家族の肖像



「じゃ、乾杯といこうか。このあたりの地酒は酒好きの間じゃ割と有名だそうだ。たしか、村野さんもいける口だったろう?」
 軽く会釈を返して仲居を見送ってから、勲が冷酒のグラスを持ち上げた。
「それじゃ、乾杯」
「あらためて、ご結婚おめでとうございます、先生、奥様」
「お父さんとお母さんと雅美ちゃんにかんぱーい」
「あ、あの、かんぱい……」
 それぞれにグラスやコップを持ち上げて、思い思いに乾杯を口にする五人。
 けれど、両方の取っ手を雅美が両手で持ってジュースを飲もうとした時、それを万里子が止めた。
「あ、雅美ちゃんはまだ駄目よ。ちゃんと用意してからね」
 雅美の手を押しとどめた万里子はすっと立ち上がると、洗面所に姿を消して、四人が見守る中、タオルを持って戻ってきた。
 あっと思う間もなかった。脱衣場でそうしたように万里子はタオルを手早く雅美の首筋に巻き付けて、端をきゅっと結わえた。
「はい、いいわよ。これで雅美ちゃんがジュースをこぼしても浴衣が汚れることはないわ」
 雅美の頬がかっと熱くなった。両手で持つようになっているプラスチック製のコップに、タオルの即席よだれかけ。
 私は本当は万里子ちゃんのお姉さんなのよ。知美がいなかったら、たまらずに雅美はそう叫んでいただろう。仲居に聞かれるかもしれないと思っても、我慢できなかっただろう。けれど、今はすぐそばに知美がいる。こんな幼児めいた格好をしている自分が本当は十八歳の大学生、それも知美が通う大学の後輩だと知られたとしたら、それがどれほどの羞恥か想像もできない。今は、屈辱にまみれながら幼児のふりを続けるしかない雅美だった。
「でも、仲のいい姉妹ですね。初めてお風呂で会った時から、実の姉妹だとばかり思っていました。それがお互い先生と奥様、別々のお嬢様だったなんて。本当に万里子さん、いいお姉さんだわ」
 屈辱を胸にひめてプラスチック製のコップからおずおずとジュースを飲む雅美と、その様子を心配げに見守る万里子とを見比べて、知美は感心したように言った。
「たしか、先生のお嬢さんは大学生でしたよね。うちの先生とお話しているのを聞いたことがあるんです。どこの大学に行ってるのかまでは聞こえなかったけど――じゃ、万里子さんが先生のお嬢さんで、雅美ちゃんが奥様のお嬢さんなんですね」
 まるで疑うことなく知美は言った。
 高校一年生ながら発育のいい万里子だから、これまでも、大学生に見られることは少なくなかった。
「あ、ああ、そうだね、そういうことだね」
 知美に言われて、勲は苦笑を浮かべて頷いた。
「そういうことですね、ええ」
 美智子もおかしそうに口元をハンカチで隠して応える。
「よかったわね、雅美ちゃん。こんなに優しいお姉さんができて」
 グラスの冷酒をくいっと飲み干して知美は雅美に微笑みかけた。
 が、雅美は何も応えない。何も応えられるわけがない。
「駄目じゃない、雅美ちゃん。村野のお姉さんがよかったねって言ってくれてるんだから、ちゃんとお返事しなきゃ。お返事できない子はジュースもおあずけよ」
 言うが早いか、万里子は、雅美の手からコップを取り上げてしまった。
「返してよ、雅美のなんだから」
 それこそ小さな子供が使うようなプラスチック製の小皿や先割れスプーンで勲や美智子から料理を分けてもらう気にはならず、かといって、何か食べるか飲むかしていないと、屈辱に耐えられなくなってついつい本当の年齢を口にしてしまいそうになる雅美にとって、ジュースの入ったコップを失うことは最後の拠り所をなくすのと同じだった。しかも、さも雅美がいけないんだと言わんばかりの万里子の口調がたまらない。
 雅美はむきになってコップを取り返そうと両手を伸ばした。けれど、大柄な万里子が膝立ちになって頭の上に手を伸ばすと、座ったままの雅美の手が届く筈もない。
「返してったら」
 気の弱い雅美には珍しく語気を荒げて言ったかと思うと、座布団の上に立ち上がって体を伸ばした。
 けれど、その途端、仰向けに倒れそうになる。慌てて立ち上がったものだから、足が浴衣の裾に絡まってバランスを崩したのだ。
 浴場ではかろうじて知美と万里子に助けて貰った雅美だけれど、今度はそうはいかなかった。
 万里子と雅美が手を差し伸べるのが間に合わず、雅美は畳の上に仰向けに倒れこんだ。幸い頭は打たずにすんだものの、思いきり尻餅をついてしまった。浴衣の裾が乱れて、脱衣場で万里子に穿かせてもらった新しいショーツが丸見えになる。
 惨めだった。こんなことなら、いくら勲から言われたことでも年齢を偽ってまで旅行に来るんじゃなかった。胸の中が屈辱と羞恥でいっぱいになった。義理の妹に取り上げられた幼児用のコップを取り戻すために必死になる自分が惨めだった。本当に小さい子供みたいに浴衣の裾をはだけて、お尻のところにアニメキャラがプリントしてある女児用のショーツを丸見えにしている自分が惨めだった。偽りの年齢をまるで誰からも疑われない自分が惨めだった。
「どうしてなのよ、どうしてそんな意地悪するのよ。どうして雅美ばっかり……」
 あとは言葉にならなかった。
 屈辱と羞恥と惨めさと情けなさが胸から溢れ出て、涙になって雅美の頬を濡らし始める。
 それまで我慢していた、ずっと溜め込んでいた感情が堰を切って、涙になって流れ落ちる。
 そんな涙が引き金になって感情が爆発する。
 雅美はとうとう泣き始めた。それも、めそめそした泣き方ではない。それこそ幼児そのもののように、えんえんと声をあげて手放しで泣きじゃくる。それは、十八歳の年ごろの女性の泣き方ではなかった。五歳くらいの幼児の泣き方そのままだった。
「あ、ごめん。ごめんね、雅美ちゃん。意地悪するつもりじゃなかったのよ」
 万里子にしても、雅美が泣き出すとは思ってもいなかった。いくら小さな妹みたいに扱っていても本当は十八歳の姉なのだから、いつもみたいにぷっと頬を膨らませて拗ねるだけだと思っていた。お気に入りのその顔を見たくてちょっと意地悪しただけなのに。
「あらあら、いけないお姉ちゃんですね〜。こんなに可愛い妹を泣かしちゃうなんて。ほら、雅美ちゃん、こっちへいらっしゃい。もう泣かなくていいんだからね」
 尻餅をついた格好のまま泣きじゃくる雅美を知美が抱き寄せた。万里子に負けないくらい体つきがいい知美が膝の上に抱くと、小さな雅美の体は知美の胸元にすっぽり包まれてしまう。お酒を飲んでいるせいで知美の体温が上がっているのだろう、温かい空気に包みこまれたような感じがする。
「よちよち、もう泣かなくていいんでちゅよ。雅美ちゃんはいい子だもんね、もう泣かないもんね。ほぉら、こうすると気持ちいいでちゅよ」
 胸の中で泣き続ける雅美に向かって幼児言葉で話しかけながら、知美は雅美の顔をそっと乳房に押し当てた。浴衣の生地を通して、張りのあるぷりんとした感触が伝わってくる。そうして、どくどくと脈打つ心臓の鼓動。
 雅美の表情が穏やかになってくる。
 涙の雫が少しずつ減ってくる。
「雅美ちゃん、今まで一人で寂しかったのよね。寂しかったけど、我慢してたのよね。我慢してて新しいお姉ちゃんができて甘えん坊さんになったのよね。お姉ちゃんに甘えたくて泣いちゃったのよね」
 知美は雅美の顔を胸に埋めさせたままゆっくり揺すぶった。ゆっくりゆっくり。
「このよだれかけ、お姉ちゃんが着けてくれたんでちゅよ。この浴衣、お姉ちゃんが着せてくれたんでちゅよ。このパンツ、お姉ちゃんが穿かせてくれたんでちゅよ」
 知美は雅美の体を揺すりながら、タオルの即席よだれかけと浴衣とショーツに順番に触れて言った。ショーツに触れる時には、幼児をあやす時そのままに、お尻をぽんぽんと軽く叩いてから優しく背中をさすってやる。
「だから、もう泣きやみまちょうね。いつまでも雅美ちゃんが泣いてるとお姉ちゃんが困っちゃいまちゅよ。ほら、お姉ちゃんに抱っこしてもらいまちょうね」
 そう言って体を揺するのをやめた知美は、心配そうな顔で二人の様子をみつめる万里子に雅美を抱かせた。
「ごめんね、雅美ちゃん。本当にごめんね。可愛い雅美ちゃんを泣かすなんて、本当にいけないお姉ちゃんだよね」
 雅美の体を受け取った万里子は、知美の真似をして自分の乳房をおずおずと雅美の横顔に押し当てた。
 一瞬、雅美の顔がこわばった。
