の興味をひきそうなクランケだ。興味をひくというよりも、好奇心を刺激すると言った方が正確だろうかね」
 ひどく馴れ馴れしい口調で理事長が応じた。
「好奇心だなんて、あまりいい表現じゃありませんね。かりにもここは理事長室なんですから、もう少しお言葉に気を遣った方がいいと思いますよ」
 笑い声で深雪は言った。
「お前の方こそ気をつけなきゃいかんな。クランケを素材と呼ぶなんて、医療に従事する者にあるまじき態度だ。懲罰委員会を開く必要があるな、これは」
 わざとらしくいかめしい声を作って理事長が言った。
「懲罰委員会なんて開いたら、私の方から理事長の悪行を全て報告しますよ。なんたって、プライベートな事もみんな知ってるんですから」
 深雪は軽くウインクしてみせた。とても三十歳を越えているとは思えない若々しい顔つきだった。
「ふむ、確かにな。それにしても、こういうクランケが手に入りそうになると、決まってお前はいい顔になるな。欲しがっていた玩具を買ってもらった子供のような、本当に嬉しそうな顔になる。そういうところは昔と同じだな」
「理事長――お父様の娘ですからね。お父様も興味深い研究材料を手に入れた時は、周りからもすぐにそれとわかるくらい目を輝かせるともっぱらの噂ですよ」
 深雪はくすっと笑った。
 深雪が言った通り、理事長と深雪は実の親子だ。
 全国的に名の知れた医療法人・慈恵会は、もともとは江戸時代の後期に町医者になった笹野家の始祖が家業を発展させてきた、その輝かしい成果だ。代々、理事長を始めとする要職は笹野家に由来する者たちで占めている。その地位を守るために、笹野家も安閑とはしていられない。トップの座を守るためには、あるいは秀でた人格を、あるいは抜きん出た技術を、あるいは強力な統率力を要求される。それらを全て手に入れるために、笹野の家に生まれた者は幼い時から厳しく育てられ、鍛えあげられる。
 そんな血が連綿と続く笹野家の歴史の中でも、深雪は傑出した存在だった。学業はもちろん、少々のことには動じない精神力、そして、どんな些細なことにも興味をしめす類まれな好奇心。技術者としての医者としてはもとより、研究者としても一級の存在になることは誰の目にも明らかだった。事実、医学部を終えた深雪は大学院の理学系研究室に進んで、修士課程の二年間で博士課程の研究を上回るような輝かしい業績と論文をものにしていた。
 実は、応用医療技術研究所も深雪の提言で設立されたようなものだ。表向きは、深雪の父親である理事長の発案で理事会を経て設立が承認され、某国立大学の教授を所長として招聘したことになっているが、実権を握っているのが深雪だということを知らぬ者はいない。しかし、そのことに異を申し立てる者は一人もいない。いずれ理事長になることが確実な深雪のすることであり、誰もかなわぬ手腕の持ち主である深雪のすることなのだから。
 応用総合科は、研究所で新たに開発した医療技術の臨床治験を行うことを目的に設立された病棟だ。ただし、その実態は『病棟』というよりも『実験施設』に近い。開発されたばかりの、それを医療行為と呼ぶことも憚られるような技術を生身の人間に適用してその効果を試す、はっきり言って生体実験に近い行為を行うための施設だ。だから、もちろん、応用総合科は公の存在ではない。慈恵会が経営する医院・病院の医師が深雪の興味をひきそうだと判断した患者の家族だけにその存在が知らされ、最新鋭の治療だと言って治験を勧められる。実際、医師はそのままでは治療の見込みがたたない患者の家族に限って応用総合科の存在を伝えるようにしているから、それを拒否する者はまずいない。その上、深雪は、或る程度以上の社会的地位にある者にしか応用総合科の存在を知らせないよう医師たちに指示していた。万一の事故があっても、社会的に高い地位にいる人間なら何よりもスキャンダルを恐れるから、応用総合科の存在を公言しないように工作しやすいからだった。




 応用総合科にある深雪の部屋に隣接した診察室に連れてこられた元哉だが、外見上には異常は見られなかった。瓦礫の中を歩き回った時に負った細かな傷はもう完治し、火傷の痕も見当たらない。
 けれど、その行動は普通ではなかった。深雪が名前を確認しても年齢を尋ねても、何を訊かれているのかまるでわからないような表情を浮かべるばかりか、十六歳になる男子高校生のくせに、今にも泣き出しそうな顔をする。まるで、二歳か三歳くらいの幼児のような仕草だった。
 報告書の内容を思い出しながら、深雪は再び名前を尋ねた。
「お名前はなんていうのかな?」
 今度は、それまでとはまるで違う、幼児に対するような口調だった。
 元哉の表情が少し変わった。それまでの怯えたような顔つきから、僅かながら深雪の言葉に興味を覚えたような顔つきになっている。
 それに力を得て深雪はもういちど訊いた。
「お名前、ちゃんと言えるかな」
 深雪の問いかけに元哉はこくんと頷いた。そうして、舌足らずのたどたどしい口調で答えた。
「みすず、せたみすずだよ」
