第一章 浅い眠り




 夢を見ている最中に、ああ、これは夢なんだとわかる夢がある。どういう理由でそんなことがあるのか、それは知らない。心理学の専門家だったら、レム睡眠とかノンレム睡眠とか記憶の再構成とか、そんな難しい言葉を並べたてて説明してくれるかもしれないけれど、素人が聞いても結局は狐にだまされたような気分になるだけだろう。

 その日の朝も、斎木未由は、見るからに気怠げな表情を浮かべてベッドの上に体を起こした。ここ一ケ月ほど、週に二回くらいの割合で同じ夢ばかり見ている。それも、自分が夢の中にいるんだということがはっきりわかる、なんだか妙な感じのする夢だった。
 夢の中で未由がいるのは、いかにも清潔そうな白い壁に囲まれた場所だった。銀行のロビーにも似ているけれど、もっと似ている所を探すとしたら病院の待合室だろうか。それも、大きな病院の総合受付の隣にあるような広い待合所ではなく、一つ一つの診察科の待合室を少しだけ広くしたような、そんな雰囲気の場所だった。未由が立っている所と廊下とを幾つか鉢植えを置いたパーティションが区切っていて、どことなく仄暗い廊下の照明とは違って、未由が立っている方は明るい蛍光灯に照らされて眩いばかりだった。未由が首をめぐらせると、壁際に、パーティションの上にあるのとは比べ物にならないほど大きな鉢植えが置いてあった。どこから差し込んでくるのか、照明の光ではない、一目でそれとわかる本物の太陽の光を浴びて、その大きな鉢植えの葉は緑色にきらきらと輝いていた。更に未由が首をめぐらせると、鉢植えが置いてある壁に相対する方の壁よりも少しこちらに、どれほどの水が入っているのか想像もできないくらいに巨大な水槽があった。微かにモーターの音がして、水槽の中に空気を送り込むホースの先から無数の小さな泡が生まれては、照明にきらめく水面に向かってゆっくり浮き上がって消えてゆく。その水槽の中を一匹の魚が泳いでいた。淡水魚なのか海水魚なのか、未由には種類さえわからない、大きな魚だった。そして、水槽と鉢植えとの中ほどに置いてあるソファの上には、大きな目をした猫がいた。餌を食べ終えたばかりなのか、満足そうな顔でソファの上に寝そべっていた。猫が寝そべっているソファの隣にあるソファには、赤ん坊を抱いた母親が座っている。まだ若そうな女性だが、胸に抱いた赤ん坊の顔を覗き込む目は慈愛に満ちていた。胸に抱かれた赤ん坊も、母親のぬくもりを体中に感じているのだろう、やすらかな表情で小さな寝息をたてていた。
 そんな場所に未由は所在なげに突っ立って、そのまま時間だけが過ぎてゆく。
 そんな夢だった。
 そうして、その夢を見て目を覚ました朝は、決まって気怠くて物憂い気分に覆われているのだった。いや、気分的に物憂いだけではない。体の方もひたすらだるくて、まるで一晩中一睡もしていないような疲労感さえ覚える。眠りについたベッドの上で夢から覚めるのだからまさかそんなことがある筈はないのに、それでも、自分がどこかにさまよい出てしまっていたのではないかと思ってしまうほどの疲れを感じながら目を覚ます未由だった。




 季節はもう春を終えて夏の始まりにさしかかっていた。鬱陶しい梅雨の時期が始まるにはまだ少し時間がかかる筈だ。が、未由の胸の中では雨がしとしとと降り続いていた。南国の豪快なスコールではない、じめじめした本当に鬱陶しい細い雨が、やむことなく降っていた。
 けれど、それは夢のせいではない。ここ一ケ月ほどの間に何度も見るようになったあの夢の始まりよりも早く、四月の半ばにはもう未由の胸は暗鬱な厚い雲に覆われてしまっていたのだから。
