おしめと姉と十七歳の私


 田上裕子が玄関のチャイムを鳴らすと、待つほどもなくドアが開いて、姉の玲子――結婚したために姓が変わって、今は宮脇玲子になっている――が顔を見せた。
「ごめんね、急に」
 姉の顔を目にした途端、なぜとはなしにほっとした気分になったのと、そのほっそりした顔を見るのがずいぶん久しぶりだということもあって、少し口ごもるような言い方になってしまった。そうして、そのせいというわけでもないだろうけれど、ちょっと慌てたみたいな何か取りなすみたいな感じで、姉が胸にしっかり抱いている赤ん坊に目をやると、わざとのような笑顔になってにこやかな声を出してしまう裕子だった。
「もう一年だっけ? 大きくなったね」
「でしょう? 少しだけど、平均よりも発育がいいんだって」
 玲子は、胸に抱いた赤ん坊にいとおしげな目を向けて言った。美也――一年前に生まれた自分の娘が平均よりも少しだけ発育がいいというだけのことが世の中の一大事とでもいいたげな様子さえ感じられる。
 裕子は思わず苦笑して、軽く肩をすくめながら言った。
「なんだか雰囲気が変わったみたいね、姉さん」
「そう?」
 よいしょと美也の小さな体を抱き直しながら玲子は聞き返した。
「うん、だって……」
 裕子は少し首をかしげるようにして、玲子の顔を見上げた。
「そんなことより、早く入りなさいな。せっかくの冷房が台無しになっちゃう」
 裕子の言葉を遮って、玲子が改めてドアを大きく開いた。
「あ、うん……」
 裕子は曖昧な返事をして、ちょっと雑多な感じのする玄関に足を踏み入れた。



 ほどよくエアコンの利いたリビングルームのクッションに体をあずけてしばらくすると、少し汗ばんでいた純白のブラウスがひんやりしてしてきた。
 外の暑さをまるで嘘みたいに思いながら物珍しそうに部屋の中をゆっくり見回し始めた裕子の目に映ったのは、床の上に無造作に投げ出された柔らかそうな布製のボールやプラスチックでできた動物のオモチャ、それに、表紙が開いたままになっている育児雑誌といったものばかりだった。
 本当に変わっちゃったんだね、姉さん。裕子は小さく溜め息をつくと、なんとなく冷え冷えした思いにとらわれて、心の中でそっと呟いた。
 幼い頃から裕子は、聡明な姉が大好きだった。裕子が小学校に入学した年には玲子はもう高校生になっていたが、年の離れた姉がとても勉強ができて、快活で、よく気がついて、みんなの中心にいて、とにかく誰もが一目置く存在なのだということを裕子は知っていて、そんな姉が自慢で、大きくなったら玲子のようになりたいと思い、いつでも憧れに充ちた目で玲子の姿を見上げていた。……なのに、そんな裕子の想いを知ってか知らずか、裕子が高校に入学した年の夏、玲子は、それまで勤めていた広告代理店をあっさり辞めて結婚してしまった。鋭い感性は顧客にも評価が高く、上司は会社に残るように強く勧めたけれど、玲子はいともあっさりと結婚して、専業主婦の座に収まってしまったのだ。
 玲子に憧れ、かなわぬまでも少しでも姉に近づきたいと努力し、玲子が卒業した高校にようやく入学できたばかりの裕子は、ひどい裏切り遭ったような気がしたものだった。せっかく追いつきかけた姉の背が、またすぐに遠くへ行ってしまった。それも今度は、それまで進んできた道をすっと外れて、まるで思いもしなかった方へ離れて行ってしまったのだ。実の妹から見ても溢れるくらいの才能に充ち充ちて、まるでできないことなんて一つもないようにさえ思えた美しく聡明な姉。そんな姉が自分の生き方を突如として変え、一人の男性のために家庭に閉じこもるようになるなんて、裕子にはとても信じられなかった。これまでひたすら玲子の後ろ姿を追いかけてきた裕子にしてみれば、突然、目の前の道が大きな音をたてて崩れ落ちたようなものだった。
 そうして結婚式の日以来、一年と少し前に玲子が出産のために実家に帰ってくるまで、裕子は姉と顔を会わさないようにしていた。どこにでもいるような一人の主婦としての立場に安住し、そのことに微塵の疑問も覚えていないように見える玲子の幸福そうな表情を目にするのが辛かったからだ。正直に言えば、辛かったというよりも、むしろその笑顔に憎しみさえ覚えていたのかもしれない。
 だから、美也――初めての姪が生まれた時にも、裕子はさほど嬉しくも思わなかった。子供ができるのは悪いことじゃない。でも、それにしてたって、なにもそんなに急がなくてもいいんじゃないの? 姉さんにしかできないことをもっともっとやってみて、私をもっとわくわくさせてくれてから結婚してもよかったんじゃないの? 産院から退院してきた美也の頼りない体を、自分の思いを姉に知られまいとぎこちない笑顔で事務的に抱き上げながら、心の中で叫び出しそうになったこともある裕子だった。

 高校の時も大学時代も――ううん、私は知らないけど、きっと小学校でも中学校でもそうだったにきまってる――姉さんの部屋はいつも綺麗に片付いていたっけ。机の上に並んだ教科書も参考書もきちんとしていて、そんな光景を見るたびに、慌てて自分の部屋に戻って机の上を整理したんだから。
 裕子は、膝の上に置いた拳をぎゅっと握りしめた。
 目の前には、そんな玲子からは思いもつかない、美也のオモチャが無造作に散らかったリビングの床が広がっている。
 裕子は何気なく布製のボールをつかみ上げると、ぶるんと頭を振った。そうして、しばらくはぼんやりした目でボールを見つめていたが、掌に伝わってくるその柔らかな感触を感じていると、妙に物哀しくなってきてしまう。
 やるせない気持ちを自分でもどうすればいいのかわからなくなってきた時、ドアが開いた。
