満たされた欲求・その後



 兄の家にやって来て一週間が過ぎた頃には、雅美はもうすっかり幼児になりきっていた。それも、本当なら自分よりもずっと年下の杏里よりも小さな、まだおむつの取れない赤ん坊に。
 その日も、先に目を覚ましたのは杏里の方だった。
 朝の九時。二重のレースのカーテンが夏の眩い日差しを穏やかに遮る中、瞼を手の甲でぐりぐりしながら上半身を起こした杏里は、すぐ隣でまだ小さな寝息をたてている雅美の顔をそっと覗きこんだ。それは、自分一人では何もできない幼い妹の様子を窺い見る姉の優しい眼差しだった。
 雅美の顔のすぐそばに、真理が雅美を寝かしつける時に口にふくませたおしゃぶりが転がっている。雅美の頬には、よだれの筋がついている。眠っている間におしゃぶりを枕元に落として、そのままよだれを唇の端から溢れさせてしまったのだろう。
「はい、まぁみちゃん、おちゃぶりでちゅよ」
 杏里は丸っこい指でおしゃぶりを拾い上げると、赤ちゃん用の枕の上で頭を少し横を向けて眠っている雅美の唇に押し当てた。三歳になったばかりの杏里だからまだたどたどしい幼児言葉なのに、いかにも自分の方がお姉ちゃんだといわんばかりの甲斐甲斐しさだ。
 無意識のうちに雅美の口が動いて、杏里が押し当てたおしゃぶりを咥えた。ゴムの乳首を噛む、くちゅくちゅいう音が杏里の耳に届く。
「ほんとうに、まぁみちゃんはおちゃぶりがちゅきなのね。おっぱいもだいちゅきだし。まぁみちゃん、かわいいわぁ」
 杏里は笑顔で言った。杏里もまだまだ幼児だから、声の大きさに気をつけるということなどするわけがない。思った通りのことを大声で口にするのが子供というものだ。
 その杏里の声で雅美も目を覚ました。瞼がぴくぴく震えたかと思うと、待つほどもなく、大きな瞳が夏の日差しを受けてきらきら輝き出す。
「あ、まぁみちゃんもおっきしたんだ」
 雅美が目を覚ましたのを見て、杏里が慌てて立ち上がった。普通なら、三歳にもなればしっかりした足取りで歩きまわるし、中には走りまわる子もいる。けれど、ホルモン異常のために巨大児になってしまった杏里は、体の発育に筋肉や骨格の生育がついてゆかないため自分の体重を持て余してしまい、伝い立ちするのがせいぜいで、這い這いで動きまわることが多かった。それが、ここ数日のうちに、おぼつかない足取りながら自分の力だけで立ち上がり、ゆっくりした足の運びとはいえ一人で歩くようになっていた。雅美がこの家にやって来て二日目、隣に住む鈴木さんの奥さんと真理が交わした「杏里ちゃんしっかりしてきたわね」「急によ、私もびっくりしているの」「赤ちゃんが下にいるものね」という会話そのまま、自分の方が雅美よりもお姉ちゃんなんだという意識がそうさせているに違いない。
「ママぁ、ママぁ、まぁみちゃんがおっきしたよー。はやくきてー」
 お腹が冷えないように上下が胸の下でボタンでつながったパジャマ姿で寝室から廊下に歩み出た杏里は、台所の方に向かって大声で真理を呼んだ。
「あ、はいはい。すぐに行きますよ。それまで、雅美ちゃんをあやしていてちょうだいね」
 杏里が呼ぶと、すぐ、真理の声が返ってきた。
「はぁい」
 杏里は返事をすると、寝室に戻って、雅美が寝ている布団のすぐそばにお尻をおろした。
「まぁみちゃん、すぐにママがくるから、まってようね。いっちょにまっててあげるから、ないちゃだめよ」
 杏里は雅美の顔を覗き込むみたいにしてそう言うと、部屋の隅に置いてあるオモチャ箱からプラスチックのガラガラを取り出して雅美の目の前で振ってみせた。
 からころ。
 からころ。
 軽やかな優しい音色が寝室の空気をそっと震わせる。
「うん、まぁみ、なかないよ。あんりおねえたんがいっちょだもん」
 すっかり身についた幼児言葉で雅美は言った。この家に来て五日目に真理の手で浣腸され、おむつの中にうんちをしてしまった雅美。うんちで茶色に汚れたおむつを取り替えられる雅美の様子をじっと見ていた杏里。雅美と杏里の立場が完全に逆転したのは、その時だった。
