偽りの保育園児



               【四】

 通路の途中にあるベンチで待つことにした水無月と別れ、皐月に手をつないでもらい、おぼつかない足取りでやっとのことトイレに辿り着いた時には、もういつしくじってしまってもおかしくないほどになっていた。
「さ、着いた。よく我慢できたわね。年中さんや年長さんでも失敗しちゃう子がいるのに、年少さんの葉月ちゃんが我慢できたなんて本当にお利口さんだこと。保育園に通うようになっても、こんなふうにお利口さんにして、誰かにおねだりしてトイレへ連れて行ってもらうのよ」
 トイレの入り口で、皐月は、保育園で勝手にトイレへ行かないよう改めて葉月に釘を刺してから手を離した。
 弱々しく頷き、少しでも余計な力を入れたらすぐにでも失敗してしまいそうになるのをかろうじて堪えつつトイレの入り口に足を踏み入れた葉月だが、つい、いつもの癖で男性用トイレがある方に向かってしまう。
「ちょっと、葉月ちゃん、そっちは……」
 慌てて呼び止める皐月だったが、葉月がふらふらと男性用トイレに入ってしまうと、さすがにそこから先は追いかけられない。

 限界ぎりぎりの尿意のせいで呼び止める皐月の声も耳に届かず男性用トイレに入った葉月は、壁に沿って並ぶ朝顔型便器の前に立ち、いつも通りジーパンのファスナーを開けるつもりで自分の下腹部に手を伸ばしたところで、指先に触れるのが穿き慣れたデニムの感触とはまるで違うふわったしたサマードレスの素材なのに気がついて、はっと我に返った。
 直後、慌てて周囲を見回し、自分以外に誰もいないことを確認して、思わず安堵の溜息を漏らす。
 その後、葉月は男性用トイレの様子を改めておそるおそる見渡し、三つ並んでいる個室の方も、使用中か未使用かを示すためにドアに設けられた小窓が『空き』を示す青色の表示ばかりなのに気がついて、思わずそちらの方に駆け出しそうになった。
 が、そこへ、小さな男の子を連れた若い父親らしき男性が入ってきて、小花をあしらった麦わら帽子にサンドレスといういでたちの、どう見ても小学生の女の子にしか思えない葉月の存在に一瞬ぎょっとした顔になった。父親は自分が間違って女性用トイレに入ってしまったと思ったのか、慌てて踵を返しかけたのだが、壁際に朝顔型便器が並んでいるのを見て、ようやくのこと、自分の間違いではないことを確認すると、そのすぐ後、どことなく遠慮がちな様子で葉月に話しかけた。
「よっぽど慌てていたのかもしれないけど、ここは男の人のトイレだから、お嬢ちゃんみたいな可愛い女の子が入ってきちゃいけないね。あ、ううん、お嬢ちゃんみたいな子が男の人のトイレで何か悪いことをするわけがないよ。それはよくわかってるさ。でも、お嬢ちゃんみたいな可愛い子がいると、男の人の方が逆に恥ずかしくなっちゃってちゃんと用を足せないんだ。だから、ね? それに、たぶん、お嬢ちゃんのお姉さんなんじゃないのかな、入り口の所で心配そうな顔でこっちを見ている女の人がいたんだけど、たぶん、間違って男の人のトイレに入っちゃったお嬢ちゃんのことを心配しているんだと思うよ。ほら、おじさんがお手々を引いてあげるから、さ、お姉さんの所に戻ろうね」
 見るからに人の好さそうな若い父親は優しくそう言い聞かせると、右手で自分の息子の手を引いたまま、空いている方の左手で、男性用トイレの中ほどに立ちすくむ葉月の手をそっと握って歩き出した。
 父親の手を振り払うこともできず、尿意を堪えながらとぼとぼ歩き出す葉月。そんな葉月の顔を見上げて、少し前を歩く父親の体を挟むようにして葉月と並んで歩く小さな男の子がにっと笑った。まるで邪気のない、文字通り天使のような笑顔だ。それはひょっとしたら、葉月のことを(体こそ大きいものの)自分と同じくらいの年代の新しい友達ができたと思って、その喜びを表している笑顔かもしれない。いや、男の子だけではなく、父親もまた、葉月のことを自分の小さな息子と同じくらい手のかかる幼い女の子そのままに扱っているのは明かだった。そうでなければ、わざわざ葉月の手を引いて皐月のもとに送り届けるという手間のかかることなどするわけがない。そう思うと、隣を歩く男の子の笑顔に、葉月の胸は激しい屈辱と羞恥とに張り裂けそうになるのだった。

