ふわっと風が吹いて、たくさんの花びらが踊った。腕時計はとっくに五時をまわっている。 ううう。みんな、まだ来ないのかなぁ。今日は早めに仕事を切り上げるからねって言ってたのは嘘だったわけ? だいいち、どうして私なのよ。いくらアミダクジだっつっても、こういうことは普通、男の子がするもんじゃないの? 私みたいな可愛いい子に行かせるのは可哀相だって、誰か代わってくれてもよさそうなもんじゃないよぉ。んとに、みんな薄情なんだから。いいもんね、明日から、お茶なんていれてあげないもんね。特に、同期の男の子には絶対。ふ、ふーんだ。 ぶちぶちぶちぶち。 河野美香は、桜の花びらが周りの空気をなまめかしいピンクに染めて舞い踊る中、独りどんよりした顔で怨みがましく呟いていた。 時は春。浮かれた表情でお弁当やゴザを手に桜の樹の下を行き交うくる人たち。みんな、とても楽しそうだ。 なのに、美香は相変わらずどんよりしている。ま、それも仕方のないことだった。短大を卒業して中堅の商社に就職できたまではよかったものの、入社三日めの最初の仕事がお花見の場所取りだったんだから。同じ課に配属されたのは男性が三人と女性が一人。つまり、女性は美香だけだった。 その紅一点を一人で公園へ追い出すか、ふつう? いくらアミダに当たったのが私だっても、誰か男の子が代わってくれるのが本当じゃないか。それなのに、行ってらっしゃーいなんて手を振るか、三人も揃って。いくら私の仕事が企画事務でも、絶対にあの三人のサポートだけはしてやらないもんね。そーだ、そう決めた。 ぶちぶちぶちぶち。 いくら春だといっても、まだ四月になったばかりだ。周りがほのかに暗くなってくると、桜の木の間を吹き渡る風もぼちぼち冷たくなってくる。なのに、まだ誰も来ない。 ぶちぶちぶちぶち。 けれど、でも。美香がぶちっているのは、実は同期の男の子に対してなんかじゃなかった。ううん、厳密にいえば、それもある。それもあるんだけど、本当のところは、気をまぎらわせるために怨みがましいことを呟いているのだった。 で、なんのために気をまぎらわせなきゃいけないのかというと――これが、おしっこを我慢してたりするんだね、美香は。そう、おしっこを行きたいのをごまかすために、独り暗い顔で呟いていたりする美香だった。 おしっこくらいさっさと行けばいいじゃないか。もしもあなた(そう、あなたです)がそんなふうに軽く考えたとしたら、あなたはまだ世間の厳しさを知らないんだと美香から責められるにちがいない。いい? 美香は入社したばかりなんだよ。でもって、お花見の場所取りが新しい会社で初めて命じられた最初の仕事なんだよ。短大を出たばかりの初々しい美香が、そんな神聖な仕事を放り出して私用(つまり、トイレへ行くってことだ)を優先できるわけがないじゃないか。もしもトイレへ行ってる間に誰かに場所を取られでもしたら、昼休みが終わってすぐに公園へやって来て大きなビニールシートを広げた美香のこれまでの努力が泡と消えてしまうんだぞ。もしもそんなことになったら、課長を筆頭とするオヤヂ軍団にハラスメられるんだぞ、たぶん。それに、オツボネ様たちからねちねち言われ続けるんだぞ、きっと。それも、美香が退職するまでそんなことが続くにちがいない。オヤヂとオツボネというのは、それくらいしつこい生き物なんだから。そんな責め苦に逢うくらいなら、おしっこを我慢する方がどんなに楽なことか。誰かが来てくれさえすれば、その時にはどーどーとトイレへ行けるんだから。 ということで、公園の隅にあるトイレを物欲しそうにちらちら眺めながらどんよりする美香だった。 そうして腕時計の針が六時をまわりそうになった頃、やっとのことで美香の方へ近づいてくる人影が見えた。 美香の瞳が輝いた(きらきら)。 渋いブラウンのローファーを履いた人影は、ぴんと背筋を伸ばして足早に近づいてくると、大きなビニールシートの真ん中に所在なげにしゃがみこんでいる美香のすぐ前で足を止めた。 「ごめんなさいね、河野さん。もっと早く来るつもりだったんだけど、急にクレームが入っちゃって、みんなでバタバタしてたの。でもなんとか片付いたから、もうすぐみんな、お弁当を買って来ると思うわ。――先に二人で飲んでようか」 人影はひょいと腰をかがめて、いたわるように言った。それから、缶ビールを二本、さっと差し出す。 「主任〜」 うるうるし始めた目を人影に向けて、美香はすがるみたいに言った。 ビールを差し出したのは、美香が配属された企画二課の主任・早瀬桂子だった。まだ短大に通っている時に会社訪問に訪れた美香は、男性に混じって颯爽と働く桂子の姿をたまたま目にして、この人と一緒ならやれそうだと感じて意欲をかきたてたものだった。いわば、憧れの的だ。その桂子と同じ課になっただけでも嬉しいのに、こんなふうに優しくされると、入社早々お花見の場所とり係に当たったこともラッキーだったとさえ思えてくる(ゲンキンなやっちゃな〜)。 でも、現実はきびしい。ほんわかした目で桂子の顔を見上げていられたのはほんの短い間。じきにおしっこのことを思い出して、美香は体を震わせた。 「あら、寒いの? そうよね、まだ四月のアタマだもの、こんな所で独りじっとしてたら寒いわよね」 美香の体が震えるのを見逃さずに、桂子は優しい声で言った。 「ち、ちがうんです……」 美香は引きつった表情で応えかけて慌てて口を閉じた。それまで我慢に我慢を重ねていたのが、桂子の姿を目にした途端に緊張が緩んでしまったのか今にもしくじってしまいそうになっているのだけれど、でも、まさか、憧れの人に向かっておしっこを我慢してるんですなんて言えるわけがない。美香はムリヤリの笑顔で、いえ、あの……と言葉を濁すのが精一杯だった。 「だって、顔が真っ蒼よ。場所取りは私が代わってあげるから、公園の入り口の近くにある喫茶店でココアでも飲んで体を温めてらっしゃい。みんなが来たら呼んであげるわ」 場所取りを代わってもらうのを遠慮しているんだろうと思った桂子は、ビールをシートの上に置いて美香の両手をくいっと引っ張った。 「あ……」 シートの上に膝立ちになった美香が小さな悲鳴をあげた。 青いビニールシートの上に、雫が一つ滴り落ちた。 「え?」 桂子は目を点にして、ビニールシートの上で微かにぴちゃんと音をたてて幾つもの小さな雫に分かれた滴りをじっと見つめた。 だけど、雫は一つだけなんかじゃなかった。桂子が見守る中、雫は幾つも幾つもビニールシートの上にぴちゃんと滴り落ちては、小さなしぶきになって跳び散っていく。 そうしていつのまにか、雫が幾つもつながって、細い頼りなげな条になってビニールシートを濡らし始めた。 それは(いうまでもないことかもしれないけど)、我慢に我慢を重ねていたのが、急に両手を引っ張られて体を動かした弾みで、とうとうこらえきれずに溢れ出してしまった美香のおしっこだった。 「あ、あ……」 美香は少し開いた唇を震わせながら、呆けたような表情で桂子の顔を見上げた。本当はぎゅっと瞼を閉じて横を向きたいのに、体がこわばってしまってそれができない。膝立ちの姿勢でショーツから恥ずかしい生温かい液体を溢れ出させながら、びっくりしたみたいに大きく見開いたままの瞳を桂子の顔に向けて、身じろぎできないでいるだけだ。 まるでショーツのボトムをすり抜けるみたいにしてビニールシーツの上にほとばしる細い条と、いったんはショーツに吸収されてから、その後、美香の腿を伝って細い脚を濡らしながら膝の裏側からビニールシーツに滴り落ちる流れ。桂子の目に、美香の体から恥ずかしい液体が溢れ出る様子がくっきり焼き付いた。 そして桂子は思ったんだ――やだ、この子、可愛いいじゃない。 二十歳を越えた大人がおもらししちゃうところを目の当たりにしたりすれば、たいていの人は本人以上にうろたえてしまうにちがいない。咄嗟のことにどうすればいいのかわからなくなって、その場に立ちすくむだけだろう。なのに桂子は、そのおもらし姿を可愛らしいと感じるような人だった。もうすぐトランタン(三十歳台)になろうとしてるのにまだ独身でいるのが桂子のそんな性癖が原因かどうかは知らないけど、とにかく、美香のおもらし姿に胸キュンしてしまったのは事実だった。 で、美香にとっては永遠にも感じられるほど長い時間が過ぎて。 気がつくと、美香は土の上に立っていた。おしっこが出ちゃった後もぼんやりしていたのを、桂子が強引に手を引いてビニールシートの上から連れ出してくれたらしい。 そして桂子は、人形みたいに突っ立っている美香の洋服を手早く調べて優しい声をかけた。 「大丈夫よ。しゃがみこんだ姿勢だったら大変なことになってたかもしれないけど、膝立ちだったのがよかったんでしょうね、スカートに小さなシミはついてるけど、ひどく濡れてるってわけじゃないわ。