 美鈴、瀬田美鈴だよ。幼児めいた口調で元哉は確かにそう言った。
 けれど、深雪は驚かなかった。いたって平然とした表情であらためて年齢を尋ねる。
「じゃ、お年は? お年もちゃんと言えるかな」
「うん。おとしはね、これだけ」
 そう言って、元哉は右手の指を三本立ててみせた。
「三つかな」
 念を押すみたいに深雪が言った。
「うん、みっつ。みすずはみっつだよってままがいってた」
 うん、三つ。美鈴は三つだよってママが言ってた。そう言った元哉の表情に不安の色が浮かんだ。そして、急に周囲をきょろきょろ見回したかと思うと、涙声で深雪に訴えかけた。
「ままは? ね、おばちゃん、ままはどこ?」
「うん、ママはちょっとだけお出かけしてるの。すぐに帰ってくるから、いい子で待ってようね」
 あやすように深雪は言いながら、元哉の背後に控える看護婦に向かってそっと目配せした。
「いや、ままがいいの。みすず、ままがいいの。みすずもおでかけする。まま、どこへいったの?」
 まるで駄々っ子だった。元哉は手足をばたばたさせて床の上に座り込んだ。
 そこへ看護婦の手が伸びて、元哉の腕に注射器の針を突き立てる。
 えっというように看護婦の顔を見上げた元哉の瞼がすっと閉じた。開発を終えたばかりの鎮静剤の効き目は期待以上だった。

「なるほど、報告にあった通りだな」
 自分の部屋に戻った深雪を出迎えたのは、部屋にあるモニターで元哉の様子を観察していた理事長だった。元哉に興味を持って、わざわざ本部から出向いてきたのだ。
「ええ。本当に小っちゃい子そのままですね」
 にやりと笑って深雪は頷いた。
「どういうプロセスでああいうふうになったんだろうね」
 口頭試問の試験官みたいな口調で理事長は言った。
「はい、あまり複雑な心理メカニズムではありません」
 深雪も理事長に合わせて、わざとみたいな生真面目な口調で説明を始めた。
「クランケの精神状態がこうなる前、つまり、クランケがまだ瀬田元哉としての意識を僅かにとどめている間に診察した医師からの報告書によれば、瀬田元哉は家族の悲惨な最期に立ち会ったようです。押し潰された寝室で、父親と母親と幼い妹がコンクリート片の下敷きになってしまい、そこに火災による火の手が迫ってきたということです。そして瀬戸元哉は、家族の上にのしかかったコンクリート片を動かすことができなかったために、家族が火に焼かれて命を落とした原因が自分にあると自分を責め続けたようですね。そうしているうちに、ちょっとした転化が行われました。自身の無力を責め続けた瀬田元哉の心の中で、自分というものに対するアイデンティティがきわめて不安定になってしまいます。そんな時に、結局は助けることができなかった幼い妹の顔が思い出され、それが、瀬田元哉の不安定な心の中で圧倒的な存在感をもって重みを増していったのだろうと思われます。その時、無力な自分のことを幼い妹とすり替えることで瀬田元哉は自我の崩壊を防ごうとしたのだと推測されます。つまり、自分のことを幼い妹だと思い込むことで、家族を助け出すことができなかったのも仕方のないことだったんだと自分自身に対してエクスキューズしようとする心の動きがあったということです」
「さすが、ご高名な笹野先生は心理学にも長けておられる」
 おどけたような口調で理事長は言った。
「からかわないでよ、お父様」
 自分の部屋だということに気を許したのか、家で気軽なお喋りしている時みたいに深雪は言った。
「で、どうするんだい?」
 理事長は、まだおどけた表情で片方の眉を吊り上げてみせた。
「もちろん、クランケの望み通りにしてあげるだけです」
「望み通りに?」
「望みというか、クランケは今、自分のことを地震で無くなった美鈴という妹だと思い込んでいます。正確にいうと、思い込もうとしています。私としては、それを手助けしてあげるつもりです」
「お得意の方法でかね?」
 理事長が言う『お得意の方法』というのは、鈴本真澄や島田恵美に施した処置のことだろう。
「ええ。でも、このクランケの場合は先の二人に比べて随分と簡単ですけれどね。二人の場合は最新の遺伝子工学を駆使する必要があったけど、このクランケの場合は簡単な形成外科手術とホルモン操作だけで済むと思いますから」
 あっけらかんとした口調で深雪は言った。そうして、急に何かを思いついたような顔になると、くすっと笑ってこう付け加えた。
「このクランケと逆のケースがあることをご存じですか、お父様?」
「逆のケース……ああ、あのクランケのことか」
 しばらく考えてから、おもむろに理事長は頷いた。
「そうです、須藤雅美のことです」
「たしか、あのクランケも大阪の病院からこちらに移送されてきたのだったな」
「はい。やはり被災者で、大阪の病院から届いた報告書を読んだ私がこちらに移送させました。彼女もとても興味深い素材でしたから」
「これこれ、また『素材』などという言い方をする。全く、クランケに失礼だろう」
 たしなめるように理事長は言った。だが、本心から深雪を叱っているのでないことは、深雪の顔をにこやかに見つめているその表情からも明らかだった。