 四月。それは本当なら、一年の中で最も眩い季節だ。少し前から冬の装いを脱ぎ捨てて春の装いの準備をしていた生命たちが一斉に輝きを増す季節。花は咲き乱れ、木々は緑に芽吹き、虫たちが乱舞する生命の季節。それは、人間にとっても同じだ。幼稚園や小学校に新しく迎え入れられた子供たちは顔を輝かせ、新しい職場に足を踏み入れた若者は期待に胸を弾ませ、老境を迎えようとする者さえもが、今年もまた桜の花を見ることができたことに胸を熱くする季節。
 未由も例外ではなかった。幼稚園から大学までを備えた、世間的にも名の知れた私立の女子校の高校を終え、いよいよ大学の文学部に進んだのがこの四月のことだった。エスカレーター式に進学できるとはいっても、あまりに成績が悪ければ大学に入ることはできないし、たとえ入学できたとしても、希望する学部に入るには、高校時代にそれなりの成績を保っていなければいけないし、入学試験の点数も必要だ。だから、世間で思われるような気楽な高校生活ばかりを過ごしてきたわけではない。そんな努力が実って希望通り文学部仏文科に入学することができた未由だった。有頂天にもなるだろう。
 が、入学式を終え、チューター面接も終えて、いよいよ本格的に講義が始まろうという四月の中頃。別の高校から同じ学科に入学してきた一人の学生が何気なく口にした一言が未由の心に深く突き刺さった。
「いいわよね、あなたたちは。こんなお嬢様学校で幼稚園から高校時代を過ごした上にあまり苦労もしないで大学に入ることができて。外から受験した私から見たらまるで天国だわ。ま、もっとも、外の自由な世界のことなんて何も知らない狭い天国でしょうけど」
 新入生歓迎コンパの席でお酒が入っていたこともあるし、どうやらその学生が第一志望の国立大学の入試に失敗して滑り止めに受験しておいた私立に嫌々ながら入学したらしいこともあって、ちょっと愚痴をこぼしてみたというくらいのことだったのだろう。だから、未由の友人たちはその言葉をさして気にもとめなかったし、一緒にいた先輩たちも、やれやれというようにちょっと顔を見合わせただけで、それ以上はさしたる反応もみせなかった。
 が、周りの誰もが気にもしなかったこの言葉が、未由の心にはまるで鋭い矢のように深く突き刺さった。その言葉が未由の思いもしなかった言葉だからではなく、むしろ、常日頃から未由がひそかに心の中で繰り返し呟いていた言葉だったから。その学生に言われるまでもなく、未由は感じていた。自分たちのいる世界があまりに狭く、あまりにも世間から遠く離れていることを。
 いや、それを感じ取っていたのは未由だけではない。未由の友人たちも同じように感じてはいた。そう思っていながら、今更そのことを言ってみてもどうなるものでもないと、敢えてそのことを話題にしないだけだった。有力企業の幹部や有名な文化人の子女ばかりが集まるこの女子校は、確かに世間から隔絶されているだろう。けれど、そんな世界で暮らしてゆくことは、未由の大半の友人たちには苦痛ではなかった。親の金を存分に使うことのできる贅沢な生活に対するささやかな代償だと思えば、幼い頃から強いられてきたこの女子校での生活も、それはそれなりに快適だった。むしろ、裕福な家庭に生まれ育ち、幼い時から我儘三昧を続けてきた彼女たちにとって、外の世界での――どこの誰ともわからぬ級友たちと机を並べ、下品で粗野な級友たちと暮らさなければならない公立の小学校や中学校での生活こそ、想像するだけで虫酸が走る思いがするほどだ。
