満たされた欲求・その後



 そんなふうにして、いつもと同じように今日も始まった。
 けれど、午後になって一本の電話がかかってきたところから、いつもと違う日へと変わってゆく今日だった。

「はい、島崎でございます。――ええ、はい、私ですけれど」
 雅美と杏里がお昼寝を始めて、洗い物を始めようかと台所に立ったところにコール音が鳴って、真理は受話器を取り上げた。
「え? でも、急に、そんな……ええ、だけど、なんとかもう少し後に……ああ、そうなんですか。じゃ、あの、はい、承知しました。――明日の昼一番に伺います」
 どこか重々しい手の動きで受話器を戻した真理は、何かを考えるように腕組みをしたまま、しばらくの間その場に立ちすくんでいた。
 そうして、ようやく決心したように小さく頷くと、寝室に入って、杏里と雅美が安らかな寝息をたてているのを確認してから、足音を忍ばせて玄関を出た。化粧を直すわけでもなく、サンダル履きで出かけたところをみると、それほど遠くへ行くつもりはないらしい。
 実際、真理の行く先は本当にすぐ近くだった。近くも近く、真理が向かったのは、同じマンションの隣に住む鈴木さんの部屋だった。
 インターフォンの呼び出しボタンを押して一言二言やり取りがあって、すぐにドアが開いた。
「どうしたのよ、そんなに思い詰めた顔しちゃって。相談したいことって何なの? あ、とにかく中にどうぞ。ドアを開けっ放しじゃ、せっかくのエアコンが無駄になっちゃうし」
 顔見知りの奥さんは、ドアを開けるなり一人でそう言って、真理の手をつかむようにして玄関に招き入れた。そうして、足早にダイニングルームへ案内する。
「アイスコーヒーでいい?」
 真理をダイニングルームの椅子に座らせて、奥さんがキッチンから声をかけた。
「いいわよ、そんなに気を遣ってもらわなくても」
 真理はそう言ったが、真理が言うよりも早く、トレイを手にした奥さんがダイニングに戻ってきて自分も手近な椅子に腰をおろしていた。
「はい、どうぞ」
 奥さんが、びっしり汗をかいたグラスを真理の目の前に置く。
「あ、じゃ、遠慮なしに」
 言葉を返して、真理はストローに口をつけた。
「で、何の相談?」
 こちらはまるでアイスコーヒーに手をつける気配もなく、真理が一口コーヒーを飲むのを待って、奥さんが切り出した。
「あ、うん……」
 言われて、真理はストローから口を離すと、気遣うように周りを見渡した。
「……里香ちゃんは?」
「リビングでお昼寝してる。贅沢になっちゃって、クーラーのある部屋じゃないとお昼寝してくれないのよ」
 そう言って、奥さんはちょっと肩をすくめてみせた。
「そう。――相談っていうのは、うちで預かってる子、雅美ちゃんのことなんだけど……」
 真理は言葉を探すみたいにして話し出した。
「雅美ちゃんがどうかしたの? 病気か何か? 昨日遊びに行った時は元気そうだったけど」
 奥さんは少し首をかしげて訊き返した。
「病気じゃないんだけど――うちの真理が九月から名古屋の病院に入院するのは話してたわよね?」
「うん、それなら聞いてるわよ。聞いたのは三ケ月ほど前だったかしら。でも、そのことはまだ里香には話してないけど――仲良しの遊び相手と離れ離れなっちゃうの、どんなふうに説明していいか、まだ私も考えてるところだから」
「でね、入院に先立って、明日にでももういちど検査をしておきたいことがあるって電話があったのよ。明日の昼一番に来てほしいって」
「なによ、それ。随分と勝手なこと言ってくるじゃない。大学病院だと思って、えっらそうにしてるのね」
「うん、まぁ、私もそう思うけど、でも、仕方ないしね。向こうも、担当の先生の学会の都合とかいろいろあるらしいから、それはそれで仕方ないと思うんだけど……」
 真理が口ごもった。
 途端に、何か察したように奥さんが両手を打って言った。
「そうか、だから、雅美ちゃんのことで相談なのね。明日は朝から杏里ちゃんを連れて名古屋まで行かなきゃいけない。でも、杏里ちゃんも雅美ちゃんも随分と大きいから、二人とも連れて行くなんてできない。わかるわよ、私もプールで雅美ちゃんを抱き上げてみて、すごく大変だと思ったから。いいわ、明日はうちで預かってあげる。つまり、そういうことなんでしょう?」
「うん、そうなんだけど……」
 真理はまだ思い詰めた表情のままだ。
 真理が鈴木さんの奥さんに頼みにきたのは、雅美を明日一日預かってもらえないかしらということだった。それはその通り。
 だけど、部屋が隣どうしで日頃から行き来のある気心の知れた仲だ、子供を一人預かってほしいと頼むだけのことに、今の真理みたいに思い詰める必要があるだろうか。勘のいい奥さんは、すぐにそのことに思いが至った。
「何か事情がありそうね。雅美ちゃんをうちに預けるのに、何か困ったことでもあるの?」
 奥さんはすっと目を細くして言った。
「あのね、本当だったら、雅美ちゃんを親御さんの家に帰すこともできるのよ。雅美ちゃんのご両親が長いこと不在で、だからうちで預かってるっていうわけでもないの。おうちには親御さんもいて、杏里の遊び相手になってもらおうと思ってちょっとうちに遊びに来てもらってるだけだから。でも、このまま雅美ちゃんを帰すわけにはいかないの。そうすると、とても困ったことになるから」