「でも、私にとっては、やはり素材です。クランケと呼ぶことはあっても、本心からクランケだと思って接したことはありません。それは、鈴本真澄や島田恵美も同じです。いいえ、それ以前に私が処置を施した者も含めて、みんな、素材でしかありません」
 深雪は、真っ赤な舌の先をちろと唇の間から覗かせた。それは、どこか、白蛇が真っ赤な長い舌をみせるところを連想させる仕草だった。
「私がこの研究所の設立に執心した理由、お父様はご存じですよね?」
「もちろんさ。これからの病院経営にはなくてはならないものだからね、お前が理事たちに向かって主張したものは」
 大学院を終了したばかりのまだ若い深雪だったが、もうその時には慈恵会の理事の一人に名を連ねていた。理事長の一人娘だからという事情も否定はできないが、それ以上に、彼女の類まれな才能が評価されてのことだった。深雪は早くから、病院が単に病気や怪我を治療するだけの機関ではなくなると直感していた。治療行為そのものがなくなるというのではないが、治療行為の内容が現在とは随分とかけ離れたものになると直感していたという方が正しいだろうか。いずれにしても、深雪は、人体の部品を手軽に交換する修理工場としての病院を意識していた。今はまだ他人の臓器に頼っている臓器移植だが、やがてはナノテクノロジーを駆使した人工の臓器を利用する時代が来るだろうし、いずれは、それさえも凌ぐ、遺伝子工学の輝かしい成果たる人造臓器の時代がやってくることを直感していた。それが今すぐだということではないにしろ、数多い世界中の競争相手に対して頭一つ分でも優位性を確保するには、もう準備を進めておかなければならないことを見越して研究所設立を訴え、体の一部を人造臓器に置換した時に人間の精神がどのような状況に置かれるかを研究するために応用総合科を設立することを提言した深雪だった。
 だから、深雪にとっては、クランケ(患者)など存在しない。そこにいるのは、研究対象としての興味深い素材でしかない。
「これまでは主にセル・フュージュンなんかの臨床実験だったけど、今度の素材では精神面で面白い研究ができそうです。或るきっかけで獲得した新たなパーソナリティを人間がどのくらい強く保持できるのか、私が知っている限りでは、そんな論文はまだ発表されていないと思います」
 深雪はすっと目を細めた。




 鎮静剤で眠らされた元哉は、そのまま手術室に運び込まれ、今度は本格的な麻酔によって完全に意識を失った。もちろん、深雪が言うところの『簡単な形成外科手術』に備えてのことだ。
 実際、手術はあっけないほど短い時間で完了した。念のためにと手術に立ち会った理事長が舌を巻くほどに深雪の腕は確かだった。
 手術の内容は、まず、手足の腱の切断。両手足の腱にメスを入れるのだが、完全に切断して歩けなくしてしまうわけではなく、幼児のようなよちよち歩きができる程度に弱体化するのが目的だ。それから、声帯の整形。形そのものを変えるのではなく、声帯を形成する筋肉の一部を削ぎ取って薄くする手術だ。こうすることによって、元哉の声は幼い女の子のように甲高い声に変化する。そうしておいて、顔の造作にも少し手を加える。もともと童顔の元哉だったから、頬と額をふっくらした感じにするだけで、幼い女の子の顔にすることができる。最後に、ペニスの短小化。深雪は最初、ペニスを切除して膣を形成する性転換手術を施すことも考えたのだが、いくら自分のことを幼い妹・美鈴だと思い込んでいる(思い込もうとしている)元哉でも、いざ麻酔が切れて意識を取り戻した時にどんな反応をしめすか予想できなかったため、とりあえずは、海綿体の除去と外皮の切除によるペニスの短小化だけにとどめておいた。いずれ性転換手術を施すにしても、深雪にとっては造作もないことだ。二度手間だとも思わない。
 それら一連の手術をきっかり二時間で終わらせた深雪だった。理事長が感嘆するのも無理はない。
 手術を終えて麻酔のマスクを外した後も、元哉には定期的に鎮静剤が投与され続けた。腱を切断したための傷、声帯を削り取った際の喉の傷、そしてペニスの外皮の傷が目立たなくなるまで元哉が意識を取り戻さないようにするためだ。麻酔から覚めた直後に意識を取り戻した場合、手術の跡はひどく痛むだろう。その痛みのために元哉が本来の自我を取り戻しでもしたら――地震によって獲得した幼い女の子としての自我を手放してしまいでもしたら、深雪はせっかくの研究素材を失ってしまうことになる。それだけはどうしても避けたかった。だから、傷が治るまで、元哉を眠ったままにさせることにしたのだった。

 深雪が鎮静剤の投与を中断したのは、手術から九日目のことだった。
 やがて、鎮静剤の効果が薄れた元哉はゆっくり目を開ける。
「おはよう、美鈴ちゃん。よく眠ってたわね」
 深雪は、本当の幼児に対するような口調で元哉に語りかけた。
「みすず、おねむだったの?」
 まだ完全には意識が戻っていないのだろう、どこかぼんやりした表情で元哉は深雪の顔を見上げた。