 しかし、そんな友人たちと未由は違っていた。未由は、女子校での生活にどことなく違和感を覚えていた。正確に言えば、女子校での生活だけではなく、これまでの人生そのものに、いいようのない違和感を覚えていた。いつからそんなふうに感じるようになったんだろうと未由も自分で不思議になることがある。小さい頃から未由は素直ないい子で、両親に対して反抗めいた態度をしめしたことは一度もない。まだ幼くてよくわからなかったということもあるのだが、両親が女子校の付属幼稚園への入園を決めた時も素直に従ったし、長じて小学校・中学校と進んでからも、この学校へ無理矢理入学させられたんだという思いを抱いたこともなかった。高校に入った時も、たしか、そんなふうに感じることはなかった筈だ。ただ、そう、高校二年の夏休みが始まる前だったろうか、一人の級友が学校を退学になった。その級友とはさして付き合いが深いというわけではなかったけれど、身近にいる人間が学校を追われるという事態を間近で目の当たりにしたショックは大きかった。退学になった理由は、今のこの時代にまだそんな言葉があったのかと唖然としてしまう『不純異性交遊』だった。売春で金銭を受け取ったわけでもなく、妻子のある男性と関係を持って大騒ぎになったわけでもない、両親と喧嘩して、ふとしたきっかけで付き合い始めたばかりだった独身のサラリーマンのマンションに転がり込んで、そのマンションから学校に通っていたのが問題になっただけだ。ま、「だけだ」とは言っても、そんなことが許される学校でないことは、退学になった級友にも未由にもわかっていた。いわゆる良家の子女が集まる私立の女子校としては、そんな生徒をそのまま置いていれば、社会的に高い地位にある人間が多い父兄から何を言われるかわかったものではない。彼女は『腐ったリンゴ』として女子校という箱から放り出された、それだけのことだ。それだけのこと――未由も理屈としてはわからないでもなかった。自分たちのこれまでの平穏な生活を守るために、自分たちが腐ってしまわないようにするために、腐ったリンゴを捨て去るのは仕方のないこと。友人たちがはっきりとそう口にするのも聞いた。けれど。そう、けれど。
 自分が在籍する女子校での生活に未由が違和感を覚えるようになったのは、この時からだった。恋愛の自由とか人権とか、そんな言葉が頭をよぎったわけではない。そんな、どちらかというと理屈めいた言葉としてではなく、もっと単純に感じたのだ。それって、ずるいんじゃないかと。(ずるいじゃないか、みんな。先生も親も、みんなずるいじゃないか。あの子にしたって、今までずっと両親の言うことも先生の言うこともちゃんと聞いて、いい子だったんだよ。なのに、それなのに、たった一度だけのことで退学にしちゃうわけなの? いい子って、つまり、そんなに簡単に見捨てられちゃうものなの?)なんだか、いい子でいることが馬鹿らしく思えてくる未由だった。そうして、ふと思ってしまう。(じゃ、最初から悪い子だったらよかったの? こんなこと言っちゃいけないかもしれないけど、このくらいのこと当たり前みたいな顔でしてて、でも退学にも停学にもならない他の学校の子っているじゃないか。しかも、そんな悪い子にかぎって、たまにちょっといい事をすると、本当はあの子も悪い子じゃなかったんだって誉められちゃって。なのに、いい子はいい事をするのが当たり前で、少しでも悪い事をしそうになっだけで人間性まで疑われそうに白い目で見られて。なによ、全っ然、損じゃないよ)
 これまでの学校生活に対してだけではない、両親の言いつけに素直に従ってきた十七年間の生活そのものに対する疑念だった。両親に対する疑念、そうして自分自身に対する疑念。これまで反抗らしい反抗もせずに人生を送ってきた未由が初めて覚えた、周囲の全てに対する違和感だった。が、一方、そんな違和感や疑念をはっきり表す術も知らない未由だった。未由は、結婚の遅かった両親の間にできた子供だった。母親は初めての妊娠・出産には負担の大きな年齢で、まださほどお腹が大きくならない頃から大事を取って入院生活を続けていたと聞いたこともある。そんな両親だったから未由にはひたすら甘く、そのせいで、未由はまともに反抗期を迎えられなかったほどだ。とにかく甘やかす両親に対して、反抗する口実さえ見つけることができなかったから。だから、いざ違和感や疑念を表すにも、どうすればいいのかわからない。そんな自分にも未由は腹立たしい思いだった。(こんなじゃ、ずるい大人たちと一緒じゃないか)何かにつけそんなふうに感じながら、それでも結局は何もできなかった。ただ、胸の中のもやもやを抱えたまま、惰性のようにそれまでの生活を続けてしまっていた。