――これで充分隠せる筈よ」 そう言って桂子は、自分の肩に羽織っていた大振りのショールを美香の腰に巻きつけてやった。そうして、肩に提げていたバッグから取り出した小さな布きれを美香の掌に握らせる。 「替えのショーツよ。トイレで穿き替えてらっしゃい。パンプスとソックスは濡れてないみたいだから、もう何も心配することはないわ」 「……」 美香は何も言わずに、ようやく血の気が戻ってきた(というか、恥ずかしさのために真っ赤になっちゃってる)顔でこくんと頷いただけで、その場に立ちすくんでいた。 「早く行きなさい。ほら、みんなが来ちゃうわよ」 桂子が美香の背中を優しく押した。 たしかに、課長たちの賑やかな声が穏やかな春風に乗ってここまで届いていた。美香は上目遣いで桂子の顔をちらと見てから、のろのろした足取りでトイレの方へ歩き出した。 美香の後ろ姿を見送りながら桂子は、プルトップを引いたビールの缶を、美香のおしっこでできた水溜りの上にそっと傾けた。うっかりビールをこぼしてしまったせいでビニールシートを汚してしまったんだとみんなに言うために。 翌日。 「あの、課長、昨日はすみませんでした。一人だけ先に帰って」 美香は、課長の机にお茶の湯呑みをそっと置いてからぺこりと頭をさげた。昨日、トイレでショーツを穿き替えた美香は、まさか本当の理由を告げるわけにもいかず、気分がすぐれないからといって花見に参加せずに一人で先に帰ったのだった。 「あ、気にすることはないよ。入社早々、花見の場所取りに駆り出したこちらが悪いんだから。夜風で体を冷したんじゃないかね?」 課長の方は美香の言葉を疑いもせず、むしろ気遣うように言ってくれた。 ああ、よかった。これなら、他の人たちも本当のことには気がついてないわね。課長の机から離れて係長の机に向かいながら、美香はほっと溜め息をついた。 係長にお茶を渡すと、次は桂子だった。美香は微かに頬を染めると、桂子の机に湯呑みを置いて、わざと事務的な声で言った。 「昨日は申し訳ありませんでした、主任」 それから、誰にも聞かれないように声をひそめてそっと続けた。 「ショールはクリーニングに出してからお返しします。あの、ショーツも……」 「いいわよ、気にしなくても。せっかくだから、ショールもショーツもあなたにプレゼントするわ。お近づきのしるしに」 桂子の方も声をひそめて、けれどクスクス笑いながら言った。 美香の顔がますます赤くなった。 で、昼休み。 「お昼、一緒に食べに行かない?」 パソコンと睨めっこをしていた桂子が、うーんと背伸びをして美香に言った。 「え、いえ、あの、お弁当を持ってきてますから……」 美香は少し口ごもりながら、桂子の誘いを断った。もちろん、お弁当を持ってきたというのは本当だった。でも普段の美香なら、憧れの桂子から昼食を誘われたんだから、母親に作ってもらったお弁当なんてほっぽって桂子についてついていったろう。だけど、この時はそうもいかなかった。なんたって、昨日のことがある。昨日の出来事をみんな知っている桂子と一緒に食事なんて、とてもじゃないけどできる筈がない。 「そう。じゃ、いいわ」 美香の返事に桂子は素っ気なく応えると、もう何も言わずに自分の席からすっと立ち上がった。立ち上がって、さっと上着を羽織りながらドアを出て行った。 相変わらず颯爽とした後ろ姿だった。 「勇気あるのね、河野さん」 美香が自分の机でお弁当を広げかけた時、二年先輩の山下正恵が話しかけてきた。 「勇気……?」 「そうよ。早瀬主任の誘いを断るなんて、とてもじゃないけど私にはできないわ」 感心したような(というか、呆れたような)口調で言って、わざとらしく首を振ってみせる。 「だって、すっごい切れ者だから味方になってもらえれば怖いものなしなんだけど、逆にいったん敵にまわしたらあれほど怖い人は他にいないって社内中でも評判の主任なのよ」 「それ、本当なんですか?」 美香はおそるおそる訊き返した。心なし声が震えているのが自分でもわかる。 「もっちろん。嘘ついても仕方ないもん」 正恵は、やけにきっぱり言い切った。 そうして、まるで関わり合いになるのを避けようとでもするみたいにさっさと自分の席へ戻って行く。 そ、それって、めっちゃ薄情じゃないか。さんざ怖がらせるだけ怖がらせといて、あとは知らないよだなんて……。おーい、先輩なら後輩を助けてやるのがスジってもんじゃないの? 美香は、すがるような目で正恵の横顔を見た。だけど正恵は、私はまるで無関係ですとでもいうみたいに、もう美香の方にはちらとも振り向かずにランチボックスを包んでるハンカチをほどき始めていた。 美香は、助けを求めるみたいに周りを見まわした。でもみんな、美香と目を合わせないように顔を伏せて黙々と食事にとりかかってしまうのだった。 誰か、何か言ってよぉぉ。 でもって、昼休みが半分ほど終わって、外へ食べに行っていた課員たちが一人二人と戻ってきだした頃。 桂子も、相変わらず颯爽と(この形容詞しか知らないのか、作者は)部屋に戻ってきた。そして、美香のお弁当がまだ手つかずのままだということに気がつく。 「まだ食べてないの? いつまでも学生気分でぐずぐずしてちゃダメよ」 桂子は美香のすぐ後ろに立って、ぴしゃりと言った。 びくっと体を震わせて、おどおどした目で桂子の顔を見上げる美香。敵にまわしたらあれほど怖い人はいないわよ――正恵の言葉が美香の頭の中に響き渡った。 「あ、いえ……ちょっと食欲がなくて……」 美香は微かに目を伏せるようにして言った。まさか、桂子が怖くて食欲がなくなったとも言えない。 「ダメよ、そんなことじゃ。ちゃんと食事をとらなきゃ仕事なんてできないんだから。いい? 職場は戦場みたいなものなのよ」 桂子は美香の目を覗きこむようにして言った。その説得するみたいな口調は、正恵から聞かされたような怖いものじゃない。むしろ、温かみのある包みこむような声だった。 「はい」 気がつくと、美香は大きく頷いていた。それも、とても素直な気持ちで。 「それでいいわ。じゃ、私がお茶を淹れてきてあげる。だから、お昼を食べちゃいなさい。いいわね?」 「はい。あ、でも、お茶は自分で……」 「いいからいいから。ちょっとだけ待っててね」 そう言って、桂子は軽い足取りで給湯室へ消えて行った。 桂子の姿が見えなくなると、二人のやり取りをそれとなく聞いていた正恵が声をかけてきた。 「よかったじゃない、河野さん。早瀬主任、あなたのこと気に入ってるみたいね」 主任の機嫌が悪くないとわかってから声をかけてくるなんて勝手な人だなぁと呆れながらも、美香もまんざらでもなさそうに頷いた。なんたって、憧れの人が自分のことを気遣ってお茶まで淹れてくれるんだから。 「でも、早瀬主任、あなたのどこが気に入ったのかしら? 私が見るかぎりじゃ、ばりばり仕事ができるってわけでもなさそうなのにね、河野さんて」 正恵はずけっと言った。 美香はかろうじて笑顔をキープしたものの、その笑みは、液体窒素をぶっかけられたみたいに冷たくこわばっていた。 でも、実のところ、どうして桂子が自分に優しくしてくれるのか、美香自身にもどうもいまひとつわからない。目の前でおもらししちゃった美香のことを元気づけようとしてるのかもしれないけど、だからってそんなことで、ばりばりに仕事のできる主任ともあろう人が入社したての小娘にわざわざお茶を淹れてくれたりするもんだろうか? 一方、こちらは給湯室。 小振りの湯呑みに急須からお茶を注いだ後、桂子は周りに誰もいないことを確かめると、うすら笑いを浮かべながら上着のポケットをごそごそ探って小さな包みを取り出した。そして、その包みをもう一度じっと眺めて、にたぁと笑う。それは社内の誰もがこれまでに見たことのない、まさか桂子がそんな笑い方をするなんて誰も想像もしたことのない、顎の下から懐中電灯で顔を照らしたような、とってもアブない笑顔だった。 この際だから、はっきりさせておこう。 はっきし言って、桂子はとてもアブない人なのだ。同性のおもらし姿を目の当たりにして、それを可愛いいだなんて感じる女性がアブなくないわけがない。敵にまわしたらあれほど怖い人はいないわよと正恵は言った。だけど、それは正確な表現ではない。正確に言うなら、「味方についても敵にまわしても、あんなにアブない人はいないわよ」としなきゃいけない。でも、桂子の本性を知っている人間は一人もいない。みんな、すごく仕事のできる颯爽とした格好いい憧れの人としか思っていない。 そして今、美香というおいしいそうな生贄が目の前に現れたおかげで、桂子が次第次第に本性をむきだしにしようとしているのだった。 その手初めが、掌にある小さな包みだった。その包みの正体は、強力な利尿剤だ。昼食に外出したついでに、近くのドラッグストアで買ってきたものだった。 今にも泣き出しそうにしていた昨日の美香の顔を鮮やかに思い出しながら、桂子は包みの端を破って、湯呑みの上で軽く振った。 