 そして、甲高い声に変わっている自分の声を耳にして、微かに戸惑いの表情を浮かべた。自分のことを幼い美鈴だと思い込んでいるにしても、心の中には本来の自我が幾らかは残っている。そのため、今の自分の声に僅かながら違和感を覚えるのだ。けれど、とは言っても、今のところは美鈴としての自我の方が強い。すぐに戸惑いの表情は消えてしまった。
「そうよ、おねむだったのよ。どんな夢を見てたのかな、とっても楽しそうに笑いながら眠ってたわ」
「あのね、ぱぱとままとおにいちゃんと、みんなでゆうえんちにいったの。みすず、ちっちゃいから、じぇっとこーすたーのれなかったの。でも、みんないっしょだったの」
 深雪の言葉に、元哉は満面の笑みを浮かべて甲高い声を弾ませた。が、すぐにその表情が一変する。
「まま、どこへいったの? おばちゃん、ままはおでかけだっていったよね? すぐにかえってくるっていったよね? まま、どこなの?」
 元哉が本当の幼児なら、手術前に深雪が言った「ママはすぐに帰ってくるよ」という言葉など憶えていないだろう。けれど、元哉は幼児ではない。その振る舞いがいくら幼児めいていても、記憶力はやはり高校生のままだった。男子高校生の心と三歳の幼女の心が同居した奇妙な存在、それが元哉だった。
「そうね。じゃ、ママを呼んでみようか。美鈴ちゃん、ちゃんと呼べるかな」
 元哉の言葉に深雪は笑顔で応えた。もちろん、元哉の母親が震災で命を落としたことは深雪も知っている。なのに、ママを呼んでみようと元哉に言っている。
「うん、みすず、ちゃんとよべるよ。まま、ままぁ」
 元哉は顔を輝かせて大声を出した。
「はぁい。ママを呼んだのは美鈴ちゃんかな」
 ドア越しに元哉の呼びかけに応える声が聞こえたかと思うと、待つほどもなくドアが開いて若い女性が入ってきた。
 ベッドに横たわったまま、元哉はきょとんとした顔になった。それも無理はないだろう。本来の元哉の意識は母親が既にこの世にいないことを知っているし、美鈴としての意識も、母親の顔くらいは憶えている。ドアを押し開いて部屋に入ってきたのが元哉の母親でないことは明らかだった。
「まま、ままはどこなの?」
 その女性がベッドに近づくのを拒むように盛んに首を振りながら元哉はたどたどしい口調で繰り返した。
「あらあら、美鈴ちゃんはママの顔を忘れちゃったのかな。おねむばっかりしてたからママの顔を忘れちゃったのかな」
 自分を拒む元哉に向かってあやすように声をかけながら女性は一歩一歩ゆっくり近づいて行った。
 いやいやをするように尚も首を振った元哉は、体を起こしてベッドから逃げ出そうとした。
 が、ベッドの上で突っ張ったつもりの両腕にまるで力が入らない。それは深雪が肘と手首の腱にメスを入れたためだが、元哉自身はそのことをまるで知らされていない。
 ベッドから逃げ出すこともかなわない元哉だが、それでも尚も身をよじってベッドから逃げ出そうと手足をばたばたさせる。
 そこに女性の手が伸びてきた。
「駄目よ、美鈴ちゃん。そんなに暴れちゃベッドから落ちちゃうわ」
 ベッドのすぐそばに立った女性は元哉の背中の下に右手を差し入れると、元哉の上半身をゆっくり抱き起こした。華奢に見える体つきからは想像もできないほどに力強い。
 女性の体からほのかに立ちのぼる甘い香りが元哉の鼻をくすぐった。途端に、それまで暴れていたのが嘘みたいに、元哉は体を固くしてしまう。
 女性が元哉の上半身を抱き起こすと、毛布がベッドの上に滑り落ちた。毛布の下から現れたのは、パステルピンクの生地でできたサンドレスだった。リボンになった紐を首の後ろで結わえるようになっていて、背中が三分の一ほど見えてしまいそうな、よく幼い女の子が着ているようなサンドレスを元哉は身に着けていたのだ。
地震のあった寒い日のことを忘れさせようという深雪の配慮からか部屋の中は暑いほどに暖房が効いていたし、元哉の顔は幼女めいた雰囲気の顔つきに変えられていて、手術後から投与を始めた女性ホルモンの効果も少しずつ表れてきていて、女性のように丸みを帯びた体つきになりかけていたから、そのサンドレスは、今の元哉には、お似合いといえばこれほどお似合いの装いは無いくらいに似合っていた。けれど、自分が身に着けている幼女の装いを目にした途端、元哉の顔が僅かに赤くなった。不安定ながら微かに残っている元哉自身の意識が羞恥を覚えているのだろう。
「ずっとおねむだったから、お腹が空いてるでしょ? すぐにおっぱいにしましょうね」
 女性は元哉の羞恥に気づかぬ様子で元哉の体を支えたまま、左手だけで器用にブラウスのボタンを外して胸をはだけた。
 元哉の体がますます固くなる。
 すっかりはだけてしまったブラウスの胸元からブラが見えた。けれど、それは、若い女性が身に着けるにしては地味な色合いのブラだった。しかも、カップの真ん中あたりに細い線が走っている、一見しただけで普通のとは違うことがわかるブラだった。
