家族の肖像



 坂上雅美の父親で地元の国立大学の教育学部で教授の職に就いている勲が言うには、沼田美智子という女性と知り合ったのは、とある地域内に在る教育機関の関係者が集まって開催されたシンポジウムでのことだったらしい。美智子は公立幼稚園の園長を務めていて、シンポジウムでは幼児教育の現状と問題点、改革すべき点などを熱心に語ったそうだ。
 勲は雅美に、美智子のそんな情熱に心を惹かれたと言った。そうして、雅美がまだ小さかった頃に病気で妻を失った勲と同様、美智子も夫と死別していることを知って、いつしか逢瀬を重ねるようになっていたとも。
「それで……」
 どこか遠慮がちに、雅美の反応を窺うように、勲の言葉が途切れた。
「それで?」
 聞き返すともなく先を促すともなく呟いて、雅美はテーブルの上のティーカップに目をやった。せっかくの紅茶はすっかり冷めてしまって、もう微かな湯気も立っていない。
「……今度の日曜日、彼女が来るんだよ。お前に会いたいらしい」
 少し間を置いて、勲は真剣な目つきで雅美の顔を見ながら言った。
「結婚するのね?」
 それまでの平板な表情が嘘みたいに、雅美の顔に微笑みが浮かんだ。
「あ、ああ……そういうことだ」
 幼い時に母親を失った娘に再婚話をどうやって切り出そうか逡巡していた勲は、その娘の口から『結婚』という言葉が飛び出したために少なからず狼狽しながら、それでも平静を装って応えた。
「いいじゃない。私ももう大学生よ。父親の再婚を祝福できないような、この世にはいない母親の面影を追いかけてばかりいるような、そんな小さな子供じゃないつもりよ」
 雅美は少しだけ首をかしげてみせた。そう、私はもう子供しゃない。母親が亡くなってしばらくは泣いてばかりいたけれど、もう今はあの頃の私じゃない。今は大学生――父親が教授を務める国立大学の学生なんだから。
「ん、ありがとう。ありがとうと言うしかないな、今は」
 勲の硬い表情が緩んだ。
「で、沼田さんには子供はいないの?」
 父親の気分をほぐそうとでもするみたいに雅美は明るい声で言った。
「いるよ。たしか、この四月から高校に通っていると言っていた筈だ。雅美は四月から大学だから、むこうが三つ年下だな」
 少し考えるような表情で勲は応えた。
「男の子? 女の子?」
 雅美はテーブルの上に軽く身を乗り出した。
「女の子だ。万里子という名前の女の子で、高校じゃ手芸部に入っているとか聞いたことがあるから、おとなしい家庭的な子なんだろうな。父さんはまだ会ったことがないからよくは知らないけどね」
 勲はこめかみをぽりっと掻いた。
「じゃ、妹ができるのね。仲良くできるといいな。あ、今度の日曜、その子も来るかな」
 雅美は顔を輝かせた。
「ああ、来ると思うよ。とりあえず、みんなで顔を会わせたいと言っていたから」
 勲は小さく頷いた。
「うふふ、今から来週が楽しみになってきちゃった。――お父さん、今日の昼ごはんはスパゲティでいい?」
 ゴールデンウィークが終わって間もない季節の昼前、ダイニングルームの大きな窓ガラスから差し込む爽やかな日差しを浴びて、雅美はいそいそとティーカップを片づけ始めた。大事な話があると父親から告げられてテーブルについた時の緊張はすっかり消え去っていた。




 一週間が過ぎて次の日曜日。
 沼田母娘がやって来たのは午前十時ちょうどだった。
 勲と一緒に玄関に出迎えた雅美の姿を目にすると、母と娘は少し戸惑ったような表情で顔を見合わせた。
 二人の顔に浮かんだ不思議そうな表情はリビングルームに招き入れられた後も消えず、ことさら、お茶の準備をする雅美の甲斐甲斐しい姿を見るにつけ、ますます怪訝そうに顔を見合わせる母と娘だった。

