満たされた欲求・その後



 もうあと一週間で夏休みが終わるという日の昼さがり、雅美は東京駅の新幹線ホームにいた。だけど、兄の家を訪れるために新幹線のホームに立った日と同じ白の半袖ブラウスにブルーのワンピースという服装ではなく、丈の短いサンドレスの裾からレモン色のおむつカバーを覗かせた姿でベビーバギーに乗せられて新幹線ホームにいるのだった。あの日と同じなのは、頭のてっぺんで髪を二つにくくったサクランボの飾りだけだった。
 雅美が乗ったベビーバギーの隣には真理がいて、その隣には、杏里もいる。
 そうして、三人の目の前には、雅美の母親の姿があった。
「確かに、真理さんが電話で言ってた通りだわ。まさか、この子が高校生だなんて言っても誰も信じてくれないでしょうね」
 人混みを避けてホームの端に移動してから、ベビーバギーに乗った雅美の姿をしげしげと眺めて、雅美の母親が呆れたように言った。
「すみません、お義母様。可愛いお嬢さんをこんな姿にしちゃって」
 神妙な顔つきで真理は頭を下げた。
「いいのよ、真理さん。もともと、この子がこうなりたかったんでしょうから」
 母親が祖母に叱られていると思い込んでおどおどしている杏里の様子を気遣うように、雅美の母親は穏やかな声で言った。
「でも……」
 真理はどう返答していいのかわからなかった。しかし、それも仕方のないことだろう。
 杏里を名古屋の病院に連れて行き、帰ってきた時には、里香の家に預けておいた雅美の幼児退行がますます進んでいた。それ以前はまだ幼児言葉ながら「うん、まぁみ、なかないよ。あんりおねえたんがいっちょだもん」くらいのことは話していた雅美なのに、真理が隣の家へ引き取りに行った時には、それこそ、「まんま」や「ちっち」くらいの簡単な単語しか口にしなくなっていた雅美だ。それでも真理は、それも一時的なことだろうと簡単に考えていた。隣の家とはいえまるで血のつながっていない里香の家に急に預けられた不安のあまり、ちょっと幼児退行が進んだだけだろうと思っていたのだ。けれど、事実はまるで違っていた。(真理は知らなかったが)里香の母親が雅美をオモチャにして想像もできないような恥ずかしい目に遭わせ続けたせいで、雅美の心は本格的に赤ちゃん返りしてしまったのだった。これまで経験したことのない激しい屈辱と羞恥から逃れるために、自分のことを羞恥を感じない赤ちゃんだとあまりに強く思い込んだ結果だった。もともと真理が雅美を赤ちゃん扱いして杏里の友達にしてしまおうと思いたったにしても、夏休みが終わって雅美が千葉の家に帰る日までには元の高校生に戻すつもりだった。なのに、真理が思ってもみなかったほど雅美は赤ちゃん返りしてしまい、真理がどんな方法を講じても、心が高校生に戻る気配は感じられなかった。それで、仕方なく、真理は姑に電話で事実を告げたのだった。これまでの経緯と、そうして、どうしても雅美の赤ちゃん返りが治らないのだという事実を。事実を姑に告げる時、真理はそれこそ離婚も覚悟していた。夫の妹を幼児退行させてしまったことで姑からどんなになじられても仕方ないと思っていた。けれど、経緯を聞いた後に姑が電話口で言ったのは「いいのよ、真理さん。もともと、雅美がそうなりたかったんでしょうから」という言葉だった。真理は信じられない思いだったが、雅美の母親は、サンドレスにおむつカバー、よだれで汚したよだれかけという雅美の姿を実際に目の前にしても、やはり同じ言葉を口にしたのだ。
「本当にいいのよ、真理さん。この子は小さい頃――そう、五歳になったばかりの頃から、どういうわけかおむつに興味を持ち始めてね、なんだか、赤ちゃんになりたがってるような素振りもみせていたのよ。私はそのことには気がついていないふりをしていたけど、なにか理由があってのことだろうと思うと、無視してばかりいるのも少し可哀想になってね、高校生になる今まで、ずっと、小さな子供が着るようなお洋服ばかり買ってあげていたの。いくらなんでもおむつをあてて赤ちゃんの格好をさせることはできないけど、もともと小柄な子で、小学生や幼稚園児の格好がとても似合ってたから、それでこの子が少しでも満足して勉強にも身が入るならと思ったの。実際、この子は県内でも有数の進学校に入ってくれたし」
 母親はベビーバギーのすぐ前にしゃがみこんで雅美の顔を正面から覗きこんだ。
 母親の顔に、雅美は、少しはにかんだような、けれど心から嬉しそうな表情で微笑み返した。
「でも、心の中じゃ、おむつをあててほしかったんだと思うわ。おむつをあてて赤ちゃんになりたかったんだと思う。それを、たまたまとはいえ、真理さんがかなえてくれたのよ。だから、この子は自分から進んで赤ちゃん返りしたのよ。真理さんのせいなんかじゃないから気にしないでちょうだい。むしろ私は、真理さんがこの子の願いをかなえてくれたことに感謝しているのよ」