 それが何のためのブラなのか、元哉にもじきにわかった。女性がカップの一番高いところから少し離れた位置に指をかけてそっと引くと、その細い線に沿ってカップの一部が大きく開いた。それは、まぎれもなく、授乳用のブラだった。
 ブラのパッドを外した女性は、まるで躊躇する気配もなく元哉の体を抱き寄せて、自分の乳首を元哉の唇に押し当てた。
 思わず元哉は体を退いたが、見かけによらずその女性が力強く元哉の体を抱き寄せたために、ぷりんとした乳首の感触から逃げ出すことはできなかった。
「どうしたの、美鈴ちゃん。美鈴ちゃんの大好きなママでしょう? 美鈴ちゃんの大好きなママのおっぱいでしょう?」
 横合いから深雪が囁きかけた。
 その言葉を耳にした途端、元哉の表情が一変した。見知らぬ女性の手に抱かれた美鈴としての不安と微かに残っていた元哉としての羞恥の表情が嘘みたいに消え去って、とろんとした、恍惚とさえ言ってもいい表情が浮かぶ。
「さ、吸ってごらん」
 女性も元哉の耳元に囁きかけた。
 ほんの少しだけ躊躇う気配があって、けれどすぐに元哉の唇が動き始めた。最初は遠慮がちにおずおずと、けれど、やがて大きく唇を動かして、口にふくんだ乳首を吸い始める。そのたびに女性の乳首の先から母乳が溢れ出て元哉の舌を白く染める。
 それは、奇妙な光景だった。
 男子高校生が幼女のようなサンドレスを着せられて、一見しただけでまだ子供を生んだことがないのが明らかなまだ若い女性の乳房に顔を埋めて無心に母乳を飲んでいるのだから。
 若い女性。そう、元哉に母乳を与えている女性は本当にまだ若かった。艶のある皮膚、ぷりんと張った乳房、さらっとした長い黒髪。どこから見ても、高校一年生の元哉と同い年くらいにしか見えない。しかし、少女と呼んでもおかしくないその女性の乳首からは、確かに白い母乳がとめどなく溢れ出している。
 それは、深雪が施した処置の成果だった。
 女性は須藤雅美、理事長と深雪の会話の中にもその名前が出てきた患者だ。
 雅美もまた、元哉と同様、家族を地震で失っていた。建材の下敷きになった家族が絶命する場に雅美も立ち合っていたのだ。次第に顔色を失い、ぐったりしてゆく両親と妹の姿が今も瞼に焼き付いて離れない。その光景によって心に深い傷を負った元哉は、本来の自我を失い、自分を無力な妹と同一視することで精神の均衡を保とうとした。自分を無力な存在とみなすことで一切の現実から逃げる道を選んだと言っていい。しかし、雅美は違った。家族の死に直面し、自らの無力を思い知らされたところまでは元哉と同じだったが、元哉とは違って、現実に背を向けることなく、むしろ現実と積極的に相対する道を選んだ雅美だった。自らの無力を嘆くより、自ら力をつけることを選んだと言っていい。若く無力な自分を一日も早く成長させ、何事にも動じない大人になること。それが雅美の切なる願いになった。――だが、雅美が選んだ道にも罠がひそんでいた。一日も早く一刻も早く大人になりたいと願う気持ちがあまりにも切実になりすぎて、それが原因になって精神に変調をきたしてしまったのだ。願いと実際の成長の速度との間にはどうしても埋められない溝ができる。願ったからといってすぐにそうとなれるわけがないのに、まるでそんな当たり前のことさえ忘れてしまうほどに強く激しい願いを雅美は抱いてしまったのだ。そうして、まるで成長しない自分の体にひどい苛立ちを覚えて、自分の肉体を自らの手で傷つけるような行為を繰り返すようになってしまった。あまり大きくない乳房を憎んで縫い針を突き立ててもみた。少女そのもののほっそりした腕や脚を憎んでカッターナイフで切りつけてもみた。あどけない顔つきを憎んで両手の爪で掻きむしってもみた。そのたびに噴き出る鮮血。いつしか、その鮮血と痛みだけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる唯一の証のように感じられるようになっていた。いつしか、自ら肉体をいためつけることが生きていることの目的であり、証になっていた。そんな行為を繰り返す雅美は元哉と同じ慈恵会系列の病院の精神科病棟に収容され、再び自虐行為を繰り返さないようにと自由を奪われた生活を余儀なくされた。そうしている間にその病院から深雪に報告書が届いて、雅美は深雪の手許に移されたのだった。
 応用総合科に移った雅美を深雪は辛抱強く説得した。あなたの願いは必ず私がかなえてあげる。だからもう自分の肉体を傷つけるようなことはしないでちょうだい。深雪は雅美に向かって何度も何度も語りかけ、訴えかけた。あなたの望み通りの大人の体にしてあげる。それに、もしもあなたが望むなら、地震で亡くなった妹みたいな、あなたがいなければ何もできない赤ちゃんも用意してあげる。妹代わりの赤ちゃんの世話を焼いていれば、自分が大人になったことを実感できる筈よ。だから、自分の体をもう二度と傷つけないでちょうだい。