「あの、私の顔に何か付いているんでしょうか?」
 互いに名前を告げるだけの簡単な自己紹介を終えた後、不思議なものを見るような二人の視線に我慢できなくなって、とうとう雅美は座卓の向かい側に座っている母と娘のどちらに言うともなく尋ねた。
「あ、いいえ、そうじゃないのよ。ただ、前もって勲さんから雅美さんの年齢を聞いていたんだけど、ちょっと聞き違いをしていたのかなと思って、それで、雅美さんのことをずっと見ていたの。ごめんなさい、気にしないでちょうだいね」
 雅美に尋ねられて少しばかり慌てたように美智子は言って、自分の娘・万里子の方に振り向くと、やはり慌てたような口調で囁きかけた。
「ごめんね、万里子。母さん、雅美さんの年齢を間違ってたみたい。十八歳だとばかり思っていたんだけど、本当は八歳の聞き違いだったみたい。すっかり雅美さんの方がお姉さんだと思っていたんだけど、本当は万里子の方がお姉さんだったわね」
 美智子の囁き声は微かながら雅美の耳にも届いた。美智子の囁き声が聞こえた途端、雅美の顔がかっと赤くなる。
「もう、お母さん、しっかりしてちょうだいよ。十八歳のお姉さんだっていうからどんな人なのか昨日から緊張してたのに、会ってみたら八歳の可愛い子だなんて。でも、いいわ。私、ずっと妹が欲しかったから」
 雅美が顔を真っ赤に染めたことに気づいてか気づかずか、万里子はくすっと笑って母親にそう言った後、雅美に向かって微笑みかけた。
「でも、雅美ちゃんはお利口さんね。まだ小っちゃいのに、ちゃんとお茶をいれられるんだもの」 
 雅美の顔がますます赤くなった。
 赤い顔で何か言おうとするのだが、何をどう言えばいいのかわからないみたいで、あの、あの、と口をぱくぱくさせるばかりだ。
 そんな雅美に助け船を出したのは勲だった。勲は少し困ったような笑顔で美智子と万里子にこう言った。
「いえ、美智子さんの聞き違いなんかじゃありませんよ。雅美は確かに十八歳で大学生です」
「え……?」
「ま……?」
 美智子と万里子は再び顔を見合わせた。そうして、これまでにも増して驚いたような表情を浮かべて雅美の姿をまじまじとみつめる。
 殆ど遠慮というものの感じられない視線を浴びて、雅美の頬がかっと熱くなった。羞恥とも屈辱ともつかない感情が胸を満たす。雅美は、それと同じ感情でこれまでに何度も胸をいっぱいにしてきた。言ってみれば、もうすっかり慣れっこになってしまった筈の感情。けれど、どうしても気にせずにはいられないほろ苦い感情。
 美智子が雅美の年齢を十八歳ではなく八歳かと思ったのは、実は仕方のないことだった。生まれた時から小さな子供だった雅美は成長期を迎えてもなかなか体が発育せず、十八歳の今も、小学校の低学年の児童くらいの身長しかない。体重も身長に見合ったくらいしかなく、丸っこい幼児体型と童顔が相まって、初めて出会う人からは、例外なく小学生、どうにかすると幼稚園や保育園に通うくらいの子供だと思われてきた。だから、中学校の入学式でも高校の入学式でも、もちろん大学の入学式でも、本当の年齢を告げるたびに周囲からは困惑と驚きと憐憫とがない交ぜになった視線を浴びせられ、そんな視線を受けて、いくら味わっても決して慣れっこにはならない羞恥と屈辱とが入り混じったほろ苦い感情で胸をいっぱいになってしまう雅美だった。
 そんな体格に加えて、雅美が身に着けている物も雅美を実際の年齢よりもずっと幼く見せていた。小柄なだけでなく幼児体型の雅美が身に着けることのできる物なんて、婦人服売場にはまるで置いていない。いくら小さなサイズの洋服を試着してみても、それでも雅美には大きすぎる物ばかりだ。それで仕方なく雅美は子供服売場に足を運ぶのが常になっていた。子供服売場なら、雅美の体にぴったり合う洋服がたくさん置いてある。ただ、小学校高学年や中学生に合わせたティーンズコーナーに置いてある衣類だとやはり雅美には大きすぎるものだから、子供服売場でも、ガールズコーナーやキッズコーナーで洋服を探すことになる。そんな所に置いてある洋服は、サイズが小さいだけでなく、デザインも、いかにも小さな子供が喜びそうな可愛らしい仕上げになっているのが殆どだ。たとえばブラウスだったら、細い襟と直線的なカットのはなくて、幅の広い丸襟とふわっと膨らんだ肩口を組み合わせたようなものばかりだし、スカートにしても、胸当ての付いたジャンプスカートや吊りスカートしかない。そんな衣類を身に着けた童顔で幼児体型の雅美だから、美智子と万里子が年齢を間違ったとしても、むしろそれは当たり前のことだった。
「あ、あの、ごめんなさいね、雅美さん。すっかり誤解しちゃって、本当にごめんなさい」
 確かめるみたいに雅美の姿を頭の先から爪先まで再び見やって、美智子は早口で言った。
「私も、雅美ちゃんなんて呼んでごめんなさい。ちゃんと雅美お姉さんて呼ばなきゃいけませんよね。……でも……」
 美智子があやまるから仕方なくというふうに万里子も小さく頭を下げた。ただ、そうしながらも何か別のことを言いたそうにしているのがありありだ。
「いや、いいんですよ。見た目がこうだから、誰でも間違えるんです。雅美も慣れているから、そんなにあやまらなくてもいいですよ」
 恐縮する二人に、勲が取りなすように言った。
「慣れているだなんて、お父さんたら、そんな言い方しなくてもいいじゃない」
 父親の言葉に、雅美はぷっと頬を膨らませた。慣れているだなんて、そんなのひどい。いくら慣れてたって、気にならないわけないのに。
「いや、だけど……」
 言われて、勲は今度は慌てて雅美の方に向き直った。
 そこへ、嬌声と共に万里子が割って入る。
「きゃ〜、雅美お姉さん、かっわいいんだ。拗ねてほっぺを膨らませた顔、本当に小っちゃい子みたい。もう、ほんっとにかわいいんだから〜」
 ぱっと顔を輝かせた万里子は、座卓を飛び越えて雅美の正面に膝立ちになると、雅美の体をぎゅっと抱きしめた。
「な、何するのよ。手を離してちょうだい。すぐに離してちょうだいったら」
 突然のことに何があったのかわからないまま、雅美は手足をばたばたさせた。
「だーめ、離してあげないもん」
 万里子は両腕に力を入れた。
 玄関で初めて会った時にも感じたけれど、こうして体が密着すると、万里子が随分と大柄だということがよくわかる。手芸部に入るくらいだからおとなしい子だろうと勲は言っていた。けれど、一メートル七十センチを超えていそうな身長に、高校一年生とは思えない発育した体つき、それに、初対面の雅美を抱きしめるような行動からは、穏やかな日差しの中で静かに編み物をしているのが似合う少女だとはとてものこと思えない。そんな万里子に抱きしめられてしまうと、小学校低学年どころかどうにかすると幼稚園児に間違われるほど小柄な雅美が逃げ出せるわけもない。
「さっきも言ったけど、私、ずっと妹が欲しかったんだ。雅美お姉さん、私より三つ年上だけど、でも、可愛くて仕方ないの。お姉さんだけど、拗ねた顔、私よりずっとずっと小っちゃな子供みたいで可愛いの。ううん、拗ねる前から、本当に可愛かった。だから、『お姉さん』とは呼ぶけど、本当は妹みたいに思えて仕方ないの。――ほっぺなんて、こんなにぷにぷにしてるんだもん」
 雅美に向かって頭を下げながらも本当に言いたかったのはこのことなのだろう。一度はあやまってみせても、幼児めいた雅美の仕種を目にして、ずっと胸の中に抱え込んでいた思いが噴き出したみたいだ。万里子は力いっぱい抱き寄せた雅美の頬に自分の頬を重ねて、体つきだけでなく、まるで本当に小さな子供みたいな雅美のみずみずしい肌の感触を楽しむみたいに何度も何度も擦り合わせた。
「駄目でしょ、万里子。初めてお会いした雅美さんにそんな失礼なことしちゃ」
 座卓の向こうから美智子の慌てた声が飛んできた。
 けれど、万里子はまるで気にするふうもない。
「だって、妹みたいな雅美お姉さんがあんまり可愛いんだもん」
 ちらと母親の方に振り向いただけで、いっそう力を入れて雅美の体を抱きしめる。
「ちょっと、万里子ってば」
 美智子は座布団を外して立ち上がりかけた。
 それをそっと押しとどめたのは勲だった。
「ま、いいじゃありませんか、美智子さん。どんな形にせよ二人が仲良くなれそうなんだから。万里子さんと雅美の仲が一番の気がかりだったけど、それも杞憂に終わりそうだし、まずはめでたしですよ」
 美智子の肩に手を置いた勲は、二人の姿を満足そうに眺めて囁きかけた。
「そうですか。勲さんがそうおっしゃるなら私の方はいいんですけど、でも……」
 一度は浮かしかけたお尻を座布団の上に戻して、それでもなお気遣わしげに美智子は言った。
「雅美はずっと妹を欲しがっていました。そうしたら、こうして、万里子さんという妹ができた。やはり妹を欲しがっていた万里子さんにも、ほら、妹ができた。そう思えばいいんですよ。そりゃ、実際の年齢は雅美の方が上だけど、見た目は万里子さんの方がずっとお姉さんです。だから、お互いに妹ができたと思っていればいいんです。そうやってお互いに相手のことを構い合っていればいいんです。そうすれば、いつか、血のつながった姉妹よりも姉妹らしくなります。その時、僕らは本当の家族になれるんですよ」
 勲は美智子の目を覗き込んで優しく笑ってみせた。
「わかりました。どちらがどちらの娘というわけじゃない、どちらも二人の娘。早くそうなるといいですね」
 勲の手の甲に自分の掌を重ねて、美智子も勲に微笑み返した。
 四人は今、真新しいキャンバスに新しい家族の肖像を描き始めたばかりだった。




 勲と美智子が籍を入れたのは、二人の勤務先が夏休みを迎える七月の下旬だった。夏休みとはいっても、講義の無いこの時期こそ勲にとっては論文執筆に忙しく、美智子にしても園長という立場だから自身は休みではないのだが、それでもそれ以外の時期に比べればまだ少しは時間の融通がきくため、職場の関係者と当人二人だけのささやかな結婚披露パーティーを催してから役所に届けを出したのだった。
 そうして、翌日から二泊三日の新婚旅行――新婚旅行とはいっても、実は、雅美と万里子とを連れての家族旅行に出発することになっている。