 けれど、知美の乳房にも増してぷりんとした感触に触れ、どっくんどっくんと高鳴る鼓動を感じ取ると、見る見る穏やかな表情に変わってゆく。
「温かい? お姉ちゃんの胸、村野のお姉さんに負けないくらい温かい?」
 万里子はほんのり頬を染めて訊いた。
「うん、あったかだよ……」
 十八歳の大学生なのに人前で泣きじゃくってしまった恥ずかしさ。十八歳の大学生なのに幼稚園児として扱われる恥ずかしさ。十八歳の大学生なのに十五歳の高校生から五歳の妹扱いされる恥ずかしさ。そんな恥ずかしさだけではない、なぜとはなしに甘ったるい感じのする気恥ずかしさを覚えながら、雅美はそっと呟いた。
「……あったかだよ、お姉ちゃん」




 山の頂にかかる月の光が窓から差し込んでくる中、敷布団の上に上半身を起こしてひそひそ声で話しているのは美智子と万里子だ。
「どう? 起きる気配はない?」
 注意していないと聞こえないような声で美智子が万里子に言った。
「大丈夫よ。ぐっすり眠ってる」
 万里子は、自分のすぐ横に敷いた幼児用の小さな布団にくるまって安らかな寝息をたてている雅美の顔をそっと覗き込んで応えた。それから、少し気遣わしげに美智子に尋ねる。
「お父さんはどう?」
「お父さんの方もぐっすりよ。初めての家族旅行だってご機嫌だった上に知り合いの学生さんが一緒だったから随分お酒を召し上がって、今は気持ち良く夢の中だわ」
 窓際の布団で軽く鼾をかいている勲の様子を伺い見て美智子は言った。
「そう。じゃ、今のうちね」
 万里子が意味ありげな目で美智子の顔を見た。
「そういうことね。いくら勲さんも賛成したことだとはいっても、実の娘がおねしょさせられるところは見たくないでしょうし。――雅美ちゃんの様子を見ていてね、用意してくるから」
 言い残してそっと襖を開けた美智子は、玄関に近い方の室に移った。そうして、夕飯の後片づけも終わってすっかり綺麗になった座卓の上に置いてあるポットの湯を急須に注ぐ。
(それにしても、本当に可愛い寝顔だこと。十八歳なんて嘘みたい。本当に五歳、ううんそれよりも下にしか見えないわ。そうよ、雅美ちゃんは本当は五歳より下の小っちゃな子なのよ。小っちゃな子なのに十八歳のふりなんかしてたら疲れちゃうよね。だから、すぐにお姉ちゃんが雅美ちゃんを本当の年齢に戻してあげる。妹扱いじゃなく、本当の妹にして可愛がってあげる。すぐだから、いい子で待っててね)
 本当に幼児みたいなあどけない表情で眠る雅美に胸の中でそう語りかける万里子がふと顔を上げると、急須からお茶を注ぎ入れた湯呑みを美智子が洗面所に持って行くところだった。
 微かに水道の音が聞こえた後、待つほどもなく美智子は湯呑みを手にしたまま、雅美が眠る布団のかたわらに膝をついた。
「いいのね? 掛布団を捲り上げるわよ」
 美智子が目で合図を送るのを受けて、万里子は念を押すみたいに言った。
 それに対して、美智子が無言で頷き返す。
 万里子の手が伸びて、雅美の掛布団をそっと手前に引き寄せた。
 寝乱れのために帯の結び目が緩んで浴衣の裾が乱れた、しどけない雅美の姿があらわになる。
「浴衣の上からかけちゃ不自然な濡れ方になるから、もう少し裾をはだけてちょうだい」
 声をひそめて美智子が言った。
 万里子は雅美の浴衣の裾をそっと左右に開いた。それまでも三分の一ほど見えていたショーツが丸見えになる。
「それでいいわ。じゃ、今から雅美ちゃんにおねしょをしてもらいましょうね」
 きらと瞳を輝かせた美智子は手にした湯呑みを雅美のショーツの上に差し出すと、少しずつ少しずつ傾けていった。
 一つ二つと数えられるような水滴になって滴り落ち始めたお茶が、いつのまにか細い条になって途切れることなく雅美の股間に滴り落ちてゆく。
 最初のうちこそ雅美のショーツに吸い取られてシミをつくっていたお茶だけれど、すぐにショーツでは吸収できなくなって、雅美の太腿を伝ってお尻の方に流れ広がり、浴衣の生地からも滲み出して敷布団も濡らしてゆく。
 これが熱いお茶や冷たい水なら雅美もすぐに気がついて目を覚ますだろう。けれど、水を混ぜてぬるくしたお茶だから殆ど体温みたいな温度になっていて、そうそう雅美に気づかれる恐れもない。雅美に気づかれることなく雅美の下腹部とショーツと浴衣と敷布団を濡らしてゆくぬるいお茶。朝になって目を覚ました雅美がお尻の下に違和感を覚えて自分の下腹部を見たら、薄茶色に染まっているショーツと敷布団に驚くことだろう。まるで身に覚えのないおねしょ。だけど、誰の目にも明らかな跡がありありと残っているおねしょ。まさか義理の母と義理の妹の手でおねしょをしたように仕向けられたとは思いもしないだろう雅美が、朝になってどんな顔をみせるのか、それを想像すると、奇妙な悦びさえ覚える二人だった。
 とはいっても、二人は雅美を苦しめるために偽りのおねしょを仕組んだわけではない。苦しめるどころか雅美が可愛くて可愛くてしようがないからわざとおねしょさせることにした二人だ。――二人、いや、正確に言えば三人。おねしょをさせる積極的な役を選んだのは美智子と万里子の二人だけれど、その計画に勲も賛意を示していた。
 もともと妹を欲しがっていた万里子。だけど、父親と死別した母親のもと、妹ができるわけがないことは幼い頃から知っていた。それが、母の再婚で新しい姉妹ができると聞いた。その時は期待に胸を大きくしたものだ。が、母の再婚相手の娘が自分よりも三つ年上だと聞かされた時は余計に落胆し、そして、諦めた。ま、一人でいるよりは、姉さんでもできた方がマシだと考えるよう努めた。けれど、実際に雅美に会ってみると、その愛くるしい姿に胸のときめきを覚えてしまった。この子は本当は私より年上で義理の姉になる人なんだと自分に言い聞かせても、胸の奥底に芽生えた奇妙な感覚は自らに言い聞かせる言葉を拒んだ。本当の年齢なんてどうでもいい。こんなに可愛い子なんだもん、無理矢理にでも妹にしちゃえばいいのよ。強引に妹扱いして、私のことをお姉ちゃんと呼ぶように強要して。
 そんな奇妙な欲望を万里子が胸に抱え込んだことを、母親である美智子はすぐに見抜いた。幼児教育に携わる人間は、自然と、人の心の様子を探る感覚を身に付けるようになる。幼児のちょっとした仕種や微妙な物言いの変化を見抜く術を持つようになる。それに加えて美智子は万里子をこれまで育ててきた母親だ。万里子がどんな気持ちを胸の中に持っているのか、なぜとはなしに伝わってくる。探るでもなく、調べるでもなく、問い質すでもなく、それは伝わってくる。
 万里子が抱いたその奇妙な欲望を、けれど美智子は咎めなかった。実は、美智子もまた万里子のそれとよく似た欲望を胸に抱いていたからだ。幼稚園に勤めているくらいだから、もともと子供好きな美智子だ。できることなら大勢の子供に囲まれての生活を望んでいた。なのに、万里子が生まれて一年少しで夫は他界してしまった。そして、夫の面影を忘れることができずに今まで再婚もせずに、一人娘の万里子と共に生きてきた美智子。勤め先の幼稚園では多くの子供と接することができる。それが少しは気を紛らわせてくれたものの、それで却って、自分の子供がもっといてくれたらという思いが募って胸を痛くもしていた。そして時が流れて、思ってもみなかった再婚話が進んで初めて雅美を見た時、ずっと胸の中にしまいこんでいた思いがその存在を声高に叫び始めた。もうこの年齢だから、いくらなんでも妊娠出産は無理だ。でも、この子なら。十八歳という年齢がまるで嘘みたいに思えるこの子なら、もういちど育児の真似事を楽しむことができるかもしれない。この子を万里子の妹に、それも、ずっと幼い妹に仕立ててしまえば、胸を痛め続けた思いがかなうかもしれない。そう直感した美智子だった。
 偶然、二人の思惑は重なった。いや、それを偶然と呼ぶのは正しくないかもしれない。最愛の夫と父を失った二人の女性が肩を寄せ合って生きてきた十数年の歳月。その歳月が、本来は別々の人格である母と娘を、驚くほど似た存在に変えていったのだから。
