第二章 アザミ嬢のララバイ




 鈴本真澄は、ごく普通の公立高校に通う、ごく普通の高校生だ。父親が不動産業を営んでいるおかげで経済的にはかなり恵まれた家庭環境だが、その父親も、一代にして財を成した人間にありがちな成金めいた嫌味なところなど全くない気さくな性格をしていて、近所での評判もいい。経済的な心配がないから母親は専業主婦だが、こちらも、どこにでもいる気の好い中年女性という感じで、町内会の世話役を押しつけられても嫌な顔一つしない。要するに、裕福ではあるが、どこにでもあるような、ごく普通の家庭だ。
 そして、そんな家庭に育った子供が時おりそうなるように、真澄は実に好奇心の旺盛な娘だった。生活に困るわけでなく、両親の愛情を満身に受けて素直に育った真澄は、小さな事にこだわるようなこともなく、周りのいろいろな事柄に興味をしめし、少しでも自分の好奇心を満足させてくれそうな物があると喜んで飛び込んでゆく、周囲の誰からも愛される、とても活発でボーイッシュな少女だった。
 そんな真澄が高校に入学してすぐに興味を持ったのがオートバイだった。年ごろの少女が自動車やオートバイに興味をしめすことは少ないのだが、そのボーイッシュな性格のせいかクラスの中でもどちらかというと男子生徒と気が合った。そのためオートバイの話題を耳にすることが多いこともあって、持ち前の好奇心に導かれるまま、オートバイ専門雑誌に目を通すだけでは満足できなくなり、いつしか、通学路にあるバイクショップにふらりと立ち寄るようになっていた。
 もちろん、免許を取ることはできない。最近はミニバイクくらいなら免許取得を許す学校も幾つかあるようだが、真澄の学校は全く認めていない。それでも、大きなオートバイをしげしげ眺めているだけで真澄は満足だった。いくら活発な少女だとはいっても、実際にオートバイで峠を攻めてみたいわけではない。それよりも、すごく精密そうなエンジンとか、見るからに太いタイヤとか、銀色に光るフレームとか、そういうのを見て、どんな構造になっているのだろうと考えてみたり、どんな人が運転するんだろうと想像してみたりする方が好きだった。
 学校からの帰りには毎日のように通っていると、バイクショップのオーナーとも仲良くなってくる。オーナーといっても、まだ若い。三十歳を幾らか過ぎただけだろう。こじんまりした店を一人で切り盛りしているところへ、バイクショップには珍しい若い女性が足繁く通ってくるものだから、オーナーの方から真澄に話しかけたのが二人が会話を交わすようになるきっかけだった。
 ありあまる情熱の全てをオートバイに注ぎ込んだおかげで三十歳を過ぎてもまだ独身のオーナーと、活発でボーイッシュな真澄とは、なぜとはなしに気が合った。どちらも好奇心旺盛で、興味を持った事にはとことんのめり込まなければ気が済まない性格をしていたのが、二人の気が合った理由かもしれない。
 けれど、決して男と女の関係ではなかった。オーナーは真澄のことを、異性どころか、妹というよりもバイク好きの弟みたいに思っていたし、真澄は真澄で、年がら年中油まみれになってオートバイのエンジンを調整しているオーナーのことを、憧れではなく尊敬の目で見つめていた。だからこそ、オーナーがツーリングに行ってみないかと誘った時も真澄は二つ返事でOKできたのだ。そうでなければ、オーナーは真澄にそんな申し出をするのを躊躇っただろうし、申し出された真澄ももっと身構えてしまったに違いない。

