第三章 寒水魚




 車の免許を取ったばかりの頃には用もないのに車を運転してみたくなるように、どんな資格でも、そのライセンスを取った直後というのは、ついつい、それを使ってみたくなるものだ。それが、真夏の沖縄で、取得したのがスキューバダイビングのライセンスとなれば尚更のことだった。
 来年の春になれば離れ離れになってしまう仲のいいゼミの友人と一緒に一足早い卒業旅行に沖縄へやって来て念願のダイビングライセンスを取得した恵美は有頂天だった。だから、一緒に来た友人と相談して、初心者ばかりのダイビングスポットから離れた場所で潜ることになっても、まるで不安は感じなかった。
 原色の熱帯魚とテーブル珊瑚の海は爽快だった。本州の海では滅多に見られない大きな海鼠を指でつついては友人と顔を見合わせて笑い合う。
 そうしているうちに、友人が巨大なオオシャコ貝をみつけた。沖縄の海には、一抱えもありそうな大きなオオシャコ貝がごろごろしているが、そんな中でも一際目をひくほど巨大な貝だった。悪戯心を起こした友人が、恵美に向かってウインクをしてみせると、シャコ貝の中に右手を突っ込んだ。
 途端に、思わぬ早さで貝殻が閉じてしまった。真っ蒼になった友人が慌てて右手を抜こうとしても、いったん閉じた貝殻はいっこうに開く気配をみせない。
 恵美も友人の体を引っ張ったが、バランスを取るだけで精一杯の水の中では思うように力が入らない。それに、もしもうまく力を入れることができたとしても、普通の人間の力くらいではオオシャコ貝の貝殻をこじ開けることは不可能だった。見た目の優雅さとは裏腹に、実はそれほどに危険な生き物なのだ。ダイビングスクールでも、そのことは口を酸っぱくして教えていた筈だ。熱帯の海中の景色に目を奪われてそのことをすっかり忘れてしまっていたことを後悔しても、今となっては既に手遅れだった。
 そうしている間にも、タンクの中の空気がみるみるうちに減ってくる。ただでさえ初心者は空気の消費量が多いのに、突然の出来事でパニックに陥ったせいで、無駄に空気を消費してしまっている。救助を求めるにも、人がいるスポットまで泳いで恵美がここへ戻ってくる間に友人のタンクが空っぽになってしまうのは目に見えていた。
 恵美には、苦しげな表情で自分の右手を貝殻から引き抜こうとあがく友人の痛ましい姿をただ見つめていることしかできなかった。




 その後どうなったのか、自分でもわからない。憶えているのは、かろうじて自由になる左手で自分の首筋を掻きむしりながら絶命した友人の苦痛に満ちた顔だけだ。最後にマウスピースを引きちぎるように吐き出し、口からごぼっと泡を吐き出した友人の、人間のものとは思えない真っ蒼な顔だけだった。