 そして、勲。女の子を男手一つで育てる難しさを身にしみて味わった。赤ん坊の頃の世話は言うに及ばず、長じてからは、男親にはわからない女の子特有の身体や心の問題が出てくる。そんな様々な問題に、教科書通りの接し方しかできない勲だった。そんな状況でも幸い雅美はすくすく育ってくれたものの、自分の育て方は間違っていたのではないだろうかという不安をいつも感じていた。些細なことで言えば、雅美が身に着けている衣類にしてもそうだ。いくら体が小さいとはいっても、子供用の服ばかり着ているのはやはり普通ではないだろう。体に合うサイズの衣類がそんな物しかないとはいえ、たとえば裁縫の技術があれば、一から洋服を縫い上げるのは無理としても、買ってきた子供服をそれなりの年齢に似つかわしいデザインに仕立て直すこともできるだろう。そうしない、あるいは、そうできない雅美を見るにつけ、母親だったら簡単な裁縫を教えていたのだろうなと思えて、雅美が不憫になってくる。それに、いくら真っ直ぐ育ってくれた雅美とはいっても、本当なら女親に思いきり甘えたい時期もあったろうと思うと、こちらの方が切なくなってくる。小さい頃から自分のことは何でも自分でしようと努めてきた雅美だからこそ、本当は母親にべったり甘えたかったんだろうなと感じられてならなかった。だから、美智子と再婚することになった時、雅美を存分に甘えさせてやってほしいと話した勲だった。そうして、美智子と万里子が雅美と初めて会った後、美智子がそれとなく雅美を万里子の妹として扱ってみようと思っているとほのめかした時、敢えてその申し出を受けることにした。十八歳になった今となっては心の底から新しい母親に甘えることはできないだろう。それならいっそ小さな子供の頃に返って甘え直すのも悪いことではないと思ってのことだった。普通に考えれば突拍子もないやり方だけれど、雅美の小さな体を見ていると、それが一番の方法に思えてならなくなってくるのだった。
 まさか、雅美は三人がそんなことを考えているなんて思ってもいない。思ってもいないからこそ、旅館の予約を取るために年齢を偽ることを渋々ながら承諾したのだ。しかし、もうその時は三人の計画が始まっていた。最初からそうすることを企んだわけではないけれど、旅館の予約を取るために雅美の年齢を偽ることを思いついた時、それまで漠然とした計画でしかなかったのがくっきりと形をとったのだ。
 そうして、自分が本当は小さな子供なんだと徹底的に思いこませるために、美智子と万里子は雅美にわざとおねしょをさせることにしたのだった。

「それにしてもよく眠っていること。楽しい夢でも見ているのかしら」
 穏やかな、時おり笑みを浮かべて眠る雅美の寝顔を見て美智子はぽつりと呟いた。
「小っちゃな子供だった頃を思い出して夢に見ているのかもしれないわね。村野さんに抱っこしてもらった時、本当に子供みたいな顔つきになっていたもん」
 夕飯の時、急に泣きだして知美に抱っこされて泣きやんだ雅美の表情を思い出して万里子は言った。
「そうかもしれないわね。雅美ちゃん自身は気づいていなくても、ひょっとしたら、雅美ちゃんも小っちゃい子供の頃に戻りたがっているんじゃないかしら」
 ショーツと敷布団がお茶をたっぷり吸ったのを確認して美智子は湯呑みを元に戻した。




 小鳥の鳴き声。明るい日差し。木々のざわめき。
 お茶を飲んだり顔を洗ったりと朝になって三人が動き回る中、けれど雅美は布団から起き出すことができなかった。
「そろそろ起きなきゃ駄目よ、雅美ちゃん。もうそろそろ仲居さんが朝ご飯を持ってきてくれる頃なんだから」
 いつまでも起きない雅美に向かって万里子の声が飛んでくる。
 けれど、雅美は無言のまま。本当は三人よりも早く目が覚めているのに、瞼を閉じて眠ったふりを続けるばかりだ。
「ほらほら、いつまでも寝てないで」
 いくら呼んでも返事をしないので、万里子は座卓のある続き間から布団のすぐそばにやって来て雅美の体を揺すった。
 そうまでされると、このまま眠ったふりを続けるわけにもゆかない。
「もう少し寝かせておいてよ、眠いんだよ〜」
 本当は意識もはっきりしているのに、雅美はわざと寝ぼけたような声を出した。
「どうしたの? 昨日の疲れが出たのかな、雅美ちゃん」
 雅美と万里子のやり取りを耳にして美智子も布団のそばに膝をつくと、自分の額を雅美の額に押し当てた。
「うん、熱はないみたいね。なら、大丈夫だわ。今日は少し離れた所にある滝を見に行くんだから元気を出して起きましょうね。雅美ちゃん、旅行のパンフレットの写真を見て、滝の近くに行くの楽しみにしてたじゃない」
 雅美の体温を確かめて、ほっとしたように美智子は言った。
「いい。滝なんていいから寝てる。滝には三人で行ってきてよ」
 二人に見おろされて、雅美は弱々しく首を振った。
「そんなことできませんよ。小っちゃな子を一人で残すなんて、旅館にもご迷惑なんだから。ほら、いつまでも我が儘言ってないで起っきしましょうね」
 雅美が布団の中から出たがらない理由を知っていながら早く早くと急かす二人だった。
「いや。私、寝てる」
 知美がいる時は幼児のふりをするために自分のことを『雅美』と名前で呼んだ雅美だが、事情を知っている家族しかいない今は『私』に戻っていた。
「駄目よ、ほら」
 不意に万里子が掛布団に手をかけてがばっと捲り上げた。
「いやぁ!」
 雅美は慌てて布団の端をつかんだが間に合わない。
 捲り上げた掛布団を万里子は自分の手元に引き寄せて手早く三つに折りたたんだ。
「いや、見ちゃいや!」
 体を覆い隠していた布団を失った雅美は両手の掌を大きく広げて股間に押しやった。
 だけど、そんなことで、薄茶色に染まったショーツや敷布団の大きなシミを隠すことはできない。
「あ……」
「あらあら、雅美ちゃんてば」
 本当はそう仕組んだの当の二人なのに、美智子と万里子はわざとらしい驚きの表情を浮かべて雅美の下腹部をじっとみつめた。
「見ないで、見ないでってば……」
 今にも消え入りそうな声を漏らす雅美。
「いいのよ、雅美ちゃん。いくつになってもおねしょの治らない子はいるんだから、そんなに恥ずかしがらなくてもいいの。でも、雅美ちゃんにおねしょ癖があるんだったら先に相談しておいてほしかったわね。先に言っておいてくれたら布団を汚さないように用意することができたかもしれないのに」
 驚きの表情から一転して笑顔になった美智子は、優しい母親を演じるようにそう言った。その言い方はあくまでも優しいけれど、まるで雅美がいつもおねしょをしているんだと決めつけるみたいだった。
「そんな、おねしょ癖だなんて……」
 美智子の言葉に雅美は思わずぶるんと首を振った。
「あら、いつもはしないの? じゃ、疑うわけじゃないけど、一応お父さんにも聞いておきましょうね。雅美ちゃんにおねしょ癖があるんだったら、これからの生活でいろいろ考えなきゃいけないこともあるし。――どうなんですか、あなた」
 美智子は、座卓でお茶を飲んでいる勲の方に振り向いた。
「さぁ、どうだったかな。なにせ、家事一切は雅美にまかせきりだったから、僕は洗濯物を見たこともないんだよ。朝も雅美が先に起きてご飯を作って洗濯もしていたし、だから、もしも雅美が毎晩おねしょをしていても僕にはわからないんだ。頼りない父親で申し訳ないんだけどね」
 勲は頭をぽりぽり掻きながら応えた。
 たしかに、食事の用意も掃除も洗濯も全て雅美がやっていた。だから、実際のところ、雅美におねしょ癖があったとしても勲が気づくことはないだろう。けれど、それが毎晩のことだったら本当は気づかないわけがない。それを「わからない」と言うのは、「ひょっとしたらそうかもしれない」と言っているのと同じだった。
「そんな、お父さん、そんな言い方ひどい」
 ぐっしょり濡れた敷布団の上で雅美は体を震わせた。
「いや、ひどいと言われても、父さんはわからないって応えただけだし」
 勲は、わざと平然と言った。これも雅美のためなんだよ。雅美が新しいお母さんに思いきり甘えられるようにするためなんだよ。つい口からこぼれ出しそうになる言葉を勲は慌てて飲み込んだ。
 そこへ、「失礼します。朝食をお持ちしました」という言葉が聞こえて、予め開錠しておいた引き戸が開いた。
「あの、どうかされたんですか?」
 大きなお盆を持って部屋に入ってきた仲居は、続き間で顔を寄せ合っている美智子と万里子の様子に気遣わしげな声をかけた。
「あ、仲居さん。実は下の子が粗相してお布団を汚してしまったんです。ご迷惑をかけて申し訳ないんですけど、あとのこと、なんとかなりますでしょうか」