 ツーリングといっても、何台かで連なって遠出をする本格的なツーリングではなかった。町から少し離れた山道を一台でゆっくり流す、どちらかといえばオートバイの調子を確認する試乗みたいなツーリングだった。オーナーは決して無茶な運転をせず、タンデムシートに座った真澄が不安に感じることもなかった。山道とはいっても道幅は広く、ちゃんと舗装もしてある。そろそろ木々の葉も赤く染まり始めた季節のひんやりした風が頬に心地よい。
 そんな穏やかな秋の山道、アクシデントは突然だった。
 大きなカーブを抜けた所でオーナーが急ブレーキをかけてオートバイを止めた。真澄は振り落とされないようオーナーの体にしがみつくのが精一杯だった。
「大丈夫かい、鈴本さん?」
 慌てて振り向いたオーナーが心配そうな声で尋ねた。
「あ、はい。どうしたんですか?」
 真澄は、どきどきしている心臓を鎮めようとして何度か深呼吸してから言った。
「あれだよ」
 真澄が無事だったことを確認したオーナーは、ほっとしたような顔つきになって進行方向を指さした。
 オーナーが指さした方を見ると、二台の自動車が絡み合って停まっていた。どうやら、向こう側からこちらに向かって走ってきた車がセンターラインを超えて対向車と接触したらしい。まだ事故の直後なのか、救急車の姿もパトカーの姿も見当たらない。
「このあたりのコーナー、よくああいう事故があるんだよ。休みの日しか運転しないドライバーがいい気候に誘われて走りにやって来るんだけど、油断してるんだろうね、ついつい対向車線にはみ出しちゃって事故るんだよ。全く、ちゃんとしたドラテクもないくせに無茶ばかりするんだから」
 片足を道路につけてオートバイを支えながら、オーナーは肩をすくめてみせた。
「で、どっちもハンドルを切って逃げようとするから、ほら、道幅いっぱい塞いじゃってるだろ? 後続車には迷惑な話だよ」
 オーナーの言う通り、両方の車線とも、ガードレールいっぱいに車が斜めになって塞いでしまっていた。
「戻ります?」
 真澄は訊いた。
「いや、あの様子じゃ、もう連絡はついてるだろう。少しすればレッカー車が来るだろうから、それまで待ってればいいさ。ここから先が高台になっていて、見晴らしがいいんだ。せっかくだから、そこまで走ってみよう」
 言うと、オーナーはシートに跨ったままオートバイのサイドスタンドを立てて。
「じゃ、私はちょっとおりますね。待ってる間、ドングリの実でも探してます」
 そう言って真澄はオートバイのシートからひょいととびおりた。
「ああ、それもいいな。最近、町の中じゃドングリの実も見かけないからね。暇つぶしになるだろう」
 オーナーは微笑んだ。
 それまで被っていたフルフェイスのヘルメットをシートの上に置いて真澄がガードレールを越えて林の中に足を踏み入れた時だった。
 けたたましいクラクションの音と、タイヤが軋む音が響き渡った。
 はっとして振り返った真澄の目に映ったのは、急ブレーキのためにタイヤから白煙を吹き上げながらそれでもものすごいスピードのまま突進して来る赤いスポーツカーの姿と、フロントガラス越しに見える、ハンドルにしがみついたドライバーの凄まじい形相だった。
 オーナーが振り向いた時には、赤いスポーツカーはもうオートバイから何メートルも離れていなかった。
 真澄は目をつぶることも忘れていた。
 スポーツカーのボンネットがオートバイを薙ぎ倒し、バンパーの下に巻き込んでゆく様子がスローモーションのようにはっきり見えた。
 オーナーとオートバイを巻き込んだスポーツカーは、そのまま斜め右に進路を変えて尚も突進し続け、先に事故を起こして停まっていた二台の車よりも五メートルくらい手前で道路脇のガードレールに突っ込んだ。
 スポーツカーが大きくバウンドして横転する。
 道路とオートバイの間に挟まれて身動きのとれないオーナーが、それでも助けを求めるように真澄の方に向かって右手を突き出した。
 思わず駆け出す真澄。
 山間の空気を震わせる大音響が轟いて、横転したスポーツカーが炎に包まれた。
 凄まじい熱気と爆風が真澄に襲いかかった。まるで吹き飛ばされるみたいにして道路に身を伏せた真澄の目の前に、オートバイからおりる時シートに載せたヘルメットが転がってきた。スポーツカーが突っ込んだ時に道路に落ちたのが爆風で転がってきたのだろう。
 爆風は一瞬だった。
 道路に倒れたまま真澄は顔を上げた。
 轟々と燃えさかるスポーツカーのすぐそばに、もう一つ、炎の塊があった。真澄が大きく目を見開いて見つめる中、炎の塊は時おり形を変え、じりじりと場所を変えていた。
 その炎の塊がオーナーだということに真澄が気づくのに、さほど時間はかからなかった。
 漏れ出したガソリンを全身に浴び、その直後に炎に包まれたオーナーが、それでも必死にその場から逃れようとあがいているのだ。けれど、脚の上に倒れこんでいるオートバイのせいで思うように動けない。
 生きたまま焼かれる苦痛はどんなだろう。
 一瞬にして命を失うのではない、灼熱の空気を吸い込んで肺を焼かれながらのたうちまわる苦痛はどんなだろう。
 兄弟姉妹のいない一人っ子の真奈美が兄のように慕っていたオーナー。そのオーナーの、直視できないほどにむごたらしい最期に立ち会わざるを得なくなった真澄が心に受けた傷の大きさはどんなだろう。
 真澄は、転がってきたヘルメットを硬直した手で抱きしめたまま、身動き一つできずにいた。
 再び凄まじい爆発音が轟いて巨大な火柱が立った。スポーツカーの炎の熱気で、オートバイのタンクを満たしていたガソリンが火を噴いたのだ。
 爆風がオーナーのヘルメットを吹き飛ばした。ヘルメットの下から現れたオーナーの顔は、もう人の顔ではなかった。それは、焼けただれた肉の塊だった。表面は炭みたいに黒く焼けこげているのに、そのすぐ下からはまだ赤い血が噴き出す、まるで焼きそこないのレアのステーキみたいな肉の塊だった。
 それを見て、ようやく真澄は気を失うことができた。