「お待たせ。はい、アイスティー。レモンでよかったよね?」
 入ってきたのは、小振りのトレイを抱えた玲子だった。母親の手がトレイで塞がっているせいで抱っこしてもらえない美也も、ちょっと拗ねたような顔つきで玲子のスカートの裾を右手で握りしめて覚束ない足取りで歩いてついてきている。
 はっとしたように、裕子は手にしたボールを床に戻した。
「それで、相談っていうのは何なの?」
 びっしりと汗をかいたグラスを座卓に並べながら玲子が言った。
「うん……」
 裕子は言いよどんだ。
 玲子は美也を生んだ後、三週間ほど実家で過ごしてから夫の待つこの家に戻った。それ以後、家はさほど離れていないのに、裕子は玲子と顔を会わせていないどころか、電話で声を交わしたことさえない。目標にしてきた姉が急に生き方を変えたことに戸惑い、裏切られたように感じた心の傷跡が、結婚式の日から一年以上経っても癒されることなく、むしろ、美也の誕生によって再び傷口が広げられたように感じられたからだ。美也の誕生は、姉がもう二度と手の届かない所へ行ってしまったという事実を、これ以上はないくらいにまざまざと裕子に知らせる出来事だった。
 とはいえ実のところ、いつまでもそんな状態のままでいいと思う裕子でもなかった。このまま実の姉に対して心を閉ざし続ける寂しさを思うと、そして、目標を失ったためだろう、勉強にも身が入らず、大学受験を控えた大事な時期に成績も目に見えて落ちてきている事実を思うと、このうとましい状態をそろそろおしまいにしなきゃとも思えてくる。そんなこともあって、もうそろそろ姉に対する気持ちを切り替えてもいい頃だと自分に言い聞かせ、今朝、ちょっと相談したいことがあると電話をして、昼食を終えるとすぐにこの家へやって来たのだ。
 だけど、いざ顔を会わせて自分の気持ちを言葉にしようとすると、なんだか、恨み言になってしまいそうだった。それで、ついつい言葉が途切れてしまう。
「どうしたのよ?」
 少し心配そうな表情で玲子が裕子の顔を覗きこんだ。
「……」
 思い切って唇を開きかけて、でも、すぐに顔を伏せてしまう裕子。どうしようかというふうに、目の前にあるボールを人差指でつついてみる。
 ほんの軽く押しただけなのに、布製のボールがころころと転がり出した。
 それを目にした途端、母親にべったりだった美也がぱっと玲子のスカートから手を離して、たっと駈け出した。
 やっと歩けるようになったばかりの美也だ。誰かに支えてもらってゆっくり歩くならともかく、転がって行くボールを追いかけられる筈がない。
 案の定、三歩も進んだところで、美也はまるで無防備な格好で前のめりに転んでしまった。
「美也、大丈夫?」
 玲子が慌てて立ち上がった。
「あ……」
 裕子も思わず立ち上りかけたけれど、それまで裕子の顔を見ていた玲子の目が今はまっすぐ美也の方を向いているのに気がついて、表情をこわばらせたまま動けなくなってしまった。
 またなの、姉さん? また、私のことなんてどうでもよくなっちゃったの?
 床に倒れこんで大声で泣き出した美也の体を抱き起こしている玲子の姿を冷たい目で睨みつけながら、裕子は体を硬くしていた。
 その間にも玲子の方は、起き上がった美也の体を、どこか怪我をしていないかと素早く調べていった。幸いなことに、したたか床に打ちつけた筈の膝やお腹のあたりにもかすり傷ひとつ見当らなかった。
「ほらほら、もう大丈夫よ。ちっとも痛くないでしょ?」
 玲子は膝立ちになって、美也の体を正面からきゅっと抱きしめて優しく言い聞かせた。
 それでも、美也はなかなか泣きやみそうになかった。怪我はしていないといっても、やはりフローリングの床に倒れこんだ痛みは残っているだろうし、なにより、ボールを追いかけていて床に転んだことに自分自身がびっくりしてしまっているのだから。
「本当に大丈夫だってば。はい、これ」
 泣きやまない美也の髪を優しく撫でつけて、玲子は床に転がっているボールを手渡した。
 小さくこくんと頷いて、美也は両手でボールを受け取った。
 だけど、まだ泣きやまない。
 玲子は少し困ったような顔になって、けれどすぐに何かに気がついたような表情を浮かべると、美也が着ているピンクのワンピースのスカートに手をかけた。
 仲睦まじそうな二人の様子を少しばかり憎々しげに見つめていた裕子の顔に、微かに戸惑ったような表情が浮かんだ。
 玲子が美也のスカートをそっと捲り上げると、ワンピースとお揃いだろう、フリルがたっぷりの可愛らしいブルマーが見えた。玲子は美也の体を肩で支えるようにして、片手でスカートを持ち上げたまま、もう一方の手でブルマーの裾ゴムを軽く広げ、そのまま指をブルマーの中にもぐり込ませた。
 しばらくブルマーの中の様子を探っていた玲子だが、なにか納得したような顔になると、そっと指を引き抜いた。そうして、スカートを捲り上げたまま美也の体を抱き上げて、すべすべしたフローリングの床に横たえた。美也はまだ泣き続けていたものの、母親のすることに抵抗しようとはせず、むしろ、なんだか安心したような顔になって、玲子のなすがままになっていた。
 ワンピースのスカートをお腹の上までたくし上げてから、玲子は左手で美也の両足の足首をまとめてつかみ、そのままそっと持ち上げた。美也のお尻が床から浮いて、小さな可愛いい顔にふっと穏やかな表情が浮かんだ。
 玲子は美也の足首を高く持ち上げたまま、右手でブルマーを膝の下、ほとんど足首のあたりまで引きおろした。ブルマーの下から現れたのは、パステルカラーの水玉模様をちりばめたおむつカバーだった。
 美也のお尻を包みこんでいるおむつカバーを目にした途端、どういうわけか、裕子の頬が熱くほてった。