私の誘いを断るなんて、おもらし娘のくせにいい根性してるじゃない。せっかく仲良しになってあげようと思ったのに。みてらっしゃい。あなたがおもらし赤ちゃんだってこと、これからたっぷり教えてあげるから。 少し濃く淹れたお茶にゆっくり溶けていく白い粉を見守る桂子の瞳が妖しく輝いた。 昼休みが終わって間もなく桂子は、美香がどことなくそわそわした様子で資料のファイリングにも身が入らないでいることに気がついた。 うふふ、そろそろ効いてきたみたいね。桂子は胸の中で薄く笑うと、わざと事務的な声で言った。 「河野さん、一緒に資料室へ行ってくれる? 欲しい資料があるんだけど、一人じゃ持ちきれないと思うのよ」 「あ、はい」 美香は、急に名前を呼ばれて慌てて立ち上がった。 資料室に向かって足早に歩き出した二人だったけれど、廊下の途中にあるトイレの前まで来ると、急に美香の歩くスピードが落ちた。そして、ちらちらとトイレの入り口に目を向けたりする。 「何してるの、河野さん。忙しいんだから、さっさと行きましょう」 桂子が振り返って、遅れている美香に言った。 「はい……」 本当は、トイレへ行くからちょっと待ってくださいと言いたい美香だった。けれど急かされて思わず頷いてしまい、前を歩く桂子に追いつくために仕方なく早足になる。 そうよ、それでいいのよ。未練がましくもう一度トイレの方に目をやる美香の姿を満足そうに眺めて、桂子は心の中でほくそ笑んでみせた。 「あの、まだでしょうか……」 資料室の机の上に分厚いファイルで小高い山を築き続ける桂子の背中に、とうとう我慢できなくなって美香がおずおず声をかけた。 「まだよ。まだ当分かかりそうね。――あの資料、どこへ行っちゃったんだろう?」 桂子は振り返りもせずに応えた。 「あ、ヒマだったらそっちの棚を探してみてよ。1970年台のイギリスで流行してたブーツの資料。とにかく、少しでも関係ありそうな資料をつみけたら、あるだけ引っ張り出しておいて」 「え? あ、はい……」 美香は力のない声で返事をした。さっきからトイレへ行きたくて仕方ない。だけど、昨日の恥ずかしい姿を見られた桂子に、今またトイレへ行きたいと訴えるのは想像以上に恥ずかしく思えて、なかなか言い出せない。今はただ、桂子が一刻も早く必要な資料を揃えて美香を開放してくれることを祈るしかなかった。 美香は弱々しく溜め息をつくと(sigh……)、すぐ側の資料棚に顔を近づけた。でも、気もそぞろのままきょときょと瞳を動かしてみても、目的の資料をみつけられるわけもない。 ただひたすらおしっこを我慢するだけの、美香にとってはまるで無為な時間がゆっくりゆっくり流れていった。 やがて。 体を小刻みに震わせながら資料を探す(ふりをしている)美香の後ろ姿をたっぷり楽しんでから、桂子が言った。 「とりあえず、このくらいにしておきましょうか。一度にたくさん引っ張り出しても目を通すのが大変だし」 「は、はい」 あからさまにほっとした表情になって、美香が弾むような声で応えた(ああ、これで楽になれるんだわ)。 でも、だけど。くどいようだけど、桂子はとってもアブない人なのだ。なんたって、美香のお茶に利尿剤を仕込むようなアブなさの持ち主なのである。当然、美香に次なる試練を与えるに決まっている。 「じゃ、運ぶのを半分手伝ってね」 桂子は資料の山を大ざっぱに半分に分けると、片方を両手で持ち上げた。 言われて、仕方なく美香も資料の山を抱え上げた。 ずっしり。 新聞の切り抜きや古い雑誌、統計資料。紙の山は予想外に重かった。美香は思わず資料を落としてしまいそうになって、慌てて両足を踏ん張った。 途端に、体がぞくっと震えた。ショーツがじっとり湿る感触が伝わってくる。 美香は息を止めて下腹部に意識を集めた。今にもこぼれ出しそうになっていた(というか、いくらかは実際にこぼれ出してしまった)おしっこをかろうじて堰き止めるには、ダイエットを決心した初日にケーキバイキングへ行こうと誘いにきた友達に絶交を宣言するくらいの気力が必要だった。 「どうかした?」 美香の体を襲う異変を知ってか知らずか(もちろん、知っている)、先に立って資料室を出ようとしていた桂子が不思議そうな顔で言った。 「あ、いいえ……」 引きつった笑顔で応えて、美香はのろのろと歩き出した。急に動いたりしたら、今度こそショーツをぐっしょり濡らしてしまいそうだった。 廊下に出て少し歩くと、まるで砂漠の中のオアシスのような(と美香には思える)トイレがある。資料室へ来る時にもそうしたように、美香はちらちらとトイレの入り口に視線を投げかけながらぐずぐずのろのろ足を進めた。 と、不意に桂子が立ち止まる。 ひょっとしたら主任もおしっこかしら? もしもそうだったら私も堂々とトイレへ行けるんだけど……。美香は、ふとそんなことを考えながら脚を止めた。 桂子が振り返った。 「ごめん、もう少しだけ資料を追加してくるわ。わるいけど、先に部屋に戻っててちょうだい。――あ、そうそう。これ運んでおいてね」 振り返った桂子はそう言うと、自分が抱えていた資料を美香の資料に重ねた。 ずっしり×2。 よろめきながら、美香は反射的に踏ん張った。 しゅる。 何かが下腹部を通り抜けるような感触があった。美香は慌てて両脚の内股を擦り合わせた。さっきまでは少ししか濡れていなかったショーツが、あっというまにじくじくと濡れ始めている。 美香は思わず資料を投げ出すと(ばさばさ)、スカートの上から股間を押さえた。けれど、いったん溢れ出したおしっこを止めることはできない。ショーツに押しつけられたスカートにまで鮮やかなシミを広げながら、生温かい液体は美香の足下にじわじわと恥ずかしい水溜りを作り始めていた。 肩を落としてうなだれたまま立ちすくむ美香の顔からは、一切の表情が消えていた。少しだけ開いた唇からは、嗚咽の声さえ洩れてはこなかった。 そのまた翌日。 始業時刻ぎりぎりに美香が部屋に入ると、それまでのざわめきが嘘みたいに部屋中が一瞬、静まり返った。それから、ここそこで声をひそめて囁き合う課員たちの姿。中には、あからさまに美香の方を指差してくっくっと笑い合う何人かの女性たちもいる。もちろん、みんな、昨日の出来事を知っている。 会社の中で新入社員がおもらしをして、それが噂にならないわけがない。それも、多くの社員が行き交う廊下での出来事だったのだから、お花見の時と同じように桂子が取りなさなければ、もっと大変な騒ぎになっていたかもしれない。一昨日のように桂子が自分のショールで美香のスカートを覆って更衣室へ連れて行かなければ、美香はまだ廊下でなす術もなく佇んでいたにちがいない。 けれど、そうなったにしてもならなかったにしても、結局は同じことだった。美香のおもらし現場を実際に目の当たりにした人間がたった一人だけだったとしても、狭い会社の隅々にまで噂が伝わるのに、さして時間はかからないのだから。 美香は同僚たちと目を合わせないよう顔を伏せたまま自分の席についた。 本当のことをいえば、美香は会社を休むつもりだった。ううん。辞めるつもりにさえなっていた。こんなことがあって、まだこの会社にいられるわけがない。 それを思いとどまらせたのは、昨夜遅くに桂子からかかってきた電話だった。ぼんやりと受話器を握りしめていた美香を、桂子は電話の向こうから盛んに励まし、こんなことでくじけちゃいけないわよと勇気づけてくれた。――このまま会社を辞めたりしたら、それこそ負け犬になっちゃうのよ。会社での出来事は、きちんと仕事をすることで汚名返上しなきゃいけないわ。たとえそれがどんなことでも。 桂子の声を聞くうちに、感きわまって美香は涙を流していた。ああ、こんなにも私のことを思っていてくれる先輩がいる。どんなことになっても、主任だけは私と一緒にいてくれるんだ。 そんな桂子の励ましを無駄にしたくない。ただその一心で、美香は出社してきた。 だけど桂子が美香を勇気づけたのは、甘ったるい同情心からなんかじゃなかった。そもそも、美香が廊下でおもらしをしたのは、桂子がお茶に混ぜた利尿剤のせいだった。利尿剤が効き始めたのを知った上で桂子が美香を資料室に連れて行き、重い資料運びを手伝わせたりしなければ、あんなことにはならなかったんだ。 なんたって、桂子はアブない人である。 美香が会社を辞めちゃったら、せっかくの楽しみがなくなってしまう。だから、ちゃんと出社するように説得しなきゃ――つまりは、そーゆーことだった。 せっかく見つけたお気に入りのオモチャをみすみす手離したりするような人ではないのだ、桂子は。いつかは捨てるオモチャだとしても、それまではたっぷり楽しまなきゃソンだもの。 「河野さん、ちょっと付き合ってくれる?」 美香が席につくのを待っていたように、桂子がそっと声をかけた。 