 けれど、実はそれは、雅美の体を気遣ってのことではない。せっかく手に入れた若く綺麗な素材に傷がつくのを恐れてのこと、それだけのことだった。せっかく自分の手許に置いた素材の白い肌が醜く傷つくのを防ぐため、それだけのことだった。自らの欲望を満たすためだけが目的の説得を繰り返しながら、深雪は雅美が気づかないうちに処置を施し始めていた。他の素材に施したような大がかりな手術や遺伝子工学を駆使した肉体の改変ではないため、自分の肉体に何らかの処置が施されていることに雅美自身が気づいていなかったその処置とは、定期的に服用させられる精神安定剤や毎日の食事に特殊なホルモンを混入して投与することだった。おそらく自然界には存在しないだろうその無味無臭の合成ホルモンは、女性の乳腺を刺激してその活動を高める効果を有していた。動物実験によれば、マウスなどの小型哺乳類のみならずチンパンジーやオランウータンなどの霊長類にいたるまで例外なく顕著な効果をしめし、そのホルモンを投与された雌は、それが出産経験のない個体であっても、投与から一週間程度で乳房が成長し、二週目に入ると、乳首からの母乳の分泌が確認されている。また、母乳の成分を慎重に分析した結果も、ごく普通の妊娠出産期に分泌する母乳の成分と全く違わないことも確認されていた。この合成ホルモンの投与によって雅美の乳房は短時間のうちに発育し、動物実験の結果そのままに、乳首の先から母乳を溢れ出させるまでになったのだった。そして、深雪が雅美に投与したのは、この合成ホルモンだけではなかった。深雪は雅美の食事に、一種の筋肉増強剤も混入していた。この筋肉増強剤を投与した上で或る程度の運動を続けると、随意筋の繊維密度が飛躍的に向上するため、それまでに比べると信じられないくらいの力を発揮するようになる。ただし、繊維束内の密度は上昇するものの繊維束の太さそのものは殆ど変化しないため、見た目は投与前とさほど変わらない。むしろ、だぶついていた筋肉が引き締まるため、それまでよりもほっそりした体つきになるくらいだった。
 深雪が投与した二つの薬剤の効果によって雅美は、出産経験もないのに母乳を出す乳房の持ち主になるとともに、そのほっそりした体つきからは信じられないほどの力強い筋肉の持ち主へと変貌していった。元哉を応用総合科に迎え入れることが決まった日から、深雪は雅美に対してそういった処置を施してきたのだ。その成果が確かに今、こうして深雪の目の前に現れていた。
 成果は雅美だけに現れたのではない。元哉の方にも、深雪が施した処置の成果は顕著だった。幼女めいた顔つきやふっくらした体つきといった外見だけではなく、心の方にも。たとえば、深雪が「美鈴ちゃんの大好きなママのおっぱいでしょう?」と囁きかけた途端に元哉は雅美の乳首を口にふくんだ。その行動こそ、手術が終わってから深雪が元哉に与えた後催眠(後催眠というのは、対象となる者を催眠状態に置いた状況で、催眠から解けた後に取るべき行動を対象者に記憶させておき、催眠を解いた後に或るキーワードを与えることで、記憶させた通りの行動を取らせることをいう)の成果だった。深雪は元哉に、肉体的な処置だけではなく、こうした精神的な処置も様々に施していた。雅美との約束通り、雅美がいなければ何もできない赤ん坊を雅美に与えるために。そう、体だけは大きな元哉という赤ん坊を雅美に与えるために。

「どうしたの、もうお腹はいっぱいになったの?」
 両方の乳首を吸って満足げな表情で乳房から顔を離す元哉に雅美は優しく声をかけた。
「うん。みすず、おなかいっぱい」
 元哉はにこっと笑った。それは、とてもではないが十六歳の男子高校生とは思えないあどけない表情だった。身に着けたパステルピンクのサンドレスがお似合いの小さな女の子そのままの顔つきだった。
「そう、よかった。ママもね、美鈴ちゃんがおっぱいを飲んでくれたから、おっぱいが楽になったわ。ありがとう、美鈴ちゃん」
 ブラのパッドを元に戻し、ブラウスのボタンを留めながら、雅美は元哉の頬に軽くキスをした。母乳の甘い香りが雅美の鼻をそっとくすぐる。
「まま、おっぱい、いたいの?」
 元哉が心配そうな表情で雅美の顔を見上げた。
「ううん、もう大丈夫。おっぱいがたくさん溜まって痛かったけど、美鈴ちゃんが吸ってくれたから、もう痛くないのよ。これからもちゃんと吸ってね」
 雅美は目を細めた。
「うん、まま。……でも……」
 元気に頷いて、けれど、元哉は不思議そうな顔で首をかしげた。
「みすず、みっつだよ。もう、おっきいんだよ。あかちゃんじゃないんだよ。あかちゃんじゃないのに、おっぱい、へんじゃない?」
 元哉としての意識なら、強引に押しつけられた乳房を頑なに拒むだろう。美鈴としての意識でも、拒みはしなかったものの、三歳にもなって母乳を飲むという行為は不自然に感じられて仕方ない。それが嫌なわけではない。元哉が幼かった頃、いつまでもおっぱいをせがむ元哉に対して、母親は断乳のためにあれこれと手段を講じたものだった。そのおかげで乳離れした元哉だったが、それでも、断乳直後の頃は母親の乳房が恋しくてたまらなかった。幼い妹としての自我が心の中を占めるようになった今、その思いは殊更に強くなる。だから、雅美の胸に抱かれて乳房に顔を埋めるのは嫌ではない。けれど、後催眠のことには全く気づいていない元哉としては、もう赤ん坊でもないのにどうしておっぱいなのか、それが不思議な気がしてならない。