 真澄の外傷は全治二週間の火傷だけだった。それも、痕が残ることはないと医師が断言してくれた。亡くなったバイクショップのオーナーには気の毒だが、真澄の両親は心底ほっとした。
 けれど、両親が胸を撫でおろすのはまだ早かった。
 真澄が目を開いたのは、病院に運び込まれた翌日だった。火傷のせいで少し水膨れになっていた皮膚が殆ど目立たなくなったのが、それから三日後。傷ついた皮膚から雑菌が感染する恐れもなくなって、本当なら、もういつでも退院できる筈だった。が、そうはできなかった。両親が幾ら呼びかけても反応をしめさないのだ。瞼を閉じて眠り続けているなら、それもわかる。けれど、真澄の目は開いていた。大きな瞳が時おりきょときょと動いていた。なのに、まるで意識がないかのように、医師の呼びかけにも両親の呼びかけにも反応しない。
 もちろん、医師も懸命の処置を続けた。だが、頭部のCT検査でも異状は認められなかった。そうして、精神科の医師も交えて診断にあたった結果、心因的な原因のために外界とのコミュニケーションを拒んでいるのだという結論が両親に告げられた。簡単に言えば、あまりに強い精神的なショックを受けたために、心を閉ざしてしまっているということだ。この状態がいつまで続くのか、それは精神科の医師にも判断できなかった。

 が、病院に運び込まれて一週間後、なんの前触れもなく真澄の瞳に光が戻った。それまではただ頼りなくきょときょと動くだけだった瞳に意志の光が宿り、天井の一角を見据えて、真澄はぽつりと言った。
「ここは……病院?」
「え……ええ、そうよ。――真澄? よかった、気がついたのね」
 寝る間も惜しんでずっと真澄のベッドに付き添っていた母親は、突然真澄が発した言葉に驚きながら、しかしすぐに喜びの表情を浮かべてベッドを覗きこんだ。
「そう。じゃ、あれは本当のことだったのね」
 真澄は力無く呟いた。
 おそらく真澄は、あの事故のことを夢の中での出来事だと思い込みたかったのだろう。だが、自分が病院にいることを確認して、事故が現実だったのだとあらためて思い知らされてしまったのだ。
「でも、真澄のせいじゃないのよ。どうしようもない事故だったのよ」
 母親には、震える声でそう言うのが精一杯だった。そうして、努めて明るい声を作って言った。
「お医者様を呼びますからね、もう大丈夫だってことを確認してもらいましょう。それで、そうだ、お腹が空いてるでしょう? もうすぐ朝ご飯の時間だから、ちゃんと食べましょう。点滴ばかりでお腹が空いたでしょう? きちんと栄養を摂らなきゃね」
 母親は枕元のナースコールのボタンを押した。
「ごはん……栄養……」
 どういうわけか真澄の顔がすっと蒼褪めて、母親の言葉をわけもなく繰り返し口にする。
「そうよ。ちゃんとした食事を摂らなきゃ。退院したらおいしい物を食べに行きましょうね。真澄、お肉が好きだったわよね。焼肉なんてどうかしら」
 ひどい不安を覚えながら、それでも、とりなすように母親は言った。
「お肉……お肉……お肉……」
 同じ言葉を何度も繰り返す真澄の顔色が変わった。まるで血の気のない、真っ白の顔になってしまう。
 そして、突然。
 真澄はベッドの上に体を起こすと、母親に向かって枕を投げつけた。栄養補給のために右腕に刺さっていた点滴の針が抜けて、真っ赤な血が小さな丸い雫になって真澄の皮膚の上を転がる。
「どうしたの、真澄。どうしたの!」
 母親は金切り声で叫びながらおろおろするばかりだった。
 突如として、母親の叫び声を遮るような獣じみた叫び声が病室に響き渡った。真澄の叫び声だった。
 意味をなさない言葉を喚き散らしながら、真澄は点滴のスタンドをなぎ倒し、ベッドのシーツを床に引きずりおろした。その瞳は人間のものとは思えない異様な光をたたえ、表情は硬くこわばっている。
 恐怖のあまり、母親はその場に立ちすくむばかりだった。
 そこへ、数名の看護婦を従えた医師が駆けつけた。
 暴れ回る真澄の体を看護婦が押さえつけ、医師が鎮静剤を注射する。
 ベッドに連れ戻された真澄は、それからしばらくして、強制的な眠りに墜ちた。

