幼児への誘い・5



「ねぇ、香奈おねえちゃん。そろそろ、おねえちゃん――雅美ちゃんを助けに行かないとまずいんじゃない?」
 売店の壁の影に身をひそめて様子を見守っている真澄が、すぐそばで同じように雅美の様子を見守っている香奈に小さな声で話しかけた。
「うん、そろそろかな。でも、もう少しあの子たちが雅美ちゃんを苛めた後の方が効果的かなっていう気もするんだ。だから、もうちょっとだけ様子を見てようよ」
 香奈は顎に指先を押し当てて少し考えてから真澄に言った。
「でも、大丈夫かな。このままじゃ、雅美ちゃん、泣き出しちゃうよ。男の子たちに苛められて泣きベソかいちゃうよ。それでもいいの?」
 比較的冷静な香奈とは違って、真澄の方は、雅美の様子が気がかりで仕方ないというふうだった。
「いいのよ、それで。少しくらい泣きベソかいた方が、雅美ちゃんの心の中で私たちに頼りきる気持ちが強くなるんだから。私たちがわざと雅美ちゃんを一人で残したのは、私たちに対する依存心を芽生えさせるためなんだから。そのためには、少しくらい怖くて恥ずかしい目に遭ってもらった方がいいのよ」
 さかんに雅美の様子を気遣う真澄とは対照的に、香奈は少しばかり冷たく言った。
 香奈が言ったように、二人がなかなかタッチプールのある所に戻ってこないのは、わざとのことだった。幼児にそうするようにお尻をぶつというお仕置きのおかげで雅美は香奈と真澄を「おねえちゃん」と呼ぶようになった。けれど、それは、心からそうしているわけではない。お仕置きの痛さに怯え、お仕置きの屈辱に耐えられなくて、仕方無しに嫌々そんなふうに呼んでいるだけだ。もっとも、そんなことは美智子たちには最初からわかっていたことだ。いくら美智子と紀子の前では赤ん坊そのままに振る舞っていても、実の妹の前で同じようにできるわけがないし、妹たちを自ら進んでおねえちゃんと呼べる筈もない。けれど、雅美が心からそうするように仕向ける必要があった。美智子と紀子の前だけでなく、見知らぬ人間の前でも赤ん坊そのままの仕草をみせるよう雅美の心を変貌させるための最初の一歩として、雅美には、心の底から自分のことを香奈や真澄の小さな妹だと思い込ませる必要があった。そのために美智子は雅美を水族館に連れ出し、香奈と真澄に姿を消すように指示したのだった。まるで知る者のない人混みの中、おぼつかない足取りでよちよちと歩くことしかできず、おむつでお尻を包まれた雅美が不安にかられて妹たちを探しまわっているうちに妹たちに対する依存心が芽生え、やがてそれがきっかけになって、妹たちのことを自分よりも年長の姉だと思い込むようにするために。
 どちらかといえば面白半分みたいな感覚で美智子の言葉に従った香奈と真澄にしても、雅美が小学生の少年と言い争いをすることまでは予想していなかった。ただ、不安げな顔で人混みの中を自分たちの姿を求めて雅美が歩きまわる様子を見守るだけのつもりだった。とはいえ、少年たちの出現は、決して企みの邪魔にはならない。むしろ、或る程度は雅美が少年たちに苛められた方が、より効果的な結果になるだろう。そう判断して、今にも雅美のもとに駆け寄ろうとする真澄を押しとどめる香奈だった。

「けど、生意気なくせに、可愛いリュック背負ってるじゃんか。ウサギの顔した蓋のリュックなんて、生意気なお前に似合わないぞ。何が入ってるのか、見せてみろよ」
 それまで雅美の前にしゃがみこんでいた哲也だが、雅美がアニマルリュックを背負っているのに気づくと、素早い身のこなしで雅美の背後にまわりこんで、手早く蓋を開けてしまった。
「やめて、見ないで。勝手に触らないでよぉ」