 恵美は、恐ろしい叫び声を耳にして目を覚ました。すぐには、それが自分の叫び声だとは気がつかなかった。
 蛍光灯の白っぽい光が眩しい。
 いったん開いた瞼を慌てて閉じると、恵美は掌で蛍光灯の光を遮るようにして、あらためてゆっくり目を開けた。
「恵美、大丈夫なの、恵美。気がついたのね?」
 気遣わしげな声が恵美の耳に届いた。
 一瞬、それが誰の声なのかわからない。恵美はおずおずと声が聞こえてくる方に目をやった。
「……お母さん……私……」
 恵美の目に映ったのは、ころころと太った気の好さそうな中年女性の姿だった。いつもは陽気な母親の丸々した顔に、ひどい憔悴の表情が貼り付いている。
「何も言わなくていいのよ。落ち着くまで、何も喋らずにじっとしていればいいの。たまたま通りかかった漁船に助けてもらってから五日間、あなたは意識を失ったままだったの。だから、もう少しじっとしてなさい。何も考えずに、ただじっとしてなさい」
 憔悴の中に、けれど愛娘がようやく意識を取り戻したことに安堵の色を浮かべて母親は言った。
「ここは……どこ?」
 じっとしていなさいと言われても、自分がいる所が自宅でもホテルでもないことに気がついた恵美は、思わず体を起こそうとする。
「駄目よ、本当にじっとしてなきゃ。ここは病院。大きな病院の特別室なの。だから安心しなさい」
 慌てて恵美の動きを制止した母親は、安心させるようにゆっくりした口調で言った。
「病院……」
 恵美はぽつりと呟いた。
「慈恵会という名前、恵美も知ってるわよね? そうよ、あの有名な医療法人。ここは、その慈恵会の研究所付属の特別病棟なの。だから、何も心配は要らないの」
 母親は恵美の大きな瞳を覗き込んで言った。
「お母様のおっしゃる通りです。全て私たちにまかせて、あなたはゆっくり休んでいればいいんです」
 聞き慣れない声が恵美の耳に飛びこんできた。
 はっとして体を起こそうとする恵美の肩をやんわりと押さえつけたのは、白衣を着た女性だった。三十歳前後か、まだ若いのに、妙な威圧感がある。
「あなたの主治医を務める笹野深雪です。何も心配することはありませんから、ゆっくりしてください」
「でも、あの、佐藤さんは……」
 恵美は、一緒に沖縄へ行った友人の名を口にした。今さら安否を尋ねてもどうしようもないことはわかっている。わかっているけれど、その名前を呼ばずにはいられない。
「お気の毒ですが」
 深雪は首を横に振った。
 恵美の顔色が変わった。それまでも蒼褪めた顔色だったのが、今度こそまるで血の気が失せて、蝋人形みたいな顔色になってしまう。
「落ち着きなさい。あなたのせいではないのですから」
 表情を失った恵美に向かって深雪は大声で言った。母親も恵美に向かって何かを語りかけている。
 が、一切の呼びかけを無視して、恵美はすっと瞼を閉じた。意識を失ったというよりも、自ら心を閉ざしたといった方が近いかもしれない。