 理由もわからずどきどきと高鳴ってくる胸を思わず掌で押さえつけながら、裕子の目は美也のおむつカバーに釘付けになってしまった。それまでの冷ややかな視線とは少し違う、好奇の色が入り混じったような、なんとも表現のしようのない目だった。
 玲子の右手の指がおむつカバーの上を這って、美也のおヘソのすぐ下あたりにしっかり留まっている前当ての端に掛かった。そのまま軽く持ち上げるようにすると、ベリリという音がリビングの空気を震わせて、おむつカバーの前当てを留めているマジックテープが外れる。外れた前当てを美也の両脚の間におろした玲子は、今度は、おむつカバーの横羽根に手をかけた。中のおむつがずれないように左右から伸びている横羽根も、玲子が慣れた手つきで軽く引くと、やはり微かな音をたてて簡単に外れて、美也のお尻の両側に力なく広がった。
「あらら、ぐっしょりね、美也ちゃん」
 おむつカバーがすっかり広がって、中から現れた動物柄の布おむつを覗きこむようにして、玲子は優しく笑った。それから、じっとこちらを見つめている視線にようやく気づいたとでもいうみたいに、ゆっくりと裕子の方に振り向いて言った。
「転んだ拍子にしちゃったみたい。もともとそんなに我慢できるわけでもないし、ちょっとしたことですぐに出ちゃうのよね、赤ちゃんは」
「おしっこ……だったの?」
 自分のことでもないのに、頬を赤らめて裕子は口ごもった。
「うん。あまり泣きやまないからもしかしてと思って確かめてみたんだけど、やっぱりだったわ。――おむつ、取ってくれない?」
 玲子は笑顔で言った。
「え? おむつ?」
 一瞬、何を言われたのかわからなくて、裕子は思わず聞き返した。
「そうよ。ほら、あそこ」
 玲子は、夕方というにはまだ早い、少し遅い午後の太陽の光が差し込んでいるガラス戸の方に目をやった。
 そこには、燦々とした光を浴びてまだ湯気が立っていそうな洗濯物がたくさんあった。その中に、きちんと折りたたんで重ねて置いてある布おむつの山もある。
「この季節は助かるわ。朝のうちに洗濯して干しておけば、お昼ごはんを食べ終わった頃にはすっかり乾いて取り込めるんだもの」
 玲子が独り言のように呟くのを聞きながら、やっぱり姉さんは変わっちゃったんだと改めて思う裕子だった。ただ、不思議なことに、ついさっきまで――美也のおむつを目にするまで覚えていた棘々しい感じが、どういうわけかずっと薄らいでいたのも本当だった。
 裕子は玲子の言葉に意外なほど素直に従って、布おむつの山から何枚かをつかみ上げた。そして、ふと気がついて、少し離れた所に置いてある小さなレモン色のポリバケツも手に取った。
「助かるわ、ありがとう。――あら、よくわかったわね」
 おむつを手渡した後、裕子がポリバケツを美也の体のそばに置くのを目にして、玲子が目を細めた。
「うん、なんとなく」
 なんだかくすぐったそうな小声で応えて、裕子は玲子の近くに膝をついた。
「そう。やっぱり、なんとなくわかるのね」
 玲子は意味ありげに微笑むと、裕子がその意味を尋ねようとするのを無視して、美也のおしっこをたっぷり吸ったおむつを外し始めた。美也のすべすべした肌に貼りつくように濡れそぼっている布おむつを優しく外すと、裕子が用意したポリバケツの中にそっと滑らせ、いつのまにか用意していたお尻拭きで美也の下腹部を丁寧に拭ってゆく。
 もうすっかり泣きやんでしまった美也が無邪気な笑顔になった。
「よかった。やっと機嫌が直ったわね」
 玲子が誰に言うともなく呟いた。そうして、ちらと裕子の顔を横目で見て言った。
「こうして見ていると、ほんと、裕子にそっくりなんだから」
「どういうことよ、それ?」
 言われて訳もわからずにどきんと胸を高鳴らせた裕子は、ほんのりと頬を赤らめて訊き返した。
「あら、憶えてないの?」
 新しいおむつを美也のお尻の下に敷きこみながら、玲子は悪戯っぽい口調で言った。
「だから、何を?」
「裕子のおむつ、私が取り替えてあげてたのよ」
 玲子はこともなげに、でも、おもしろそうに裕子の顔を正面から見て言った。
「え……?」
 裕子は唇を半分ほど開けたまま言葉をなくした。
「やっぱり憶えてないみたいね。――裕子が生まれて一年も経たない頃からだったかな、母さん、とても忙しくなっちゃったのよ。その頃は私も子供だったからよくは知らなかったけど、実家の方でいろいろあったみたいね。それで、裕子の世話は私の役目みたいなことになっちゃって」
 玲子は視線を裕子の顔から美也の方に戻すと、新しいおむつを美也の両脚の間に通した後、横当てのおむつの端を持ち上げながら言った。
「あの頃、私は小学校の高学年だったかな。まだ育児のことなんてよく知らなくて、でも、私なりに精一杯のことはしたつもりよ。もちろん、何から何までって訳じゃないけど」
 玲子は、横当てのおむつを美也のおヘソのすぐ下に持っていってから、それを押さえるようにおむつカバーの左右の横羽根を互いにマジックテープで留めた。
「ひょっとしたら、お人形遊びの延長のつもりだったかもしれないけどね。裕子ったら、お人形よりもずっと可愛いかったし、それに、ちゃんとおしっこもするんだもん、とても楽しかったわよ」
 横羽根の上に前当てを留めて、裾からはみ出ている布おむつをおむつカバーの中にそっと押し込めばおしまい。玲子は、おむつカバーの上からブルマーを穿かせると、新しいおむつで膨らんだ美也のお尻をぽんぽんと二度ほど優しく叩いた。
 美也の手から布製のボールがころりと転がり落ちた。
 いつのまにか美也は安らかな寝息をたてて目を閉じていた。
「三時か。お尻も気持ちよくなって、お昼寝の時間ね」