 お盆を抱えたままこちらを見ている仲居に、いかにも申し訳なさそうに美智子が言った。そうしたのは自分なのに、そんなことはおくびにも出さずに。
「下のお嬢様がおねしょされちゃったんですね。でも、小さなお子様のお客様だと結構よくあることなんですよ。いえ、浴衣やお布団のことはお気になさらないでください。クリーニングの業者さんにちゃんとしてもらえますから。それよりも、早くお嬢様の下着を取り替えてあげた方がよろしいですよ。夏とはいっても冷気が流れ込むこともある山の中ですから。お着替えは布団の上でなさっていただいて結構です。濡れた浴衣と一緒に業者さんに渡して綺麗にしてもらいますから」
 寝具を汚されたこともさほど気にするふうもなく、仲居は朝食の皿を並べ始めた。言うように珍しくないことなのかもしれないし、客に気を遣わせないようにという配慮なのかもしれない。
「それじゃ、お言葉に甘えて。――はい、立っちしましょうね、雅美ちゃん」
 仲居に言われるまま、美智子は雅美の両手を引いて半ば強引に布団の上に立たせた。と、ショーツに吸い取られていなかったらしいおしっこの雫(実はお茶の雫)が一つ、太腿から膝の裏側を伝って布団の上にこぼれ落ちた。おしっこの雫が伝い落ちるその肌触りが雅美をますます惨めにさせる。
「万里子、バッグの中から雅美ちゃんの新しいパンツを持ってきてちょうだい。それから、洗面所へ行ってタオルを濡らしてきて」
 雅美が倒れないよう腰に手をまわした美智子は雅美の右足と左足を交互に上げさせて、ぐっしょり濡れて肌に貼り付くショーツを脱がせた。濡れたショーツの感触を雅美が少しでも強く意識するように、ゆっくりした手つきだった。
「はい、タオルと新しいパンツ」
 薄茶色に染まったショーツを剥ぎ取られ、浴衣を脱がされて雅美がすっかり丸裸になったところへ、洗面所でぬるま湯にひたしてから固くしぼったタオルと替えのショーツを持って万里子が戻ってきた。
「お姉ちゃんが持ってきてくれたタオルで綺麗綺麗しましょうね、雅美ちゃん。ちゃんと拭いておかないとおしっこの匂いが取れないから」
 美智子は受け取ったタオルを雅美の下腹部に押し当てた。
 無毛の下腹部がびくっと震える。
「雅美ちゃんのおねしょがいつまでも治らなくてもいいのよ。私と万里子お姉ちゃんとでちゃんとしてあげますからね」
 嘗めるようにタオルを雅美の肌の上に走らせながら美智子は言った。
「そうだよ、雅美ちゃん。おねしょしちゃって泣きそうにしてる雅美ちゃん、とっても可愛いから気にすることなんてないんだよ」
 アニメキャラをプリントした女児用のショーツを雅美の目の前に突き出して万里子が言った。
「よろしゅうございますね、優しいお姉ちゃまで」
 仲居が口にしたその言葉が雅美の羞恥をいっそう掻きたてる。




 旅館から林道を経て国道に出ても、さほど渋滞しているというわけではなかった。勲が運転する車の助手席には美智子が座り、後ろには雅美と万里子に加えて知美の姿があった。気ままな一人旅ということもあって、勲や美智子に誘われるまま、知美も渓谷の滝を見るのに同行することにしたのだ。
 山あいの町とはいっても国道沿いはかなり開けていて、コンビニやファミリーレストランもあちらこちらに見かけられる。
「あ、ごめんなさい、あのお店に入ってくださいな」
 運転する勲に美智子がそう言ったのは、全国的に名の通ったドラッグストアのチェーン店の姿が見えた時だった。
「いいよ。車酔いの薬でも買うのかい?」
 鷹揚に応えて、勲はドラッグストアの広い駐車場に車を入れた。
「ううん、お薬じゃないの。あ、いいわ。すぐにすむから車の中で待っていて」
 一緒におりようとする勲に手を振って、美智子は一人で店内に姿を消した。

 すぐにすむからといった言葉通り、十分間も待たずに美智子は戻ってきた。手には、大きく膨れたビニール袋を提げている。
「何を買ってきたんだい?」
 車を発進させながら勲が話しかけた。
「今夜の用意よ。仲居さんは親切に言ってくれたけど、これ以上は旅館の人に迷惑かけられないから」
 どこか悪戯ぽい口調で言った美智子は、ビニール袋から大きなパッケージを取り出した。
 パッケージの表面には、可愛らしい幼児の顔写真が印刷してあって、その横に、有名な紙おむつのブランドがプリントしてあった。そうして、『ビッグサイズ』の文字。
「それと、これ。ちゃんとしてあげないと、おむつかぶれになっちゃうから」
 紙おむつのパッケージに続いて美智子が取り出したのは、赤ん坊のおむつを取り替える時に使う携帯用のお尻拭きの容器とベビーパウダーの容器だった。
 それを見た雅美の目が大きく見開いた。まさか、そんなの、まさか。
「あ、雅美ちゃんのね。そうだよね、これなら今夜はおねしょでお布団や浴衣を汚しちゃうことはないもんね」
 雅美の羞恥をよそに、こともなげに万里子が言った。なんでもないことというふうな口調が却って雅美の羞恥を煽る。
「おねしょ? 雅美ちゃん、おねしょしちゃったの?」
 万里子の言葉を聞き咎めたのは知美だった。夕食は一緒だったものの寝る時は自分の部屋に戻っていたから何があったか知らないのも無理はない。
「雅美ちゃん、五歳だったっけ。ま、五歳だったら無理ないわね。病的な夜尿症は別にしても、中学生の夜尿もあるわけだし」
 おねしょと聞いた時には少し驚いた様子の知美も、すぐに落ち着きを取り戻して、いかにも幼児教育が専門の大学院生らしい冷静な口調で言った。
「そうそう、おねしょといえば、村野さんはご存知かしら。ここ二十年ほどで、幼児のおむつ離れが遅くなっているみたいなのよ。おねしょだけじゃなくて、昼間のおもらしが治らない子も増えているらしいわ」
 知美の言葉を引き取ったのは美智子だ。美智子の言う通り、様々な調査で、最近の子供は一昔前の子供に比べておむつ離れが遅くなっているという結果が出ている。それを紙おむつの普及のせいだとする意見もあるし、親が子供に構う時間が減ったために積極的にトイレトレーニングしなくなったせいだとする意見もあるものの、ちゃんとした原因究明はまだなされていない。
「そういえば、今回の学会でも報告がありました。おむつ離れの遅れをグラフにしてみると、近い将来には小学校に入るような年齢でもおむつ離れしていない子供が増えてくるんじゃないかという予測まであったくらいです」
「確かにそうかもしれないわね。うちの幼稚園では、さすがに年長クラスでおむつ離れしていない子はいないけど、年中さんだと二割くらいはいるかしら。三ケ月に一度くらい園長どうしの会合があるんだけど、年長さんでも昼間のおむつを離せない子がいる園も増えているらしいわ。これからどうなるのかしらね」
 美智子は溜め息をついてみせた。
「そうですね、私は幼児教育でもそういう方面は詳しくないんですけど、うちの先生が集めている資料を見ると、そういう傾向ははっきりしているみたいです。或る紙おむつメーカーの資料によると、もともとは体の大きな赤ちゃんのために発売を開始した大きなサイズの紙おむつがメーカーの予測よりもよく売れているそうです。これって、つまり、年齢の割には体の大きな赤ちゃんが使っているというよりは、大きな体になった年齢の子供が使っているということらしいです」
 知美は、美智子がビニール袋に戻している紙おむつのパッケージに印刷してある『ビッグサイズ』という文字を見て言った。
「でも、そのおかげで、雅美ちゃんくらいの年齢の子に合う紙おむつが手軽に買えるようになったのよね。ちょっと昔だったら、こんなサイズの紙おむつ、病院の売店にでも行かなきゃ手に入らなかったわよ」
 そう言って美智子は苦笑した。

 それから一時間近くも走り続けると、国道を走る車の数も増えてきて、ちょっとした渋滞があちらこちらで発生するようになってきた。山あいの町と町を結ぶ道路が国道以外には迂回路も殆どない上、そこに観光の車も混ざるために慢性的に渋滞状態が続いている地域だから仕方ないといえば仕方ない。
 周りの景色も、ドラッグストアのチェーン店とかがあったような所と比べると随分と変わってきて、ちょっとした山越えの道になってきている。
「へーえ、知らないうちにこんな高い所を走ってたんだ」