 朝早く出発したのに、夏休みに入ったせいでどこの道路も渋滞がひどく、途中に立ち寄った観光名所も駐車場に入るだけで大変という状態で、勲の運転する車が旅館に着いた時にはもうすっかり日が暮れていた。
「やれやれ、さすがに疲れたな。出張は新幹線や飛行機だから、こんなに何時間も車を運転するなんて何年かぶりだよ」
 旅行のためにレンタカーで借りたワンボックスワゴンのトランクからカバンをおろしながら勲はとんとんと腰を叩いて溜め息をついた。
「お疲れさま、お父さん。夕飯の時にお酌してあげるから元気を出してね」
 勲からカバンを受け取りながら言ったのは万里子だった。初めて会った時から今日まで、何度も会ったわけではない。なのに、ものおじしない性格のためか、万里子はもうすっかり勲になついて、いつのまにか呼び方も『おじ様』から『お父さん』に変わっていた。
「お、いいね。万里子ちゃんがお酌してくれるなら、いくらでも元気になっちゃうよ」
 勲にしても『お父さん』と呼ばれるのが満更でもなさそうで、少し照れながらも万里子のことを『万里子さん』ではなく『万里子ちゃん』と呼んで嬉しそうな顔をしている。
「でも、あなた、本当に疲れたでしょう? あんなに渋滞している中を運転し続けて。私が運転を代わってあげられたらよかったんですけど」
 二つめのカバンを受け取った美智子も気遣わしげに言った。こちらは『勲さん』から『あなた』に呼び方が変わっている。
「いや、いいよ、気にしなくても。美智子は免許は持っているけど実際に運転したことは殆どないんだから、代わってもらっても却って緊張するだけだよ」
 こちらも『美智子さん』ではなく『美智子』と呼んで勲は軽く首を振った。そうして、三つめのカバンをトランクから引き出すと、「さて、荷物はこれだけだったな」と呟いてトランクの中をもういちど見渡してからバックドアを閉めて鍵をかけた。
「あの、私が荷物を持ちます」
 カバンは全部で三つ。自分だけ手ぶらなのを気にした雅美が、どこか他人行儀な口調で言って美智子のカバンを受け取るためにおずおずと手を伸ばした。
「あら、いいのよ。このカバンは重いから私にまかせて」
 かぶりを振って美智子は雅美の手をそっと押しとどめた。
「じゃ、あの、万里子さんのカバン」
 美智子が押し戻した手を今度は万里子の方に伸ばして、少しぎこちない口調で雅美は言った。
「いいってば。私の方が体が大きいんだから、荷物は私が持つの。私が手ぶらで雅美お姉ちゃんに荷物を持ってもらったら、旅館の人とかに、私が小っちゃい子に無理に荷物を持たせてるみたいに見られちゃうもん」
 万里子はくすっと笑って言った。勲に対する呼び方が変わったのと同じように、雅美のことを呼ぶのも『お姉さん』だったのが『お姉ちゃん』にいつの間にか変わっていた。
 万里子に言われて、雅美は勲の顔を見上げた。雅美が少し困ったような表情を浮かべているのは、なんとなく自分の居場所が無いみたいに感じられるせいかもしれない。
「いいんだよ、気にしなくても。家庭でも職場でも社会でも、誰もが同じことをしなきゃいけないというわけじゃない。お互いに、自分ができること、自分にしかできないことをきちんとすることで、誰もが誰かを支えることになるんだ。荷物は父さんたちにまかせておけばいい。その代わり、雅美にしかできないことは雅美に頼むから」
 穏やかな笑顔で勲は言った。
「そうだよ、お姉ちゃん。私たち家族じゃん。そんなに気を遣い合ってたら窮屈なだけだよ。ほら、行こう」
 勲の言葉に頷いて、万里子は右手でカバンを提げると、左手で雅美の右手を引いて旅館の玄関に向かってさっさと歩き始めた。
「あ、待ってよ、万里子さん。そんなに速く歩いちゃ駄目だってば」
 歩幅がまるで違う二人だから、万里子が少し急ぎ足で歩くと雅美はついていけなくなって、今にも倒れそうになってしまう。傍目には、そんな雅美は、まだ足元のおぼつかない幼児が姉に手を引いてもらってよちよち歩いているようにも見える。
「やれやれ、本当にどっちが年上なんだか」
 先を行く雅美と万里子の後ろ姿を眺めながら、勲は肩をすくめてみせた。
「本当に。でも、いいじゃないですか。ああして可愛らしい姿を私たちに見せてくれるのが雅美ちゃんにしかできない素敵なことなんだから。万里子には絶対にできない、雅美ちゃんだけが持っている魅力なんだから」
 傍らの勲に寄り添って言った美智子の顔には、なんとも言いようのない幸せそうな笑みが浮かんでいた。

 美智子は、四人の名前と年齢、それに住所を記入して、旅館のフロント係に宿泊カードを手渡した。
「確認させていただきます。坂上勲様・四十八歳、美智子様・四十三歳、万里子様・十五歳、雅美様・五歳。以上、四名様でよろしいですね?」
 宿泊カードを受け取ったフロント係は律儀に内容を確認した。
「それで結構です」
 美智子は頷き返してから、ちらと雅美の顔を見た。
 万里子に手を引かれたまま、雅美は顔を真っ赤にしていた。
 雅美が恥ずかしそうに顔を赤くしているのは、美智子が雅美の年齢を『五歳』と記入したためだ。実際の年齢は十八歳なのに、宿泊カードには美智子が五歳と記入したため、この旅館にいる間は旅館の従業員から五歳の幼児として扱われるのだと思うと、恥ずかしさのせいで頬がかっと熱くなるのを止められない。とはいっても、美智子が誤って宿泊カードに記入したのではない。この旅館を予約する時から、雅美の年齢は五歳ということにしていたのだ。何故そんなことをしたのかといえば、この旅館の空き部屋に限りがあったため、三人部屋しか取れなかったからだ。
 新婚旅行を兼ねた家族旅行の目的地をどこにしようかと勲と美智子が旅行代理店のパンフレットを開いてあれこれ相談していた時にみつけたのがこの温泉旅館だった。全国的にも割と名の知れた旅館で普段はなかなか泊まれないのが、創業五十周年を記念しての期間限定キャンペーンとかで、いつもと比べると信じられないような破格の料金で泊まることができるらしい。もちろん二人はその場で空き部屋の状況を確認したのだが、その時にはもう三人部屋が一つ空いているだけということだった。三人部屋に四人が泊まってもさほど窮屈なことはないものの、そこは旅館の規定ということで、どうしても四人だと受け入れてもらえないらしい。それで仕方なく諦めて他の旅館を探そうかと旅行代理店の窓口の席を立ちかけた勲と美智子に窓口係の女性が申し訳なさそうに言ったのが、大人三人と幼児一人という組み合わせならお泊まりいただけるんですけどという言葉だった。その言葉に、はっとしたように二人は顔を見合わせた。そうして、あらためて、幼児というのが何歳以下なのかを窓口係に尋ねたところ、小学校にあがる前の子供なら幼児に該当するという返答が返ってきた。二人は、それを聞いてもういちど顔を見合わせると、無言のうちに、雅美の年齢を偽ることを互いに決めたのだった。雅美が年齢通りの体格なら、まさかそんなことは思いつきもしない。けれど、どうにかすると園児にさえ見える雅美の姿を頭の片隅に思い浮かべた途端、揃って同じことを考えついてしまった二人だった。そして二人は、勲と美智子と万里子の年齢はそのまま、雅美の年齢だけ本当は十八歳のところを五歳と偽って窓口係に告げて、その場で三人部屋の予約を取り付けることができたのだった。
 そんな経緯があって、この旅館に泊まっている間は万里子の妹として振る舞うことになった雅美だった。旅行に出発する直前になって勲から事情を聞かされた雅美は、渋々ながら万里子の妹を演じることを承諾せざるを得なかった。自分がその役割を断れば、せっかくみんなが楽しみにしている旅行が台無しになる――そう思うと、日頃から自分の感情や意見を表に出すことなく生活してきた少し気の弱いところのある雅美に、勲の説得を拒むことなどできる筈がなかった。
 けれど、こうしてあらためてフロント係が口にした『雅美様・五歳』という言葉を耳にしては平静を装うことなどできない。心の奥底から沸き上がってくる恥ずかしさで顔だけでなく体中が熱くなる思いだった。
「それではお部屋に御案内いたします」
 雅美の羞恥に気づくわけもなく、それどころか、五歳という雅美の偽りの年齢を易々と信じ込んで、フロント係はロビーの隅に控える仲居に合図をした。
 フロントでキーを受け取った仲居は、旅館の名前を染め抜いた法被をまとった若い男性のポーターに命じてカバンを三つ台車に積み込ませると、愛想のよい笑顔で、新しく家族になったばかりの四人をエレベーターホールに案内した。