 そうしているうちに大学への進学のことが友人たちとの話題の中心になってきて、夏休みが終わるとすぐに本格的な実力テストなんかが始まって、実際に学年が進んで三年生になると、他のことを考える余裕もなくなっていた。それは却って未由には都合が良かったかもしれない。大学受験という目標は、心の中のもやもやから目をそむけさせてくれるのだから。素直といえば聞こえはいいが、少し気の弱い、ちょっと優柔不断なところのある未由にとって、胸の中に抱え込んだもやもやをずっと直視し続けることは大変な負担だった。そのもやもやを外に向かって爆発させることができたなら、それはそれで解決への第一歩ということになるのだろうが、その第一歩さえ踏み出せないでいる未由だ。自身のもやもやした気分を無意識のうちに知らんぷりするしかなかった。
 そうしてやっと大学に入学して。
 新入生歓迎コンパで耳にしたのが、他の高校からやって来た学生のあの言葉だった。
 途端に、それまで忘れたつもりになっていたもやもやが未由の心を分厚い黒い雲のように覆いつくした。もう、その思いから逃げ出すための偽りの目標を見いだすことはできなかった。未由は自分自身の胸の中に抱え込んだもやもやを、今度こそ正面から直視しなければならなくなったのだ。同時に、自身の中にある「ずるさ」とも、あらためて直面せざるを得なくなったのだ。
 コンパを途中で抜け出して家に帰ってきた未由は無言でベッドにもぐりこんだ。
 そうして、次の日から大学を休み続けている。それでも、「ものわかりのよい」両親は、食事と入浴の時以外は自分の部屋から出てくる気配もみせない未由に何も言わず、未由の好きなようにさせていた。
 そんな生活が続く中、どういうわけか未由は、一ケ月ほど前から同じ夢ばかり見るようになっていた。




 ドアをノックする音が聞こえた。
 未由が返事をする前にドアが開いて母親が入ってきた。いつもそうだった。父親も母親も、まるで未由の意志などには無頓着に自分たちの都合で行動しているように未由には思えてしまう。そして、そんな両親に反抗する術さえ知らない自分が歯がゆい。
「気分はどう?」
 今年で五七歳になる筈なのにどうかすると四十歳台にも見える母親がベッドの傍らに立って言った。
 未由は無言で首を振った。
「そう。じゃ、学校は今日もお休みするのね?」
 こともなげに母親は言った。
 未由は苛立たしい思いにとらわれた。もう一ケ月半も大学へは行っていない。それなのに、そのことを責めるわけでもなく理由を問いただすわけでもなく、ただ未由が休むと言えば何も言わずに好きなようにさせている両親に、なぜとはなしに苛立たしさを覚えてしまう。どういえばいいのだろう、未由が自分自身の感情を持て余しているのに、両親は何もかもみんなお見通しみたいな感じがする。そんなところが未由を苛立たせるのだろうか。
「いいわ。学校がお休みなら、一緒に行ってほしい所があるの。朝ごはんが終わったら出かけましょう」
 いつものように、穏やかだが未由の都合なんてちっとも気にしない口調で母親は言った。

「え? パパ、お仕事は?」
 ダイニングルームの椅子に腰かけている人物の姿を目にして、未由は戸惑ったような表情で言った。
コーヒーカップを手にして椅子に座っているのは未由の父親だった。だが、いつも朝早くに出勤して帰宅も遅い父親が、どうして平日のこんな時間に家にいるのかがわからない。
「お父様も一緒に三人で出かけるんですよ」