 壁にかかったお洒落な時計に目をやって玲子が言った。
「ほんと、こんなところまで裕子にそっくり。時々、美也のことを裕子と間違えそうになるくらいなんだから」
「……」
 言われた裕子は、目の下のあたりを真っ赤にして何も応えられないでいる。

 急に静かになったリビングに、からんという透きとおった音が波紋になって広がった。
 はっとしたように振り返った裕子の目に、アイスティーに浮かんだ幾つもの氷が融けだして、お互いに触れ合いながら涼やかな音を立てている様子が映った。
 裕子はもういちど美也の寝顔をちらと見て、そうして、玲子の方に向き直った。
「私も、姉さんにおむつを取り替えてもらいながら眠っちゃってたの? ……今の美也ちゃんみたいに」
 恥ずかしそうに顔を伏せ気味にしたまま裕子は小さな声で言った。
「そうよ。とても気持ちよさそうな寝息を立てていたのを今でもはっきり憶えてる」
 玲子は昔のことを思い出すように細い目をして言った。それから、くすっと笑って言葉を続けた。
「赤ちゃんの頃だけじゃなくて、幼稚園に通うようになってからもね」
「幼稚園に通うようになってからも?」
 驚いたように顔を上げた裕子は要領を得ない表情を浮かべていた。
「あら、そのことも憶えてないの? 幼稚園に入ってからも、夜はよくしくじってたんだから。さすがに昼間は大丈夫だったけど、でも、時々は失敗することもあったのよ。だから母さん、とても心配してたの。小さい頃から母親があまり面倒をみてあげられなかったからかしらなんて自分を責めたりもしてたんだから」
「……」
「でも、そんな母さんの心配なんて知らなかったんでしょうね。裕子自身はそんなことお構いなしで、私がおむつを取り替えてあげるたびに安心しきったような顔でおとなしくしてたもの」
 もういちど、氷が触れ合う軽やかな音が響いた。玲子が、美也の小さな体にタオルケットをそっとかけた。
「そのポリバケツ、裕子のおむつを取り替える時に使ってたやつよ。お産で実家に帰ってた時、物置に置いてあったのをみつけて持って帰ってきたの」
 何も言えないでいる裕子の顔と、美也の濡れたおむつが入っている小さなバケツとを見比べて、玲子が静かに言った。
「だから、さっき私がおむつを取ってくれるよう頼んだ時、バケツも一緒に取ってくれたんだと思う。心の隅にぼんやりと憶えてたんじゃないかしらね、その頃のこと」
 玲子は一人で納得したように言った。
「あ、そうそう。それとね、家から持ってきたの、バケツだけじゃないのよ。バケツのすぐ近くに、裕子が使ってたおむつもきちんとたたんで箱に入れてあったから、それも持って帰ってきたの。ほつれもないし、使いこんだおむつの方が柔らかくて赤ちゃんの肌にいいから使わせてもらってるわよ。さっき取ってくれた時、思い出さなかった?」
 今にも消え入りそうな顔になっている裕子に玲子が付け加えた。
「……いじわる」
 裕子にしてみれば、蚊の鳴くような声でそれだけを言うのが精一杯だった。
「なにがいじわるよ、本当のことなのに。うふふ、ま、いいわ。それより、美也がおねむのうちに相談に乗りましょうか」
 裕子をからかうのをやめて、玲子は真顔に戻った。
「うん、あのさ……」
 玲子に促されて、今度こそきちんと話そうと思った。思ったけれど、どうしても言葉が出てこない。
 さっきまでは、恨み言になってしまいそうだから言葉に詰まっていた。でも、今は違う。なんだか自分でもよくわからない感覚が体中を走り回っているみたいで、そしてそのことが自分と姉との関係にすごく関係ありそうな気がするのに、なのに、それがどんなことな
のかちっともわからなくて……。
「私が結婚してからこっち、成績がぱっとしないそうね?」
 沈黙を破ったのは玲子だった。
「知ってたの?」
 驚いて裕子が訊いた。
「たった一人の妹のことだもん。――実は、なんだか裕子がぼんやりばかりしてるのよって母さんから何度も連絡を受けてたのよ」
 玲子は軽く頷いた。
「そう……」
 裕子は力なくうなだれた。
「今夜、泊まってけるんでしょ?」
 唐突に玲子が言った。
「え?」
「どうせ夏休みだし、一泊くらいできるんでしょう? ゆっくり相談に乗ってあげたいから」
「でも、明日は校内模試があるし……」
 裕子は口の中でもごもご言った。
「いいじゃない。学校なら、この家からの方が近いくらいなんだし。それに、ちゃんと制服を着て来てるんだもの、そのままここから学校へ行けば?」
「そりゃ、でも……」
「はい、決まりね。でも、裕子の優等生ぶりは変わらないわね。うちへ来るのにもわざわざ制服でだなんて」
 裕子の返事も待たずに玲子は一人で決めてしまった上に、妙なところで感心している。
 そのことに裕子は何も言えなかった。
 確かに、裕子はどこへ行くにも決まって制服を着ていた。でも、それは優等生だからなんかじゃない。むしろ、何をするにしても玲子を目標にし、玲子の真似ばかりしていた、どちらかといえば優柔不断な裕子だからこそ、いよいよ高校生になってお洒落を楽しむ年頃になったと同時に玲子が嫁いで目の前からいなくなってしまったためにどんな服を着ればいいのかもわからなくなって、仕方なくいつも制服を着て過ごすようになってしまったのだ。
 玲子の言葉に、裕子はちくりと胸に痛みを覚えていた。
「そうと決まったら、うんと御馳走を作ってあげるわね。ダンナが出張中だから夕食は手を抜くつもりだったけど、せっかくだから」
 裕子の胸の内なんて知らぬげに、そう言うと玲子はさっさと立ち上がってリビングのドアを引き開けた。