 ポーターが退き、お茶を煎れてから仲居が退くと、部屋の中は一瞬、しんと静かになった。
 道中の車の揺れが嘘のような、観光名所の喧騒がまるで別世界のことみたいに思える、微かな葉ずれの音まで聴こえてきそうな山あいの温泉旅館の一室。
 なぜとはなしに、四人とも、僅かに緊張したような面もちになってくる。
 そんな静寂を破ったのは勲の声だった。
「なかなかいい部屋じゃないか。無理したけど予約を入れてよかったね。これも雅美のおかげだよ。ありがとう、雅美。みんな、自分にしかできないことをすればいい。万里子ちゃんの妹のふりをできるのも雅美だからこそだと思うんだ。父さんの言ったこと、わかってくれるだろう?」
 座布団の上にぺたんと座りこんでいる雅美に、恥ずかしさを忘れさせようとしてか、わざと大声で勲は言った。
「でも、そんなこと言ったって……」
 言いかけて雅美は、はっとしたような顔つきになって口をつぐむと、スカートの裾を慌てて両手で押さえた。
 押さえたけれど、丈の短いスカートの下の、お尻のところに可愛らしいアニメキャラがプリントしてあるショーツは三人の目に殆ど丸見えだった。いかにも小さな女の子が穿きそうなそのショーツも、胸当ての付いた丈の短いデニムのジャンプスカートも、旅行の数日前に美智子が買ってきたものだ。そんな見るからに幼児が身に着けるような衣類を目の前に突き出されて、雅美はきょとんとした表情で美智子の顔を見上げた。「旅行にはこれを着て行くのよ」と言われても、まさか、それが自分のものだとは思えなかった。たしかに雅美は体が小さくて子供用の洋服しか着られない。それでも、少しでも大人びたデザインのものを探して着ているし、下着も、大人向けのランジェリーは無理にしても中学生の女の子が穿くような純白のショーツを選んでいる。いくらなんでも、美智子が買ってきた、幼稚園児くらいの子供向けに仕立ててあるのが一目でわかるような衣類なんて身に着けたことはない。その時、きょとんとするばかりの雅美に向かって勲が話したのが旅行代理店での出来事だった。三人部屋の予約を取るために雅美の年齢を偽ったこと、そうして、その偽りが見破られないように、五歳という年齢にお似合いの衣類を美智子に買ってきてもらったことを、諭すような口調で勲は雅美に言い聞かせたのだった。もちろん、雅美がいやなら予約を取り消すこともできるんだよ――最後に勲はそう言ったけれど、自分がその役割を断れば、せっかくみんなが楽しみにしている旅行が台無しになると思うと、勲の説得を拒むことなどできる筈がなかった。
「大丈夫よ、今さらスカートの裾なんて押さえなくても」
 雅美の慌てようが面白かったのか、くすっと笑いながら万里子が立ち上がったかと思うと、雅美の傍らに膝をついた。そうして、雅美の両手をそっと払いのけて、雅美のスカートの裾の乱れを優しく整えてやる。
「ポーターさんも仲居さんも、可愛いパンツが丸見えになっちゃってること知ってたのよ。でも、何も言わなかったでしょ? だから、今になって恥ずかしがらなくてもいいの。でも、このままだとだらしない子だと思われちゃうから、やっぱりちゃんとしておこうね」
 雅美のスカートのシワを丁寧に延ばしながら、万里子はまるで小さな子供をあやすみたいに言った。
 言われて、雅美の耳たぶが赤くなる。義理の妹の手で、まるでこちらの方が妹なんだといわんばかりにスカートの裾の乱れを直してもらっている、その羞恥。それだけではない。十八歳の女子大生がスカートの下のショーツを丸見えにしていれば若いポーターは顔を真っ赤にして目をそらすだろうに、雅美のスカートからショーツが見えていても、平然とした様子だった。それは、ポーターが雅美のことを本当に五歳の幼児だと思っていたからに違いない。今更ながら自分が他の人の目にはそんなふうに映っているんだとあらためて気づかされた、その屈辱。
「はい、できた。おとなしくしてて、雅美ちゃんは本当にいい子だわ」
 スカートの裾を引っ張るようにして整えたために殆ど見えなくなったパンツだけれど、もともとが幼児用の丈の短いスカートだから、完全に隠れてしまうわけではない。それでも、その様子に満足そうに頷いて万里子は雅美の頭を撫でた。
「やめてよ、そんなこと。だいいち、私のこと『雅美ちゃん』て何よ。『雅美お姉さん』でしょ」
 さすがに気の弱いところのある雅美でも、相手は年下の義理の妹だ。こうまで子供扱いされて何も言い返せないのは癪にさわる。雅美は、まだ頭を撫で続ける万里子の手をぱっと払った。
 けれど、体が小さくてあまり力のない雅美がそうしても、大柄な万里子の手はびくともしない。万里子はまるで気にするふうもなく悪戯っぽい口調で言った。
「あらあら、雅美ちゃんはご機嫌斜めだこと。長い間車に乗ってたから疲れちゃったのかな」
「やめてったら、そんな言い方。いくら体が小さくても私の方がお姉さんなのよ」
 どんなに手をばたつかせても万里子にはまるで効き目のないことに気がついて、初めて会った日みたいに雅美は頬をぷっと膨らませた。
「あ、その顔、やっぱり可愛い〜い。雅美ちゃん、おすまししてる時も可愛いけど、拗ねた顔もすっごく可愛いんだからぁ」
 雅美の拗ねた顔を見るなり、万里子が、それまで頭を撫でていた手で、やはり初めて会った日のように雅美の体をぎゅっと抱きしめて、頬と頬を摺り合わせた。そうして、雅美の耳元にそっと囁きかける。
「旅館にいる間は私がお姉ちゃんで雅美ちゃんが妹なのよ。急に仲居さんが部屋に入ってくることもあるんだから、ちゃんと注意して、私のことを『お姉ちゃん』て呼ぶようにしなきゃ駄目。もしも私が雅美ちゃんのことを『雅美お姉ちゃん』て呼んでるのを聞かれて旅館の人に本当のことがわかっちゃったらとんでもないことになるのよ。旅館に泊まれなくなるだけじゃなくて、雅美ちゃん、みんなから『ほら、あの子よ、十八歳の大学生のくせに幼稚園児のふりをしてるのは。なんて恥ずかしい子かしら』って後ろ指さされちゃうんだから。そんなの、いやよね?」
 万里子の言葉に、雅美は、はっと両目を見開いた。勲と美智子の方にのろのろ振り向くと、万里子の囁き声が聞こえていたのだろう、二人とも雅美の顔を見て小さく頷いた。
「そんなの、いやよね?」
 万里子は今度は雅美の顔を正面から覗き込んで念を押すみたいにもういちど言った。
「あ、う、うん……」
 少しかがんだだけで可愛いショーツが見えてしまう丈の短いスカートを身に着けた、まるで幼稚園児にしか見えない自分を大勢の人が取り囲んで「ほらほら、大学生なのにあんな格好してるのよ。どういう気なのかしら」と囁き交わす様子を想像すると、万里子の言葉に従うしかないと思えてくる。雅美はおずおずと頷いた。
「はい、雅美ちゃんはお利口さんですね。こんなに聞き分けのいい妹を持って、お姉ちゃんも嬉しいわ」
 にっと笑って万里子は雅美の頬を人さし指の先でつんとつついた。
「……」
 やめてよ、そんな子供扱い。雅美はそう言いたかった。言いたかったけれど、もしもその声を仲居にでも聞かれたらと思うと、ぎゅっと唇を噛みしめるしかなかった。
「さて、じゃ、お風呂にしようか。その間に食事の用意をしておくって仲居さんが言っていたし。――家族風呂を予約しておいたけど、万里子ちゃんも雅美もそれでいいかい?」
 黙りこくってしまった雅美の顔をちらと見て、その場の雰囲気を変えようとでもするみたいに勲が言った。
「ううん、私たちは大浴場に行くわ。一応は新婚旅行なんだから、家族風呂はお父さんとお母さん二人きりでどうぞ」
 雅美がどう言うかなんてまるで気にもしないで万里子はそう言うと、目の前に座っている雅美の手を引いて畳の上に立たせた。
「さ、雅美ちゃん、浴衣に着替えさせてあげるから、お姉ちゃんと一緒におっきいお風呂へ行こうね」
 半ば強引に立たされた雅美は、ずっと高い所にある万里子の顔を見上げて弱々しく首を振った。発育不良の自分の体を大勢の人の目にさらすのはいやだ。
「駄目よ。夏で汗をたくさんかいてるから、ちゃんときれいきれいしなきゃ。――お母さん、浴衣と帯、取ってちょうだい」
 まるで幼児に言い聞かせるように雅美に言って、万里子は美智子の方に振り向いた。
「はいはい。雅美ちゃんのはこれかな」
 万里子に言われるまま、美智子は、部屋の隅に置いてある桐でできた衣装盆の中から、他と比べると一際小さな浴衣を取り上げて、さっと広げた。衣装盆に残った他の浴衣と違って、この小さな浴衣は淡いピンクの生地でできている。
「へーえ、子供用は可愛い色の浴衣を用意してあるんだ。うふふ、雅美ちゃんに似合いそうね」
 美智子が手にした浴衣を見て目を細めた万里子は、雅美のジャンプスカートの胸当てと肩紐とを留めているボタンに指をかけた。
「さ、着替えましょうね。ほら、あんなに可愛い浴衣なんて、雅美ちゃんも嬉しいでしょ?」
「ちょっと、やだ、こんな所で着替えなんて」
 それまで口を閉ざしていた雅美が激しく首を振った。
「あらあら、どうしたの。雅美ちゃん、何をぐずってるの?」
 万里子は僅かに首をかしげて雅美の顔を見おろした。
「だって、だって、お父さんがいるのよ。お父さんの見てる前で裸になるなんて……」
 雅美は勲の方に目だけをちらと向けて、よく聞いていないと聞こえないほど小さな声で言った。
「あらあら、雅美ちゃんは恥ずかしがり屋さんなのね。でも、雅美ちゃんくらいの小っちゃな子は誰も恥ずかしがったりしないのよ。だから、雅美ちゃんも恥ずかしがらなくてもいいの。ほら、早くお風呂へ行こうね」
 万里子の口ぶりは、雅美が本当に幼稚園児だと言わんばかりだ。
「駄目よ、万里子。私が勤めている幼稚園でも、精神的に成長の早い子は周囲の目を気にするのよ。人数は少ないけど、父親の目の前で着替えるのをとても恥ずかしがる子もいるの。それを無理強いするのはよくないわ。万里子もお姉ちゃんなら、ちゃんと妹の気持ちをわかってあげなきゃ」
 とりなすように言ったのは美智子だった。けれど、美智子の方も雅美のことを子供扱いしているのがありありとわかる言い方だ。
「うん、お母さんがそう言うならそうする。じゃ、隣の室で着替えましょう。お母さん、私の浴衣も持ってきてくれる?」
 美智子に言われた万里子は雅美の手を引いて、襖で隔たった続き間に向かって歩き出した。