 応えたのは、未由のカップにコーヒーを注いでいる母親だった。
「……どこへ行くの?」
 未由は、わざわざ父親が会社を休んでまで一緒に出かけるということに、なぜとはなしに不安を覚えた。
「ああ、病院だよ」
 父親は、わざとのようにぶっきらぼうに言った。母親とは二歳違いで今年五九歳になる、見るからに実直そうな父親だ。
「病院?」
 未由は聞き返した。
「そうですよ。最近、未由ったら元気がないでしょう? いつも塞ぎ込んで。それで、お父様がいろいろ調べてくださって、よさそうな病院を見つけてくださったんですよ。ただ、ちょっと遠い所にあるから、お父様の車で行った方がいいだろうからって会社を休んでいただいたの」
 未由の分のトーストとサラダをテーブルに並べながら母親が言った。
 両親の口からいつかそんな言葉が出るだろうということは未由も予想はしていた。一ケ月半も部屋に引きこもっている我が子をそのままにしておく親なんていない。いつか、病院へ行ってみようと言われるだろうと思ってはいた。けれど、あまりに唐突だった。それとなく未由の意志を探るでもなく、前もって予告するでもない、ひどく突然のことだった。
「……どんな病院?」
 そう訊くのが精一杯だった。
「どんな病院と言われても困るが、立派な病院だよ。郊外の環境のいい所にある、大きな病院だよ。先生方も、腕の立つ立派な人ばかりだし」
 父親は未由の顔を正面から見て言った。
 その言葉に、未由は少し妙な感じを受けた。考え過ぎかもしれないが、どうも父親の言い方は、その病院のことを父親が実際に知っているような感じがする。未由を不安がらせないようにするためなのかもしれないが、それにしても、どこかで病院の評判を聞いてきただけとは思えない、なんだか断定するみたいな口調のように思えてならない。




 父親が運転する車は高速道路をおりてから更に二時間近くも走ったろうか。
 ひっそりした高原に建つ建物は、病院というよりも、高い塀に囲まれた、なにか収容所めいた印象を未由に与えた。
 そこだけ塀が途切れた所にある守衛室で何やら身分証明証のようなカードを見せた父親は、車を建物の玄関の車寄せではなく、地下の駐車場に乗り入れた。それだけをみても、父親がここへ何度も来たことがあると思わせるに充分な行動だった。(私が知らないうちに前もって相談か何かで来てたのかしら)未由が思いつくのはそれだけだった。

 地下駐車場の一角にあるエレベーターホールでエレベーターに乗り込んだ父親は、ためらうふうもなく、最上階である五階行きのボタンを押した。
 滑らかに動き出したエレベーターは途中で止まることなく目的の階に着いた。
 静かに扉が開いて、三人は無言で廊下に歩み出た。そのまま父親と母親が廊下の奥の方に向かって歩を進める。未由は、二人に付き従うしかなかった。

 廊下の殆ど突き当たりの所に『応用総合科・部長室』と書かれた金属製のプレートを填め込んだドアがあった。
 父親はドアをノックすると、中からの返事も待たずにドアを押し開けて部屋の中に入って行った。ためらいがちに立ちすくんでいる未由の背中を押すようにして母親も父親の後に続く。
 部屋に入ってすぐの所に大きなファイル棚があって、その横を通って何歩か進むと、こざっぱりした応接セットが置いてある。そして、応接セットの向こうにある執務机に向かって、白衣を着た人物が座っていた。だが、その人物は、未由が『部長』という言葉から想像していたような、白髪を後ろに撫でつけた恰幅のいい中年男性とはまるで違っていた。背こそ高いものの、どちらかというと引き締まった体をした、まだ若い(おそらく三十歳になるかならないかくらいだろう)女性だった。
 その女性は三人の顔を素早く見比べるように眼鏡のレンズ越しに視線を動かして、きびきびした動作で椅子から立ち上がった。