 ベビーバギーの前にしゃがんだまま、母親は真理の顔を笑顔で見上げた。
「でも、だけど、このままじゃ雅美ちゃん……」
「いいのよ。願いがかなったんだもの、いくらなんでも、半年もすれば元に戻ると思うわ。今は、せっかく本当のことになった夢の世界で遊ぶのに精一杯だけど、いつかは現実の世界に帰ってくるわよ。これから来年の春まで、雅美は休学扱いにしてもらうよう学校に連絡を入れようと思ってるの。それで来年の春、一年遅れだけど、もういちど二年生からやり直せばいいのよ。長い人生だもの、一年くらい、どうってこともないでしょう」
 言いながら、母親は雅美のおむつカバーに右手を差し入れた。
「あらあら、ぐっしょりだわ。真理さん、替えのおむつはそのバッグの中?」
「あ、はい。替えのおむつとおむつカバー、それと新しいよだれかけはバッグに入れてきました。それと、お義母さまに言われた通り、杏里が使わなくなったおむつを全部と、ロンパースやベビードレスなんかは、今朝、お義母様のお宅宛てに宅配便で送っておきました」
「そう、助かるわ。こんなに大きな赤ちゃんの着るような物、なかなか手に入らないものね。杏里ちゃんのお下がりを使わせてもらうことにして本当によかった。――ありがとう、杏里ちゃん」
 まだ身を固くしている杏里に向かって、母親はとっておきの笑顔で言った。
 みるみるうちに杏里の表情も軟らかくなる。
「いいよ、おばあちゃま。あんり、もう、おむつじゃないの。あんり、ぱんつなの。だから、おむつ、まぁみちゃんにあげるの。あかちゃんのおよふくも、まぁみちゃんにあげるの」
 少し自慢げにワンピースの裾を捲り上げ、アニメキャラをあしらったパンツを祖母に見せて杏里は言った。
「そうかい、そうかい。しばらく見ないうちに、杏里ちゃんはすっかりお姉ちゃんになったんだね」
 母親は相好を崩して言った。それから、真理の方に向き直って言葉を続ける。
「今夜は泊まってゆけるんでしょう?」
「ええ。こちらにうかがうのは久しぶりだから、もしもお義母様やお義父様さえお邪魔じゃなければ三日ほど泊めていただこうかと思ってきたんです。よろしいでしょうか?」
「もちろん、大歓迎ですよ。うちの人も、たった一人の孫の杏里ちゃんの顔を見たくてたまらないんだから」
 そう言ってから母親は冗談めかして付け加えた。
「でも、今日からは孫が増えるのかしらね。うちの人も私も、まさか、この年になって赤ちゃんができるわけないもの。年まわりからいえば、私は雅美のおばあちゃんっていう方がお似合いでしょうね」
「そんな、お義母様もお義父様もいつまでもお若くていらっしゃるのに」
「いいわよ、無理しなくても。でも、お世辞だとわかってても、若いって言ってもらうのは気持ちがいいものね。どうせならもっと若返るつもりで、明日はみんなでディズニーランドへ行きましょうか。杏里ちゃんも喜ぶでしょうし」
 少し照れたように母親は言った。
「わぁい、わぁい、ディズニーランドだぁい。あんり、ディズニーランド、とってもいきたかったの」
「杏里ちゃんに喜んでもらえて嬉しいわ。たしかディズニーランドは5歳以下の子供は無料だから、みんなで行っても安くすむわね。杏里ちゃんと雅美は無料ですもの」
 母親は雅美の方をちらと見て言った。
「まぁみちゃんもいっしょにディズニーランドぉ」
 声を弾ませて杏里が雅美の手をきゅっと握った。
「いっしょ、いっしょ」
 杏里の手を握り返して、雅美も嬉しそうに声を出してたどたどしい口調で言った。
「じゃ、乗り換えのホームへ行きましょうか。あ、でも、その前に、トイレの台で雅美のおむつを取り替えなきゃね」
 真理からベビーバギーの取っ手を受け取った母親が先に立って歩き出した。
 そこへ、真理が声をひそめて囁きかけた。
「でも、半年くらいで雅美ちゃん元に戻るでしょうか?」
「いいのよ、戻らなくても。戻らないなら戻らないで、ずっと赤ちゃんでいてくれればいいの。うちにも少しは貯えもあるし、雅美一人くらい、ずっと面倒をみてあげられるから。……でも、もしもそうならったら、いつか雅美が杏里ちゃんのこと『杏里おねえちゃん』じゃなくて『杏里おばちゃん』て呼ぶ日が来るのかしら」
 おかしそうに母親は声をたてて笑った。
「あんり、おばちゃんじゃないもん。あんり、おねえちゃんだもん」
 むきになって言い返す杏里。
 明るい笑い声を残しながら、いつしか四人の姿は雑踏にまぎれて見えなくなっていた。
 夏の終わりの昼さがり。夕方になれば、一足早い秋の気配も感じられるかもしれない。赤い夕日を浴びて雅美の家の物干し場にたくさんのおむつが揺れる時間も近づいていた。

[未完]



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