 雅美の声が裏返った。哲也と陽介を叱りつけた時の大人びた落ち着いた口調は微塵も残っていない。
「ふぅん、そんなに嫌がるってことは、見られたくない物が入ってるんだな。へへん、そんなら、余計に見たくなるんだよな。さ、生意気なチビ助に似合わない可愛いリュックには何が入ってるのかな」
 哲也はリュックの中に強引に右手を突っ込んで、手に触れた布地を無造作につかみ上げ、それを雅美の目の前でひらひら振ってみせた。
「やっぱり、思った通りだ。親戚のねえちゃんとこの子も小さなリュックを背負って遊びに来るんだ。その子のリュックに入ってるのと同じ物が入ってるんじゃないか思ったけど、やっぱりそうだった。おい、チビ助。これが何なのか、お前が自分で言ってみろよ」
 哲也が雅美の目の前でひらひらさせているのは、動物柄の布おむつだ。雅美がしくじってしまった時の交換用のおむつだ。
「……」
 少年に命じられて『おむつ』という言葉を口にするのがひどい屈辱に感じられて、雅美は無言で弱々しく首を振った。
「これが何なのか、お前、言えないのかよ。俺達に注意した生意気なチビ助のくせに、これが何なのかも言えないのかよ。じゃ、いいや。俺が代わりに言ってやるよ。これはな、おむつっていうんだよ、いいか、お・む・つ・だよ、おむつ。赤ちゃんがおしっこで汚すおむつだよ。――ほら、代わりに言ってやったから、今度はちゃんとお前が言うんだぞ。このおむつ、誰のだよ? 誰が使うおむつなのか、お前、言ってみろよ」
 哲也にそう命じられても、もちろん雅美が答えられる筈がない。とてもではないが、「私が使うおむつです」というような言葉を口にすることなんてできない。
「なんだよ、それも言えないのかよ。リュックの中に何が入ってるのかも言えなくて、リュックの中に入ってるのを誰が使うのかも言えないんじゃ、こんなリュック、要らないってことだな。要るんだったら、ちゃんと言えるもんな。要らないリュックを背負ってちゃ重いだろ? そんなリュック、俺達が捨てておいてやるぜ。な、陽介。俺達、とっても親切だもんな? 要らない重いリュックを背負って困ってる女の子を見ると放っておけないもんな。まだおむつの取れない小っちゃな女の子が困ってたりしたら余計にな」
 哲也はそう言って意地悪くにやっと笑い、雅美の背中からアニマルリュックをさっと奪い取ると、さっき引っ張り出したおむつをリュックに押し込んでから、陽介に向かってひょいと放り投げた。
「ダメ、そんなことしちゃダメだったら。返して、私のリュック、返してよぉ」
 そう叫びながらも両脚をばたつかせるだけでなかなか立ち上がれない雅美を後目に、哲也と陽介は、まるでバスケットボールのパスを楽しむみたいに、おむつとおむつカバーで膨らんだアニマルリュックを互いに投げ合った。その間にも、哲也はちらと雅美の方に目を向けて
「だって、要らないんだろ? ちょっと遊んでから、ちゃんとゴミ箱に捨てておいてやるよ」
と言って、雅美のことを小馬鹿にするようにウィンクしてみせるのだった。
「やだ、返してよぉ。それがないと、替えのおむつがないと、私……」
 やっとのことで両手で体を支えるようにして立ち上がることができた雅美。リュックを奪われ、替えのおむつを本当にどこかに捨てられでもしたら、おもらしをしてしまった後、どうしていいかわからない。妹が二人ともどこかに姿を消してしまった今、もしも粗相をしてしまって、濡れたおむつのまま美智子の家まで歩いて帰ることもできない。埼玉の家を出るに持ってきたは携帯電話も、美智子の家にやって来て二日目には「小っちゃな子供のオモチャじゃないから」といって美智子に取り上げられ、小銭も持っていないから、美智子に迎えにきてもらうにも連絡のしようがない。