 九十九折れの道を走っていると時おり、山々の重なりの隙間からぱっと景色が広がることがある。すると、畑や水田が眼下に一望することができて、自分たちがかなり高い山の山腹に沿って伸びる道路を走っていることに気がつく。
「ほら、とってもいい景色よ。雅美ちゃんも見てごらん」
 カーブを曲がる時などに頭を窓ガラスにぶつけて怪我をしないようにという配慮で、雅美は万里子と知美にはさまれた真ん中に座っている。両側に大柄な二人が座っているものだから、殆ど景色は見えない。それを気遣って、万里子が雅美を自分の膝の上に座らせて景色を見せてやろうと手を伸ばした。
 けれど、雅美は万里子の手を拒んだ。
「いい。景色なんて見なくていい」
 拒んで、下を向いたまま弱々しく呟く。
「ん? どうしたの、雅美ちゃん。元気がないけど、気分悪いのかな? それとも、お腹が痛いのかな?」
 今度は万里子は雅美のお腹に向かって手を伸ばす。
「いや、触らないで。そんなとこ触っちゃ駄目!」
 万里子が予想もしていなかった強い調子で、叫ぶみたいに雅美は言った。
「本当にどうしちゃったのよ、雅美ちゃん。どうしてそんなにご機嫌斜めなの?」
 おずおずと手を引っ込めて、わけがわからずに万里子は首をかしげた。
 雅美はそれには応えず、すがるような目で運転席の勲の後ろ姿を見て、今にも消え入りそうな声で言った。
「お父さん、どこかで車を停めてくれない?」
「どうしだんだい? 万里子お姉ちゃんが言ってたように気分が悪いのかい? 車酔いかな」
 勲はルームミラーでちらりと雅美の様子を窺った。
「そうじゃない。そうじゃないけど、ねぇ、どこかで停めてよ。もう我慢できないよ」
 こちらもルームミラー越しに勲の顔をじっと見据えて切羽詰まったような声で雅美が言う。
「そんなこと言っても、道幅の狭いこんな所で車を停めたら渋滞の原因になっちゃうんだよ。ただでさえノロノロ運転しかできないのに、そんなことしたら大変にことになってしまうから無理だよ」
 勲の言う通りだった。山越えのこのあたりは、国道とはいっても山腹に強引に道路を貼り付けたようなもので、乗用車はともかく、大型トラックどうしのすれ違いは難しいほどの道幅しかない。ただでさえ行き交う車が多くて停滞気味なところへ車を停めれば、それが原因になって大渋滞になるのは明らかだった。 
「でも、でも……」
 雅美の声が震える。
「どうしたの、雅美ちゃん。どうしてそんなに車を停めてほしいの?」
 雅美が車を停めてくれるよう言ってやまないのを不思議に思って知美が訊いた。
 それに対して応えようかどうしようか迷うようなそぶりをみせた後、観念したみたいな顔で雅美は言った。
「お、おしっこ。おしっこなの」
 言ったきり、恥ずかしそうに顔を伏せる雅美。
「あ、おしっこしたかったのね。そうね、小っちゃい子は大人より膀胱が小さいからトイレが近いのよね」
 納得して知美が頷いた。
「でも、どうしようもないよ。かなり我慢しているみたいだけど、車を停めるのは無理だよ」
 困ったように勲が頭をぽりっと掻いた。
「そんなこと言うけど、なんとかならないんですか。この様子だといつまで我慢できるかわからないのに。それに、レンタカーを汚しちゃ、あとが大変なんでしょう?」
 助手席の美智子が言う。
「でも、道路の左側はガードレールの外側がすぐに山肌だし、右側は急な崖になっているんだよ。無理して車を停めても、とてもじゃないけどおしっこなんてさせられないよ」
 言い訳するみたいに勲は返事した。
「それはそうだけど……」
 とうとう美智子も諦めたような顔つきになってしまう。
 急に、何か思いついたような万里子の明るい声が弾んだ。
「車を停める必要なんてないよ。車を停めなくても、雅美ちゃんにおしっこさせてあげられるよ」
「え、どうするの?」
 万里子が何を言っているのかわけがわからず、知美が訊き返した。
「あれを使えばいいのよ、あれ」
 あれと言って万里子が指差したのは、美智子が助手席の足元に置いているドラッグストアのビニール袋だった。
「え……?」
 言われた後も、知美は一瞬、それがどういうことなのかわからなかった。
 けれど、じきに万里子が何を言っているのか理解すると、美智子に向かって後ろから声をかけた。
「奥様、足元の袋をこちらにいただけますか。間に合わなくなるとまずいので、今のうちにちゃんとしてしておこうと思います」
「え、これ? これがどうかしたの?」
 美智子も咄嗟には何のことかわからなかったが、すぐに察しがついたようで、悪戯っぽく瞳を輝かせると、足元に置いてあったビニール袋をいそいそと知美に手渡した。
「じゃ、二人でちゃんとしてあげてね。狭くない?」
「大丈夫です。私がこうして前の座席と後ろの座席の間に立てば、万里子さんが座っていても雅美ちゃんを寝かしつけるスペースはできますから」
 そう言って座席から立ち上がった知美は体をひねって後ろを向いた美智子の手からドラッグストアのビニール袋を受け取った。
 カーブもきつい山道だから普通なら立っていられないけれど、渋滞気味でスピードが出ていないのが却って幸いだ。
「さ、おいで、雅美ちゃん。ここにねんねするのよ」
 万里子はすぐ横でスカートの上から下腹部を押さえてうずくまるようにして座っている雅美の体を軽々と抱き上げた。
「やだ、触らないで。もう、少しでも動いたら出ちゃいそうなんだから」
 万里子に抱き上げられた雅美は涙目だった。抵抗しようにも、体に余分な力を入れてしくじったらと思うと手足をばたつかせることもできない。
「だから、ここにねんねするのよ。出ちゃってもいいようにお姉ちゃんたちがちゃんとしてあげるから」
 いったん膝の上に抱き上げた雅美の体を、万里子は優しく横抱きに抱き直してそっと座席に寝かせた。知美が言った通り、ワンボックスワゴンの座席は、小柄な雅美が横になるのに充分な広さがあった。
「じゃ、あんよを上げようね」
 そう言って万里子は、座席に寝かせた雅美のサンドレスの裾をお腹の上に捲り上げて両方の足首をまとめてつかむと、そのまま高々と差し上げた。
「いや! なに、なにをするの?」
 おしっこを我慢するのが精一杯でさっきから万里子と知美が何を話していたのかまるで聞いていなかった雅美は、突然のことに激しく首を振った。
「駄目よ、暴れちゃ。おしっこが出ちゃってもいいようにしてあげるんだから。はい、パンツを脱ぎ脱ぎするわよ」
 雅美の言葉なんて聞こえないとでもいうふうに、万里子は右手で足首を差し上げたまま、左手で雅美のショーツを脱がせ始めた。
「やだ、パンツ、やだ。やだってば」
 咄嗟に両手でショーツを押さえようとする雅美。
 その手を知美がそっと押しとどめる。
「いい子にしてなきゃ駄目よ、雅美ちゃん。パンツを穿いたままおしっこが出ちゃったら困るでしょ? だから脱ぎ脱ぎするのよ。パンツを脱ぎ脱ぎして、その代わりにこれを穿きましょうね」
 知美は片手で雅美の手を押さえ、もう片方の手で、ビニール袋から取り出した紙おむつのパッケージを雅美の目の前に差し出した。
 それを見た途端、雅美の顔がこわばった。あっというように口を開いて息を飲み、一瞬、体の動きが止まる。
「いや、おむつなんていや! 雅美、赤ちゃんじゃない。赤ちゃんじゃないから、おむつなんていや!」
 足首を万里子につかまれ、腕を知美に押さえつけられている雅美にとって、自由に動かせるのは顔と首だけだった。雅美は座席に後頭部をこすりつけるようにして激しく首を振った。
「そうよ、雅美ちゃんは赤ちゃんじゃないのよ。でも、お母さんがこれを買ってきた時、村野のお姉さんとお母さんが話してたでしょ? 幼稚園に行くような子でもおむつをしてる子がいるって。だから、恥ずかしがらなくていいのよ。赤ちゃんじゃなくてもおむつは恥ずかしくないの」
 万里子は優しく言い聞かせてから、左手で雅美のお腹をそっと押した。
「いや! そんなとこ押したら、おしっこが……」
 雅美の体がぶるっと震えた。ただでさえ限界が近いのに、そんなところへお腹を押されたりしたら、本当に我慢できなくなってしまう。
「でしょ? 雅美ちゃんはいつおしっこが出ちゃってもおかしくないのよ。だからおむつなの」
 万里子は雅美の耳元に唇を近づけて囁いた。