 本当なら、雅美の方が杏里よりも一回り以上も年上だ。だから、雅美は杏里の面倒をみてあげるつもりでこの家にやって来た。出張ばかりで留守がちの兄の代わりに、いつも一人で育児に追われている義姉の手助けをするつもりだった。なのに、この家に着いたその日に赤ん坊みたいにおむつをあてられ、おねしょでおむつを汚してしまった雅美。それ以来、杏里は雅美のことを自分よりもずっと年上の叔母だとは思わなくなり、まるで同い年の従姉妹くらいにしか思わなくなっていた。それどころか、それからしばらくすると、目が覚めているうちはおむつではなくパンツを穿いている自分と比べ、眠る時だけでなく昼間もおむつをあてている雅美のことを、自分よりも年下の赤ん坊扱いするようなそぶりもみせるようになった杏里だった。そんな中、雅美は、おしっこだけではなく、真理の手で施された浣腸のせいでうんちまでおむつの中に漏らしてしまったのだ。杏里が雅美のことを自分よりも年下の赤ん坊だと思い込むのも仕方ない話だった。それに、雅美の方も、無意識のうちに自分のことを赤ちゃんだと思い込もうとしていた。高校生にもなっておしっこやうんちでおむつを汚していると思うと、あまりにも恥ずかしい。けれど、赤ちゃんなら、いくらおむつを汚してもおかしくない。それなら、自分が赤ちゃんならおむつも恥ずかしくない筈。無意識のそんな心の動きと、いつか病院で目にしたあの光景と、そうして、おむつの柔らかでほこほこした感触とで、雅美は自分のことを杏里よりも小っちゃな赤ちゃんなんだと思い込むようになっていた。だから、杏里のことを『あんりおねえたん』と呼ぶのも自然な口調だった。
 おしゃぶりを咥えたまま喋ったために、雅美の唇からよだれが少し溢れ出した。細いよだれの筋は、唇の端から流れ出して頬を伝って滴り落ち、雅美が頭を載せている枕を濡らした。
「めっよ、まぁみたん。まくら、よごちちゃって」
 杏里が、ガラガラを振る手を止めて、雅美の胸元を覆っている大きなよだれかけの端で雅美の頬をそっと拭ってやった。めっと母親の真似をして叱るように言ったが、口調は優しい。
「はぁい、ごめんなたい、おねえたん」
 あどけない表情で雅美が言った。
 そこへ、足早に真理がやって来た。
「おはよう、雅美ちゃん。ちっちはどうかな?」
 雅美のそばに膝をつくなり、真理は言った。
「ちっち……ちっち、でてる」
 少し口ごもるように雅美は言った。杏里しかいない時ならともかく、義姉である真理を目の前にして幼児言葉でそう応えるのは、いくら自分で自分のことを赤ちゃんだと思い込もうとしている雅美でも恥ずかしく感じられる。もっとも、真理の手で初めておむつをあてられた時に比べれば、羞恥を覚える度合いもかなり小さくなってきているのも本当だけれど。
「ちっち、出てるのね。どのくらい出てるのかな」
 真理はそう言って、子供用の小さな布団を雅美の体の上からどけると、ロンパースの股間に並ぶボタンを一つだけ外して、おむつカバーの中に右手を差し入れた。
「あらあら、たくさんしちゃったのね。夜中にも取り替えてあげたんだけど、それからまた出ちゃったのね」
 おむつカバーの中の様子を探り始めてすぐ、真理はわざと大きな声で言った。それが、雅美が今にも増して自分を赤ちゃんだと思い込むように仕向けるためなのは言うまでもない。
 そうしながらも、けれど真理は不思議な思いにとらわれた。雅美が家に着いた日、杏里がおむつを取り替えてもらう様子をじっと見つめていた雅美の姿を見て、雅美を一人っ子の杏里の友達に仕立ててしまおうと思い立ち、半ば強引に杏里のロンパースを着せて杏里のおむつをあててみた。あの時は、まさか雅美が本当におねしょでおむつを濡らすなんて思いもしなかった。言ってみれば、ちょっとした思いつきの、軽い冗談みたいなつもりだった。それが、おねしょだけではなく、里香にお腹を押されたというアクシデントの結果とはいえ、みんなが見ている中、ベビーベッドの上で横になったままおむつを濡らし、更に、たくさんの目にさらされながら丸裸でプール遊びをさせられるうちに、雅美はどんどん幼児退行していったのだ。今や、杏里の友達どころか、杏里にガラガラであやしてもらう赤ん坊になってしまた雅美だった。雅美が病院で目にした光景と、その光景がくっきり心の中に焼き付いてしまっていることを知らない真理には、最初は自分が企んだこととはいえ、雅美がこんなにも赤ちゃん返りしてしまうのが不思議でならなかった。