「PTSDという言葉をご存じですか?」
 何日かが経って真澄の皮膚に僅かに残っていた火傷の痕も全く目立たなくなった頃、ナースステーションの隣にあるカウンセリングルームで両親と向かい合って座った医師が言った。
「聞いたことがあるような、ないような……新聞か何かで目にした言葉のような気もしますが」
 考え考え父親が曖昧に応えた。
「日本語では『心的外傷後ストレス障害』と訳しています。簡単に説明しますと、患者本人または近しい人が生命を落としかねない危険な状態におかれて心がひどく傷ついた場合、生命の危機が去った後も、何かちょっとしたことがきっかけになってその時の光景が甦り、まるで自分がその場にいるかのように思い込んでパニック状態に陥ることを言います」
 医師は事務的な口調で説明した。
「要するに、火傷の傷は消えたものの、心の傷は治っていない。で、何かの拍子に心の傷がひどい出血を起こすということですか?」
 少し考えて父親が言った。
「そういうことです。お気の毒ですが」
 医師は軽く頷いた。
「で、治る見込みは?」
 父親は沈痛な面持ちで尋ねた。
「確かなことは申し上げられないというのが正直なところです」
「専門のお医者様でもわからないということですか? それじゃ、これから先も真澄はいつ起きるかわからない発作を抱えたまま生きてかなきゃいけないんですか?」
 母親の口調は医師をなじっているようだった。もっとも、突如として大声で喚きながら病室にある物を手当たり次第に周りに投げつけては鎮静剤で眠らされるという発作を毎日のように繰り返している真澄を目の当たりにしていれば、ついつい医師を責めるような言葉を口にしてしまうのも仕方のないことかもしれない。
「時間が経てば発作は軽くなるかもしれません。それに、発作の回数そのものも減少すると思います」
 医師は伏し目がちに応えた。
「かもしれませんとか、思いますとか、そんなふうにしか答えていただけないんですか」
 母親は目の前の医師に詰め寄った。
「残念ですが、現状ではそうとしか申し上げられません。PTSDに対する研究そのものがまだ最近になって始まったばかりなものですから」
 医師は申し訳なさそうに小さく頷いた。
「しかし、ここは天下の《慈恵会》が経営する病院でしょう? 本当になんともできないんですか」
 諦めきれずに、父親は小さな声で言った。それはまるで愚痴をこぼすような、聞きようによってはひどく頼りなげな声だった。けれど、父親がそんなふうに言いたくなる気持ちもわからないでもない。《慈恵会》といえば、全国的に名の知れた医療法人だ。慈恵会が全国で経営しているのは大規模の総合病院だけでも二十施設あり、中小の診療所まで加えれば、その数は膨大なものになる。真澄が運び込まれたのは、その慈恵会が経営する総合病院の中でも一、二を競う大病院なのだ。
「方法も無くはないんですが……」
 少し考えてから、医師は周囲に誰もいないのを確認するかのようにドアの方に目をやると、声をひそめて言葉を続けた。
「……実は、応用医療技術研究所という施設があります。ええ、そう、慈恵会本部の直轄の研究施設です。現在の医療では治療の困難な症状に対処する技術を研究していまして、そちらの付属病棟なら、或いは……」
「教えてください。その研究所というのはどこにあるんですか。研究所のどなたにお願いすればいいんですか」
 父親は掴みかからんばかりにして言った。
「お教えしても構いませんが、本当によろしいでしょうか。念のために申し上げておきますが、あくまでも研究所の付属病棟なんですよ。治療施設というわけではない、なんと言えばいいか……」
 医師は言葉を濁した。
「人体実験に使われる可能性も無くもないということですか」
 躊躇う医師に代わって父親が言った。
「そうです。あ、いや、決して人体実験だということではありませんが、そう受け取られるような恐れも或いはということです」
 医師は両手の指を顎の下で組んだ。
「かまいません。人体実験と言っても、慈恵会の研究所だ。それなりの動物実験やシミュレーションも済んだ治療技術でしょう。それなら、新しい薬の治験に応募するのとさして変わらない筈だ」
「わかりました。では、連絡先をメモします。先方に私の名前を言ってもらえればわかるように手配しておきますので」
 医師は白衣のポケットから取り出した手帳を一ページ破り取ると、几帳面な文字で電話番号を記入して父親に手渡した。




 最も近い高速道路のインターチェンジから研究所まで、車を二時間近くも走らせなければならなかった。
 研究所の建つ高原の木々は、もうすっかり秋の装いに身を包んでいた。
 広大な敷地は威圧するような高い塀に囲まれていて、守衛室のある一ケ所だけに出入り口があった。
 父親は守衛に名前と来意を告げ、身分証明書の代わりに運転免許証を示した。それを確認した守衛がボタンを押すと、頑丈そうな鉄の扉が開く。
 父親が車を進め、ちらとバックミラーに目をやった時には、もう既に扉は閉じ始めていた。

 先に電話で指示された通り地下の駐車場の一角に車を停め、意識があるのかないのか判然としない真澄を車椅子に乗せて通路を進むと、目の前にエレベーターホールがあった。
 母親が躊躇いがちにボタンを押すと、待つほどもなくエレベーターがおりて来て音もなく扉が開く。
 エレベーターの床とエレベーターホールの床には全く段差がないため、母親が手伝うまでもなく父親が軽く押すだけで車椅子をエレベーターに乗せることができた。
 行く先は、先に教えられていた通り、五階にある応用総合科の部長室。