「香奈おねえちゃん、いくらなんでも、あの子たち、ひどいよ。雅美ちゃんが可哀想だよ。早く出ていって助けてあげようよ」
 香奈に言われて様子を見守っていた真澄だけれど、もうとてもではないが我慢できない。
「そうね。たしかに、あれはひどいわね。いいわ、行きましょう」
 さすがに香奈も頷いて足を踏み出した。
 が、雅美を助けるために歩き出した筈の香奈と真澄の足がすぐに止まってしまう。南側の展望台からタッチプールの方へものすごい勢いで走ってくる少女の姿が目に入ったからだ。着ている物から判断すると小学生くらいだと思うのだが、真澄とあまり変わらないほど大柄な少女が屋上中に響き渡るような大声で
「あんたたち、何してるの! 小っちゃな子を苛めるなんて、私が許さないわよ!」
と喚きながら駆けてきたのだ。その迫力に気圧されたみたいな感じで、香奈と真澄は思わず互いに顔を見合わせて足を止めてしまったのだった。
 少女の大声を耳にして振り向いた途端、哲也と陽介は「やばっ。五年生の早苗ちゃんだ」「早いとこ逃げようぜ。早苗ちゃん、女のくせに、怒ったら怖いもんな」と口々に言いながら、雅美のアニマルリュックをぽんと投げ捨てて、慌てて通路口に姿を消してしまった。
 あとに残った雅美は、何がどうなったのかわからず、少年が姿を消した通路口をぽかんとした顔で見つめるばかりだ。そこへ少女が近づいてきて、少年が投げ捨てたリュックを拾い上げると、どこか破れたところがないか確認するようにリュックのあちこちを眺めまわしてから、開きかけになっている蓋をきちんと閉じて雅美の背中に背負わせた。
「大丈夫、破れてるところはないわ。それより、怪我はない?」
 リュックの紐の具合を確認しながら、少女は気遣わしげに言った。
「……あ、はい。あの、ありがとうございました」
 まだ事情を飲み込めない要領を得ない顔に困惑の表情を浮かべながら、それでも雅美は礼を言って小さく頭を下げた。
「あの子たち、私と同じ小学校の三年生なの。いつもはあんな意地悪するような子じゃないのよ。私が代わりにあやまるから許してやって。本当にごめんなさいね」
 少女は、通路口の方にちらと目をやってから、雅美の正面にまわりこんで申し訳なさそうに言った。
「いえ、あの……」
 言われても、雅美の方は戸惑うばかりだ。
 そこへ、ことの成り行きを見守っていた香奈と真澄が近づいてくる。
 二人の気配に気づいた雅美は、はっとしたように振り返った。そうして、急ぎ足で近づいて来る二人に向かって、たっと駆け出した。
 けれど、自由にならない脚で走り出したものだから、そのまま前のめりに倒れそうになってしまう。
 そこへ香奈が両手を差し延べて雅美の体を支えると、そのままぎゅっと雅美の背中を抱き締めて自分の方へ引き寄せた。
「ごめんね、雅美ちゃん、一人にしちゃって。怖かったでしょう?」
 香奈は、抱き寄せた雅美の背中を優しく何度も撫でながら穏やかな声で言った。
「どこ行ってたのよ。雅美を一人ぼっちにして、どこ行ってたのよ、香奈――香奈おねえちゃんてばぁ」
 今にも涙がこぼれそうに瞳をうるうるさせて、雅美は香奈の胸元にすがりついた。自分のことを『私』ではなく『雅美』と呼んだ雅美の口から漏れた『香奈おねえちゃん』という呼び方は、お仕置きで渋々口にした時とはまるで違っていた。周囲から責めたてられて呼んだ時とはうって変わって、香奈のことを本気で保護者だと思い込んでいるに違いない口ぶりだった。それがいつまで続くかはわからないないものの、まずは美智子の企みが功を奏したようだ。
「雅美ちゃん、ごめんね。香奈おねえちゃんと一緒に雅美ちゃんを残して行っちゃって、本当にごめんね。怖かった? 寂しかった?」