「ちょっと買い物に行ってくるわ。たぶん大丈夫だと思うけど、私が出かけてる間に美也が目を醒ましたら相手をしてやって。すぐに戻ってくるからね」
「え? ちょっと待ってよ、姉さんてば」
 慌てて追いかける裕子の目の前でドアが閉じた。
 玄関のドアが開閉する音が聞こえてきたのは、そのすぐ後だった。



 なんだか気が抜けてしまって、裕子はしばらくぼんやりしていた。
 夏の終わりの気怠い午後。
 エアコンの心地よい空気の中、すやすやと寝息を立てている小さな姪。
 街中の一軒屋のさほど広くない庭に花を咲かせた向日葵が、ガラス戸越しに風に揺れている。
 ガラス戸から差し込む太陽の光は、まだ、洗濯物の山にきらきらと反射している。
 なぜとはなしに心惹かれて、裕子は洗濯物の山に近づいた。
 そうして、玲子に手渡したのと同じ柄の布おむつを一枚、そっとすくい取ってみる。
 これが、私が赤ちゃんの時、ううん、幼稚園の時も使っていたおむつ。そうして今は美也ちゃんのお尻を包んでいるおむつ。太陽の光を浴びてほこほこと温かい柔らかな布の感触を、裕子は、なんだかくすぐったく思った。そっと顔を近づけてみると、お日様の光の匂いがするみたいだった。
 裕子は布おむつをぎゅっとつかんだまま美也のすぐ横に膝をついた。夢でも見ているのだろうか、美也は可愛らしい顔に時おり笑みを浮かべながら、安心しきったように寝息を立てている。
「美也ちゃん」
 裕子は小さな声で呼んでみた。
 それでも、美也が目を醒ます気配はない。
 裕子は美也の寝顔を見つめたまま、よく耳をそばだてていないと聞き逃してしまいそうな小さな声で囁いた。
「ね、美也ちゃん。どうしてそんなに気持ちよさそうに眠れるの? ママがいつも一緒だから? ママが何でもしてくれるから?」
 それから少し迷った後、こんなふうに囁いた。
「おしっこをしちゃってもママが優しくおむつを取り替えてくれるから? ――美也ちゃんのママ、私のおむつも取り替えてくれてたんだって。なのに、今は美也ちゃんのおむつしか取り替えてくれないんだよね」
 美也に向かってそう囁いた時、裕子には、はっきりわかった。玲子が職を捨てて結婚すると告げた時に感じたやるせなさ。あれは、せっかく才能に恵まれた玲子がその才能を放棄しようとしていることに対する怒りなどではなかった。そう、自分が目標にしていた一人の女性が生き方を変えるということへの反発などではなかったのだ。そんなものではなく、もっと身近な感傷――自分のことをとても愛してあれこれと世話をしてくれた優しい姉を奪い去ってゆく見知らぬ誰かへの嫉妬そのものだった。
 だからこそ、美也が生まれた時も、さほど祝福する気にもなれなかった。今度は、生まれたばかりの赤ん坊に自分の姉の愛情が全て注ぎ込まれるのがわかっていたから。
 見知らぬ誰かに姉を奪い去られ、気がつけば、姉は自分以外の小さな女の子だけを見つめている。
 誰よ、私のお姉ちゃんを連れて行っちゃうのは? 私のお姉ちゃんを返してよ。
 どうしてなの? どうして私じゃいけないの?
 二年前の裕子と一年前の裕子が現在の裕子の心の中で叫んでいた。
 裕子はもういちど美也の顔を覗きこんでから、美也の体にかかっているタオルケットに手をかけた。
 そのまま静かにタオルケットを持ち上げてみても、美也は眠りこけたままだった。
 裕子は慎重な手つきでタオルケットを床の上に滑らて、美也が着ているワンピースのスカートをそっとたくし上げた。
 美也の体がぴくっと動いた。
 はっとして裕子の手が止まった。
 だけど、美也が体を動かしたのはそれだけだった。再び安らかな寝息が聞こえてくる。
 ほっとしたように裕子の手が動き出して、スカートの下のブルマーを、水模様のおむつカバーが丸見えになるまでゆっくり丁寧にずりおろしてしまった。
 玲子の真似をするみたいに、裕子は美也のおむつカバーの裾からそっと指を差し入れてみた。
 おしっこは出ていないようだったけれど、もともと幼児は体温も高く汗をかきやすいこともあって、おむつカバーの中はじっとりと湿っぽい感じがした。布おむつが美也の汗を吸ってほんのり湿っているのがわかる。
 ほどなくしておむつカバーから引き抜いた指先をじっと見つめていると、なんだかとてもいけないことをしてしまったような思いにとらわれてくる。どきどきと高鳴る胸を鎮める間もなく、裕子は急いで美也のブルマーとタオルケットを元に戻した。
 はあはあと浅いくせに回数ばかりやたら多い呼吸を何度も繰り返して、やっと人心地がついてくる。
 そんな裕子の目の前で、相変わらず美也がすやすやと寝息を立てている。
 裕子は、まだ手に持っているおむつを睨みつけた。
 おむつをあてれば、美也ちゃんみたいな幸せに包まれるんだろうか。
 私もあててみようかな。
 そうすれば、小っちゃかった頃に戻れるのかもしれない。
 裕子はごくりと唾を飲みこんで、美也に添い寝するような姿勢で横になった。
 制服のスカートをおそるおそるお腹の上にたぐり寄せてから、僅かにお尻と膝を持ち上げて、純白のショーツをずりおろす。裕子の頭に中に、おむつを取り替えるためにブルマーを引きおろされていた美也の姿が浮かび上がってきた。
 ショーツを太腿のすぐ下までおろしてからも、裕子は少し迷った。本当にこんなことをしていいの? もう高校生にもなって赤ちゃんみたいにおむつだなんて。
 けれど、それもほんの短い間。
 すぐ横で眠っている美也の横顔を目にすると、なんの迷いもなくなってくる。
 お尻と床との間に手探りでおむつを敷きこむと、ゆっくりゆっくりお尻をおろしていった。柔らかい布が触れる感覚があって、裕子の体がぶるっと震えた。思わずあっという声を出してしまいそうになるのをなんとか我慢して、軽く膝を立てた姿勢のまま、布おむつを両脚の間に通して下腹部を包みこむ。