 熱い吐息が耳たぶにかかって、体の力が抜けそうになる雅美。事実、雅美の下腹部は幾分じくっと濡れ始めていた。
「だから、おむつなのよ」
 いったんは雅美の耳元に近づけた顔を上げて、不意に万里子は雅美の両脚を左右に広げた。無毛の恥部が丸見えになって、じっとり濡れた様子が万里子の目に映る。
「あらあら、もう濡れてきてるじゃない。急いでおむつしまちょうね、雅美ちゃん。ちっち出ちゃったらめっでちゅよ」
 夕飯の時に雅美を泣きやませようとして胸に抱いてそうしたように、万里子は幼児言葉で言って知美に合図をした。
「はい、おむつでちゅよ。雅美ちゃんのパンツ、可愛い絵が描いてあったけど、おむつにも可愛い絵が描いてありまちゅよ。パンツと同じだから恥ずかしくありませんよ」
 合図を受けた知美は手早くパッケージの一部を破り取ると、パンツタイプの紙おむつを一枚つまみ出して、お尻のところに描いてあるアニメキャラを見せてから、万里子が両手で足を持ち上げている雅美に穿かせた。そうして、紙おむつのギャザーを広げるようにしながら両脚の上を滑らせて雅美の下腹部を包み込む。最後にウエストのギャザーが内側に巻き込まれていないことを確認してから雅美のお尻を紙おむつの上からぽんぽんと優しく叩いて言った。
「はい、できた。雅美ちゃんはおとなしくていい子にしてまちたね。これでもういつ出ちゃってもいいんでちゅよ」
「うふふ、パンツの時よりもずっと可愛いでちゅよ、雅美ちゃん。雅美ちゃんはおむつが似合うんでちゅね」
 万里子も知美の真似をして雅美のお尻を紙おむつの上からぽんぽんと叩いて目を細めた。
 テープタイプにしてもパンツタイプにしても、最近の紙おむつは一昔前と比べると随分と薄くなっている。それでも、真ん中のあたり、お尻から尿道に当たるあたりにかけては吸水材が厚めになっているし、腿に当たるところと腰回りには横漏れを防ぐギャザーが付いているから、ショーツとは違うことが一目でわかる。特に、お尻のあたりが厚めになっている吸水材がもこもこ膨れた感じで、それだけでも見た目がいかにも幼児めいて可愛らしい。
「はい、じゃ、起っきしまちょうね。これでいつちっち出てもよくなったから、お姉ちゃんが抱っこして景色を見せてあげようね」
 雅美の紙おむつ姿を堪能してから、万里子は雅美の体を抱き上げて膝の上に座らせた。紙おむつの僅かにもこもこした感触がジーンズの生地越しに伝わってくるのがたまらなくいとおしく感じられる。万里子は、景色がよく見えるように窓の方を向けて横向きに抱いた雅美の体をぎゅっと抱きしめた。
「や……。そんなことしたらおしっこ出ちゃう」
 もう雅美は、いや!と叫ぶ力もなくしていた。ただ弱々しい声を漏らすだけだ。そんな雅美が無力な妹そのままに思えて万里子の胸に奇妙な悦びの火をともす。
「いいのよ、出ちゃっても。雅美ちゃんはおむつだから、ちっち出ちゃっていいのよ」
 万里子は、それこそ小さな子供に言い聞かせるような口調で囁いた。
「や。おむつにおしっこなんて、そんなの、や」
 雅美は力なく首を振った。
「いいのよ、我慢しなくても。――あ、サンドレスの紐がほどけかけてる。ねんねした時にほどけちゃったのかな。ちゃんとしとこうね」
 雅美の髪の匂いを嗅ぐみたいに自分の顔を雅美の髪に近づけようとして、万里子は雅美のサンドレスの肩紐がほどけているのに気がついた。このサンドレスも昨日のジャンプスカート同様、万里子と美智子が二人で見立てて買ってきたものだ。淡いブルーの生地でできていて、肩のところが幅の広いリボンみたいになっていて、脱がせる時はそのリボンをほどき、着せたあとは勝手に脱げてしまわないようリボンを肩の上で結んで留めるようになっている。
 万里子は肩の結び目を左右交互にいったん完全にほどいてから、もういちどきゅっと結わえた。もともとは雅美が昨日着ていたジャンプスカートよりも丈が長く仕立ててあるのだけれど、肩紐をどのくらいの長さに結ぶかで丈をかなり自由に変えることができる。万里子はわざとサンドレスの丈が短くなるよう肩紐のリボンを長く取って結わえた。そのせいで、静かに立っている時にはスカートの下の紙おむつはかろうじて隠れるものの、体を曲げて座る姿勢になると、サンドレスの裾が幾らか捲り上がって紙おむつが半分ほど見えてしまう。
「こんなの、や。おむつが見えちゃう」
 震える声で雅美が言った。自分で口にした『おむつ』という言葉が羞ずかしくてたまらない。
「これでいいのよ。スカートが長いと、あんよのじゃまになっちゃうの。雅美ちゃんみたいに小っちゃい子はスカートが短い方がいいんでちゅよ。あんよがスカートに絡まってどってんしたら痛い痛いでちゅからね。それよりも、ちっち、まだ出ないんでちゅか。お姉ちゃんが抱っこしていてあげるから、お姉ちゃんのお膝の上でちっち出しちゃいまちょうね。いつまでも我慢してるとお腹が痛い痛いになっちゃいまちゅよ」
 万里子は、スカートの裾から覗いている紙おむつの上から雅美の恥ずかしいところを人差し指でつんとつついた。
「や……」
 雅美の口から喘ぎ声が漏れた。おしっこを我慢するために漏らしたその喘ぎ声は、なんだか万里子に甘えているようにも聞こえるし、十八歳という年ごろの女性が妖しい悦びに身をまかせて思わず漏らしてしまったなまめかしい呻き声にも聞こえる。
 喘ぎ声を漏らしながら、雅美は万里子の首筋にしがみついた。おしっこを我慢するために思わずそうしたのだろうが、傍目には、幼い妹が年の離れた姉に甘えているようにしか見えない。
「あらあら、本当に甘えん坊さんだこと。雅美ちゃん、お姉ちゃんが大ちゅきなのね」
 あらためて座席に座った知美がひやかすみたいに言った。
「そうだよね。雅美ちゃん、甘えん坊さんだもんね。お姉ちゃんがいないと何もできなくて何でもお姉ちゃんにしてもらうんだもんね。だから、さ、お姉ちゃんが抱っこしてあげてるからちっち出しちゃおうね」
 万里子はもういちど雅美の秘部を紙おむつの上からつついた。
「あん……」
 おしっこを我慢しようとしてますます力いっぱい万里子にしがみつく雅美。
「いいのよ、我慢しなくても。おむつ汚しちゃっても、替えのおむつはたくさんあるから」
 それが雅美にとってはどれほど恥ずかしい言葉なのかも知らないまま、知美が紙おむつのパッケージを捧げ持って雅美に見せた。
 万里子は右手を自分の膝と雅美のお尻の間に滑りこませた。そうして、紙おむつをあててすぐにそうしたように、紙おむつの上から雅美のお尻を優しく叩く。あやすように、そうして、本当は自分より年上の雅美に紙おむつの恥ずかしい感触をわざと強く意識させるように。
「何も心配することなんてないんでちゅよ。ぜーんぶ、お姉ちゃんにまかせておけばいいんでちゅよ」
 右手で雅美のお尻を叩きながら、万里子は左手で雅美の顔を自分の胸元に引き寄せた。
 昨夜は浴衣越しだったが今はシルクのブラウス越しに張りのある乳房の感触が伝わってきて、微かながら心臓の鼓動が雅美の頬に触れる。
「ね、雅美ちゃん。雅美ちゃんはさっきまで何を穿いてた?」
 自分の乳房を雅美の頬に押し当てたまま万里子は優しく訊いた。
「パンツ。雅美、パンツだったよ」
 なんだかうっとりしたような顔つきになって雅美は応えた。事情を知らない知美が一緒だから自分のことを『私』ではなく『雅美』と呼ぶ幼児めいた言葉使いだったけれど、それが本当に知美が一緒だからという理由からだけには聞こえないのは気のせいだろうか。
「じゃ、今は? 雅美ちゃんのお尻を包んでくれてるこれ、何かな?」
 万里子はことさら強く紙おむつの上から雅美のお尻をぽんと叩いた。
「……おむつ。雅美、おむつなの」
 答えて雅美は頬を万里子のブラウスの胸元にこすりつけた。
「そうよ、雅美ちゃんはおむつなのよ。だから、さぁ」
 万里子はもういちどお尻を叩いてから、知美に気づかれないよう用心しながら紙おむつの上から尿道口のあたりをぐいっと押した。
「あ……」
 一瞬だけ雅美は顔を上げて恨めしげに万里子の顔を見上げ、そうして、全てを諦めたような表情になってあらためて万里子の胸に顔を埋めた。
 幼児がいやいやをするみたいに弱々しく何度も首を振る雅美の下腹部がひくひく震えたかと思うと、紙おむつの吸水材と防水性の表地を通して温かい流れがじわじわ広がる感触が万里子の掌に伝わってきた。