「いいのよ、おっぱいで。だって、美鈴ちゃんはママの赤ちゃんだもの」
 首をかしげる元哉に、雅美は言い聞かせるように応えた。
「みすず、あかちゃんじゃないよ。みすず、みっつだよ」
 雅美の言葉に、元哉はますます不思議そうな表情を浮かべた。
「そうかしら? じゃ、おばちゃんに教えてね。美鈴ちゃんのお名前はなんていうの?」
 横合いから深雪が割って入った。
「みすずは、みすずだよ」
 不意の質問に戸惑った顔つきになって元哉は応えた。
「じゃ、苗字は?」
 深雪は重ねて訊いた。
「みょうじ? みょうじはね、せ……」
 言いかけて元哉は言葉をなくした。苗字は瀬田だよと言いかけた途端、体がこわばって続きを言えなくなってしまったのだ。しかも、口を閉ざした直後、自分が口にしかけた瀬田という苗字そのものが、どういうわけかきれいさっぱり意識の中から抜け落ちてしまう。
「みょうじ、みょうじはね……」
 きょとんとした目で深雪の顔を見上げたまま、元哉は何度も繰り返した。
「美鈴ちゃんの苗字は須藤っていうのよ。だから美鈴ちゃんは、須藤美鈴なの」
 深雪は元哉の目を正面から覗き込むと、強い口調で言った。
「すどう……すどうみすず……」
 何度かまばたきを繰り返した後、元哉は須藤美鈴という名前をおずおずと口にした。心のどこかに何かが引っかかるような違和感を覚える。けれど、どうしても瀬田という苗字を思い出せない今、深雪から聞かされた須藤美鈴という名前の他に自分の名前は思い浮かばない。
「わかったわね、須藤美鈴ちゃん」
 深雪は元哉の耳元で囁いた。
 はっとしたように目を見開いて、元哉は頷いた。それも深雪が施した後催眠の結果だったが、もちろん、元哉自身はそんなことに気づく筈もない。
「それでいいわ。美鈴ちゃんは今日から須藤美鈴ちゃんに生まれ変わったのよ。だから、今日が美鈴ちゃんの新しいお誕生日なの。だったら、美鈴ちゃんが赤ちゃんでもちっとも不思議じゃないでしょう? ――うふふ、でも、こんなことを言っても、赤ちゃんの美鈴ちゃんには難しいからわからないでしょうけど」
 元哉が頷くのを見て、深雪は満足そうに微笑んだ。
「すどうみすず……みすずは、すどうみすず……」
 自分で自分に言い聞かせるみたいに元哉は何度も何度も口の中で繰り返した。
「これからもちゃんとママのおっぱい飲んでくれるわね、美鈴ちゃん?」
 深雪に代わって今度は雅美が元哉の顔を覗き込んだ。
「うん、まま」
 まだどこか戸惑ったような表情ながら、それでも元哉は再び頷いた。
「それでいいのよ、美鈴ちゃん。じゃ、今度はおむつをみてみようね。美鈴ちゃんのおむつ、濡れてないかな」
 それまで元哉の背中を支えていた右腕をゆっくり下げて元哉の体をベッドに横たえながら雅美は言った。
「おむつ? みすず、あかちゃんじゃないよ。あかちゃんじゃないから、おむつじゃないよ」
 ベッドの上にあった枕に頭を載せて、元哉は恥ずかしそうに言った。美鈴としての意識でも、三歳にもなって『おむつ』という言葉は恥ずかしい響きに違いない。
「だって、美鈴ちゃんはずっとおねむだったのよ。おねむの間、おしっこはどうしてたのかな?」
 言いながら雅美は元哉の腰から下を覆っていた毛布をさっと剥ぎ取った。丈の短いサンドレスの裾がすっかり捲れ上がってしまっていて、毛布がなくなると、サンドレスと同じ生地でてきたオーバーパンツが丸見えになる。元哉の下腹部を包み込んでいるパステルピンクのオーバーパンツはふっくらと膨れていた。
 言われてみれば、お尻のあたりがじっとり濡れているような気がする。元哉は頭を僅かに持ち上げるようにして、おずおずと自分の下腹部に目をやった。
 毛布をきれいにたたんでどこかに置いた後、雅美は元哉のオーバーパンツの腰のあたりに指をかけて手早く引きおろしたかと思うと、さっと脱がしてしまった。オーバーパンツの下から現れたのは、大小様々な水玉模様を幾つもプリントした生地でできたおむつカバーだった。オーバーパンツが膨れていたのは、おむつカバーが膨れていたからだ。おむつカバーが膨らんでいるのは、もちろん、その中にあてたたくさんの布おむつのせい。
 雅美は元哉のお尻を包みこんでいる水玉模様のおむつカバーの腰紐を手早くほどくと、おむつカバーの前当ての部分を留めているマジックテープを外し始めた。べりりっという音が元哉の耳にも届いて、その音が、美鈴ちゃんはおむつをあてられているんだよと囁きかけてくるように感じられる。
 雅美の手が前当てを元哉の両脚の間に広げ、続いて横羽根を元哉のお尻の左右に広げると、動物柄の布おむつがあらわになる。動物柄の布おむつは、微かに黄色に染まって元哉の肌にじっとりと貼りついていた。