「まぁ、わざわざすみません。この子ったら、もういつ失敗してしまうかもしれないくらいおしっこを我慢していて、それで慌ててトイレに駆け込んだものですから、男性用と女性用との確認もしないまま入ってしまって。本当にお世話をかけて申し訳ありません」
 共用入り口で様子を窺っていた皐月は、若い父親に手を引かれて男性用トイレから出てきた葉月の姿を見るなり、手首をつかんで自分の近くに引き寄せ、深々と頭を下げて礼を言うと、右手で葉月の頭を押し下げさせながら強い調子で命じた。
「ほら、葉月もちゃんとお礼を言いなさい。もう五年生なんだから、どう言えばいいかくらいわかるでしょ? だから、ほら」
「……あ、あの……ありがとうございました、……おじちゃま。……間違って男の人のトイレへ入っちゃった葉月をお姉ちゃまのところに連れて来てくれてありがとうございました。葉月、もう五年生なのに恥ずかしい失敗をしちゃったけど、これからは気をつけます。でも、みつけてくれたのが……お、おじちゃまみたいな優しい人で嬉しかったです。おじちゃま、本当にありがとうございました」
 皐月に命じられるままお礼の言葉を口にする葉月。決して滑らかな口調ではなく言葉が途切れがちなのが、いかにも小学生の女の子が自分の知っているまだ数少ない語彙の中から言葉を探しているようで初々しく可憐だ。 だが、それは、葉月が自らの意志で発しているのではなく、葉月の頭を右手で押し下げさせると共に耳元に口を寄せて小声で囁きかける皐月が口移しで言わせている偽りのお礼の言葉だった。でなければ、実は男子大学生の葉月がまだ三十歳にもなっていないだろう若い父親のことを『おじちゃま』などと呼ぶわけがない。
 しかし、そのことに父親はまるで気づいていない。葉月の途切れがちの言葉を訝しむどころか、相好を崩して
「あ、いいんだよ、そんな、お礼だなんて堅苦しいことをしなくても。それに、お嬢ちゃんみたいな可愛い子から『おじちゃま』なんて呼ばれると照れちゃうし。でも、女の子もいいもんだね。今は息子しかいないけど、お嬢ちゃん、ええと、お名前は葉月ちゃんっていうんだっけ、葉月ちゃんみたいな可愛い子を見てると、女の子も欲しくなってきちゃったよ。息子も葉月ちゃんみたいな妹ができたら喜ぶだろうしね。――あ、でも、本当にこれからは気をつけるんだよ。世の中には悪いヤツもいるんだから、葉月ちゃんみたいな可愛い女の子が男の人用のトイレなんかに入っちゃったら何をされるかわからないこともあるんだよ。そんなことになったら、間違っちゃったなんて言ってるだけじゃすまないんだからね」
と照れくさそうに、そして最後の方は少しばかり説教口調で言って手を振るばかりだった。