「え、でも仕事が……」 みんなが見ている中、美香としてはあまり動きまわったりしたくなかった。おとなしくデスクワークをしていれば、そのうち、みんなの関心もどこかよそを向いてくれるんじゃないかと密かに期待している。 「いいからいいから」 桂子はそう言うと、美香の肘をつかんで半ば強引に歩き出した。課長も係長も、桂子を止める気配はない。桂子なりに何か考えがあってのことだろうと信頼しているのかもしれないし、ひょっとしたら、噂の主(もちろん、美香のことだ)がどっかへ行ってくれた方が部屋中のひそひそ話もおさまって仕事がはかどるとでも考えているのかもしれない。 美香が連れて来られたのは、人気のない更衣室だった。 そういえば、昨日はここで汚れた制服から私服に着替えて、仕事中なのに逃げるみたいにして会社を飛び出したんだっけ。そんなことを思い出して、美香の顔が赤くなった。 「わざわざここまで来てもらったのは、河野さんに渡したい物があるからなのよ」 桂子は意味ありげに微笑んでみせた(にんまり)。 「渡したい物って……部屋じゃ渡せないような物なんですか?」 美香はわけがわからずに口ごもった。 「私は部屋で渡してもかまわないわよ。でも、そうすると河野さんが困るんじゃないかと思って」 「……?」 美香は少し首をかしげた。 「うふふ、これよ」 桂子は自分のロッカーを開けて少し大きなビニールの包みを取り出すと、それを美香の目の前に差し出した。 桂子につられるように腕を差し延べて包みを受け取りかけた美香だったけれど、ビニールの包みに鮮やかなブルーで印刷された字を見て、慌てて両手を引っ込めた。 包みには、『成人用紙おむつ・はくパンツタイプ』という文字が印刷してあった。 「あら、どうしたの? せっかく買ってきてあげたのに」 「でも、それ……」 首を横に振りながら(ふるふる)思わず後ずさる美香だった。 「遠慮なんてしなくてもいいのよ」 引っ込めた美香の手に紙おむつの包みを強引に押しつける桂子。うっすら笑っているのがちょっとコワかったりする(アブないアブない)。 「遠慮してるんじゃありません。遠慮じゃなくて、本当にそんもの受け取れないんです」 美香はもう一歩後ずさった。 「受け取れないですって?」 桂子が腰に手を当てて目を細くした。 「だって、私は赤ちゃんじゃないんですよ。なのに、紙おむつだなんて……」 美香はもう一歩さがろうとしたけれど、ずらりと並んだロッカーに阻まれて、これ以上は身を退くことができない。 「へ〜え、赤ちゃんじゃないから紙おむつなんて要らないって言うの? へ〜え」 桂子は少しだけ顔を横に向けると、じと目で美香を見据えた。細身で背が高くて美人で仕事のできる桂子がそんなポーズを取ると、たいていの人間は圧倒されてしまう。それも、薄く笑った顔でじと目になるもんだから、美香はヘビに睨まれたカエル状態だった(顔に、おどろ線が描かれていないのが不思議なくらい)。 「……」 ロッカーに背中を押し当てたまま、美香は無言でカニさん歩きを始めた。 「お待ちなさい」 ずいっと間合いを詰めて、居丈高に桂子が言った。そして包みを開けると、紙おむつを一枚がさがさと取り出して、それを美香の目の前に突き付けた。 「使いなさい。――これは業務命令です」 「業務……命令?」 思わずぽけっとした顔になった美香は、おまぬーな声で訊き返してしまった。 いったい、どこの世界に、紙おむつの使用を「業務命令」するような会社があるっていうんだろう(作者註:とはいえ、実際にそーゆー会社も確かにあります。例えば、三和出版株式会社。オモクラ編集部に配属された女子編集者におむつ姿で外出することを強要して、その体験記を記事として本に載せちゃうくらいだから。鳥子ちゃんも苦労してるんだね(笑))。 「そうです、業務命令です。いいですか? 昨日の河野さんは、就業規則第二章<服務規律>の第九条<遵守事項>の3および4に明らかに違反していました」 「……?」 「遵守事項の3:許可なく職場を離れないこと。なのに昨日、河野さんは上司の許可なく会社を早退しました。それに、遵守事項の4:他の従業員の業務を妨害しないこと。昨日、河野さんは廊下で粗相をして騒ぎを引き起こし、近くの部課の業務を一時的に妨害しました」 「そんな……」 美香は言い訳がましく呟いた。だけど、昨日の恥ずかしい失敗が美香の陰険な企みのせいだとはまるで知らない美香が、きちんと反論できる筈もない。 「そんな……じゃありません。今後、二度と同じような事態を引き起こさないためにもこれが必要なんです。これを身に着けていれば、昨日や一昨日みたいな失敗はしなくてすみますからね。さ、早く」 桂子は、パンツタイプの紙おむつを美香の手にうりうりと押しつける。 「でも……」 「デモもストもありません。もしも今度、同じような失敗をしたら、それこそ会社にいられなくなるんですよ。そんなことになるくらいなら、少しくらい恥ずかしくても、仕事に集中できるよう準備しておくのが社会人としての努めです。ちがいますか?」 太古の遺物のようなダジャレを織り込みながら(ごめん。作者が好きなんです、こーゆーの)、桂子は美香を追い詰めた。 とりあえず、美香がショーツの代わりに紙おむつを着けたこと以外はたいした出来事もなく(美香にしてみれば、それってめちゃくちゃ「たいした出来事」なんだけど)、午前中は無事に過ぎた。美香は一度だけトイレへ行ったけど、何度か昨日みたいな唐突で激しい尿意に襲われることもなく、いつものようにゆったりした気分で便座に座ることができた。ただ、まあ、ショーツじゃなくてパンツタイプの紙おむつを膝の上までずりおろしておしっこをするというのがどのくらい恥ずかしいことか、実際に経験した美香じゃないとわからないとは思うけど、でも、昨日に比べれば遥かにマシな状態だったといってもいいとは思う。 で、のんびりしたお昼休みが終わって午後の仕事が始まってすぐ。 「河野さん、昨日の資料を返しに行くから手伝って」 桂子が言った。 「は、はい」 なんとなく不安を覚えながら、美香はゆっくり立ち上がった。 ――デジャヴ。 昨日のことが妙に鮮やかに頭の中に蘇ってくる。 美香はその光景を振り払うように、慌てて頭を振った。今日は大丈夫よ、美香。あんなことが二日も続くなんてことないんだから。そうよ、午前中は何もヘンなことはなかったんだから。 なのに。 なのに(みなさんのご期待通り)、午後からは昨日のまんまだった。もちろん、さりげなく桂子がお茶を淹れて湯呑みを美香の机に置いたのが原因だった。美香が(さすがに遠慮はしたものの)そのお茶をなんの疑いもなく美味しく飲んでしまったために、両手に抱えた資料を一つずつ元の棚に返し終えた頃、下腹部に疼くような感じを覚えたのだった。 「どうしたの、河野さん。顔色が良くないわよ?」 もじもじと両脚を擦り合わせる美香に、こちらも棚に資料を戻してしまった桂子が、気遣しげに(ざーとらしく)言った。 「あの、おしっこ……」 昨日みたいな失敗を二度と繰り返したくない美香は恥ずかしさを押し殺して、蚊の鳴くような声で応えた。 「やれやれ、困った人ね。トイレくらい、ちゃんと休憩時間にすませておいてもらわなきゃ。いつまで学生時代の気分でいる気?」 桂子は厳しい顔で言った(ずけずけ)。 「いえ、ちがうんです。あの、トイレへはお昼休みが終わる前にちゃんと行ったんです。なのに、また……」 弱々しく弁解する美香だった。 「会社は、あなたが就業時間内はきちんと働くことを前提にお給料を支払っているんですよ。それなのに、トイレばかり行って……」 桂子は、更衣室と同じようにじと目を美香の顔に向けた。そして、すぐに何か思い出したように目を細めると、唇の端をちょいと吊り上げるみたいに笑って(にまぁ)言った。 「……あら。でも、わざわざトイレへ行くこともないんじゃない? ――今朝、更衣室であなたに渡した物は何だったかしらね」 「え……?」 びっくぅ。怯えた表情で、美香の体が石になった。な、なに言ってるんだ、この人。 「そうと決まれば、もう安心ね。それじゃ、続きにかかりましょう。昨日ここから持ち出せなかった資料を棚から取り出してまとめてちょうだい」 さも当然のことを言うみたいな桂子の口調だった。 「あの、トイレへ……」 さっさと資料探しを始めた桂子の背中に向かって、今にも泣き出しそうな声で美香が訴えかけた。 様々な機密資料まで保存している資料室は、入る時にも出る時にもいちいちロックを外さなければドアが開かないようになっている。そのロックを外すには、ある程度以上の地位にある社員のIDカードをキーボックスのスリットに差し込んで暗証番号を押さなければならない。新入社員の美香のIDカードにはまだその機能はないし、もちろん、暗唱番号も教えてもらっていない。