 三人を自分の部屋に招き入れた深雪は、看護婦に、真澄を診察室に連れて行って問診の用意をするよう命じ、準備が整うまでの間、真澄の両親と向かい合った。
「電話でも簡単に説明しましたように、この応用総合科は応用医療技術研究所の付属病棟として位置付けられています。単刀直入に申し上げて、研究所で或る程度まで開発の進んだ新しい医療技術の実際の効果を臨床現場で確認するための施設だと考えていただいて結構です」
 挨拶もそこそこに落ち着いた声で話し始めた深雪の姿に、真澄の父親はあらためて驚きの表情を浮かべた。まさか、この若い女性が当の部長だとは思いもしなかった。深雪の姿を見るなり、部長の秘書か何かだとばかり思っていたのだ。
「もう少し突っ込んで申し上げますと、合法か違法かぎりぎりの処置を行う場合もあります。治療を待ちわびる患者に、せっかく開発した新しい医療技術を、安全性の確認などに時間が必要だからまだ実際には使えないと宣告するするのが忍びないからです。実際に治療を施す時、百人に一人の割合でしか現れない副作用を恐れて、残りの九十九人まで見殺しにすることは正しい選択でしょうか? 私ども慈恵会は、その疑問に答えるためにこの応用総合科を設置したと申し上げてもいいと思っています」
 深雪の声は凛としていた。
「この研究所では、内科、外科、小児科、婦人科、脳外科、精神科、泌尿器科、形成外科、ありとあらゆる診療科目に適用可能な新しい医療技術を研究しています。永く臨床現場に携わってきた医師、ノーベル賞級の功績をあげている研究者、世界でも名の通った遺伝子工学の専門家、スタッフは豊富です。施設も、世界的にみてもこれほどの最新鋭の機材を取り揃えた民間の研究機関は希でしょう。慈恵会がその財力と人脈と技術力の全てを結集したのが、この応用医療技術研究所です。そうして、そこから産まれた最新鋭の医療技術の恩恵を世界で真っ先に受けることができる病棟が応用総合科です。――お嬢様はこちらで預からせていただきます。ご安心ください」
 深雪がそう言い終えると、知らず知らずのうちに深雪の説明に惹きこまれていた父親と母親が、まるで突如として夢の中から現実の世界に引き戻された子供のような表情を浮かべて互いに顔を見合わせた。
「何かご質問は?」
 夢から覚めた直後のように目をしばたかせている二人に向かって深雪は穏やかな声で言った。
「あ、それじゃお尋ねしますが、そんな最先端の治療を受けることができるんだったら、その……治療費も、あの、なんと言えばいいか……」
 研究所設立にあたっての高邁な理念を聞かされてすぐにこんな俗っぽいことを訊いていいのかどうか迷いながら口を開いて、結局、父親は口ごもってしまった。
「この病棟で治療を受けられるのは、ある程度の資産をお持ちの方、もしくは、その身内の方に限らせていただいています」
 それが癖なのか、深雪は微かに首をかしげて言った。
 両親が緊張の表情を浮かべる。不動産業を営んでいて幾らかの資産があるとはいえ、それがどれほど役に立つのか判断するには、深雪が言葉を続けるのを待つしかない。
「ああ、誤解なさらないでください。治療費が高くつくという意味ではないのです。少しでも多くの人を治療して差し上げたいのはやまやまですが、ここはあくまでも研究施設です。ですから、受け容れることのできる人数にも限りがあります。それなのに、どなたでも受け容れるという評判が立ってしまうと、どんなことになるか知れません。それで、或る程度の資産をお持ちの方しか受け容れませんということにしているのです。資産をお持ちでない方にはお気の毒ですが、こちらとしましてもこれが精一杯ですので」
 両親の緊張を察したかのように、深雪は穏やかな声で説明した。
 両親の顔に安堵の色が浮かぶ。
 そこへインターフォンのコール音が鳴り響いて、真澄の問診の準備が整ったことを告げる看護婦の声がスピーカーから流れてきた。
「あとは私におまかせください。お嬢様はこちらで預かりますので、お父様とお母様はお帰りいただいて結構です」
 インターフォンを通して看護婦に応えてから、深雪は二人に告げた。
「あ、でも……」
 思ってもいなかった深雪の言葉に当惑する二人。
「お嬢様の心の中がどんなふうになっているのか、それを探るだけでもかなりの時間が必要になります。その後でないと、どんな治療がふさわしいのかを決めることはできません。治療方法を決定する時にはあらためて相談させていただきますので、本日はお引き取りください」
 言葉こそ穏やかだったが、有無を言わさぬ深雪の口調だった。
 追いたてられるようにして部屋を出た二人は、渋々のようにエレベーターに乗り込んだ。