「やれやれ、あんたのことをすっかり気に入っちゃったみたいね、あの若いパパさん。ひょっとしたら、ロリコンの気があるんじゃないかしら。『世の中には悪いヤツもいる』なんて言ってたけど、実は自分のその一人だったりして」
 親子連れが男性用トイレに戻り、二人の姿が見えなくなると、皐月が声をひそめて悪戯っぽい口調で言った。
「駄目だよ、お姉ちゃま、そんなこと言っちゃ。親切で葉月のことをここまで連れて来
てくれたのに」
 一方、葉月の方は、姿が見えなくなったとはいえ、コンクリートの壁に反響して皐月の声が父親の耳に届いてしまうのではないかと冷や冷やだ。
 が、それに対して皐月は尚も冗談めかした口調で
「へーえ。あんたがお姉ちゃまに逆らうなんて珍しいこともあるじゃない。どういう風の吹き回しかしら。ひょっとして、間違って入っちゃった男性用トイレでどうしていいかわかんなくておろおろしてるところを助けてもらって、素敵なおじちゃまにめろめろになっちゃったとか? でも、それもいいんじゃない? あんたみたいな可憐な美少女に好意を寄せられたりしたら、ロリっ気のあるおじちゃまとしちゃ絶対に放っとけないと思うわよ。それにしても、女の子になってまだ半日も経ってないのに、早速おじちゃまを虜にしちゃうなんて、そのままロリっ子アイドルになれちゃうんじゃないの、あんたって。いいじゃん、おじちゃまキラーとしてデビューしちゃいなよ」
と冷やかすことをやめない。
「そんな……」
 皐月にからかわれて葉月はどう応じていいかわからず口をつぐんでしまう。
 すると、皐月が今度は真面目な顔になって
「だけど、間違って男性用トイレへ入っちゃうところを見ると、まだまだ女の子としての自覚が足りないって言われても仕方ないわね。ちょっと踵の高いサンダルを履いただけで歩き方がぎこちなくなっちゃっうし、もっともっと女の子修行が必要みたいね。いいわ、葉月ちゃんがちゃんと女の子らしくできるよう、お姉ちゃまが徹底的につきあってあげる。先ず、手始めはトイレからよ。さっきは一人でトイレへ行かせたから男の人用の方に行っちゃったけど、もう間違えないよう、今度は最後までお姉ちゃまが面倒みてあげる。さ、おいで」
と有無を言わさぬ強い口調で言い、葉月の手首をつかんでさっさと歩き出した。
 もちろん、向かう先は女性用のトイレだ。

「ちょ、ちょっと待ってよ、お姉ちゃま。そんなに早く歩いちゃやだ。もっとゆっくり歩いてよ」
 足早にずんずん歩いて行く皐月に引きずられるようにして後を追う葉月が、体のバランスを崩して倒れそうになり、そのたびに粗相してしまいそうになるのを必死の思いで耐えながら、悲鳴じみた声で懇願した。
「ん? どうして、急いじゃいけないの? 葉月ちゃん、もうすぐにでもおしっこが出ちゃいそうなんでしょ? だったら少しでも急がなきゃいけないじゃない」
 皐月にしてみれば葉月の心情などすっかりお見通しだ。けれど、歩速を緩める気配はまるでみせない。
「で、でも、速すぎるよ。葉月、そんなに速く歩けないよ。そんなに急いで歩いたりしたら、葉月、葉月……」
 皐月の手を振りほどこうとして両脚を突っ張ったりしたら余計な力が下腹部にかかって却ってしくじってしまうことは明かだ。葉月は、足早の皐月に付き従うしかなかった。
「だから、急いで歩いたらどうなっちゃうの? きちんとお姉ちゃまに説明してごらんなさい」
「こ、このままじゃ、葉月………お、おもらししちゃうよぉ。トイレへ行く前におしっこが出ちゃうよぉ。小っちゃい子みたいにおもらししちゃうから、もっとゆっくり歩いてよ、お姉ちゃまってば」
 もうとてもではないが我慢できそうにない。思いあまって葉月は金切り声をあげた。
 が、じきに、自分が口にした『おもらし』という言葉に耳たぶの先まで真っ赤にして口をつぐんでしまう。
「あらあら、そっか、葉月ちゃん、あまり早く歩くと『おもらし』しちゃうんだ。でも、そうだよね。葉月ちゃん、体はおっきいけど、年少さんだもん、すぐに『おもらし』しちゃうのよね。ごめんごめん、お姉ちゃま、もっと気をつけてあげなきゃいけなかったわね」
 それまで葉月のことなんてまるでお構いなしに早足で歩みを進めていた皐月だが、悲鳴じみた金切り声にちらりと後ろを振り向き、葉月が顔を真っ赤に染めて唇を震わせている様子を目にすると、くすくす笑いながら『おもらし』という言葉を繰り返し言って、ようやく歩く速度を緩めた。
 けれど、皐月が歩速を緩めたのは葉月のことを慮ってのことなどではなく、単に、幾つも並ぶ女性用トイレの個室の内、皐月が目指していた一番奥の個室が目の前に迫っていたからだった。
 一応、説明しておくと、皐月が葉月をわざわざトイレの一番奥まで連れて行ったのは、少しでも長く葉月を歩かせて尿意に耐える様子を楽しむためと、葉月が勝手に女性用トイレから逃げ出さないようにするためなのは言うまでもない。



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