 しかし、深雪の顔に焦りの色はなかった。
 まるでこうなることをあらかじめ知っていたかのように落ち着いている。
「お嬢様は再び自分だけの世界に戻られました。いかがなさいます?」
 恵美の閉じた瞼を指で開き、瞳にペンライトの光を当てて瞳孔反射を確認した深雪は、その場に立ちすくんでいる母親に向かって言った。
「あ、ああ、そうですね、本当にどうしましょう……こんな時、あの人がいてくれたら……」
 深雪の声で我に返ったように母親は力なく呟いた。
 恵美の母親は中堅のアパレルメーカーのオーナー経営者だ。もっとも、最初にその会社を立ち上げたのは、恵美の父親である夫だった。大手の総合服飾メーカーを退社して自らの力とセンスに賭けた恵美の父親は、文字通り寝食を忘れて働いた。それを陰で支えたのが母親だった。そうしてようやく事業が軌道に乗りかけた頃、若い時の無理がたたって他界してしまったのだった。しかし、母親は嘆き悲しんでいる余裕もなかった。小学校を卒業したばかりの恵美を抱え、従業員の生活を背負い込んだ母親は、夫に負けないくらいに働き通して、夫が残した会社を大きくしていったのだ。本当なら、恵美が半年後には大学を卒業するという今こそ、母親はやっと体を休めることができる時の筈だった。なのに、卒業旅行に行った沖縄の海から、たった一人の愛娘である恵美が心にひどい傷を追って帰ってきた。思わず、今はもういない夫の名を呼んでしまうのも無理はない。
「お母様さえご了承いただけるなら、私どもはすぐにでも処置を開始できるよう準備を進めています」
 母親に決断を促すような深雪の言葉だった。
「……それしか方法はないんですね?」
 念を押すみたいに母親は言った。
「はい。昨日ご説明申し上げた方法以外には、お嬢様の心を癒す方法はありません。なにしろ、あまりにも痛ましい事故でしたから」
 深雪はおもむろに頷いた。
 深雪が言う通り、恵美はあまりにも痛々しくあまりにも過酷な体験をしてしまった。人が命を落とす瞬間、それも、きわめて親しい者が命を落とす瞬間に立ち会うという体験は、普通の人間には耐え難い負担になる。しかも、恵美の場合は、友人がもがき苦しみながら絶命する様を目の当たりにしてしまったのだ。自由を奪われて次第に空気がなくなってゆく恐怖に満ちた友人の顔を正面から見続けてしまったのだ。そして、命が尽きた後も腰に付けたウェイトのせいで海面に浮かび上がることもかなわず静かな海の底でゆらゆら揺れるだけの亡骸を眺めていたのだ。そのあまりにも衝撃的な光景に、実は恵美も無意識のうちにマウスピースを口から離してしまっていた。自分で意識することなく、まるで友人の後を追うかのように、背中のタンクとつながったマウスピースを吐き出してしまっていたのだ。だが、恵美は死ななかった。マウスピースを吐き出したのも無意識のうちなら、いよいよ息が苦しくなってくると、盛んに手足を動かして海面に浮かび上がっていたのも無意識のうちだった。そう、恵美は、海底で揺らめく友人の亡骸を残して、ひとり海面に浮かび上がってしまったのだ。ふと我に返ってそのことに気づいた恵美は、ひどい自己嫌悪に陥った。友人が絶命する瞬間を見てしまったショックと、ひょっとしたらそれに倍する、自分自身の醜い部分を知ってしまったことによるショックと。恵美の胸は、悲しみと苦しみと自身に対する嫌悪感と怒りとで今にも引き裂けそうだった。
 何も考えられなくなり、友人の死を悼むことさえ忘れてしまったかのように波間に漂う恵美。
 それでも、恵美は生き延びてしまった。
 たまたま近くを通りかかった小さな漁船に引き上げられ、身に着けていたダイビングライセンスによって身元の確認が行われて、近くの救急病院に運び込まれた。警官の事情聴取に何を応えたのか、それも憶えていない。ただ、友人が海の底に取り残されていると告げたことだけは微かに憶えている。そうして、その小さな救急病院から沖縄本島の慈恵会系列の病院に移され、駆けつけた母親と医師が何やら話し合って更に応用医療技術研究所付属の総合応用科の病棟に移されたことも、恵美は憶えていない。実はその間、恵美は意識を失っていたのだ。だから、夢を見ているような不確かな時間だけが流れ過ぎてゆく感覚しか感じられなかったのも無理はない。
 恵美を迎え入れた応用総合科のスタッフは、深雪を中心に大急ぎで恵美の精神状態を詳しく調べあげた。
 そして昨日、考えられる処置の内容を母親に説明したのだった。それしか方法がないと知った母親はしばらく迷ってからのろのろと頷いた。
 そうして、処置を施す前になんとかして娘と話をさせてほしいと懇願する母親に、深雪は、承知しましたと応えたのだった。何度も繰り返しては使えない強力な向精神剤と、慎重な上にも慎重を重ねた心理誘導によって短時間ではあるが恵美の精神の均衡を取り戻しすことに成功した。そうすることで、やっとのこと、恵美と母親とは会話を交わすことができたのだった。だが、その短い時間はあっという間に過ぎ去った。
 恵美の心は再び自分だけの世界に閉じこもってしまい、母親は、深雪から聞かされていた処置を施すことに最終的な合意をしめすことを求められている。