「そうよ、それでいいのよ、雅美ちゃん。パンツだったらスカートが汚れちゃうけど、おむつだから大丈夫なのよ。雅美ちゃんはおむつ、おむつなのよ。だから、お姉ちゃんに抱っこしてもらったままおしっこ出ちゃっていいのよ」
 おしっこを吸って少しずつ少しずつ膨れてくる吸水材の感触を楽しむように右手をゆっくり動かして万里子は雅美の耳元に囁きかけた。
「いや、恥ずかしい……」
 雅美は万里子と目を合わせまいとしてますます強く万里子の胸に顔を埋める。けれど、その仕種は本当に恥ずかしさのためばかりだろうか。
「大丈夫、恥ずかしくないのよ。幼稚園でもおむつの子はいるから雅美ちゃんも恥ずかしくないんでちゅよ」
 万里子はわざとのように優しい口調で言って、紙おむつの上から雅美のお尻を撫でていた右手を両方の太腿の間に移すと、人差し指と中指を紙おむつのギャザーの中に差し入れて、知美に聞こえないよう小さな声で囁いた。
「でも、本当は恥ずかしいわよね。五歳の幼稚園児ならともかく、雅美ちゃん、十八歳の大学生だもんね。十八歳の大学生が高校生の妹に抱っこしてもらっておむつをおしっこで汚してるんだもん、恥ずかしくないわけがないよね」
「いや、そんなこと言っちゃやだ」
 万里子の胸に顔を埋めたまま、拗ねるように雅美はぷっと頬を膨らませた。
「うふふ、可愛いお顔だこと。いいわ、私、雅美ちゃんのそのお顔が大好きだから、雅美ちゃんのお願いをきいてあげる。お願いをきいて、もう言わない。でも、そのかわり、雅美ちゃんもいい子にするのよ。お姉ちゃんの言うことをなんでもきくいい子になるのよ。じゃないと、雅美ちゃんの本当のお年を村野のお姉さんに教えちゃうからね。雅美ちゃんが本当は村野のお姉さんと同じ大学に通う十八歳の大学生だって教えちゃうからね。大学生なのにおむつを汚しちゃう恥ずかしい子だって教えちゃうからね。――お返事は?」
 万里子は左手の人差し指で雅美の頬をつついた。
 ほんの少しだけ迷ってから、万里子につつかれた頬を真っ赤にして雅美はおずおずと頷いた。
「それでいいのよ。いい子ね、雅美ちゃんは。聞き分けが良くって、素直で、可愛い妹だわ、雅美ちゃんは」
 右手の人差し指と中指で紙おむつのギャザーをそっと広げながら万里子は言った。
 最近の紙おむつは、新しい製品が出るたびに薄くなるのに、却って吸水性は向上している。とはいえ、どんな状況でも横漏れしないというわけではない。幼児のおもらしは、もともとおしっこの量がさほど多いわけではない。膀胱が小さいから溜め込むおしっこの量もしれているし、膀胱が一杯になる前に我慢できなくなって漏らしてしまうこともあって、大人が想像するよりも少ないおしっこが溢れ出るだけだ。それに、一時に溢れ出るというよりは、ちょろちょろ流れ出るといった感じだから、吸水材がおしっこを吸収する(時間的な)余裕もある。そのへんの事情もあって、紙おむつは子供のおしっこをちゃんと吸い取ってくれる。けれど、雅美は違っていた。実際の年齢から考えれば発育不全とはいえ本当の幼児と比べれば膀胱も大きくて、そこに我慢に我慢を重ねておしっこを溜め込んでいたから量は多い。しかも我慢できるぎりぎりを超えてようやく膀胱の筋肉を緩めたものだから、おしっこは堰を切ったように溢れ出している。そんなだから、吸水材がおしっこを吸い取ることができる限度はすっかり超えていた。吸水材に吸い取られなかったおしっこが不織布にまで広がって、ギャザーに遮られてかろうじて横漏れせずにいる、そんな状況だ。
 それなのに、そんな状況なのに、万里子が二本の指で僅かとはいってもギャザーを押し広げたものだから、紙おむつの裾からおしっこがこぼれ出してしまう。吸水材が吸ったおしっこは少なくないし、不織布にも吸水材ほどではないものの吸水性はあるのに加えて、万里子はギャザーを思いきり押し広げたわけではないから、こぼれ出したおしっこは思うよりは多くない。五つ六つの雫がギャザーと肌の隙間から流れ落ちただけだ。
 けれど、紙おむつから横漏れしたおしっこの雫が両方の内腿を濡らしてお尻の方へ伝い流れる感触は雅美にもはっきり感じられた。
「ん……」
 おしっこでおむつを汚してしまい、その上、おむつから漏れ出たおしっこが内腿を濡らす、それまで味わったことのない羞ずかしさに雅美は身をよじった。
 我慢して我慢して、できることならずっと我慢していたかった。みんなの目に直接ふれることはないとはいっても、みんなの目の前でおしっこを溢れ出させるなんてとてもできないと思った。だけど、とうとう我慢できなくなっておしっこが溢れ出すと、いっそ今度は早く出てしまえと思うようになった。少しでも早くこの時間が終わるように祈りたくなった。なのに、我慢に我慢を重ねて溜め込んだおしっこがなかなか出尽くすことはない。
 雅美は、お尻をもぞもぞ動かしながら、いっそう力を入れて万里子の胸に顔を埋めた。羞恥に満ちた表情を浮かべた顔を誰にも見られないようにと、そうして、誰とも目を合わさないようにと。
 ゆっくり進む車列の中、前を行く車を運転する者も、後ろに続く車の助手席に座っている者も、対向車線を行き交う車に乗っている者も、誰も、まさか十八歳の女子大生が義理の妹に抱っこしてもらっておしっこでおむつを汚しているとは思わないだろう。けれど、僅かにぷっくり膨れる吸水材と、内腿を伝い流れるおしっこの感触は紛れもない現実のことだった。

 おしっこで汚れた紙おむつを新しい紙おむつに取り替えてもらう時、雅美は弱々しい抗議の声をあげた。もうおむつはいらない、パンツを穿くと。しかし、万里子は雅美の言うことにはまるで取り合わなかった。目的地まではまだ二時間近くかかるのよ、その間にまたおもらししそうになったらどうするの。そう言われると、実際に紙おむつを汚してしまった雅美は何も言い返せなかった。そして、事実、目的地に着くまでに雅美はもういちど万里子の膝の上で紙おむつを汚してしまったのだった。




 景勝地の自然を保護するために、滝の近くまでは車を乗り入れることができないようになっていて、手前にある駐車場から大人の脚で四十五分ほどかかる道程を歩くことになる。とはいっても、舗装こそしていないものの、大きな石を取り除いてでこぼこを整地した遊歩道になっていて、歩くのはさして苦にならない。特に木々の葉が青々ときらめくこの季節、山あいを渡る風を頬に受けての道程は、心地よいハイキングといっていい。
 ところが、それは、四人にとっては心地よいハイキングでも、雅美にとっては羞恥に満ちた屈辱の道のりだった。頬を撫でる谷渡りの心地よい風も、渓谷の複雑な地形の中では気まぐれな吹き方をすることが少なくない。そよ風だと思っていたのが予想外の突風になることもあるし、山腹から吹きおろした風が谷底の川面にはねかえって下から上に吹き上げる風になることもある。山と山との重なりを通って吹いてきた風が木々を揺らすうちに小さな渦巻きになって落ち葉を舞い上げることもある。そんな気ままな風が、まるで悪戯を楽しむかのように、万里子に右手を引かれて遊歩道を歩く雅美のスカートを揺らしそよがせて、時おり捲り上げたりするのだった。他の四人はハイキングに合わせた服装で、女性三人もジーンズを穿いているから少々の風が吹いても平気だけれど、雅美は、美智子と万里子が見立てたサンドレスを身に着けているものだから、ちょっと強い風が吹くとスカートが捲れ上がってしまう。これが昨日着ていたジャンプスカートのようなデニムの少し厚めの生地なら幾らかマシなのかもしれないが、いかにも夏向けの薄い生地だから簡単にスカートが舞い上がってしまうのだった。
 サンドレスの裾が捲れ上がるたびに空いている方の左手で慌てて押さえる雅美だったけれど、万里子がわざと右手を引いて歩き続けるものだからなかなか立ち止まることができなくて、ちゃんと裾を押さえることができない。そのせいで、なんとか裾の乱れを整えた時には次の気まぐれな風が再びドレスの裾を捲り上げるといったことの繰り返しだった。