 少し短いような気もしたけれど、そんなことはどうでもよかった。体中がじんと痺れるような、なんとも表現しようのない奇妙な昂奮に包まれて、頬がかっと熱くなった。胸のどきどきが止まらず、腕にも脚にもまるで力が入らない。
 熱にうかされたような目を美也の横顔に向けて、裕子は震える声で囁いた。
「美也ちゃん。私も美也ちゃんと同じなんだよ。美也ちゃんと同じおむつなんだよ」
 もちろん、美也が何か応える筈もない。
 だけど、裕子は上気した顔でひとり微かに頷くと、唇をほんの僅か開いて、くすくすと小さな声を出して笑った。それは、聞きようによっては嗚咽しているようにさえ聞こえる笑い声だった。

 あ、そうだ。おむつカバーもいるんだっけ。じゃなきゃ、美也ちゃんと一緒じゃないや。
 ひとしきり笑い続けてから、裕子は妙に冷静に思いついた。
 思いつくと同時に、両手を床について上半身を起こしていた。そのまま立ち上りかけたものの、そうすると、せっかくのおむつがお尻から落ちてしまいそうだった。それに、膝のすぐ上に引っ掛かっているショーツのせいでまともには歩けない。
 少し考えてから、裕子は両膝を床につくと、よいしょと体をくねらせて、両手の掌も床についた。そうして、おむつが落ちないように両脚をぴったり閉じたまま、膝から下だけを動かすようにして、洗濯物の山に向かって這い始めた。おむつをあて、ショーツを膝の上までずりおろし、乱れたスカートの裾を揺らしながら床を這って行く裕子の後ろ姿は、幼い姪の姿と殆ど違わないようにさえ見えた。

 両脚をぴったり閉じた膝立ちの姿勢で裕子は洗濯物の中から赤いチェック柄のおむつカバーを一枚つかみ上げると、まるで宝物を扱うみたいに両手でそっと包みこむように胸に抱いて、今度は膝立ちのまま元の場所へ戻って行った。フローリングの床に当たる膝は確かに痛かったけれど、そんなことさえ気にならないほど妙な昂奮を覚えていた。
 ようやくのことで美也の横に戻った裕子は、両手で包みこんだおむつカバーをそっと床におろして、丁寧にマジックテープを外していった。
 床の上に広がったおむつカバーは、だけど、とても小さく見えた。実際、赤ん坊の美也のお尻を包みこむおむつカバーだ。裕子に合う筈がない。それでも裕子は、おむつが落ちてしまわないよう気をつけながら、ゆっくり膝を折ってお尻をおろしていった。
 お尻がおむつカバーに触れると、おむつカバーの内側に使っている素材のだろうか、ひんやりしたような、なんとなく絡みついてくるような感触が伝わってきた。布おむつの柔らかな感触とはまた違う、恥ずかしさをいや増すような、どう言えばいいのかわからない、どことなくぬめっとした肌触りだった。
 裕子は思わず、溜め息とも喘ぎ声ともつかない微かな声を吐き出した。
 どこかなまめかしくさえ聞こえるその吐息が裕子自身の耳にまとわりつきながら、やがて室の空気の中に溶けこんでしまうと、上半身だけを起こした裕子は、おむつカバーの横羽根の端を持ち上げた。けれど、もともとが赤ん坊のおむつカバーだ。裕子のウエストには短かすぎる。もちろん、前当てもそうだった。
 そんなこと、最初からわかっているつもりだった。わかっているつもりだったのに、いざそうして実際に自分のお尻を包みこんでくれないとわかると、それまでの昂ぶりが却って白々しく、なんだか瞞されたような気になってしまう。

 諦めきれない表情であれこれとおむつカバーをいじり続ける裕子の頬を、不意に一粒の涙が濡らした。
 自分でも気がつかないうちに溢れ出した涙に裕子自身が驚いて手を止めた。そのまま力なく上半身を床に倒して、相変わらず安らかな寝息を立てている美也に、少しばかり恨めしげな目を向けた。嫉妬と哀しみが入り混じった、これ以上はないくらいに寂しい目だった。
「だめだったよ、美也ちゃん。私、美也ちゃんと一緒じゃないんだ。やっぱり、私じゃだめなんだよ」
 呟く裕子の声は震えていた。
 あとからあとから涙が溢れてきて、天井がぼんやり滲んで見える。
「そうだよね。いまさら私が昔の頃に戻れる訳がないよね。美也ちゃんみたいになれる訳がないよね。ほんと、馬鹿みたい」
 なんだか、何もかもがどうでもよくなってきた。何のために玲子に会いにきたんだか、そんなこと、もうどうだって……。
 泣き疲れて眠ってしまう幼児のように、知らぬまに裕子の瞼が閉じていった。自分が今どんな格好をしているのか、それも気にならないほど疲れてしまったみたいだった。



「――なさい、裕子。ほら、もうすぐ夕飯ができるわよ」
 誰かに揺り起こされて、裕子はぼんやりと目を開けた。天井の蛍光灯が眩しい。
「目が醒めた? よく眠ってたわね」
 聞こえているのが玲子の声だとわかって、次第に意識が戻ってきた。
 焦点が合ってきた裕子の目に、玲子に抱っこされて嬉しそうにしている美也の顔が映った。
「あ、私……」
 体を起こそうとして、お腹の上に何かがかけられているのに気がついた。目を凝らしてみると、玲子が美也の体にかけてあげたタオルケットだった。それが今は裕子のお腹を覆っている。
 その時になって、自分がとんでもない格好で眠ってしまったことを思い出した。
 やだ、姉さんに見られちゃった。
 裕子はぎゅっと唇を噛みしめた。
 けれど、玲子の方はいつもと変わらない様子だった。買い物に出かける前とちっとも違わない口調で
「裕子の好物ばかりだからね。顔を洗ってすっきりしてきたら?」
と言っている。
 あれ、見られなかったのかな? ひょっとして、うまい具合にスカートに隠れてたのかしら?