 しばらくの間、あんよを上げてとか、お手々をそろえてとかいう声が聞こえていたが、その声がやんで待つほどもなく、続き間に姿を消した三人が勲の待つ室に戻ってきた。美智子は旅館に着いた時の洋服そのままだったけれど、万里子と雅美は浴衣姿だ。
 美智子が手伝ったのか、もともと心得があったのか、浴衣なんて着慣れていない筈の年齢なのに、万里子の浴衣姿はとても様になっていた。襟元も裾もきっちりしていて、だらしない様子は全くない。かといって窮屈な感じもなく、わざと少しはだけたような感じで着崩してみせた胸元あたりは、十五歳の少女とは思えない色香が漂っている。それに加えて、髪をアップにまとめてあらわになったうなじに後れ毛がかかった姿は、高校の制服に身を包んでいる時とは比べものにならない風情があった。
 そんな万里子に対して、淡いピンクの浴衣を着せられた雅美は、本当の年齢よりもずっと若く――若くというより、幼く見えた。子供用の浴衣は、裾が絡まって歩くのに邪魔にならないよう、くるぶしより少し上くらいの丈になっている。それに、大人に比べて帯を高い所、殆どお腹の上あたりでしめるから、見た目の幼さが洋服の時よりもずっと増す。しかも、髪をアップにまとめた万里子とは対照的に頭の斜め後ろの所で髪を二つの房に結わえたツインテールというヘアスタイルにされたものだから、ジャンプスカートとTシャツ姿の時に比べても更に二つくらいは幼く見える雅美だった。
 そんな二人だから、かなり年の離れた姉妹どころか、どうにかすると、若い母親と娘にさえ見えかねない。
「じゃ、行ってきます。ゆっくりしてくるから、お父さんもお母さんも二人で家族風呂を楽しんできてね」
 意味ありげにウインクしてみせて、雅美の手を引いた万里子は部屋を出て行った。
 廊下にはたくさんの人が行き交っている。けれど、二人の本当の間柄を言い当てられる者は一人もいないだろう。




 大浴場の脱衣場に入ってすぐの所にこじんまりした受付のカウンターがあって、体を洗うタオルとバスタオルを受け取るようになっている。係の女性は万里子に続いて雅美にもタオルを渡そうとしたが、万里子がそれを遮った。
「あ、この子の分は結構です。私が体を洗って拭いてあげますから」
「承知いたしました。どうぞ、ごゆっくり」
 子供連れだと万里子と同じようなことを言う客も多いのだろう、係はタオルを自分の手元に引き戻して会釈をした。
 軽く会釈を返した万里子は、脱衣篭を並べた棚の方へ雅美を連れて行った。