つまり、桂子にドアを開けてもらわなければ、美香は資料室に入ることはもちろん、勝手に出ることもできないのだった(こーゆー小説によくありがちな設定です。これを専門用語で「御都合主義」といいます(苦笑))。 「さ、お仕事お仕事。さっさとしないと、いつまでもここから出られないわよ」 振り返りもしないで、桂子は冷たく言い放った。 「でも、でも……」 「ほら、さっさとなさい。少しくらい出ちゃっても、ちゃんと紙おむつが吸い取ってくれるんだから」 桂子のあられもない言い方に美香の表情が凍りついた(ひゅうぅ、ぴしぴし)。 ようやくのこと資料室から出てきた美香は、なんとなくぎこちない足取りで廊下を歩き始めた。両脚が少し開き気味になっているのは、両手に抱えた資料の重みに耐えるためばかりではなさそうだった。 「ほらほら、もっとしゃんとなさい。なーに、そのみっともない歩き方は」 あとから廊下へ出た桂子は、笑いを押し殺しながら言った。 「だって……」 足を止めて、美香は真っ赤な顔で振り返った。 「ま、仕方ないかな。ぐっしょり濡れたおむつじゃ歩きにくいでしょうから」 「……」 返す言葉はなかった。 桂子が言った通り、資料を探しながらとうとう我慢しきれなくなった美香は、資料棚の前に立ちすくんだまま生温かい液体をほとばしらせてしまったのだ。 桂子の命令でスカートの下に身に着けた紙おむつが美香の膀胱いっぱいに溜っていたおしっこを吸い取ってくれたから、資料室の床を汚すことはなかった。それに、パンツタイプの紙おむつは少し厚めの下着(例えば、冬に穿く毛糸のオーバーパンツとかみたいな)くらいにしか目立たないから、美香がスカートの下に紙おむつを着けているなんて誰かに知られることはないだろう。 だけど、誰に気づかれることがなくても、二日も続けておもらししてしまったことは、それも今日は赤ん坊のように紙おむつを汚してしまったことは、美香自身が身にしみて知っている。いくら忘れたいと思っても、ぐっしょり濡れて気味悪く肌に触れる紙おむつの感触は、美香が少しでも足を動かすたびに柔肌をくすぐって、恥ずかしい粗相を無言で教え続ける。美香は赤ちゃんみたいに紙おむつの中におもらししちゃったんだよと、ひそひそ囁き続けることをやめない。 「さ、行きましょう。――でも、よかった。今日はトイレの前で騒ぎを起こす心配もないから仕事がはかどるわ」 皮肉めいた口調で言って、桂子はにこっと笑った。 そんなこと言いながら楽しそうに笑わないでよぉ。真っ赤な顔を下に向けて、美香は胸の中で情けない声をあげた。 企画二課の部屋へ戻って、机の上に重い資料を置いて(どっこいしょ)から、美香は誰にも聞かれないように声をひそめて桂子に話しかけた。 「あの、主任……」 「なに?」 「……更衣室へ行ってきていいですか?」 「何しに?」 「このままじゃ気持ち悪くて……だから、あの……」 「だから、何?」 「……紙おむつを取り替えてきたいんです……」 やたら<?>と<……>の多い会話を交わしながら、美香は、自分が口にした『紙おむつを取り替えて』という言葉に顔を赤くした。 「あら、ショーツに穿き替えるためかと思ったのに。うふふ、紙おむつが気に入っちゃったかしら。そうね、河野さんにはショーツよりも紙おむつがお似合いだものね」 にっと笑って、桂子が意味ありげに美香の顔を覗きこんだ。 「あ……。じゃ、前言撤回。ショーツに穿き替えてきます。だから、更衣室へ……」 桂子の言葉を耳にして、美香は慌てて言い直した。訂正しておかなきゃ、いつのまにか、美香が好きで紙おむつを着けているということにされかねない。 「いいわよ……」 桂子は意外に素直に頷いた。 美香は急いで桂子の机から離れかけた。 「……と思ったけど、やっぱ、やーめた。休憩時間まで待つことね」 歩き出した脚を止めて、美香が恨みがましい目で振り返った。 ――鬼。 美香の心の叫びが聞こえてきそうだった。ひょっとしたら、冬の日本海色に染まった心情風景さえ見えるかもしれない。 でも桂子の方は、てんでおかまいなし。 「手が空いたところで、コーヒーを淹れてもらおうかしら。これから、分厚い資料と格闘しなきゃいけないから」 しれっとした顔で、桂子は言った。 あ、僕も。じゃ、私も。あちこちから、コーヒーをリクエストする声がとんできた。 狭い給湯室で人数分のコーヒーをやっとのことで淹れ終わった頃、美香を再び尿意が襲った。 ・美香は風のシールドを使った。 ・第一の尿意は戦意を喪った。 ・第二の尿意が現れた。 ・美香は光のソードを使った。 ・美香のソードは地面に突き刺さった。 ・美香は8ポイントのダメージを受けた(ちゅど〜ん)。 苦しい闘いだった。だがしかし、それで平和が訪れたと思ったら大間違い。真の闘いは、今まさに幕を上げたばかりだ。がんばれ、フェアリー美香。君こそ、ファンタジックおもらしワールドに嵐を呼ぶ美少女剣士なのだから。 ――とゆーよーなおちゃらけは置いといて。 大きなお盆を両手で支えて、美香は給湯室を出た。 美香の両脚が微かに震えていることに気がついた者はいない。みんな、淹れたてのコーヒーの香りにうっとりして、美香がカップを机の上に置くのを待っているだけだ。 けれど、桂子だけはちがった。 お昼休みに美香のお茶に仕込んだ強力な利尿剤がたった一度のおもらしで効き目がなくなる筈のないことを、桂子はよーく知っていた。そして、ちょうど今ごろ美香がトイレへ行きたくなっている筈だということも。 そう思って見てみると、美香の両脚の僅かな震えがはっきりわかる。 順番にカップを置きながらゆっくり近づいてくる美香の姿を満足そうな表情で眺めていた桂子が、すっと脚を伸ばした。 大きなお盆の上に一つだけ残っている桂子のコーヒーをこぼさないように緊張して歩いてくる美香に、足下の様子を確認しているゆとりはなかった。それに、事務室の床におかしな物が置いてあるかもしれないと考えることもないから、美香の歩き方はまるで不用心だった(びっしょり濡れた紙おむつの感触と二度目の尿意に心を奪われていたこともあるしね)。 不意に叫び声があがって、お盆とコーヒーカップが床に落ちる音が響いた。 みんなの目が、桂子の机のすぐ側に前のめりに倒れている美香に集まった。 あられもない姿で倒れこんだ美香の制服のスカートが派手に捲れ上がっていた。 山下正恵が慌てて駆け寄ろうとしたけれど、スカートの中から見えている美香の下着を目にした途端、戸惑ったような顔つきになって、その場に立ちすくんだ。 おい、あれ。ええ、そうよね。でも、まさか。だって、そうとしか思えないわよ。正恵と同じように戸惑った表情を浮かべて、課員たちが声をひそめて囁き合った。 誰もが、美香がスカートの下に着けている下着が実は紙おむつだということに気がつくのに、あまり時間はかからなかった。 同僚たちがひそひそと囁き合う中、美香が起き上がる気配はなかった。あまりの羞恥に体がこわばってしまったわけではない。美香にしても、一刻も早く起き上がって、その場から逃げ出したかった。なのに、それができない。 倒れた拍子に、コーヒーを淹れ終わった頃から強まっていたおしっこが我慢できなくなって、とうとう紙おむつの中に流れ出してきたのだ。おしっこが溢れ出している最中に、両手で体を支えて起き上がることなんてできなかった。ひたすら羞恥と屈辱に身を焦がしながら、美香は床に這いつくばったまま紙おむつをますますじくじくと濡らすばかりだった。 同僚たちの好奇の目が集まる中、惨めな姿で床に倒れたままおもらししてしまった美香の紙おむつから、微かに湯気をたてて生温かいおしっこが洩れ出した。紙おむつが吸収できるおしっこの量を超えてしまって、とうとう、腿のあたりから滲み出してきたのだろう。成人した身で紙おむつを着けることを強要され、その中におしっこを溢れ出させる事態に追いこまれた上、紙おむつからおしっこを床に滲み出させる屈辱。 ようやくのこと、おしっこの流れが止まると、美香はのろのろと立ち上がった。 「……大丈夫?」 ようやくのことおずおずと近づいてきた正恵が手を差し延べて、ちらちらと美香の下腹部に目をやりながら言った。 何も応えず、一切の表情をなくして呆然と立ちすくむ美香の内腿を伝って、小さな雫が二つ、つっと滑り落ちた。美香の若い肌の上をころころと玉になって転がるように滑り落ちたおしっこの雫は、白いソックスにすっと吸い取られてまたたく間に正恵の目から消える。 どこにも焦点の合っていない虚ろな目で宙の一点を見据えて、美香がふらりと歩き出した。正恵は慌てて美香の側を離れた。 部屋にいる全員が、見てはいけないものを見てしまったような、バツのわるそうな表情を浮かべた顔を見合わせた。ただ一人、うっすらと笑いながら美香の後ろ姿を見送る桂子を除いては。 ほの暗い寝室のベッドの上、美香は体を丸くしてうずくまっていた。 