 どこかおどおどした表情で真理は言った。
「どういうこと?」
 要領を得ない顔で奥さんが訊き返した。
「あの、あのね……」
 真理は、大きな体をこれ以上はないくらいに小さくして言いにくそうに言った。
「……雅美ちゃん、本当は赤ちゃんじゃないの。夫の妹で、高校二年生の女の子なのよ」
 真理の言葉を耳にした途端、奥さんはぽかんとした表情になった。そうして、じきに、ぶるんと首を振って真理に問い質した。
「それ、本当なの? 本当にあの子、高校二年生なの? 高校二年生の女の子がどうして赤ちゃんの格好をして杏里ちゃんのベビーベッドに寝てたのよ? ――そりゃ、私も、初めてあの子のおむつを取り替えてあげた時、どうしても赤ちゃんのじゃないと思ったわよ。思ったけど、まさか、高校生だとは思わないわよ。島崎さんが発育のいい子だからって説明したから、それで納得しかけてたのに……本当にどういうことなの?」
 奥さんに訊かれて、真理はこれまでの経緯をみんな話した。
 雅美を一人っ子の杏里の遊び相手にしちゃおうと思いついたこと。
 最初は冗談半分だったのに、こちらが思いもしなかったほど雅美が幼児退行してしまったこと。
 今ではすっかり杏里と雅美の立場が逆転してしまったこと。
 そうして、今のままの雅美を千葉の家に帰すことはできないこと。そんなことをすれば、真理が雅美にしたことが大問題になるのは火を見るより明らかだ。嫁が、うちの高校二年生の娘を赤ん坊にしてしまった。舅と姑が真理をなじるのは明らかだ。いや、それどころか、離婚沙汰になるだろうし、真理の実家の方にも何を言われるかしれたものではない。
 そこで、真理が杏里を病院に連れて行く明日だけ預かってもらうよう依頼にきたこと。ただ、数時間くらいならごまかしようもあるけれど、一日中預かってもらっていれば、奥さんも雅美が本当の赤ん坊ではないことに気づくかもしれない。それで、先に事情を説明しておくことにしたということ。
「……はぁ、なるほど、そういうことだったの。なんだか、わかったようなわからないような経緯だけど、でも、ま、お隣さんどうし、困った時には助け合わなきゃね。いいわ、預かってあげる」
 説明を聞いて、それでもまだなんとなく納得していない顔で、だけど、奥さんはにこっと笑って頷いた。
「本当? 本当に預かってもらえる?」
 思わず真理は身を乗り出した。
「本当よ、安心なさい」
「よかったぁ。これで離婚しなくてすむわ、うちの夫婦」
 安堵の溜め息を漏らして真理は体を椅子に戻すと、ストローを使わずにアイスコーヒーを飲み始めた。
「それで、私が雅美ちゃんの正体を知ってるってこと、雅美ちゃん本人には伝えるの? それによって私も扱いを変えなきゃいけないし」
 真理がアイスコーヒーを飲み干すのを見届けて、奥さんが言った。
「ううん、それは雅美ちゃん本人には言わないつもり。だって、私以外の誰かがそんなこと知ってると思ったら、とてもじゃないけど我慢できるような恥ずかしさじゃないと思うから」
 真理は、空になったグラスをテーブルに置いて首を振った。
「そう。じゃ、私の方は、雅美ちゃんのこと、本当の赤ちゃんだと思って扱えばいいのね?」
 念を押すみたいに奥さんが言った。
「うん、そうね。そうしてもらった方が、雅美ちゃんも変なふうに思わないでしょうから」
「わかった。じゃ、ちゃんと赤ちゃんとして扱ってあげる。安心して行ってらっしゃい」
 奥さんの目が妖しく光ったことに、真理は、まるで気がつかないでいた。
「本当に助かるわ。鈴木さんも何か困ったことになったらいつでも言ってね。その時は私がなんとかするから」
 ほっと胸を撫でおろすようにして、それまでの思い詰めた表情が嘘みたいに明るい声で真理は言った。
「うん、その時はお願いするわ。――ところで島崎さん、あなた、実家が名古屋だったわよね?」
 少し間を置いて奥さんが言った。
「うん、そう。だから、実家の近くの大学病院の産科で杏里を生んだの。そういう事情もあって、今度の杏里の入院も受け容れてもらいやすかったのよ。本当なら、生んだ病院の紹介状を持って行かなきゃいけないとか、いろいろあるみたいよ、大きな病院は」
「なら、これからでも杏里ちゃんを連れて名古屋へ行って実家に泊まった方がいいんじゃないの? 朝から名古屋へ行くんじゃ、ラッシュアワーに会ったりして大変よ。それに、杏里ちゃんみたいな小さい子を朝早くから起こすのは可哀想だし」
「そりゃそうだけど……迷惑じゃない?」
 真理はちらと奥さんの顔を窺った。
「私の方は大丈夫よ。うちの旦那も今週は出張で家にいないし、里香一人の面倒をみるのも、雅美ちゃんと二人の面倒をみるのも、あまり変わらないわ。うちはいいから、そうしなさいよ」
 奥さんは笑顔で頷いた。



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