 けれど、真理が気になったのはそこまでだった。雅美が自分の家に帰るのは、始業式の一週間前だ。それまでにちゃんと元に戻しておけば、何も問題はない。それまでは杏里の妹にしておけばいい。杏里も妹ができてこんなに喜んでいるんだから――真理はそう思うことにした。実は一番喜んでいるのは杏里ではなく、自分自身だということに、真理は気づいていない。夫が出張がちのため子供をつくる機会に恵まれず、ようやく授かった杏里がホルモン異常のせいで来月から名古屋の大学病院に入院するため、ますます子供をつくるのが困難になるのは目に見えている。そんな生活の中、幼児退行した雅美が、本当に杏里の妹のように思えてならない真理だった。次の子を授かるまでに長い時間の流れを待たなければならなくなった真理にとって、目の前の雅美は、神様が憐れみを感じて授けてくれた赤ん坊だった。束の間とはいえ、赤ん坊のぬくもりを肌に感じさせてくれる、それはそれはいとおしい存在だった。自分のそんな心の動きに気づかないまま、けれど真理こそが雅美の幼児化を最も望んでいたのだ。
「でも、仕方ないわね。雅美ちゃんは赤ちゃんだもの。まだおむつの外れない赤ちゃんだもの。さ、おむつを取り替えようね。――杏里ちゃん、雅美ちゃんのおむつを持って来てあげて」
 おむつカバーの中から右手を抜き、雅美が着ているロンパースの股間のボタンをみんな外しながら真理は言った。
「はぁい、ママ。あんりがまぁみちゃんのおむつ、もってきてあげる」
 真理が雅美のおむつカバーの中を探る様子を一心に眺めていた杏里は、真理に言われるまま、その場を離れると、オモチャ箱の横に置いてある藤製のバスケットから新しい布おむつを一組つかみ上げて戻ってきた。
 その間に、真理の方は雅美のお尻を包みこんでいるおむつカバーの腰紐をほどき、前当てを雅美の両脚の間に広げ、横羽根を左右に開いていた。
 ぐっしょり濡れた布おむつは三色の水玉模様だった。本当なら純白の生地が、おしっこのせいでうっすらと黄色とも茶色ともつかない色に染まっている。
「はい、おむつ取り替えまちゅよ。雅美ちゃんの大好きなおむつでちゅよ」
 真理は雅美の両足の足首をまとめてつかむと、そのまま高々と差し上げて、わざとのような幼児言葉で話しかけた。
 心の中にまだ残っている大人としての部分が羞恥に疼く。
「いや、大好きだなんて……」
 それまでの幼児めいた喋り方とはうって変わって、思わず年齢相応の口調で羞恥の言葉を漏らしてしまう雅美。
 けれど、真理は意に介するふうもない。右手で雅美の足首を高く差し上げたまま、左手だけで濡れた布おむつを雅美の肌から剥ぎ取り、洗濯機の横から持ってきた小振りのポリバケツに手早く滑りこませる。
 雅美の下腹部があらわになった。
 鈴木さんの奥さんがおむつを取り替えた時と比べると、雅美の下腹部の翳りがなくなっていた。あの時は産毛だと言ってごまかした陰毛を、雅美が眠っている間に真理がすっかり処置してしまったからだ。少しとはいえ大陰唇が見えている性器の形まで変えることはできないものの、こうするだけでも、ずっと幼児の下腹部めいて見える。無駄毛を処置した自分の下腹部を初めて手鏡で見せられた時は随分と恥ずかしくて屈辱さえ憶えた雅美だが、今はもう気にする様子もない。むしろ、真理にお風呂に入れてもらう時、杏里から「いっしょだね、まぁみちゃん」と言われて、なぜとはなしに嬉しくさえなってくる。たしかに、それまでは、いくら自分が赤ちゃんなんだと思い込もうとしても、お風呂に入るたびに大人のシルシを目にしてしまうから、思い込みも浅いところでとどまってしまっていたのだから。
「はい、ぱたぱた」
 雅美の下腹部がすっかりあらわになったのを見届けて、杏里がベビーパウダーの容器を真理に手渡した。
「あら、これも杏里ちゃんが持ってきてくれたの?」
 真理は少し驚いたように尋ねた。それまでも雅美のおむつを取り替える時は新しいおむつを持ってきたりして手伝ってくれていたが、真理が言わないのに気を利かせてベビーパウダーまで持ってきてくれたのはこれが初めてだった。
「うん、ママ。まぁみちゃんのおむつとりかえるとき、ママ、いつもぱたぱたしてるもん。だから、もってきたの」
 にっと笑って杏里が頷いた。
「ありがとう、杏里ちゃん。本当に杏里ちゃんはお姉ちゃんになってきたわね。ママ、嬉しいわ」