どうやって自分のマンションへ帰ってきたのかさえ覚えていない。気がつけば、カーテンを閉めきった寝室にこうして独りいた。 不意に、玄関のドアをノックする音が聞こえた。 美香は、聞こえないことにした。 聞こえていたところで、玄関へ行くのさえ億劫だった。だいいち、人と顔を会わせる気になんかなれない。正直に言えば、小指を動かす気力もない。 けれど、そんな美香の状態を知ってか知らずか、ドアをノックする音はいっこうにやむ気配がない。 それどころか、ますますけたたましく響き渡るノックの音。 ――聞き覚えのある声が自分の名前を呼んだような気がして、美香は膝を抱えていた両手をのろのろほどくと、物憂げな表情で玄関の方に目を向けた。 聞き違いなんかじゃなかった。 ドア越しに聞こえるのは、たしかに桂子の声だった。トイレを我慢する美香に資料を運ばせて廊下でおもらしをさせ、それを口実にして美香に紙おむつを強要し、しかも二日目の資料室でトイレへ行きたいという願いを無視して美香が紙おむつを汚さざるを得ない状況に追い込み、その上、美香がスカートの下に紙おむつを着けていることを課のみんなに知らしめた桂子。桂子がお茶に利尿剤を仕込んだことまでは知らない(そして、わざと美香を転ばすために脚を伸ばしたとは思ってはいない)ものの、でも、それで充分だった。 主任なんて……。 美香は掌で両耳を塞いだ。 なのに、相変わらず桂子の声が聞こえる。 美香は激しく頭を振った。 それでも、桂子の声は……。 美香は、はっとしたように耳から手を離した。ノックの音に混ざって微かに聞こえる桂子の声。そして、耳を通して聞こえているのではない、もう一つの桂子の声。 耳を塞いだ時に聞こえたのは、美香自身の胸の中にこだました桂子の声だった。 ――どうして? 美香はわけがわからないまま、ふらふらと床におり立った。そうして、まるで操られるみたいに玄関の方へ歩き出す。 玄関に近づくにつれて、桂子の声がはっきり聞こえてきた。 「開けてちょうだい、河野さん。お願いだから、ドアを開けて」 美香は迷った。 もう二度と主任と会うなんて、絶対にイヤ(本当に、もう二度と主任と会えなくなってもいいの?)。あんな意地悪な主任なんて(憧れの人だった筈よ?)。紙おむつだなんて、私のことを子供扱いして(子供扱いされるのは嫌い?)。 美香は迷った。桂子と顔を会わせるのはつらい。なのに、心のどこかが、しきりに桂子を求めているように感じられてならない。ひどい違和感と、そして、身悶えするような切なさと。 美香がドアの前に立った気配を感じたのだろうか、桂子の声がやんだ。それから僅かな間を置いて、今度は言い聞かせるような桂子の声が聞こえた。 「ドアを開けなさい、美香」 あ。 美香の胸がどきんと高鳴って、体が勝手に動き始めた。まるで無防備に鍵とチェーンロック外して、ためらいなくドアを開けてしまう。 「それでいいわ。美香はいい子ね」 桂子は、美香がそうするのがさも当然とでもいうように自然な身のこなしで玄関に足を踏み入れると、すっと目を細めて美香に笑いかけた。 「主任……」 その時になってようやく我に返ったみたいな、どきまぎしたような顔つきで、美香が弱々しく呟いた。 「主任――そうね、私はあなたの上司だったわね。でも、それもおしまい。これからは、私は美香の上司なんかじゃなくなるの」 美香の体の上を、髪の先から爪先までゆっくり視線を這わせる桂子。その瞳が妖しく輝いて、美香の目を覗きこんだ。 気圧されて、美香が僅かに身を退いた。 それを追って、桂子がずいっと足を踏み出す。 身を退く美香。足を踏み出す桂子。 退く美香。踏み出す桂子。 さっと美香。ずいっと桂子。 さっ。ずいっ。さっ。ずいっ。 ささっ、さっ。ずずいっ、ずいっ。(いよっ。ぽぽん、ぽ〜ん) 気がつけば、美香は寝室に戻っていた。もちろん、桂子も一緒だ。 根負けしたみたいに、美香が寝室の床にへたりこんだ(へな)。 「あなたの負けね、美香」 おーほっほっほっ。白鳥麗子みたいに桂子が笑った。 その笑いに何の意味があるんだろう? 思わずツッコミをいれる作者であった。 「うるさいわね。意味なんか無いわよ。ただ、私のアブないキャラクターを強調しただけなんだから」 キッと作者を睨みつけて、桂子が冷たく言った。 そっかー、キャラクターを強調したのかー。自分で書いていて、どうしてここで笑うんだろうと考えこんでしまった作者の疑問が晴れた。ありがとう、早瀬桂子。やっぱり、君こそヒロインだ。じゃ、そーゆーことでリテイクお願いしまーす。はい、カメラさん、用意はいいね〜。 カチンコが鳴って、桂子が演技を再開した。なんとなく手持ち無沙汰な顔つきで桂子と作者の会話を聞いていた美香の目の前に、大きな紙袋を差し出す。 「せっかくプレゼントを持ってきてあげたんだから、そんなに私のことを嫌がらないでほしいわね」 「主任からプレゼント……」 予想外の言葉に、美香が疑わしそうな表情で桂子の顔を見上げた。今朝なんて、いい物をあげると言われて紙おむつを手渡されたばかりなんだから。 「あら、そんな顔はよしてちょうだい。きっと美香も気に入ると思うわ」 桂子はクスクス笑った。 そんなふうに笑いながら言うから美香に信用してもらえないんだよ、桂子。あ、でも、そんなキャラにしたのは私だったか。むうう、責任感じちゃうなぁ。 「ほら、これなんて、とっても可愛いいでしょ?」 まだ笑いながら、桂子が紙袋から一枚の布地をつかみ上げた。 私の小説をせっせと読んでくれている人なら、桂子が何をつかみ上げたのか、とっくにわかっていますね? もちろん、あれです、あれ。そう、あなたが期待していた、あれです。でも、ここは知らんぷりをしていましょう。その方が、美香の驚く顔をより楽しくご賞味いただけますから。 「そ、それは……」 床にへたりこんだまま、美香が大きく目を見開いた(ほーら、驚いた)。 「これが何だか、知らないわけないわよね? 美香だって赤ちゃんの頃にはお世話になった筈なんだから」 桂子はその布地の端を持って、ゆっくり振ってみせた。 美香の目の前で、ハローキティの模様がプリントされた柔らかそうな布地がひらひら揺れる。 「どうして、おむつなんて……」 美香はひくひく震える唇を掌で覆って、うわずった声を出した。そう、桂子が紙袋からつかみ上げたのは、サンリオの人気キャラのプリントが可愛いい布おむつだった(じゃ〜ん)。 「あら、だって、紙おむつよりもこっちの方が可愛いいじゃない?」 桂子は、ひらひらさせていた布おむつを紙袋に戻しながら、何をあったりまえのこと訊くのよこの子はってな顔で応えた。でもって、すぐ目の前にしゃがみこんでいる美香のスカートをさっと捲り上げて言った。 「こんな紙おむつよりも、ね」 美香は慌ててスカートを押さえた。 でも、もう遅い。 桂子は、美香がスカートの下にまだ紙おむつを着けているのを見逃さなかった。 「うふふ、思ったとおりね」 桂子は美香の首筋に真っ赤な唇を近づけて、ふっと吐息を吹きかけた。 びっくうぅぅ。美香の体が激しく震える。 「な、何が、思ったとおりだっていうんですか?」 体を震わせながら、美香は強がってみせた。甲高い声だった。 「美香、あなた、本当におむつが好きになっちゃったんでしょう?」 ずけっと桂子が言った。 「ま、まさか。赤ちゃんでもないのに、おむつが好きになっちゃったただなんて、そんな……」 美香は桂子の体を押し戻しながら、うろたえた声を出した。 「いいわよ、言い訳なんかしなくても。――これが何よりの証拠なんだから」 クスクス笑いながら、桂子はもう一度、美香のスカートを捲り上げた。今度は美香が手で押さえられないように、スカートの裾をつかんだままの右手を高々と持ち上げる。 美香のお尻を包みこんでいるのは、桂子が更衣室で手渡した紙おむつだった。 「企画二課の部屋でたっぷり紙おむつを濡らした後、美香は更衣室へ逃げて行ったわよね。それから、私服に着替えて会社を飛び出してこのマンションへ帰ってきた。もちろん、更衣室で着替える時、汚れた紙おむつを外して自分のショーツに穿き替えたわよね? そうするのが普通だもんね」 皮肉っぽいニュアンスを、これでもかというくらいたっぷり練り込んで、桂子は絡みつくような声で言った。 「なのに、私が後で見てみると、ロッカーには美香のショーツが残っていたわ。その代わり、紙おむつのパッケージが少し小さくなっていた。――新しい紙おむつに取り替えてから会社を出たのよね?」 桂子の言うとおりだった。二課の部屋から更衣室へ飛びこんだ美香は、自分のショーツを穿かずに新しい紙おむつを手にしたのだった。だけど……。 「だけど、それは、私がおむつを好きになったからなんかじゃありません。おむつを好きになったりするわけある筈がありません」 スカートを捲り上げられ、恥ずかしい下着を丸見えにされてしまった姿で、美香は弱々しく言葉を返した。 