 真澄の両親に連絡が入ったのは一週間後のことだった。
 電話で連絡を受けた二人は早速、再び深雪の部屋を訪れた。

「冷めないうちにどうぞ」
 秘書らしき女性が運んできたコーヒーを勧めながら、深雪は、手にしたファイルの内容を確認するようにページを繰った。
「で、娘はどうなんですか」
 コーヒーカップに手をつけようともせず、父親は体を乗り出した。
「単刀直入に申し上げますと、お嬢様は、生きることに絶望していらっしゃるようです」
 深雪は、広げたファイルを父親の手元に押しやって言った。
「生きることに……絶望している?」
 深雪の言葉の意味が咄嗟にはわからず、父親は聞き返した。
「私どもは、細心の注意を払ってお嬢様の心の中を探ってみました。催眠療法の専門家もいますし、研究所で新たに開発した向精神剤も使いました。その結果、お嬢様の生きる意欲が危険な状態にまで低下していることを確認したわけです」
 これ以上はないくらいに真剣な表情で深雪は応えた。
「……放っておけば、自殺の可能性があるということですか?」
 父親が口にした『自殺』という言葉に、母親の顔がこわばった。
「いえ、それは無いと判断しています。正直に言って、お嬢様には、自殺を図るほどの気力も認められませんし、それに――人間として生きることには絶望しているものの、他の形態で生きることには或る程度の意欲が認められますから」
 深雪は慎重に言葉を選んで言った。
「よくわからないのですが」
 自殺の可能性が否定されたことにひとまず安堵の表情を浮かべながら、父親には、深雪が何を言おうとしているのか理解できなかった。それは、父親に寄り添って座っている母親も同様だ。
「お嬢様が事故当時に何を見たのか、私どもは、お嬢様の記憶を再現してみました。過去を完全に再現するという技術はまだ開発されてはいませんが、かなりの程度までなら記憶を再現する方法はあります。特に、ひどくショッキングな記憶であればあるほど、心の中に強く焼き付いていますから、それを再現することは難しくないのです。私どもは、向精神剤を使ってお嬢様の精神状態を穏やかな状態に保ったまま、催眠療法による記憶の再現を試みました」
 いったんは父親の方に押しやったファイルをもういちど自分の手元に引き寄せた深雪は、最初の方の数ページに素早く目を通しながら言った。
「お嬢様は、オートバイを運転してらっしゃった方が事故に巻き込まれて絶命するまでの様子を全てご覧になってしまわれたようです。もしも途中で意識を失っておられたら、或いは、これほどひどい精神状態にはならずにすんだかもしれません」
「……」
 両親は無言だった。
「オートバイを運転しておられた方は、凄惨としか言いようのない状況で絶命されたようです。意識があるうちに炎に包まれ、苦しみに悶えながら、それでもその場から逃げることもかなわず、最後は、自分が運転していたオートバイの爆発でヘルメットも吹き飛ばされ――お嬢様は、その方の焼け爛れた顔もご覧になってしまわれたようです」
 深雪が告げると、母親はぞくっと体を震わせて自分の肩を抱いた。
「お母様は『元気になったら焼肉を食べに行きましょうと言った途端、あの子が暴れ出したんです』と私におっしゃいしまたね。お肉あるいは焼肉という言葉が、お嬢様にヘルメットの下の焼け爛れた顔を連想させて、過剰な反応を起こさせているのだと考えられます。そして、自分もまた肉の塊なのだという思いにとらわれてしまっておられるのです。そうして、人間としての自らの生命に絶望してしまわれたのです。あまりに脆い、あまりにはかない、あまりに壊れやすい肉体に絶望してしまっておられるのでしょうね。自分の生命を保つために他の生命を殺すような行為をするくせに、ちょっとしたことで一瞬の間に滅んでしまう生き方というものに絶望してしまわれたのです」
 そう言って深雪はファイルを閉じた。
「……なるほど、生きていることに対する絶望ですか」
 首をうなだれて父親はぽつりと言った。しかし、その直後、助けを求めるように深雪の顔を振り仰いで言葉を続ける。
「しかし、先生は『他の形態で生きることには或る程度の意欲が認められます』ともおっしゃった。それはどういうことなんですか。結局、真澄は生きることに前向きになってくれるんですか? 前の病院じゃ、食事を摂ることも拒否して、点滴だけで生きながらえてきたようなもんです。そんな状態が少しは良くなるんでしょうか」
「完治すると断言することはできません。今のところ、現状に比べれば幾らか良い方向に動くとしか申し上げられません」
「詳しく説明していただけますね?」
 すがるような父親の表情に、深雪は小さく頷いた。
「お嬢様は人間としての生き方に心の底から絶望しておられます。けれど、生きることそのものを否定しているというわけではありません。もう少し違った生き方、人間とは別の生命の在り方がないだろうかと悩んでいらっしゃるといったところです」