 右手で雅美の足首を持ち上げ、左手にベビーパウダーの容器を持った真理は、ご褒美に杏里の頭を撫でることができないでいた。その代わり、とびきりの笑顔で何度も頷き返してみせる。
「あんり、おねえちゃん?」
 嬉しそうに杏里が聞き返した。
「そうよ、すっかりお姉ちゃんになっちゃったのよ、杏里ちゃんは。ママ、びっくりしちゃった。だから、これからも、ちゃんと雅美ちゃんの面倒をみてあげてね」
 もういちど、真理は大きく頷いてみせた。
「はぁい、ママ」
 明るい声で応えて、杏里は真理の手の動きを追いかけ始めた。いつか自分も雅美ちゃんのおむつを取り替えてあげたい、そう思って、真理の手つきを覗きこんでいるに違いない。
「でも、杏里ちゃんに比べて、雅美ちゃんはいつまでも赤ちゃんのままね。杏里ちゃんはもう夜のおむつも外れたのに、雅美ちゃんは昼間のおむつも取れないんだものね」
 独り言みたいに真理は呟いた。けれど、それが雅美の耳に届くように言っているのは明らかだった。 雅美が恥ずかしそうにほんのりと頬を染めるのを見て、真理は面白そうにくすっと笑って、ベビーパウダーのパフを持つ手を動かし始めた。
 甘い香りが部屋に満ちてくる。
 その香りを嗅ぐたびに、雅美は、自分が赤ちゃんになったんだという思いを強くしていた。幼い頃、本当に小さくて本当におむつの取れない赤ちゃんの時に嗅いだ香りを憶えているわけがない。憶えているわけがないのに、どうしてだか、とても懐かしい匂いだった。その香りに包まれると、母親の手に抱かれていた頃に戻ってゆくように思えて仕方ない。
 どことなくうっとりした目で、雅美はおしゃぶりの乳首をきゅっと噛んだ。
「そうよ、雅美ちゃん。すぐにすむから、そうやっておしゃぶりを吸って待っててね」
 真理はあやすように言うと、パフを容器に戻して、杏里が持ってきた新しい布おむつをつかみ上げた。
「やっと杏里ちゃんのおむつが外れたと思ったら、今度は雅美ちゃんのおむつのお世話をすることになるなんて思ってもみなかったわ。私の手が休まるのはいつになるのかしら、本当に困った子だこと」
 困った子と言いながら、満更でもなさそうに真理はうふふと笑った。
 真理の言葉に、思わず雅美は目を閉じてしまう。意地悪で言っているんじゃないということはわかる。もともと、自分でもおむつをあててみたかったのも本当だ。でも、体を貫くような羞恥が駆けめぐる。そうして、その羞恥が、表現しようのない快感へと変貌してゆく。
「ん……」
 新しいふかふかの布おむつが下腹部に触れた途端、雅美は喘ぎ声を漏らしてしまった。決して幼児の泣き声などではない、大人の女性の喘ぎ声だった。
「うふふ、本当に雅美ちゃんはおむつが大好きなのね。おむつをあててあげている間に、こんなに濡らしちゃって。おしっこじゃない濡れかたよ、雅美ちゃん」
 わざとゆっくり新しいおむつをあてながら、真理は雅美に向かって囁きかけた。
 真理の隣では、母親が言っていることの意味がわからずに、ただ雅美の下腹部をじっと見つめながら杏里が床にお尻をおろしている。杏里が着ているパジャマのお尻は、雅美の下腹部とは違って、おむつで膨らんでいたりはしない。杏里は、雅美がこの家にやって来た日からこちら、一度もしくじっていないのだ。だから、三日前から、夜眠る時にも真理は杏里におむつをあてていない。さっき言った通り、杏里はもう夜も昼もパンツで大丈夫になっていた。なのに、雅美の方は……。
 寝室の二重のカーテンを引き開ければ、大きな窓を通してベランダが見える。物干し場にもなっているベランダには、杏里が目を覚ます前に真理が干し終えた洗濯物が風に揺れている。その中に混ざるたくさんの布おむつとおむつカバーは、どれも雅美が汚した物だった。杏里のおむつが外れた今、この家には、おむつを汚すような赤ん坊は雅美しかいないのだ。
 新しいおむつをあてたら、カーテンを引き開けて、風にそよぐたくさんのおむつを雅美に見せてやろうと真理は思っていた。あれはみんな雅美ちゃんが汚しちゃったのよと言葉にして教えながら指さしてやろうと思っていた。いつのまにか、雅美が恥ずかしそうにする様子を目にするのが楽しくてたまらなくなってしまった、少し意地悪な真理だった。



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