「じゃ、どうしてなの? どうして、紙おむつだったのかしら?」 桂子は意地悪く美香のスカートを覗きこんだ。 ふっくら膨らんだ紙おむつから伸びる両脚がほのかなピンクに染まっている。 「……資料室と二課の部屋でおもらしをしてしまって、ひょっとしたら何か病気になっちゃったんじゃないかと心配になったんです。それで、もしも本当に病気だったら、会社からマンションへ帰る間に、あの、バスの中なんかで失敗するかもしれないし、だから、だから……」 美香は力なく目をそらした。 たび重なるおもらしの原因が桂子の企みのせいだとは知らない美香にしてみれば、急に何かタチの悪い雑菌にでも感染したせいで失敗を繰り返すのかもしれないと心配になってもくるだろう。だから、ひょっとしたら帰宅の途中でも恥ずかしい粗相をしてしまうかもしれないという不安を覚えても仕方ない。それでも、だからといって……。 「だからといって、自分から進んで紙おむつをあてようって気になる人は滅多にいないでしょうね。それも、美香みたいな若い女の子なら特に」 桂子は横目で美香の顔色をうかがいながら、高く持ち上げていたスカートの裾をそっと戻した。 美香は、顔が熱くほてるような思いにとらわれた。なぜとはなしに、心の中を見透かされたような落ち着かない気分でおずおずと桂子の顔を見上げては、目の下のあたりを真っ赤にして、慌てて瞼を閉じる。 「いいのよ、そんなに意地を張らなくても。もっと素直におなりなさい」 これまで美香が聞いたことのない、胸に滲みてくるような桂子の声。 「意地なんて……」 桂子の穏やかな声に包まれて、どういうわけか、心が知らぬまにとろりと溶け出してしまいそうになる。美香はぶるんと首を振って、おそるおそる目を開いた。 「ま、いいわ。すぐにわかることだから」 そう言って、桂子は無造作に両手を紙袋に突っ込んだ。 桂子の手は、ひと抱えの布おむつをつかみ上げた。そうして、右手だけでもう一度紙袋の中をごそごそ探って、今度は、ズロースみたいにも見える大きな下着のような物を取り出した。 ――大きなおむつカバーだった。 淡いレモン色の生地を縁取る鮮やかなバイアステープといい、股のところに縫い付けられたアップリケといい、生後一年くらいの赤ん坊によく似合いそうな可愛いいデザインのおむつカバーだった。そのくせ、大人のお尻を包みこんでしまいそうなくらいのサイズに仕立てられた、美香がこれまでに見たことのない大きなおむつカバーだった。 美香の胸が早鐘を打つようにドキドキいって、耳たぶがかっと熱くなった。 桂子は紙袋から取り出したばかりのおむつカバーを寝室の床に広げると、その上に、さっきつきみ上げた布おむつを一枚一枚、美香に見せつけるようにゆっくり重ねていった。布おむつにプリントされたパステルピンクのハローキティをじっと見つめる美香の顔に、なんともいえない表情が浮かぶ。 「いいわよ。紙おむつを外して、ここにお尻を載せてごらん」 すっかり準備を終えた布おむつを手の甲でぽんと軽く叩いて桂子が言った。 「でも……」 怯えたような、けれど見ようによっては何かに魅せられたようにも見える、僅かに潤んだ瞳を落ち着きなくきょときょと動かして、美香はごくりと唾を飲みこんだ。 「なぁに、自分で紙おむつも外せないの? やれやれ、困った子だこと。――でも、仕方ないわよね。資料室だろうと仕事場だろうと、どこででもあたりかまわずにおしっこを洩らしちゃうような赤ちゃんだものね、美香は。おもらし赤ちゃんが自分で紙おむつを外せるわけないわよね?」 美香が困った顔をしている理由をわざと取り違えてみせて、桂子は悪戯っぽく笑って言った。 「そんな……」 「じゃ、私が外してあげる。紙おむつを外して可愛いい布おむつをあててあげるから、少しの間おとなしくしてるのよ。いいわね?」 桂子は美香の返事も待たずに、若い弾力のある肌を優しく抱きすくめた。 思わず後ずさる美香の細い手首をつかんで自分の方に引き寄せ、赤く上気した頬にそっと唇を寄せる。 「あ……」 短い呻き声を洩らしたきり、美香は口をつぐんだ。ひょっとしたら微かに喘いでいるのかもしれないけれど、荒い息づかいにかき消されて桂子の耳には届かない。 桂子は左手を美香の右の肩から左の脇下へまわして体を抱き寄せると、頬に押し当てていた口をゆっくりゆっくり動かして、ぷっくりした唇に重ね合わせた。 美香の体がぐにゃりと崩れそうになる。 桂子は左手で美香の体を支えたまま、それまでつかんでいた手首を放して、そろりそろりとスカートの中に右手を差し入れた。 桂子の右手は美香の膝から腿へ這って行き、紙おむつの表面を探るように撫でると、やがて、腰のくびれに辿りついた。 「この紙おむつはこうして外すのよ」 美香の口の中に赤い舌をちろちろと蠢かせながら、くぐもった声でそう言うと、桂子は腰回りのあたりから紙おむつの中に手を入れて、力いっぱい横へ引っ張った。 鈍い音がして、紙おむつの横側が縦に裂けた。 それから、もう一方の横側も破ってしまうと、それまで美香の下腹部を覆っていた紙おむつが大きく開いて、もこもこ膨らんだ一枚のぼろきれに変貌する。――パンツタイプの紙おむつは、尿を失禁してしまった病人が汚れた紙おむつを自分で外しやすいようにという目的で、わざわざ体をかがめて脱がなくてもいいようにできているからだ。 強引に下着を破り棄てる(破り棄てられる)ような、いいしれぬ倒錯の悦び(切なさ)が桂子(美香)の背筋を貫いた。 美香の下腹部から剥ぎ取った紙おむつを無造作に投げ捨てた桂子の右手が美香の股間にもぐりこんだ。 ぬるりとした感触が伝わってきた。水やおしっこではない、もっと粘っこい液体が美香の黒い茂みをしとどに濡らしている。 それは、桂子が美香の体に触れてから溢れ出してきた愛汁などではなかった。おそらく、もっと前から美香の秘部を濡らし、白い肌と黒い茂みに絡みついていたにちがいない。そうでなければ、投げ捨てたばかりの紙おむつの内側があれほどじとじと湿っている筈がない。 「そろそろ白状なさい、美香。紙おむつにお尻を包まれて感じてたんでしょう?」 桂子は、美香の股間をまさぐっていた右手をゆっくり持ち上げた。人差指と中指との間に、細い糸が見えた。いやらしくてらてら光る愛汁がねっとりした糸になって指と指とを繋いでいるのだった。 「むぐ……」 桂子の唇に口を塞がれ、舌さえ自由に動かせずに、美香は言葉にならない喘ぎ声を洩らした。 桂子は自分の右手を美香の目の前に突きつけて、ゆっくり唇を離した。 ――はぁはぁはぁ。 水の中から陸に上がってやっとのことで息を吹き返したように大きく胸を膨らませると、美香は口を半開きにして深呼吸を繰り返した。それは、けれど、息を整えるためというよりは、桂子に見透かされた胸の内をどう表現していいのかわからずに戸惑っているせいだった。 「どうなの、美香?」 桂子は、らんらんと輝く瞳で美香の顔を見つめた。 美香はぐずぐずと首を振るばかりで、何も応えない。――桂子が見当外れのことを言っているからではない。桂子は何もかもお見通しだった。それだからこそ、まるで手に取るように自分の気持ちを見透かされたからこそ、美香は一言も応えられないでいる。自分の本当の気持ちを桂子に告げるのがあまりにも恥ずかしいことだから。 「そう、いつまでもだんまりを続けるつもりなのね。それならそれでいいわ。でも、いつまで続くかしらね」 桂子は、それまで美香の体を支えていた左手を静かに離した。 まるで一切の力が抜けてしまったようにぐにゃりとした美香の体が、床の上にそっと倒れてゆく。セミロングの髪をほんの少しだけ前の方にそよがせて、ゆっくりゆっくり仰向けに倒れてゆく。糸の切れた操り人形みたいに、頼りなく無防備に倒れてゆく。 倒れこんだ美香の腰のあたりに腕を伸ばして、桂子は美香のスカートのサイドジッパーを引きおろした。微かに羽音のようなジーッという音を回りに響かせてファスナーがおりてしまうと、桂子はスカートの腰回りに手をかけて、力まかせにずりおろした。 膝頭の上をするりと滑ってまるで無抵抗に引きおろされたスカート。 上半身こそ清楚な純白のブラウスに身を包まれているものの、今、美香の下半身は剥き出しだった。スカートを脱がされ、ショーツの代わりに着けていた紙おむつを剥ぎ取られて、美香の下腹部は生まれたままの姿にされてしまった。ただ一つ、二課の部屋で美香のおしっこを僅かに吸い取った白いソックスを除いては。 美香は慌てて両手で秘部を隠そうした。 その手を、美香が無慈悲に払いのけてしまう。 美香は頭を床につけたまま力なく首を振った。 桂子は美香の両手を自分の手で押さえつけるようにして大きく体の横に開かせると、美香の両脚の間に膝をついて、そろそろと顔をおろした。 桂子の顔が、黒い茂みにねっとり愛汁が絡みついた美香の股間に近づいてゆく。 