 真澄が、香奈の体にしがみつく雅美の肩に掌を乗せた。
 雅美が体ごとおずおずと振り向いて、今度は真澄にすがりついた。身長差のために、雅美の顔がちょうど真澄の胸元と同じ高さになる。
「どこ行ってたのよぉ。真澄おねえちゃん、香奈おねえちゃんとどこ行ってたのよぉ。一人ぼっちで雅美、雅美……え、えぐ……ひっく……え、ええん……」
 真澄の胸に顔を埋めた雅美の言葉が途切れたかと思うと、とうとう大粒の涙を溢れさせて泣き出してしまった。それも、声を押し殺してさめざめと泣くのではない、まるで手放しに、ええんええんと遠慮なしに声を出して泣く、幼児そのままの泣き方だった。
 その姿を目にすると同時に、香奈と真澄の胸がきゅんとなって妙に切なくなった。目の前の雅美がひどくいとおしい存在に思えて仕方ない。これまでのようなわざとらしい妹扱いではなく、雅美のことが本当の妹のように、それも、まだあんよも上手にできなくて、人混みの中に一人取り残されただけで不安に胸をいっぱいにしてしまう、幼くて小さな妹。
 実は、香奈と真澄がそう感じるようになったのも、美智子がそうなるように仕向けた結果だった。美智子が三人を水族館に連れてきたのは、雅美の胸の中に妹たちに対する依存心を芽生えさせるだけでなく、同時に、妹たちが雅美のことを本当の妹だと思うように仕向けるのも目的だった。体つきや仕草だけでなく、精神的にも完全に姉妹の立場を逆転させるために紀子の提案で美智子が仕組んだ企みだった。雅美をいよいよ思う存分に赤ちゃん返りさせるために。
「あの、この子のお姉さんですか?」
 少し遠慮がちに、少女が香奈と真澄の顔を交互に見ながら声をかけた。
「あ、ごめんなさい。妹――雅美ちゃんを助けてくれたのに、まだお礼を言ってなかったわね。苛められてる妹を助けてくれて本当にありがとう。売店で飲み物を買ったらすぐに戻ってくるつもりだったんだけど、なかなか気に入ったのがなくて、階段をおりて別の売店まで行ってたの。それで、戻ってきたら雅美ちゃんが男の子たちに苛められてて、慌てて助けに行こうとしたら、あなたが先に助けてくれて。だから、だいたいの様子は見せてもらったわ。あなた、勇気あるのね」
 雅美をわざと置き去りにしたとも言えず、適当な作り話を混ぜて香奈は説明した。
「勇気だなんて、そんな。ああ、この子、雅美ちゃんっていうんですね。私、早苗です。宮内早苗。海浜水族園の近所に住んでて、夏休みになってから毎日ここへ来てるんです。自由研究の宿題、魚の観察日記にしようと思って」
 はにかんだ様子で早苗と名乗った少女は言った。
「宮内早苗ちゃんね。私は田村香奈、そっちがすぐ下の妹で真澄、それで、真澄にしがみついて泣いてるのが一番下の妹で雅美ちゃん。埼玉に住んでるんだけど、夏休みを使って、神戸の伯母様の家に遊びにきてるの。伯母様の家はこの近くだから、ひょっとしたら知り合いかもしれないわね。――でも、毎日ここへ来てるなんて、入館料が大変じゃない。お小遣いだけじゃ足りないでしょ」
 少年たちに対してはあんなに堂々と立ち向かったのに、こうして面と向かって話してみると、とても優しそうで利発な子だということがわかる。香奈は(おそらく真澄も)早苗に対して一目で好意を抱いた。
「ううん、それは大丈夫なんです。神戸の小学校に通っている子は《のびのびパスポート》っていうのを貰えて、それを見せると市立の施設に無料で入れるんです。この水族園も、王子動物園も、ちょっと遠いけどフルーツフラワーパークも、それに、とにかく、いろんな所に入れるんです」
 早苗は、小振りのノートみたいな冊子をカバンから取り出して香奈に見せた。