「じゃ、ここで脱ぎ脱ぎしょうね。ほら、お手々を上げて」
 棚の一角で足を止めた万里子は、それまで引いていた雅美の手を離すと、雅美の両脇の下に手を差し入れて、そのまま雅美の両腕を横に開かせた。
「いいよ、自分で脱げるってば」
 自分よりも年下の義理の妹に浴衣を脱がせてもらう屈辱に、雅美は唇を噛んで小声で言った。
「いいのよ、雅美ちゃん。雅美ちゃんは甘えん坊さんで、お風呂の時はいつも私が脱ぎ脱ぎさせてあげてるでしょ? だから、ここでもそうしていいのよ。たくさん人がいるからって、遠慮することはないんだから」
 万里子は、周りの人が雅美が本当に甘えん坊の小さな子供なんだと思うよう、わざと声を大きくして言った。
 その声で、そこここで着替えている何人かの目が雅美に集まった。
「あらあら、可愛いお嬢ちゃんだこと。いいわね、お姉ちゃんと一緒におっきなお風呂に入れて。ちゃんと肩までつかって温まるのよ」
 先に入浴を済ませたのだろう、すぐ隣で浴衣の帯をしめていた年輩の女性がひょいと腰をかがめて雅美の顔を覗きこんだ。
「ありがとうございます。家でも私がお風呂に入れてあげるんですけど、なかなかじっとしてなくて。十まで数えるのがやっとなんですよ」
 女性の言ったことに話を合わせて万里子が応えた。もちろん、これまで雅美と万里子が一緒に入浴したことはない。今日が初めてだ。けれど、話を合わせておいた方が少しでも雅美の年齢を疑われないかなと思ってのことだった(実は、そうやって雅美を恥ずかしがらせるのが面白いからという理由の方が大きいのかもしれないけれど)。
「まぁまぁ、それは困った子だこと。そういう時はお姉ちゃんがお嬢ちゃんの体をしっかり抱いて湯船につかってあげなきゃいけないわね。ちゃんと温まっておかないと、特にここみたいに山の中にある旅館だと、夏場でも急に涼しくなることがあってお腹をこわすかもしれないから。いいわね、お嬢ちゃん。ちゃんとお姉さんの言うことをきいていい子にしてるのよ」
 人の好さそうな笑顔で年輩の女性は雅美の頭をそっと撫でた。
 それに対して雅美にできるのは、無言で曖昧に頷くことだけだった。
「駄目でしょ、雅美ちゃん。せっかく親切に言ってくれてるんだから、ちゃんと『はい』ってお返事しなきゃ」
 そんな雅美に向かって、咎めるような万里子の声が飛んできた。それこそ、本当に年端のゆかぬ妹を叱るみたいな。
「は、は……い」
 屈辱と羞恥にまみれながら小さな声で返事をする雅美。
「あらあら、そんなに叱らないでやってちょうだいな。このくらいの年の子は人見知りも激しいだろうし、仕方ありませんよ。さ、早く脱ぎ脱ぎさせてもらって温泉に入ってらっしゃい。――それじゃ、お先に失礼します」
 最後は万里子に向かって丁寧に頭を下げてから、女性は暖簾の方に向かってゆっくり歩き出した。
「はい、じゃ、今度こそ脱ぎ脱ぎしましょうね」
 万里子の指が帯の結び目にかかった。
 今度また自分で脱ぐといって万里子の言葉に逆らったりしたら、今と同じように誰かの注目を浴びてまた同じような言葉を浴びせられてしまう。そう思うと、もう雅美は万里子のなすがままにされるしかなかった。言われるまま両腕を前に突きだし、言われるまま体をくりると回すと、ショーツを穿いただけの姿になってしまう。
「今度はパンツね。はい、右のあんよを上げて。そうそう――はい、今度は左のあんよを上げて。そうそう、雅美ちゃん、お上手よ」
 残ったショーツも、自分の手ではなく、万里子の手でするっと脱がされてしまう。
「じゃ、そのまま待っててね。お姉ちゃんも脱いじゃうから」
 丸裸になった雅美の目の前で万里子も浴衣を脱ぎ始めた。さっき部屋で洋服から浴衣に着替える時にも感じたけれど、こうしてすぐ目の前で裸になるのを見ると、あらためて万里子の発育の良さが実感される。わざわざ見比べるまでもなく、雅美は気圧されるような感覚にとらわれてしまった。なぜとはなしに、ぷりんと上を向いた万里子の乳房に目が吸い寄せられて離れなくなってしまう。それは、自分のあまりに貧弱な胸とはまるで違うものだった。
「ごめんね、待たせて。ほら、行きましょう」
 万里子の胸元に見とれてでもいるかのようにぼんやりした顔をしている雅美の手を万里子が掴んだ。
 はっとして雅美も歩き出した時、万里子が、体を洗うタオルを胸元を覆うようにして体の前に垂れさせた。すると、ちょうど、恥ずかしい部分がタオルで隠れる。一方、タオルをもらえなかった雅美は丸裸のままだ。
 二人の姿は、羞じらいに敏感な年頃の娘と、それとは対照的な、まだ無邪気な幼女の姿だった。