「お待ちしていました。どうぞ、おかけください」
 自分も応接セットの方に移動しながら、白衣の女性はにこやかな笑顔で言った。
 促されるまま、父親と母親がソファに腰をおろした。少し迷って、未由も父親と母親の間に腰かける。
 三人がソファに座るのを見届けて、白衣の女性は机の上にあるインターフォンのボタンを押した。そうして、コーヒーを三つと、未由の顔をちらと見てオレンジジュースを一つ持ってくるよう言いつけた。
「早速ですが、飲み物が来る前に確認しておきたいと思います。私どもの事前チェックでは、お嬢様は応用総合科にお預かりできるという結論に至りました。あらためてお尋ねしますが、お父様とお母様もご同意いただけますか?」
 あらかじめ執務机から応接卓の上に移しておいたファイルに目を通した後、父親と母親の顔を正面から見据えて女性が言った。
 その言葉に、父親と母親が揃って頷く。
 すると、女性は
「それでは、ここにご両親の自筆で署名をお願いいたします。それで事務手続きは完了しますので」
と言ってファイルを父親と母親の前に差し出した。そうして、今度は、未由の顔を覗きこむようにして言葉を続けた。
「ということですので、斎木未由さん、あなたは今から私ども応用総合科に入院していただきます。私は応用総合科を統括している笹野深雪です。よろしく」
「ちょ、ちょっと待ってください。あ、あの……そんな、急に入院だなんて、あの……そんなの困ります」
 自分のことなのに全く自分のあずかり知らぬところで進んでゆく成り行きに、未由はおろおろするばかりだった。だいいち、急に『入院』という言葉が出てくるなんて思ってもいない。病院に行くと言われて、初日はせいぜい問診くらいだろうと思って渋々ついてきただけだ。
「医療保護入院という言葉を聞いたことはありませんか?」
 笹野深雪と名乗った白衣の女性は唐突に言った。
「い、いいえ……」
 応える未由の顔はこわばっている。
「精神科への入院形態の一つです。患者本人の同意を前提とする任意入院とは違って、本人の同意が得られなくても、精神保健指定医が必要と認め、家族の同意により入院させることを言います」
 深雪は、両親が署名を終えたファイルを未由の目の前で広げた。そこには、両親の署名と共に深雪の署名と捺印があった。そして深雪の署名の横には『厚生労働大臣任命・精神保険指定医』の文字が並んでいた。
「精神科……ここ、精神科の病院なんですか? だって、だって、応用総合科って……」
 うろたえる未由の言葉は意味をなしていなかった。
「厳密に言うと精神科ではありません。でも、誤解しないでください。精神科の診療が無いというわけではありません。外科・内科・形成外科・婦人科・泌尿器科、ありとあらゆる科目にわたる診療を行う中に精神科としての診療も含まれるということで、文字通り、総合科ということになるわけです」
 見た目の若さに似合わぬ落ち着いた声で深雪が言った。
「あ、でも……」
 未由は必死に何かを思い出すような表情を浮かべた。そうして、すがるような顔で言葉を続ける
「……でも、先生、『私どもの事前チェックでは』って言ってたけど、私は検査を受けた憶えなんてないし、だから、いくらなんでも強引なんじゃないんですか?」
「検査を受けた憶えがない? そう、確かにその記憶はないでしょうね。でも、確かに検査は済んでいます。それも、一度や二度ではなく、何度も」
 深雪は涼しい顔で応えた。
「……どういうことなんですか?」
 未由は言葉に詰まった。
 と、ドアをノックする音が聞こえた。
「いいわよ、入って」
 深雪が言うと、ドアが大きく開いて、銀色のトレイを手にした若い女性が入ってきた。トレイに載っているのは、さきほど深雪がインターフォンで言いつけた飲み物のようだった。