「人間とは違った生き方……本能のまま動きまわる動物じみた生き方を望んでいるということですか?」
「いえ、そうではありません」
 深雪はきっぱりと否定した。
「動物のような生き方を望んでいらっしゃるのなら、食事を拒否することはあり得ません。むしろ、生存本能の命ずるまま、空腹を満たすためならどんな物でも口にするでしょう。――お嬢様は、もっと静かな生き方を模索しておられるようです。わかりやすく申し上げますと、お嬢様は、植物として生きることを望んでおいでなのです」
「植物として……」
 声を揃えて言ったきり、父親と母親は絶句した。
「何百年にも渡って命を長らえる大木としての生き方を望んでいらっしゃるのか、一日だけ花をつけて枯れてしまう可憐な草花としての生き方を望んでいらっしゃるのか、そこまでは判断できませんでした。けれど、人間を含めた動物のように皮膚の下に汚らしい臓物を隠して争いながら生きるのではなく、ただ土と水と光だけによって静かに命を保つ植物のように生きることを求めておいでだということだけは確かです」
「だけど、人間が植物になれるわけなんてない。結局、点滴だけで生き長らえる今の生活が続くということですね」
 父親は自分の腿をぎゅっと掴んだ。
「本日お二人においでいただいたのは、そのあたりのことをご相談させていただくためです。――お嬢様が植物として生きる方法が無いでもありません」
 深雪は最後の言葉を強調して言った。
「……?」
 信じられない言葉を耳にして、両親は呆然とした表情で深雪の顔を見つめた。
「私どもの研究所では様々な医療技術の開発を行っていますが、もちろん、遺伝子工学を駆使した新技術も含まれています。その中に、『セル・フュージョン』と呼ばれる技術があります。細胞融合という意味です」
 深雪が何を言おうとしているのかわからずに、両親は押し黙ったままだ。
「或る生物の特徴を別の生物に移し替えるために必要な技術の一つで、例えば、蛍の発光器官の細胞構造を蠅の細胞に融合させることで、お尻が光る蠅を誕生させることが可能です。そのセル・フュージョン技術をこの研究所ではかなりのレベルにまで発展させることに成功しています。植物が動物と異なる最も大きな点は、葉緑体によって光合成を行うことです。この光合成によって、植物は自ら必要な糖類を作り出すことができるわけです。このシステムこそが、他の生命を補食することで自分の生命を維持する構造になっている動物との最大の相違点です」
 深雪は、両親の反応を確かめようとするみたいに間を置いた。そうして、二人の顔になんともいいようのない表情が浮かぶのを見て再び口を開く。
「私どもの研究所では、人間の細胞に植物の葉緑体を融合させる技術の開発を完了しています。それがどういうことか、おわかりですね?」
「まさか、そんな……」
 どう応えていいのかわからず、父親は言葉を濁した。
「中学校の理科で習われたと思いますが、人間の細胞の中には、ミトコンドリアという物が含まれています。このミトコンドリアは、驚いたことに、独自のDNAを持っています。このため、遙か昔にはミトコンドリアは人間の細胞を構成する一つの素材ではなく、独自に生きていた原始生命だったろうと考えられています。それがいつしか人間の細胞に取り込まれて一つの構成要素に変化していったのだろうと考える説が現在では有力です。私どもの技術については、要するに、自然界でのそういったプロセスを人工的に短時間の内に進めるものだと考えていただいて結構です。それに、葉緑体は、人間の血液構成要素の一つであるヘモグロビンの中核を成すヘムと驚くほど構造が似ています。ですから、人間の細胞に葉緑体を取り込むことは、さほど難しいことではありません。つまり、技術的な難点は無いと申し上げてもよろしいかと思います」
 深雪は熱心に言った。
「ですが、技術的なことはともかく、そんなことをしてしまえば真澄はもう元の体に戻れないんじゃ……」
 父親は言葉を詰まらせた。まさか、自分の娘が植物に変貌してしまうなんてことがあるなんて思ってもみなかった。そんな、生まれもつかぬ体に変えてしまうくらいなら、いっそこのまま静かに命を絶たせてやった方が幸せじゃないのか。
「ご心配には及びません。葉緑体を取り込むことができるということは、つまり、葉緑体を取り込んだ細胞から葉緑体を取り除くこともできるということです。お嬢様の元の細胞を培養しておいて、今度はその本来の細胞と融合させることで容易に葉緑体を取り除くことができます」
 深雪の説明に二人の表情が変化した。
「私どもは、期間を限定して、その間だけお嬢様に植物として生きていただくことを提案したいと思って、お父様とお母様においでいただいた次第です。お嬢様の望み通りの生き方をさせてさしあげて心の落ち着きを取り戻していただいた後に本格的な心理療法に取りかかるという方法はいかがでしょう?」
 二人はおずおずと顔を見合わせた。