 湯気に曇るガラス戸を滑らせて浴室に入ると、湯船から溢れ出る湯が流れ落ちる音や、誰かが手桶をタイルの床に置く甲高い音がわんわん反響していた。
「手を離しちゃ駄目よ。あんよが滑ってころんしちゃうからね」
 そう言ってゆっくり歩く万里子は、浴室の中に幾つかある湯船の内でも最も大きな湯船の端で雅美の手を離すと、自分の体の前を隠していたタオルを手早く細めにたたんで右肩にかけた。
「そのまま待ってるのよ。お風呂に入る前は掛け湯をしなきゃいけないから」
 体を支えるように雅美の腰のあたりに左手をまわして、万里子は右手で手桶を一つ拾い上げた。そうして、湯船の湯を手桶いっぱいに掬い上げて雅美の体にざっとかける。手桶に掬う時に湯の温度は手で確認しておいたから、熱さで雅美が悲鳴をあげることもない。
「待っててね、お姉ちゃんも掛け湯をするから」
 雅美の体を支えたまま万里子は自分の体にも湯をかけた。
「さ、これでいいわ。先にお姉ちゃんが入ってから雅美ちゃんを入れてあげるね」
 掛け湯を浴びて、万里子が先に湯船につかった。湯船のすぐ縁の所が出っ張りになっていて、そこに腰をかけると胸元の少し下まで湯につかるような高さになっている。
「はい、いらっしゃい」
 出っ張りに腰かけたまま万里子は体をひねって雅美に向かって両手を伸ばした。
「いい、自分で入るから」
 脱衣場では周りの注目を浴びるのがいやで万里子のなすがままだった雅美だけど、もうここまで来ればあとは自分でできる。湯船に入るくらいのことまで万里子にしてもらうのはあまりに屈辱的だった。それに、いくら見た目は幼児でも本当は十八歳だ。羞じらいを知らない幼児ではないから、いつまでも入浴客の目に裸体をさらしてはいられない。万里子の手に頼るより、自分で湯船に入った方が少しでも早く発育不良の体を湯の中に隠せる。
 けれど、急いで湯船に入ろうとしたのがいけなかったのだろう。湯船の内側の出っ張りに足を掛けたつもりが、つるんと滑って仰向けに倒れそうになってしまう。
「あぶない!」
 慌てて万里子が手を差し伸べた。
 そこへ、誰か別の人の手が伸びてきた。
 倒れそうになった雅美の体を万里子の手がかろうじて受け止めた。けれど、万里子だけだったら、いくら小柄とはいっても足を滑らせて勢いよく倒れる雅美の体を支えることはできなかっただろう。誰かの手が一緒に支えてくれたから雅美の体を受け止めることができたのだ。
「あ、ありがとうございました。おかげで助かりました。本当にありがとうございます」
 雅美の体を引き寄せ、出っ張りに腰かけた自分の膝の上に座らせてから、万里子は、一緒に雅美の体を支えてくれた女性に向かって何度も頭を下げた。
 その若い女性は万里子のすぐ横で同じように出っ張りに腰かけていたらしく、咄嗟に延ばした手が雅美の体に届いたらしい。
「いいのよ、そんなにお礼を言ってもらわなくても。それより、怪我がなくてよかったわ。――妹さん?」
 いいのよと軽く手を振って、女性は雅美に向かってにこりと微笑みかけた。
「あ、はい。この子、私の妹で雅美です。坂上雅美。私は万里子です」
 もう二度と手を離すまいとするかのように、万里子は膝の上に座らせた雅美の体をぎゅっと抱きしめた。
「そう、坂上万里子さんと雅美ちゃんね。私は村野知美。今まで忙しかったんだけど、ちょっと時間が取れたから気ままな一人旅ってとこ。万里子さんたちは家族旅行かな?」
 万里子がこれ以上恐縮しないようにという心遣いからだろう、知美は他愛の無い世間話でもするみたいに言った。
「そうです。父と母と四人で来ました。ずっと車の中だったから温泉が気持ちいいです。――ね、雅美ちゃん?」
 万里子は、正面を向けて膝の上に座らせていた雅美をそっと抱き上げて、雅美の横顔が自分の左の肩くらいになるよう横向きに座り直らせた。
 その途端、雅美が、自分の顎を万里子の肩に乗せるようにして力いっぱい万里子の首筋にしがみついた。
「あらあら、雅美ちゃんは恥ずかしがり屋さんなのね。知らない人と顔を会わせるのが恥ずかしくてお姉ちゃんにしがみつくなんて。でも、これくらいの年の子は人見知りするのが当たり前かな」
 知美の言ったことは半分だけ当たっていた。初めて会った知美に丸裸の姿を見られるのが恥ずかしくて思わず万里子の胸元に隠れてしまったのは本当。けれど、それは、雅美が人見知りをするような年齢だからというわけではない。
「そうなんですよ。普段から私にべったりの甘えん坊さんなんです、この子」
 万里子は目を細めて、雅美の背中にまわした手に力を入れた。雅美とは対照的によく発育したふくよかな乳房が雅美の胸に当たる。
 はっとして身を引こうとする雅美。だけど、万里子は離さない。
「うふふ、仲良しさんの姉妹なのね。羨ましいわ」
 雅美の体を抱き寄せる万里子の姿に相好を崩して知美は言った。
「村野さん、姉妹とかいないんですか?」
 何気なく万里子は聞き返した。
「いるわよ、妹が。でも、年は一つしか違わないから、坂上さんのところみたいな感じじゃないわね。専門分野も同じだから、どっちかっていうとライバルみたいなものかな」
 胸の前で組んだ両手をう〜んというふうに頭の上に伸ばして知美は言った。
「専門分野って?」
「あ、うん、私、大学院生なの。七月に入ってすぐに学会があって、それまでその準備にかかりきりで忙しかったのよ。で、それも終わってこうやって気分転換に旅行に来たんだけど、私の妹も大学は別だけど同じ専門分野の大学院生なの。学会で久しぶりに顔を会わせたけど、私の論文にケチつけてきてさ、本当に腹の立つ妹なの。だから、甘えん坊の妹と、妹をべたべた可愛がりするお姉ちゃんていう関係が羨ましかったりするわけ」
 知美はほっと溜め息をついてみせた。
「ふぅん、そうなんだ。姉妹っていってもいろいろなんですね」
 万里子はちょっと思案顔になった。それからすぐ悪戯っぽい笑顔になると、雅美と知美をちらと見比べて言った。
「雅美ちゃんを抱っこしてみます? 小っちゃい子を抱っこすると気持ちがなごむってテレビか何かで言ってたと思うし」
 万里子の言葉に雅美が体をびくっと震わせ、いやいやをするみたいに首を振っていっそう力を入れてしがみつく。
 これまで万里子は雅美の体を抱きしめるばかりだったが、今度ばかりは、しがみつく雅美の手を引き剥がす番だった。
「ほらほら、村野のお姉ちゃんが抱っこしてあげるって言ってるよ。優しそうなお姉ちゃんだよ。だから、ほら」
 見ず知らずの他人に抱っこされる羞恥に怯えて力いっぱいしがみつく手を易々と振りほどいて、万里子は雅美の体を湯に浮かべるようにして知美に渡した。
「ほらほら、暴れちゃ駄目よ。本当にどぶんしちゃうから」
 万里子の手から雅美の体を受け取りながら知美は優しい声で言い聞かせた。
「でも、本当に甘えん坊さんなのね、雅美ちゃんは。こんなにお姉さんから離れたがらないなんて。うちと違って、年の離れた姉妹って、どこもこうなのかしら」
 手足をばたばたさせる雅美なのに、知美はまるで苦にするふうもなく、万里子がそうしていたように自分の膝の上に横向きに座らせた。
「へ〜え、村野さん、上手なんですね。あんなに暴れてた雅美ちゃんを簡単に抱っこしちゃうなんて」
 助けを求めるみたいに両手を伸ばす雅美を膝の上に乗せた知美に、万里子は感心して言った。
「ま、ね。もともと小っちゃい子供が好きだし、いろんな保育園や幼稚園に行って園児と遊ぶことも多いから慣れているのよ」
 こともなげに言った知美はお尻を出っ張りの上でずらして、体を少し多めに湯に沈めた。
 途端に、雅美が知美の首筋に両手をまわしてしがみついてくる。透明な湯を通して見える湯船の底だけれど、大人の胸元くらいの深さはありそうだった。そんなところへ放り出されたりしたら、雅美の体だと本当に溺れてしまうかもしれない。小柄なせいで小学校から高校まで体育の水泳の授業ではプールの底に足が届かず、何度も溺れかけたことのある雅美にとって、身にしみついたその恐怖の方が羞恥よりも何倍も大きかった。
「やっとなついてくれたわね、雅美ちゃん。うふふ、柔らかい肌だこと。それに、温泉のお湯よりもほこほこしてるみたい」
 雅美と頬を摺り合わせて知美は微笑んだ。
「でしょ? 雅美ちゃんの肌、とっても柔らかでぷにぷにしてるでしょ? 私も、すりすりするの大好きなんです」
 万里子は、まるで自分が誉められたみたいに顔を輝かせた。そうして、あらためて気がついたみたいに知美に尋ねる。
「――いろんな保育園や幼稚園に行くって、どういうことなんですか?」
「私、幼児教育が専門なのよ。大学院の幼児教育学研究課程の学生なの。それで、フィールドワークとして全国の幼児教育機関をまわっていろいろ調べたりして論文を書いているの」
 笑みを浮かべた顔で知美は応えた。
「あ、そうだったんですか。どうりで雅美ちゃんをあやすのが上手な筈だわ」
 万里子は納得したように頷いた。
「でも、幼稚園や保育園の先生に比べればまだまだよ。慣れてるだけ」
 謙遜してそう言いながら、知美の顔には、満更でもなさそうな表情が浮かんでいた。
「まだまだなんて、そんなことないですよ。あんなに暴れてた雅美ちゃんがこんなにおとなしく……」
 おとなしくなっちゃったんだからと言いかけて、万里子は雅美の顔を覗き込んだ。おとなしくしているのはいいけれど、ちょっとおとなしすぎるのが気がかりだ。
「あ、大変。湯当たりかしら、顔が真っ赤になってる」
 万里子に合わせて雅美の顔を覗き込んだ知美が慌てた口調で言った。雅美は顔を真っ赤にして、知美の肩に顎先を乗せたままぐったりしていた。万里子と知美は胸元までしか湯につかっていないけれど、体の小さな雅美は肩までつかっていたため、体温が上がってしまったらしい。
「知らないうちに時間が経っていたのね。脱衣場で体を冷やしてあげなきゃ」
 言うが早いか知美は湯船からタイル張りの床に移ると、ぐったりしている雅美を横抱きにしてガラス戸の方に歩き出した。
「あ、私も」
 湯船の縁に置いていた知美のタオルを拾い上げて万里子が慌ててあとに続いた。