 もういちどだけ息を吸い込んで、母親は深雪に向かって力なく頷いた。




 恵美への処置が完了して母親が再び研究所にやって来たのは十日後のことだった。
 深雪は母親を、幾つかある特別処置室の内の一室へと案内した。

 部屋に足を踏み入れた母親は、部屋の中央に置いてある巨大な水槽を目にして、部屋の入り口に立ちすくんだ。満々と水をたたえたその水槽の中で体をくねらせて悠々と泳いでいるのが我が子だということがすぐにわかったからだ。
 なんともいえない表情で、それでも意を決したようにあらためて歩き始めた母親は、水の冷たさを確かめるみたいに水槽のガラスに掌を押し当てると、長い髪をなびかせて泳ぐ愛娘の姿にじっと見入った。
「おわかりになりますか、ほら、あそこ」
 母親の傍らに立った深雪が恵美の首筋を指さして言った。
 恵美の髪が揺らめいて、時おり、雪のように白い首筋があらわになる。左右の顎の下からその首筋にかけて、皮膚が大きく裂けていた。目を凝らしてよく見ると、時々恵美が口を開いていて、そのすぐ後に首筋の皮膚の裂け目も大きくなっているのがわかる。それは、見るに堪えないおぞましい光景だった。
「あれが、遺伝子操作を施してお嬢様の細胞から作り出したエラです。あのエラのおかげでお嬢様は水の中でも呼吸ができるようになって、いつまでも思う存分泳ぎ続けることができる体になられたのです」
 深雪は囁くように言った。
 母親は体を固くした。
 この応用総合科に運び込まれた恵美の精神状態を徹底的に調べた深雪が母親に言った言葉が鮮やかに甦ってきた。――友人の死に直面されたお嬢様は生きる気力を失っておいでです。このままでは、食事も拒否して、緩慢な自殺への道を選ばれる可能性が高いと思われます。けれど、それを防ぐ方法が一つだけあります。お嬢様は、水の中でなら、あるいは生き続ける気力を保てるかもしれません。友人が命を落とされたのと同じ青い水の中でなら、友人の魂を身近に感じられて、自らの生命を否定せずにすむ可能性があります。いかがですか、お母様。お嬢様の体を水の中での生活にふさわしい体に変えてさしあげるのがお嬢様のためになるとはお思いになりませんか。
 そう、深雪は、恵美の体を水中での生活に適した体に変えることを提案したのだった。そして、水の中での生活を続けて心の平静を取り戻した後、体を元に戻せばいいのだからと言って。
 その結果がこれだった。
 グロテスクとしか言いようのないエラ口を首筋で大きく開きながら水槽の中を泳ぎまわる恵美の顔は、しかし、見ようによってはとても穏やかだった。ひょっとしたら、卒業旅行で友人と熱帯の海の中を泳ぎまわったあの時の表情のままに。ただ、水槽を満たしているのは、沖縄の温かい海水ではなく、恵美を罰するかのような冷水だった。
「冷たい水だこと」
 掌に伝わるひんやりした感触に、母親は弱々しく呟いた。
「雑菌の繁殖を防ぐために温水を使えませんでした。しかし、血液流量の調整で、この冷たさに適した体にして差し上げましたのでご心配には及びません」
 深雪は素っ気なく言った。
「そうですか。……でも、水につかったままじゃ、皮膚が……」
 深雪の方をちらとも見ず、優雅に体をくねらせる恵美の姿を見据えて母親は言った。
「今はまだ表面化しておりませんが、もうあと数日で体中の皮膚が変化してくる筈です。すぐに水にふやけてしまう弱々しい人間の皮膚から、強固な角質でできた皮膚に」
「そう。本当にお魚になっちゃうのね、恵美は。じゃ、お食事もフィッシュフードかしら」
 皮肉めいた口調で言って、母親は自虐的な笑みを浮かべた。
「それに近い物です。水槽の水には、必要な栄養を溶かし込んでいます。呼吸をするために口から吸い込んだ水の一部が胃に流れ込んで栄養補給を行う仕組みになっています」
 深雪の言い方は、いたって事務的だった。
「眠る時も水の中?」
「はい。胎児のように膝を抱えて丸くなった姿で水の中を漂いながら休まれます。リモートセンシングの脳波計で見る限り、この時が最もリラックスしてらっしゃるようです。あるいは、お母様のお腹の中にいた時のことを思い出しておられるのかもしれません」
「そう、そうですか。私のお腹の中にいた時のことを……」
 母親は言葉を詰まらせた。
 ふと母親の顔に視線を向けた深雪は、母親の頬を伝い落ちる涙の雫を目にした。涙の粒は、あとからあとからこぼれ出しては、母親の頬を伝って顎先から滴り落ち、リノリウムの固い床を濡らし続けた。




「もちろん、あの親子連れもそう。二人の名前は須藤雅美さんと美鈴ちゃん。でも、美鈴ちゃんは本当の名前じゃないの。未由さんには、あの二人がどう見えるかしら?」
 深雪は親子連れを指さした。
 そう言われてあらためて二人の姿を見つめると、それまでとは全く別の光景が浮かんでくる。幼い女の赤ちゃんを連れた若い母親。けれど、どうしてそんなことに気がつかなかったのか不思議に思えるのだが、床にぺたりとお尻をつけて座っている赤ん坊の方が、若い母親よりも背が高いのだった。どちらかというと母親は小柄な方だが、それでも、いくらなんでも、母親よりも大きな体をした赤ん坊がいるとは思えない。
 未由はごくりと唾を飲み込んだ。



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