「いけない子ね、美香は。こんなにお股を濡らしちゃって。待ってなさい、すぐに私がきれいにしてあげるから」 美香は、白蛇のように赤い舌をちろちろと動かしながら、美香の恥ずかしいところに口を寄せた。 若い同性の体臭にクンクンと鼻を鳴らす美香の舌が、美香の右脚の付け根のあたりにそっと触れた。 「あん……」 体全体をびくんと震わせて美香が喘いだ。 ねっとりした愛汁の感触を楽しむように、桂子の舌が美香の肌をざらりと嘗めまわす。そのたびに、萌え出たばかりの若草に付いた朝露のように黒い茂みに絡みついた愛汁がきれいに拭い取られる。 桂子は美香の柔肌に唇を押し付けたまま、ゆっくりゆっくり首をめぐらせる。 そしていつしか、桂子の唇は、茂みの中で小高く盛り上がった肉の丘に迫って行く。 「ひ……」 敏感な部分に近づいてくる桂子の舌の感触に、美香は悲鳴のような呻き声をあげた。 泣き声のようにも聞こえる美香の呻きが、桂子の胸の奥底にひそむ異形の欲望を心地よくくすぐる。 そうして、ついに。 ぴちゃ……ぴちゃ……。 本能のまま子猫が浅い皿からミルクを飲むような音をたてて、桂子の舌が美香のピンクの肉壁をこじあけて、そこからとめどなく湧き出る愛汁をすすり始める。 「いや、いやぁ……」 両手を押さえられたまま体を起こすこともかなわず、息も絶え絶えに美香が呻く。 けれど、まさか、桂子がそれでやめる筈もない。桂子は舌の先をストローのように丸めて、美香の感じやすい部分にそっと差し入れた。 「だめぇ、そんなことしたらおしっこが出ちゃうぅ……」 はぁはぁと途切れがちの息に交ざって、切なげに震える美香の声が寝室の空気を震わせた。 もう一度、まるでとどめをさすように舌の先で美香を責めてから、桂子はゆっくり顔を上げた。そうして、おだやかな池の水面をわたる波紋のように美香の下腹部が微かに震えているのを目にして静かに頬笑んだ。 「本当に美香は困った子ね。いったい何度おもらしをすれば気がすむのかしら。でも美香はおもらし赤ちゃんだもの、仕方ないかもしれないわね。――少しだけ待ってなさい」 桂子は、真っ赤になって震えている美香の顔に視線を移して、わざとのように優しく言った。 桂子は美香の足首をつかんで高く持ち上げた。それから、すぐ側にあるおむつカバーと布おむつを美香のお尻の下に手早く敷きこむ。 桂子に敏感な部分を責められてあやうくおもらししそうになっていた美香は、不意に敷きこまれた布おむつの予想外に柔らかな感触に身悶えした。物心ついてからは初めて味わう優しい感触(そのくせ、とても恥ずかしい感触)に緊張の糸がぷっつり切れてしまいそうになる。 美香は、とろんとした目で桂子を見上げた。 桂子は右手で美香の足首を持ち上げたまま、左手で布おむつを美香のお尻の下から両脚の間を通して、おヘソのすぐ下へまわした。 お尻の下だけに感じていた柔らかさが、今度は美香の秘部を包みこむ。 「あ、ああ……」 とうとう我慢できなくなって、美香は体中の力を抜いた。 股間から流れ出た温かいおしっこが、桂子があててやったばかりの布おむつをあっという間に濡らしてゆく。まだおむつカバーで包みこんでいないから、美香のおしっこが布おむつに吸収されて、でも吸収しきれないおしっこが布おむつの表面に滲み出して小さな滴りになって、それから下の方へゆっくり流れて行く様子がはっきり見える。 桂子は軽く頷いてから、おむつカバーの横羽根を留めた。そうして前当てを閉じて、マジックテープを留めてゆく。 桂子がそうしている間も、美香にできるのは、唇を震わせておむつを濡らすことだけだった。とめどなく溢れ出るおしっこが布おむつに吸収されながらゆっくりおむつカバーの中に広がる感触は、どちらかといえばさらりとした紙おむつの時とは比べものにならないほどの羞恥を美香に味わわせる。それが甘美な切なさを心の奥底に芽生えさせていることを、真っ白に熱く膨れ上がる意識の中で、美香は妙にはっきり感じていた。 「思いきり出しちゃっていいのよ、美香。美香は私の可愛いいおもらし赤ちゃんなんだから」 おむつカバーの中から小川のせせらぎのような微かな音をたて続ける美香の上半身をそっと抱き起こして、美香はあやすように言った。 美香はもう抵抗することなく、桂子の胸に額を押し付ける。 桂子は自分のブラウスのボタンを外した。そうして、片手でブラジャーのホックも外してしまう。 桂子の乳房があらわになると、美香が自分から唇を寄せてきた。 美香の唇が桂子の乳首をふくんだのは、そのすぐ後だった。 排泄じゃなくて、おもらし。 失禁でもなくて、おもらし。 おしっこは、自分の体から流れ出す汚水なんかじゃない。世界中の誰よりも大好きな自分自身の体から溢れ出る、温かくいとおしい分身だ。 さっさとトイレへ流しちゃうのは可哀相すぎる。もっと私の体にまとわりついてほしい。もっともっと私の体でおしっこの温かさを感じたい。 だから、おもらし。 私のお気に入りのショーツを濡らして、それから、私の内股を伝って。たっぷり時間をかけて私の体から離れて行くおしっこ。 そのための神聖な、そして狂おしいほどに淫らに心を揺さぶる儀式。 それが、おもらし。 ――そんなふうに感じている人たちが、確かにいる。それを意識しているかどうかはどうでもいい。 たとえ意識していなくても、自分自身も覗きこんだことのない心の一番深い所にひっそり揺れる頼りなげな感情の微かな動きだとしても、桂子には、そんなささやかな感情の揺れがはっきり見える。 一瞬でもそんなふうに感じたことのある者の傍らに、桂子はいつのまにかそっと立っている。そっと立って、甘く囁きかける。――さあ、いらっしゃい。まだ見たことのない世界へ案内してあげる。 桂子の誘いを拒める者はいない。いったんは拒むふりをしてみても、自らの胸の中にひそむ感情の命ずるまま、いつしか桂子の手に総てを委ねてしまう。そうでなければ、いくら病気かもしれないと不安を覚えたとしても、美香が自らの意志で新しい紙おむつを着けるわけがないのだから。 そう、美香はあの時、既に自身の欲望に気づいていた。ずっと前から気づいていたかどうかは知らない。それでも、桜の公園で桂子におもらしを目撃された時に美香の運命が決まったことだけは確かだった。 人は、自ら望む者と出会う。 もしもそうなら、美香と桂子との出会いはお約束だったのかもしれない。 「美香は私の可愛いい赤ちゃんよ。美香はこれまで、自分が赤ちゃんだってことも知らなかったのね。でも、もういいのよ。そのことを教えてあげるために、私がこうしてここへやって来たんだから」 おだやかな、それこそ、生まれたばかりの我が子に母乳を与える母親のようにおだやかな表情で桂子が囁いた。 純白のブラウスにレモン色のおむつカバーという倒錯的な姿で、けれどもう羞恥も屈辱も感じることなく、美香は無心に桂子の乳首を吸っている。大きなおむつカバーの中に温かくいとおしい自分自身の分身を溢れ出させながら。 「私は美香の上司なんかじゃない。美香は美香がしたくなった時にいつでもおしっこをおもらしできる赤ちゃんに戻るのよ。もちろん、私がママ。――私のこと、ママって呼んでくれるわね?」 美香のおむつカバーの中にそっと右手を差し入れて、とめどなく流れ出すおしっこの感触を楽しみながら桂子は言った。 「ママ……」 うっとりした目で桂子の顔を見上げた美香が、甘えるような声を出した。 翌日、企画二課の部屋に、せっせと資料を整理する美香の姿があった。 突然、美香がぶるっと体を震わせて、微かに潤んだ瞳を桂子に向ける。 「おしめちゃんがおもらしみたいですよ、主任」 そんな美香の様子を目にして、正恵が笑い声で桂子に言った。 『おしめちゃん』というのは、もちろん、美香の新しいニックネームだ。 「仕事中だっていうのにしようのない子ね、美香は。ま、いいわ。おむつを取り替えてあげるから、一緒に更衣室へ行きましょう」 まんざらでもない顔で、桂子が美香の肩にそっと手を置いた。 「はい、ママ」 美香は素直に頷いた。 「いいわね、おしめちゃんは。憧れの主任がママだなんて」 美香のスカートの裾から僅かに覗くおむつカバーにちらと目をやって、正恵が笑顔で言った。 「あなたのママにもなってあげましょうか、山下さん?」 桂子は正恵の顔を覗きこんで、ころころと笑った。 窓の外を、おだやかな風が吹き抜けた。 時は春。 桜の花びらを躍らせた春風が、今度は、美香のマンションのベランダに干してある色とりどりのおむつとおむつカバーを優しく揺らしている。 ひときわ強い春風が吹いて、どこから飛んできたのかピンクの花びらが一枚、暖かい日差しを浴びてゆっくり揺れるおむつカバーの上にそっと舞いおりた。 |
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