 ちょっとだけ安心して、裕子はそろりと上半身を起こしてみた。
 その途端、裕子の顔が蒼褪めた。
 すぐ横に制服のスカートがきちんとたたんで置いてあることに気がついたからだ。
「シワになるといけないから脱がせてあげたのよ。明日、学校へ穿いてくんでしょう?」
 裕子の困惑した視線に気づいただろうに、玲子はこともなげに言った。
「ついでだから、ショーツも洗濯しておいてあげるわね。心配しなくても、乾燥機を使えばすぐに乾くわよ。どうせ、美也の洗濯物もあるし。ほんと、小っちゃい子がいると、お洗濯だけで一日が終わっちゃう」
 玲子はレモン色のポリバケツに意味ありげな目を向けた。
 はっとして振り向いた裕子の目にとびこんできたのは、美也のおむつと一緒にポリバケツに放りこまれた純白のショーツだった。それは、裕子自身が膝まで引きおろしたショーツだった。だけど、確かに膝までは引きおろしたけれど、脱いでしまった憶えはない。
 しかも、ポリバケツの中にあったのはそれだけではなかった。裕子が洗濯物の中からつかみ上げたおむつカバー――一度は裕子のお尻に触れた赤いチェック柄のおむつカバーも、ショーツに絡みつくみたいにして一緒にあった。
 裕子は両目を大きく見開いたまま、身じろぎ一つできずにいた。
「ほら、何をしてるの? 早く顔を洗ってこないと、涙の跡が残ったままよ」
 身動きできないでいる裕子に言い聞かせるようにそう声をかけると、玲子はさっとタオルケットを剥ぎ取った。
 お腹から膝のあたりまでを覆っていたタオルケットがなくなって、裕子の下半身が丸見えになった。上着は高校の制服のままだったけれど、その下に身に着けていたのは、思いもしないものだった。
 裕子のお尻を包みこんでいるのは、ぷっくり膨れた淡いピンクのおむつカバーだった。
 信じられないものを見たようにぽかんと口を開け、そのすぐ後で、見開いたままの大きな目で玲子の顔を振り仰ぐ。
「近くの薬局に売ってる中で一番可愛いいのを探してきたのよ。ほんと、よく似合ってるわ」
 裕子の驚きをよそに、玲子はにこやかな笑顔で言った。それから、胸に抱いた美也のブルマーを引きおろすと、美也の下腹部を裕子の目の前に突き出すように抱き直した。
「ほら、美也も同じようなおむつカバーを持ってるの。お昼寝から醒めた時、おむつがぐっしょりだったから、ついでにおむつカバーも取り替えたの。ね、無地だけど可愛いいおむつカバーでしょう?」
 おむつのせいでぷっくり膨れた美也のおむつカバーを見せつけられた裕子の顔が真っ赤になった。私も目の前の美也ちゃんと同じなんだ。そう思うと、恥ずかしさが体中を駆けまわる。
「いいのよ、恥ずかしがらなくても。おむつをあてていたいんでしょう?」
 もういちど美也の体を抱き直し、今度は裕子と向かい合うようにして美也を床におろしながら、玲子は静かに言った。
「そんな……」
 真っ赤な顔で裕子は口ごもった。
「正直に言うとびっくりしたわよ、お買い物から帰ってきてこの室に入った時には。美也の横で、おむつ姿の裕子が寝てるんだもの」
 玲子は、美也が倒れないように軽く肩を支えて言った。
「でもね、裕子の涙の跡を見つけて、なんとなくわかったような気がしたの。美也のおむつを取り替えてた時も、裕子、なんだか怖いくらいにじっとこっちを見てたしね」
 美也が裕子の方に歩き出そうとしていた。
「そうしてる間に美也がお昼寝から醒めてね、おむつが濡れてるのもあって泣き出しちゃったの。そのままじゃ裕子まで起こしちゃいそうだし、別の室で美也のおむつを取り替えて、そのままもういちど出かけることにしたの。今度は裕子のおむつカバーを買うためにね」
 玲子が肩からそっと手を離すと、美也がとてとて歩き出した。
「いいのよ、この家にいる間はたっぷり甘えても。私は美也のママだけど、その前に裕子の姉さんなんだから。――もちろん、おむつのお世話もしてあげる。ね?」
 言われて、裕子は小さく頷いた。
 なんだか、恥ずかしいのがどこかへ行っちゃって、胸の中が温かくなってくるみたいだった。
「薬局で買ってきたおむつカバーをあててあげるの、美也も見てたのよ。それまではなんとなく人見知りしてたみたいなのに、私がおむつをあててあげるのを見た後は、裕子に興味が出てきたみたい。私が夕飯の用意をしてる間も、眠ってる裕子の顔をじっと見てたもの」
 裕子のすぐ前までやってきた美也は、ちょこんと床にお尻をおろすと、自分のおむつカバーと裕子のおむつカバーをさかんに見比べ始めた。
 裕子の顔が自然と赤らんでくる。
「ひょっとしたら、新しい友達ができたと思ってるのかもしれないわね」
 興味深そうにしている美也と困惑した裕子の顔をおもしろそうに見比べて、玲子はくすっと笑った。
「姉さんのいじわる」
 裕子はぷっと頬を膨らませた。
 だけど、そのすぐ後。はっと息を飲んだ裕子が、助けを求めるような目で玲子の顔を見上げた。