「美鈴ちゃんは赤ちゃんじゃないからおむつじゃないって言ってたよね? なのに、ママの目の前にあるおむつは濡れちゃってるみたいよ。どうしておむつが濡れちゃったんだろうね」
 雅美は手を止めて元哉に向かって笑いかけた。けれど、その笑い声は、決しておむつのことをからかうような声ではなかった。むしろ、元哉のおむつが濡れているのが嬉しいみたいな、なんだか穏やかな笑い声だった。
「……」
 目の下のあたりを真っ赤に染めて、けれど元哉は押し黙っていた。
「黙ってちゃわからないわよ。どうして美鈴ちゃんのおむつは濡れちゃったんだろうね。わからない? それとも、美鈴ちゃんはまだお口もきけない本当の赤ちゃんになっちゃったのかな」
「みすずが……おしっこしちゃったから……おむつ、おしっこでぬれちゃったから……」
 ようやく元哉は口を開いた。恥ずかしさのあまり、首筋まで真っ赤になっている。
「そうね、美鈴ちゃんがおしっこしたからおむつが濡れちゃったんだね。でも、いいのよ。ずっとおねむだったんだから、おしっこ出ちゃっても仕方ないのよ」
 とろけるような笑顔で雅美は言った。実際、元哉は手術の日から今日まで、ずっと意識を失っていたのだ。その間、おしもの処理はおむつを使う他に方法はなかった。カテーテルを使っての導尿という方法もあるにはあるが、ペニスを短小化する手術を施した直後の元哉には、それでは負担が大きすぎる。研究所付属の病棟とはいっても、病院は病院。医療機器や介護用品を納入する業者とのつながりは太い。そういった業者にオーダーすれば、サイズだけは元哉の体にあわせた、けれど見た目は赤ん坊が使うようなデザインのおむつカバーを用意するのは簡単だ。
「あかちゃんじゃないのに、みすず、おしっこしちゃったんだ。おむつにおしっこしちゃったんだ」
 雅美が優しく諭しても、元哉は今にも泣き出しそうになっていた。十六歳の意識はもとより、三歳の意識でも、おしっこでおむつを汚してしまったと思うと、恥ずかしさで胸がいっぱいになってしまう。
「いいのよ、美鈴ちゃん。ママはね、美鈴ちゃんがおむつを汚しちゃっても、絶対に叱らないわよ。ううん、美鈴ちゃんがおむつを汚してくれて、とても嬉しいんだと思うわ。
だって、汚れたおむつを綺麗に洗ってお日様の光で乾かして、ふかふかのおむつにして、それをまた美鈴ちゃんにあててあげられるんだもの。ママは美鈴ちゃんのお世話をすることが大好きなのよ。だって、ママは美鈴ちゃんのママなんだもの。だから、美鈴ちゃんはこれからもどんどんおむつを汚していいのよ」
 あやすようにして言い聞かせたのは深雪だった。
「美鈴ちゃんがおむつを汚せば汚すほど、ママは嬉しいのよ」
 ゆっくりした口調で言葉を一つ一つ区切るようにして、深雪はもういちど言い聞かせた。もちろん、それは、『おむつを汚す』という言葉をキーワードにした後催眠をより確かなものにするためだった。
「さ、いつまでも濡れたおむつじゃ気持ち悪いでしょう? すぐに取り替えてあげるからね」
 雅美は、元哉の肌に貼り付いている濡れそぼった布おむつを丁寧におむつカバーの上に広げた。
 すっかり丸裸になった元哉の下腹部には、申し訳程度の、本当の赤ん坊なみの小さなペニスがあった。
「あら、美鈴ちゃんは女の子だと思っていたのに、こんなのが付いてたのね。どうしてかしら」
 けれど、前もって深雪から事情を聞かされていた雅美は驚かない。却って興味をひかれたように、元哉の小さなペニスを掌に載せて弄んでいる。
「でも、やっぱり女の子よね。だって、おむつ、お尻の方が濡れてるもの。男の子だったら前の方が濡れる筈なのに」
 元哉のベニスを弄びながら、雅美は笑って言った。
 雅美が言った通り、元哉の布おむつはお尻の方が濡れていた。深雪の手によって小さく作り替えられたペニスは、勃起する能力を失っていた。だから、上向きではなく、ペニスの先端がお尻の方に向くようにしておむつをあてられたら、ずっとそのままになってしまう。それで、おしっこでおむつを濡らすにしても、女の子みたいにお尻の方から濡れるのだった。
 元哉本来の意識は雅美の言葉にひどい羞恥を覚えながら、けれど、美鈴としての意識は、若い新しい母親にすっかり甘えきっていた。元哉は、とろんとした目つきで、雅美のなすがままにされていた。それは、深雪が施した後催眠の結果だけではなかった。元哉が実は無意識のうちに望んでいることだったからこそ、後催眠も顕著な成果をしめすのだった。




「実は同い年の、でも、心はしっかりつながった親子なのよ、あの二人は。見てごらんなさい、雅美さんに甘える時の本当に嬉しそうな美鈴ちゃんの顔。あの子はこれからもずっとああして暮らしてゆくのよ」
 未由にそう言ってから、深雪は、ソファに寝そべったままの猫を指さした。
「もうわかっていると思うけど、あの猫もここの入院患者。宗田美也子という名前の二十四歳の女性なの」
 未由が見守る中、銀色の毛をした大きな猫は自分の前脚を嘗めて毛づくろいを始めた。その猫の顔は確かに人間の――若い女性の顔だった。



戻る 記念ページに戻る ホームに戻る 続き
s