 一度きり、それも短い間なら、雅美がスカートの下に穿いているのが何なのか、周囲を行き交う人たちにもわからないだろう。けれど、こう何度もスカートが舞い上がって、それも裾の乱れをちゃんと整えることができない時間が長くなると、吸水材の膨らみや太腿のギャザーや、一見しただけで普通の木綿なんかとは違うことがわかる防水性の表地などのせいで、それがパンツタイプの紙おむつだということが誰の目にもはっきりしてくる。ことさら、すれ違う人達ではなく、滝を目指して雅美の横や後ろを歩いている人達には尚のことだった。
「ね、ママ。あの子、おむつじゃないかな。私よりおっきいのに、パンツじゃないみたいだよ。ね、おむつじゃない?」
 雅美の斜め後ろから、少し驚きの混じった無邪気な声が聞こえてきた。
 びくっと体を震わせて雅美がおそるおそる目だけ動かして声の主を確認してみると、幼稚園の年中クラスか年長クラスくらいの女の子だった。一緒に歩いている母親らしき女性とお揃いのジーンズとトレーナー、それにリュックサックという格好だ。頭にはバンダナを巻いて、足元もスニーカーではなく、トレッキングシューズで決めている。確かに背丈だけを見れば雅美よりも小柄なくせに(それも考えてみれば当たり前のことだ。なにせ雅美は幼稚園児にしか見えない服装をしているものの、実際は十八歳だし、本当の年齢からみれば随分と小柄とはいえ、小学校低学年の児童くらいの身長はあるのだから)、淡いブルーの生地でできた丈の短いサンドレスを着たいかにも幼児めいて見える雅美よりずっとしっかりした格好をした女の子だった。その子が、かたわらの母親に向かって、ちょっと不思議そうな表情で話しかけているのだった。
「駄目よ、大きな声でそんなこと言っちゃ。あの子、背は高いけど、お姉さんに手を引いてもらってるところを見ると、まだ幼稚園の年中さんくらいじゃないかな。着てる物もそんな感じだし。年中さんだったら美代よりも年下だし、美代が行ってる幼稚園でも年中さんクラスには何人かおむつの子がいるんじゃなかったっけ。どっちにしても、そんなこと聞こえたらあの子が恥ずかしがっちゃうわよ」
 母親は、美代と呼んだ女の子にそう言ってたしなめた。
「うん、わかった。年中さんだったら私より妹だもん、おむつでもおかしくないよね。でも、可愛いね。おむつが見えるたびにスカートを恥ずかしそうに押さえてて、とっても可愛いね」
 美代と呼ばれた女の子は雅美の姿が可愛いねと言いながら、おしゃまな仕種で口元を隠すようにして、うふふと笑った。
「そうね、おむつだとジーンズなんて窮屈だから穿けなくて、どうしてもスカートになっちゃうのね。それに、年中さんくらいだとまだあんよも上手じゃないから、あまりスカートが長いとお姉さんに手を引いてもらっても上手に歩けないから、あれくらいの短さのスカートが丁度いいのよ。でも、本当、短いスカートからおむつを覗かせてちょこちょこ歩くの、とっても可愛いわね。美代もちょっと前まではあんなふうだったのにね」
 母親は目を細くして美代に頷き返した。
「あ、それじゃ、美代、今は可愛くないみたいじゃん。ママ、ひっど〜い」
 母親の言葉に美代が頬を膨らませた。
「違うわよ、美代。美代が可愛くないなんて言ってるんじゃないわよ。ママ、美代が随分しっかりしてきたなと思って感心してるんだから。年長さんになって急にしっかりしてきて、ママ、とってもびっくりしてるんだから」
 母親は腰をかがめて、美代の目を見て言った。
「本当? 美代、お姉さんになってる?」
 言われて、美代は顔を輝かせた。このくらいの年ごろの子、特に女の子は、誰でもお姉さんぶりたくて仕方がない。しっかりしてきたと言われて、嬉しくてたまらないといった顔だ。
 いつのまにか美代の興味の対象は、雅美の紙おむつから自分の成長具合へと変わっていった。
「後ろの子、年長さんみたいね。本当は年長さんって、あんなにしっかりしてるのね。雅美ちゃんも年長さんだけど、お姉ちゃんにお手々を引いてもらわなきゃあんよも上手じゃないし、おしっこでおむつを汚しちゃうし、後ろの子と比べると、ずっと小っちゃい子みたいでちゅね」
 羞恥にまみれて顔を真っ赤にして母子の会話を聞いていた雅美に追い打ちをかけるみたいに万里子が言った。
 本当は、あんよが下手なわけじゃない。慣れない紙おむつのせいで下腹部から股間にかけて違和感を覚えて、それで、どこかよちよちした歩き方になってしまうだけだ。おむつを汚してしまったのは事実だけれど、おしっこを言えないわけじゃない。ただ、渋滞のせいで車を停めることができなくて、それで仕方なく、レンタカーを汚さないために紙おむつを使っただけだ。なのに、万里子の言い方ときたら……。
「でも、恥ずかしがらなくていいんでちゅよ。そんな雅美ちゃんのこと、お姉ちゃんは大好きなんでちゅよ。甘えん坊さんでおむつの離れない雅美ちゃんのこと、可愛くて仕方ないんでちゅよ」
 万里子はそう言ったかと思うと、雅美の右手を引いていた手をぱっと離して、両手で雅美の体を抱き上げた。
「やだ、何するのよ」
 大勢の人がいる中で急に抱き上げられた雅美は手足をばたつかせて万里子の腕から逃げようとしたが、サンドレスの裾が万里子の肘にかかって大きく捲り上がったことに気がついて、そちらを直すので精一杯になってしまう。
 その隙に、万里子は雅美の体を自分の胸元から背中の方へまわして、雅美のお尻の下で両手を組んだ。
「やだってば、何するのよ、おろしてよ」
 雅美は、自分がいつのまにか万里子の背中におんぶされたことに気がついて、今度こそ両脚をばたばたさせた。
「雅美ちゃんのあんよじゃいつになったら滝がある所に着くかわからないから、お姉ちゃんがおんぶしてあげるんでちゅよ。ほら、暴れちゃ駄目。ころんしたら痛い痛いでちゅよ」
 そう言って、万里子はわざと両手の力を緩めた。
 地面に落ちそうになって、雅美は慌てて万里子の首筋にしがみついた。
「そうそう、いい子にしてまちょうね。いい子にしてないと、後ろの子に笑われちゃいまちゅからね」
 万里子は、雅美のお尻の下で組んだ両手を僅かに上下させて雅美の体を揺すった。そのたびにサンドレスの裾がひらひらして、紙おむつに包まれたお尻が美代の目に丸見えになる。
「ママ、あの子、やっぱりおむつだよ。ほら、ちゃんと見えるもん」
 母親にたしなめられたことなんてすぐに忘れ去って、美代は、目の前で揺れる雅美のお尻を指差した。
「いや、おむつが見えちゃう」
 万里子の首筋にしがみついたまま、雅美は弱々しく首を振った。
「いいんでちゅよ、おむつが見えちゃっても。雅美ちゃんはおむつ。ちっち言えるお姉ちゃんたちはパンツ。雅美ちゃんはこれからずっとおむつだもの、恥ずかしがってちゃ駄目なんでちゅよ。ちゃんとちっち言えるようになるまでおむつなんでちゅよ」
 万里子は僅かに首をまわして雅美に微笑みかけた。
「ちっち言えるもん。雅美、ちっち言えるもん」
 私は大学生なんだから、おしっこくらいちゃんと言えるわよ。そう言いたくても、知美に本当のことを知られるのをおそれて、幼児めいた言い方しかできない雅美だった。
「でも、言えるだけじゃ駄目なんでちゅよ。ちっちを教えてトイレまで我慢できないとパンツのお姉ちゃんになれないんでちゅよ。パンツのお姉ちゃんになれるまでは、おむつが窮屈だからスカートしか穿けないんでちゅよ。だからおむつも見えちゃうけど、ちっち言えない雅美ちゃんは我慢しなきゃいけないんでちゅよ」
 万里子は雅美の体を揺すり上げた。
「それより、お姉ちゃんの背中でねんねなさい、雅美ちゃん。朝早くおっきして疲れたでちょ、だから、お姉ちゃんがおんぶしてあげてる間、ねんねするといいわ。ほら、お姉ちゃんの背中におもたれしてちょうだい」
 お尻の下で組んだ手を小刻みに動かして、万里子は紙おむつの上から雅美のお尻を何度もぽんぽんと叩いた。
「ねんねなんて、や。おんぶでねんねなんて、雅美、赤ちゃんじゃないもん」
 雅美は万里子の背中で恥ずかしそうに、それでも聞きようによってはなんだか甘えてでもいるみたいな口調で言った。
「ね、ママ。あの子、ひょっとしたら年少さんかもしれないね。お姉さんにおんぶしてもらってるもん。年中さん、おむつしておんぶしてもらう子、いないよ」
 母親にそう言う美代の言葉に、むきになって赤ちゃんじゃないもんと何度も何度も呟く雅美の声が、気まぐれな風に乗って谷の向こう側へ流れて行った。



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