 見ると、いつも自分が玲子からされていることを真似てか、美也が小さな指を裕子のおむつカバーの裾に差し入れてもぞもぞと動かしていた。
「やだ、だめよ、美也ちゃん。やだったら」
 裕子は身をよじった。
 だけど、美也はやめようとしない。新しい遊びを見つけたような気になっているのかもしれない。
 不意に裕子の顔つきが変わった。
「お願いだからやめて、美也ちゃん。本当にだめなんだから」
 表情を歪ませて裕子は体を退いた。それでも美也はやめない。
「姉さん、美也ちゃんをやめさせて。――それから、すぐに私のおむつを外して」
 裕子は、『私のおむつ』という言葉を口にする時にはさすがに恥ずかしそうに、けれど何かあせったような口調で懇願するみたいに言った。
「どうしたの?」
 訝しげな声で玲子が訊いた。
「……おしっこ」
 少しだけ逡巡して、でもじきに観念したように、裕子は玲子の顔から目をそらして言った。
「おしっこ?」
「だって……家を出る前にトイレへ行ったきりで、ここじゃ一度も行ってないし……」
 言い訳するように裕子は呟いた。
 そろそろトイレへ行きたくなっていたところへ美也が指でいじり続けるものだから、いよいよ我慢できなくなってきた。
「いいじゃない、そのまましちゃえば」
 裕子の懇願を途中で遮った玲子は、片手を腰に当てて言った。
「え、でも……」
 おろおろしたような裕子の声。
「でもじゃないわよ。考えてごらんなさい、おむつは何に使う物だったかしら?」
 玲子はわざと冷たく言い放った。
 裕子が本気で美也の手を振り払うつもりなら、そんなの簡単なことだ。それに、裕子は赤ん坊じゃない。自分でおむつを外そうと思えばいつでも外せる。なのにそうしないで玲子に頼るということは、実は裕子は心の中では――本人がそのことを意識していないにしても――おむつを濡らしてみたがっているに違いない。
 もともとが感性の鋭い玲子だ。裕子の心の中の様子がほのかに伝わってくる。
「だって、だって私は赤ちゃんじゃないのに……」
 裕子は声を振りしぼって訴えかけた。
「赤ちゃんじゃないですって? じゃ、おむつをあてたまま気持ちよさそうに眠ってたのは誰だったのかしら? 美也のおむつカバーをお尻の下に敷いたままぐっすり眠ってたのは誰だったかしらね?」
 玲子は僅かに腰を曲げると、裕子の顔を見下ろして言った。
「それは……」
「私がおむつをあててあげた時にも気がつかずにすやすや眠ってたわよね? 涙の跡を残したまま泣き疲れて寝ついちゃったのかしら、あどけなくて可愛いい顔だったわよ」
「……」
「さ、いつまでも我慢してちゃ体に良くないわ。いいのよ、そのままで。私がちゃんとおむつをあててあげたんだもの」
「いじわる」
 裕子はそっぽを向いた。
 その時、美也が指先に力を入れた。
 幼児特有の温かい手が内腿を這いまわる感触に、ふと裕子の力が抜けてしまう。
 生温かい液体が溢れ出る、じんと痺れるような感覚が裕子の体を包みこむ。
 おむつカバーの中の布おむつがじくじくと濡れてゆく。
 驚いたような顔をして、美也が裕子のおむつカバーから手を抜いた。微かに濡れた指先をじっと見て、不思議そうな表情を浮かべている。
「いじわる。お姉ちゃんのいじわる」
 『姉さん』ではなく、子供の頃そうしていたように『お姉ちゃんと』呼びながら、裕子は体を震わせた。
「いいのよ、それで。たくさん出しちゃっても、おむつはたっぷりあてておいてあげたから大丈夫よ」
 興味深そうに裕子のおむつカバーに目を向けている美也の体を後ろからそっと抱き寄せて、玲子は優しく言った。
「お姉ちゃん、出ちゃうよ。おしっこ、いっぱいいっぱい出ちゃうよ。裕子のおむつ、おしっこで濡れちゃうよ」
 裕子の目から涙が一粒、ぽろりとこぼれた。それが悲しみの涙なんかじゃないことを玲子は知っていた。
「あとでお姉ちゃんがおむつを取り替えてあげる。だから、裕子は何も心配しなくていいのよ。――あ、そうだ。濡れたおむつを外したら、美也と一緒にお風呂に入ればいいわ。体をきれいにしてから新しいおむつをあててあげる。裕子と美也がお風呂に入ってる間に、脱衣場に二人分のおむつを用意しておいてあげましょうね。二人並んで、仲良くおむつをあててあげるわ」
 玲子は、とろけるような笑顔で言った。



 翌日、姉の家から学校に向かう裕子のスカートは僅かに膨れていた。
 美しく聡明な姉の愛情に再び包みこまれた裕子がその日の校内模試でトップクラスの成績を収めたのは言うまでもない。その後も、新しい目標をみつけた裕子は、活き活きとした表情で高校生活を送っている。
 やはり玲子は、いつまでも、裕子にとってかけがえのない素敵な姉だった。


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