 脱衣場には藤で編んだ椅子が並んでいて、その少し横には、白木の床机が置いてある。知美は床机の上にバスタオルを広げ、その上に雅美を寝かせて、お腹の上に乾いたタオルをかけた。
 ほどよくエアコンが利いていて、真っ赤だった雅美の顔色が少しずつ元に戻ってくる。
 その様子を見て安心したように頷き合った万里子と知美が手早く浴衣を着て、もういちど床机のそばに戻った時には、かなり荒かった雅美の呼吸も大分よくなっていた。
「熱かったでしょう? ごめんね、二人してお話に夢中になっちゃって。はい、これを飲んで」
 雅美の額に自分の額を押し当てて体温を確認した知美は、脱衣場の隅にある給水器の冷たい水を紙コップに入れて持ってきた。万里子が雅美の背中に手をまわしてそっと抱え起こす。
「はい、ゆっくり飲むのよ」
 床机に敷いたバスタオルの上に上半身を起こした雅美の唇に冷たい水が触れた。
 ゆっくり飲むのよという知美の注意なんて聞こえていないみたいに、雅美は大急ぎで紙コップの水を飲み始めた。けれど、あまり慌てて飲んだものだから水が気管に流れ込んで咽せてしまう。
 けほけほという咳が脱衣場に響き渡って、いったんは雅美の口の中に流れ込んだ水が無数のしぶきになって飛び散った。同時に、いくらかは、唇の端から細い筋になって胸元に滴り落ちる。
「ほらほら、慌てて飲むからよ。冷たいお水が欲しいのはわかるけど、ゆっくり飲まなきゃ」
 知美は雅美の唇から急いで紙コップを離した。
 そこへ万里子が手を伸ばして、雅美のお腹にかかっていたタオルをすっと上にずらすと、雅美の首筋に巻き付けて首の後ろで端をきゅっと結わえて言った。
「こうしておけばいいかな。いくら暑くても体に冷たい水がかかるとよくないからね」
 そんなふうにされると、幼児体型の体つきが脱衣場にいる人みんなの目にふれてしまう。少しぷっくり膨れたお腹や、まだヘアの生えていない恥ずかしい部分が丸見えになってしまう。いくら幼児体型でも本当は十八歳だから、恥ずかしい部分の形は本当の幼児とは微妙に違う。けれど、誰も雅美のことを幼児だとしか思っていないから、その違いに気づかないだけだ。ただ一人、万里子を除いては。
「いや、恥じゅ……」
 雅美は下腹部を隠すために首筋のタオルを外そうと首の後ろに手をまわしたけれど、その手は万里子に押さえつけられてしまう。同時に知美が再び紙コップを唇に押し当てたものだから、恥ずかしいという言葉を口にすることさえできない。弱々しい、恥じゅかちいという、幼児めいた発音の呻き声が漏れるだけだ。そうして、唇の端から滴り落ちる水の雫。雅美の唇からこぼれた水は顎先から胸元へ流れ落ちて、乾いたタオルに吸い取られてゆく。
「ほら、こうしておいてよかったでしょ? ほんとに赤ちゃんなんだから、雅美ちゃんは。ごはんの時もお姉ちゃんがタオルでよだれかけしてあげるからね」
 首筋に巻き付けたタオルに雫をこぼしながら知美に水を飲ませてもらっている雅美に、くすっと笑って万里子は言った。
「いや、よだれかけなんて」
 雅美は力なく首を振った。そのたびに唇の端からぽたぽたと水がこぼれてタオルを濡らす。万里子の言葉に抗えば抗うほど幼児じみた仕種を取るようになってしまう雅美だった。




 それからしばらく脱衣場で休んでから、万里子は、浴衣を着せた雅美の手を引いて部屋の前まで戻ってきた。雅美と万里子の傍らに知美が寄り添っているのは、雅美のことを気遣ってのこともあるが、たまたま部屋が隣どうしだったからということもある。
 万里子がカードキーを差し込んだところへ、大浴場とは別の所にある家族風呂に行っていた勲と美智子も戻ってきた。
「おや、ちょうど一緒になったね。いいお風呂だったかい」
 いかにも風呂上がりという赤ら顔で勲は万里子に声をかけてから、二人の後ろにいる知美の姿に気がついて、少し驚いたような顔になった。
「あれ、村野さんじゃないかい? 宮内先生のところの村野さん?」
 言われて、知美の方もびっくりしたように応える。
「あ、坂上先生。――じゃ、万里子さんと雅美ちゃんのお父さんて坂上先生だったんですか? お風呂で二人の名前を教えてもらった時は同じ名字の人も多いんだなって思っただけなんだけど、まさか坂上先生の娘さんだなんて。本当、偶然ってあるんですね」
「あら、お知り合いですか?」
 驚いた表情で知美の顔をみつめる勲に美智子が訊いた。
「ああ、うん。大学で僕の研究室の隣が幼児教育の宮内先生の研究室でね、ほら、結婚披露パーティーで挨拶してくれた先生だよ。そこの院生が村野さんなんだ。このあいだの学会の発表も聴かせてもらったけど、なかなかいい研究をしている優秀な学生なんだよ」
 勲は美智子の方に振り向いて説明した。
「そうだったんですか。申し遅れました、私、坂上の家内です。そちらの二人は私共の娘ですけど、どうやら、もう顔見知りになっていらっしゃるようですね」
 美智子は勲のかたわらに立って丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ初めまして、村野知美と申します。坂上先生から直接指導していただいているわけではありませんけど、お隣の研究室ということでいろいろお世話になっています。学会が終わって息抜きの旅行にきたんですけど、こんな所で先生のご家族とお会いできるなんて、本当に素敵な偶然です。それに、可愛らしいお嬢様たちとも先にお知り合いになれましたし。あ、それと、申し遅れましたけど、このたびは御結婚おめでとうございます。うちの先生からいろいろ聞かせていただいています」
 知美も恭しく頭を下げた。
「廊下だし、挨拶はそのへんでいいんじゃないかな。あとは部屋に入ってからにしようよ。そうだ、せっかくだから、村野さんの食事もここへ持ってきてもらって一緒に食べようじゃないか」
 何度もお辞儀を繰り返す二人の間に割って入った勲が格子戸を引き開けながら言った。
「あ、賛成。一緒に食べようよ、村野さん。村野さんと一緒にいると、なんだかお姉ちゃんができたみたいで楽しいもん」
 右手で雅美の手を引き、左手を知美の腕に絡めて、万里子は嬉しそうに言った。
 旅館の予約を取るためにという理由で年齢を五歳と偽った雅美。本当は十八歳で万里子の姉だ。けれど、旅館に着いてからずっと雅美のことを妹扱いしていたせいで、万里子の気持ちの中では雅美は本当に妹になってしまっているのかもしれない。それも、水を飲ませてもらう時に首筋に巻き付けたタオルを濡らしてしまう手の掛かる小さな妹に。いや、ひょっとしたら、初めて会ったあの日から万里子は雅美のことを小さな妹としか思っていないのかもしれない。
 私、本当はお姉さんなのに――ぽつりと呟く雅美の声は誰の耳にも届きはしなかった。

 フロントに連絡すると、待つほどもなく夕食が運び込まれた。山あいの温泉旅館らしく、見た目は豪華とはゆかないものの、地元で採れた材料を丁寧に調理したらしい、一品一品が見るからに食欲をそそる料理だった。
 仲居が座卓の上に並べた料理は、坂上家の分と知美の分とを合わせて四人分。大人の人数分だけだ。そうして、雅美の目の前には、料理の代わりに、プラスチック製の取り皿と茶碗、それに、これもプラスチックでできた先割れスプーンが並んでいる。
「当館の板前が心をこめて包丁をふるったお夕飯でございます。お口に合うかどうかわかりませんけれど、ごゆっくりお召し上がりください。それと、これは創業五十周年を記念してお客様に召し上がっていただこうと当館の主が用意した地酒でございます。どうぞご賞味ください」
 料理を並べ終え、予め注文しておいた日本酒の銚子を料理皿の傍らに置いた仲居は、今度は、上品なつくりの小振りのグラスを勲、美智子、それに知美の目の前にそっと置いた。満たしているのは地元産の冷酒だろう、グラスは表面にうっすらと汗をかいていた。
「お子様がたはこちらをどうぞ」
 続いて仲居は万里子と雅美の目の前にもグラスを置いた。もちろん、お酒ではなく、二人ともオレンジジュースだった。ただ、万里子の前に置いたグラスは普通の大振りのグラスだったけれど、雅美の前に置いたのは、左右両方に取っ手の付いたプラスチックのコップだった。誤ってジュースをこぼさないようにという旅館側の心遣いなのだが、当の雅美にとっては、そのプラスチック製の幼児用のコップは屈辱以外の何ものでもなかった。
「それでは私は失礼いたします。ビールとジュースは冷蔵庫に入っておりますが、追加のお酒をご用命のおりにはフロントにご連絡ください。じきにお持ちいたします」
 深々と頭を下げて仲居は部屋を退いた。



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