 若い女性は手早く飲み物を応接卓の上に並べると、軽く会釈をして出て行った。
「どうぞ」
 すっと目を細めた深雪はオレンジジュースのグラスを未由の手元に押しやった。もちろん、コーヒーのカップを両親に勧めるのも忘れない。
 手の甲に触れるよく冷えたグラスのひんやりした感触が心地よかった。思ってもいなかった展開にただおろおろするばかりの未由は、ちょっとだけほっとした気持ちになっておずおずとグラスを持ち上げた。
 舌の上に広がる酸味の強い冷たいオレンジジュースの味が未由を少し落ち着かせる。
「どういうことなんですか? 私が何度も検査を受けているのに、そのことを憶えていないなんて」
 一気にジュースを飲み干してグラスを応接卓に戻した未由は深く息を吸い込むと、深雪の目を見返して言った。普段の気の弱い未由からは思いもつかないほどに真剣な目だった。もっとも、自分の知らないうちに精神科に入院させられそうになっているのだから、それも当然のことか。
「最近、同じような夢を何度も見たことはありませんか?」
 空になった未由のグラスをちらと見て深雪は言った。
「……あります。あるけど、でも、どうしてそんなことを知ってるんですか?」
 驚きを通り越して呆然としたような顔で未由は訊き返した。
「未由さんが夢だと思っていたことが全て現実だからです。未由さんが見た夢は、夢ではなく、本当のことなんです」
 説明する深雪の表情は穏やかだった。
「夢じゃ……ない?」
 要領を得ない顔で未由は深雪の言葉を繰り返した。
「最初にこの病院へ来られたのはお父様とお母様だけでした。未由さんが精神的にひどく落ち込んでいるからなんとかならないかと相談に来られたのです。それでいろいろおうかがいしていたのですが、本人と面談してみないとどうしてもわからない点も少なくありませんでした。そこで、未由さんにも来ていただくことにしたわけです」
 深雪は未由の顔と両親の顔を見比べて言った。
「ただ、急に精神科の病院へ連れて行くと言われても未由さんが素直に従ってくれるとは思えませんでした。そこで、ご両親に或る薬剤を渡して、夕食のスープかお茶にその薬剤を混ぜて未由さんに飲ませていただくことにしました」
 今度は深雪は未由の目を正面から覗きこんだ。
「慎重に処方した睡眠誘導剤です。その薬のおかげで、お家からこの病院までお父様の車で運んでいただいている間、未由さんはぐっすり眠っていた筈です。そうして未由さんが目を覚ますのを待って、いろいろ尋ねさせていただきました。未由さんの精神状態を知る手がかりになりそうなことを、どんな小さなことも」
 深雪の目がすっと細くなった。
「そうやって問診を終えた後、その時のことを夢だと思いこむよう、未由さんの心に暗示をかけました。催眠術と向精神薬を併用すると、きわめて確実に暗示をかけることができるのです。だから、未由さんは予備検査のことを憶えていない――正確に言うと、夢だとしか思っていないというわけです」
「そんな……」
 今まで夢だと思っていたことが実は現実のことだと知らされて未由は言葉を失った。
(それじゃ、仄暗い廊下のすぐそばにあったあの待合室みたいな所は、この病院のどこかに実際にある待合室だっていうの? あの鉢植えも、あの水槽も? でも、でも、なんだか変だ)そう、夢に出てきたあの場面が本当にこの病院の待合室だったとしたら、ひどく奇妙なところがありそうだった。けれど、奇妙なところがあるんだと確信しているのに、いざ、どこがどんなふうに奇妙なのか思い出そうとしても思い出せない。
「これでわかっていただけたでしょう? そろそろ、ご両親にはお帰りいただきますよ。昨夜だって最後の予備検査のためにここまで未由さんを送り届けていただいてお疲れでしょうから」