 三週間が過ぎた。
 真澄に対する処置が全て終了したという連絡を受けて、両親が三たび研究所を訪れた。
 外来用のIDカードだと言って深雪から手渡された薄いカードを父親がかざすと、頑丈な扉が音も立てずに上に開いた。
 父親は、扉をくぐった車を、すっかり慣れた様子で地下駐車場に乗り入れた。

 部長室で出迎えた深雪は、二人を『特別処置室』と書かれたプレートをドアに填め込んだ部屋に案内した。
「どうぞ、こちらです」
 先に立った深雪は無造作にドアを押し開けて二人を部屋に招き入れた。
 部屋の一角が、建物の中とは思えないくらいに眩しく輝いていた。その光の中に、大きな観葉樹の鉢植えが置いてあった。しかし、その他には、病室には当然ある筈のベッドも含めて、調度品らしき物は何も見当たらなかった。
「あの……娘はどこに?」
 いいしれぬ不安を覚えた父親は、かすれた声を振り絞るようにして訊いた。
「お嬢様は目の前にいらっしゃいます。ほら、太陽の光を浴びて嬉しそうに緑の葉を揺らしておいででしょう?」
 深雪が指さしたのは、部屋の中だというのにどこからか差し込んでくる太陽の光を浴びて無数の葉を緑色にきらめかせている大きな鉢植えだった。
「部屋の中に太陽の光を導くために、屋上からここまでたくさんの光ファイバーを引きました。そのおかげで、ほら、あんなにもきらきらと輝いておいでですよ」
 深雪の言葉に、両親は目を凝らして鉢植えを見つめた。すると、焦茶色をした幹の上の方が丸く膨らんでいるのがわかる。その膨らみの所々が他の部分とは僅かに色が違っていた。その色違いの部分が人間の唇や瞼の形をしていることに気づいた二人は、どう見ても自分たちの娘とは思えない、しかし深雪の言葉を信じるなら自分たちの娘以外の何者でもない筈の鉢植えの傍らに走り寄った。

「なんてことを……あなたは、なんてことをしたんだ」
 幹の上の方にある瞼らしき物や唇らしき物の形がどうやら我が子の物らしいと確認し終えると、父親は拳を震わせて非難がましい口調で言った。
「お父様とお母様には私どもの治療方針をご説明申し上げた筈ですけれど?」
 深雪は、さも心外だというような顔で応えた。
「しかし、これは……これでは、本当に植物そのものじゃないか。あなたは、真澄の体の細胞に葉緑体を取り込ませるだけだと説明したじゃないか」
「葉緑体を取り込ませると申し上げましたけれど、取り込ませる『だけ』だとは申し上げておりません。誤解をしておいでではありませんか?」
 深雪は僅かに首をかしげた。
「私は、お嬢様の細胞と葉緑体とを融合させると申し上げました。そうして、人間としての生き方とは違った生き方を実際に経験していただく、と。ただ、体の細胞に葉緑体を融合しただけでは、命を保つのに必要な糖類を合成することはできません。そこで、遺伝子操作を施した葉や枝をお嬢様の体に付加することにした次第です。光合成の効率を上げるための補助的な器官として。これでお嬢様の命は万全です。水分と二酸化炭素と光さえあれば生きてゆくことができるのですから。医師として出来る限りのことをしたつもりですが、何か問題がありましたでしょうか?」
「しかし、ここまでする必要があったのか? どこから見ても人間としての面影は見当たらないじゃないか。真澄の体をここまで変貌させてしまう必要が本当にあったのか?」
「必要はありました。光合成を行うためには水が必要です。それに、窒素。お嬢様の両脚の膝から下の皮膚に特殊な処置を施して、土から水と窒素を吸収するような機能を付与しました。ただ、それだけでは、せっかく吸収した水と窒素を葉の隅々にまで循環させることはできません。そこで、樹木の器官である道管と師管をお嬢様の体内に形成する必要がありました。この道管を通して、両脚から吸収した水と窒素が葉の隅々にまで移動し、また、光合成によって作り出された糖類は師管を通して体の隅々にまで運ばれるようになります。そういった管組織を形成するためには、人間の柔らかな細胞を強固な細胞壁を持った細胞に変化させなければなりませんでした。その結果が、お二人の目の前にいらっしゃるお嬢様の今の姿です」
「意識は? 意識はあるのか?」
「傷つきやすいお嬢様の心を外界からの過度の刺激から守るために、今は精神活動をブロックしています。お嬢様は今、殆ど夢見心地と言っていいような状態にある筈です」
「いつになったら元の姿に戻せるんだ?」
 父親の声は今にも泣き出しそうだった。泣き出しそうになりながら、これが最後の質問だというように意を決して深雪の顔を睨みつけて訊いた。
「一週間に一度の割合でお嬢様の精神状態を調べる予定になっています。その結果次第ですとしか今は申し上げられません。もしも強引に元に戻してお嬢様の精神状態をひどく乱してしまったら、最悪の結果を招く恐れがありますので」
 簡潔に応える深雪の声は冷徹だった。




「それから半年、彼女はあの姿のまま生きてきたの。人間として生きることを頑なに拒み続けてね」
 囁きかけるように深雪は未由に言った。
「それに、ほら、そっちの水槽。あの水槽の中で泳いでいるのは島田恵美という二十二歳の女性よ」
 未由は巨大な水槽を見つめた。その中で泳いでいる魚の種類を未由がわからなかったのも無理はない。青い水の中で身をくねらせているのは、髪の長い若い女性だったのだから。ただ、髪がゆらめくたびに時おり見える首筋の不気味な器官の存在と、全身を覆う鱗のような皮膚が、彼女が普通の人間でないことを如実に物語っていた。



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