 言うが早いか、深雪はソファから立ち上がった。手つかずのコーヒーカップを残したまま、両親も揃って立ち上がる。
「いや、待って。待ってったら」
 慌てて未由も立ち上がりかけたが、どういうわけだか急に意識がぼんやりしてきて、そのままソファの上に崩れ落ちてしまう。
「ご両親に渡したのと同じ薬をオレンジジュースに混入しておきました。入院の準備が終わるまでゆっくりお眠りなさい」
 どこか遠い所から聞こえるような深雪の声だった。
 三人が部屋から出て行く足音を聞きながら、未由は静かに意識を失った。




 目の前にあるのは、この一ケ月の間にすっかり見慣れたものになったあの光景だった。
 巨大な水槽。大きな鉢植え。赤ん坊を抱いた若い母親。ソファに寝そべる猫。
 未由は、自分が夢の中にいるのだと確信した。週に二度も三度も見る、あの同じ夢の中にいるのだと。
 けれど、その確信を深雪の声が粉微塵に打ち砕く。
「お目覚めのようね、未由さん」
 背後から聞こえる深雪の声に、未由は、はっとして目を見張った。なんだか、すっかり馴染んだ心地よい世界からどこか別の場所に連れて来られたような違和感に包まれる。
 それでも、目の前の光景は変わらなかった。緑の葉を太陽の光にきらめかせる鉢植え。水の中をゆっくりたゆたう大きな魚。物憂げな身のこなしで自分の体を嘗めている猫。目を覚ました赤ん坊を床におろして遊ばせている母親。どれも、さっきのままだ。
「私はここであなたに問診を行ったのよ。何度も何度も。あなたの心の奥底を伺い見るために」
 深雪の声は未由の肩越しに聞こえていた。
 その時になって、ようやく未由は、自分が自分の足で立っているのではなく、車椅子に乗せられていることに気がついた。深雪は車椅子の取っ手を後ろから押しながら未由に声をかけていたのだ。
「ここは?」
 未由はぽつりと言った。
「ここは、私の部屋から少し離れた所にある部屋よ。部屋といっても、ドアで廊下と隔てているわけじゃない、ちょっとした広場みたいな場所。そして、応用総合科に入院している患者たちに囲まれて私があなたに問診を行ってきた場所」
 平板な声で深雪は応えた。
(入院患者……じゃ、あの親子連れが入院患者なんだろうか? それにしても、『囲まれて』っていう言い方は変よね。私たちを取り囲むほど大勢の人間がいるわけじゃないんだから)未由は、ぺたんと床にお尻をつけてソファの猫に向かって盛んに手招きしている赤ん坊の姿を見ながら考えた。
「せっかく大きな瞳をしているのに、何も見えていないの? もういちどよくご覧なさい。ここには何人もの患者が集まっているのよ」
 未由の胸の内を読み取ったように、深雪は僅かに笑いを含んだ声で言った。
「たとえば、あそこの鉢植えの観葉樹。あなたには普通の観葉樹にしか見えないの?」
 ひょっとしたら屋上の一部がガラス張りにでもなっているのだろうか、建物の中だというのに殆ど真上から差し込んでくる太陽の光を浴びて無数の葉をきらめかせている大きな鉢植え。
 あらためて未由は鉢植えを見つめた。よくよく目を凝らしてみると、焦茶色をした幹の上の方が丸く膨らんでいるのがわかる。その膨らみの所々が他の部分とは僅かに色が違っていた。
 その色違いの部分が人間の唇や瞼の形をしていることに気づいて、思わず未由は息を飲んだ。
「やっとわかったようね。あれは普通の鉢植えじゃないのよ。本当はちゃんとした人間で、患者の一人なんだから」
 深雪の声はもう笑っていなかった。
 知らず知らずのうちに未由の体が小刻みに震え始めていた。
「患者の名前は鈴本真澄、十七歳の女性。うちの病院にやって来たのが半年前。それからずっと、あの姿で生きているの」
 なんでもないことのように深雪は言った。



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