「あ、そうなんだ。それで、入館料は大丈夫なのね。それにしても、毎日なんてすごいわね。お父さんやお母さんとどこか別の所へ行かなくていいの?」
 香奈は何気なく訊いただけだった。
 ところが、少しだけだが、不意に早苗の顔がこわばる。
「うち、ケーキ屋をしてるんです。それで父さんも母さんも忙しくて、休みなんて取れなくて、だから、一人でここへ来てるんです。自由研究もあるけど、家に一人でいてもつまらないから……」
 伏し目がちに早苗は言った。
「……さっきの男の子、哲也と陽介、小学校も同じだし、家も近所なんです。哲也の家はクリーニング屋さんをやってて、陽介の家は本屋さん。うちと同じで、殆ど休みなんてなくて、二人とも、私みたいに、毎日ここへ来てるんです。でも、本当はお父さんやお母さんと一緒に遊びに行きたいと思ってるに決まってる。私も同じだから、よくわかるんです。ここに来るお客さん、家族連れが多いんですよ。お父さんやお母さんと一緒で楽しそうにしてる子供たちを見てるうちに寂しくなって、近くにいた雅美ちゃんに八つ当たりしちゃったんだと思うんです。普段はあんな乱暴な子じゃないんです。だから、あの子たちを許してあげてほしいんです」
「いい子ね、早苗ちゃん。あの子たちの代わりにあやまってあげられるなんて、とってもいい子だわ。いいわね、雅美ちゃん。さっきのおにいちゃんたちのこと、許してあげられるわね?」
 顔を伏せたままの早苗の肩にぽんと両手を載せて、香奈は雅美に言った。
 真澄の胸に顔を埋めて泣きじゃくっていた筈の雅美が、いつのまにか真澄の体から手を離して早苗の言葉に聞き入っていた。両親が忙しくてなかなかかまってもらえないといいながら、なのに、こんなにも早苗は健気だ。そんな早苗が同じ境遇の年下の子を庇っている。
「平気だもん。雅美、平気だもん。もう泣かないもん」
 こんな時に本当の幼稚園児だったらどんな言葉遣いをするのか、頭の中で素早く考えて、なるべくそれらしく聞こえる言葉を選んで雅美は応えた。精神は徐々に赤ちゃん返りを深め、妹たちに対する依存心が芽生え、妹たちを本気で姉だと思い込みそうになるほどだけれど、判断力や思考力は大学生のままだ。けれど、かといって、大学生にふさわしい大人びた返答をして訝しく思われ、それがきっかけになって実は幼稚園児などではなく、大学生のくせに幼稚園児みたいな格好をしているのだと早苗に知られるわけにはゆかない。
「じゃ、いいのね? 哲也と陽介を許してやってくれるのね」
 雅美の言葉を耳にして、早苗の顔がぱっと輝いた。伏し目がちだった瞳がきらきら輝き出す。
「あのね、うちも両親が忙しくて、遊びに連れて行ってもらったことなんて殆どないの。だから、おあいこ。それでいいと思うよ。これで、このことはおしまい。ね?」
 真澄が、にっと早苗に笑いかけた。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
 早苗はぺこりと頭を下げてから、ぽつりと呟いた。
「でも、雅美ちゃんはいいな。お父さんやお母さんが忙しくても、こんな優しそうなおねえさんがいて。それに、おねえさんたちのことも私、羨ましいです。だって、こんなに可愛い妹がいるんだもの」
「早苗ちゃん、一人っ子なの?」
 早苗の呟き声を耳にした真澄が訊いた。
「うん。だから、いつも思ってるの。おねえちゃんや妹がいたら楽しいだろうなって」
 そう応えて三人の様子を見つめる早苗は本当に羨ましそうな顔をしていた。
「じゃ、今日だけ姉妹になろうか。雅美を助けてもらったお礼ってわけでもないけど、この水族園にいる間だけでも、四人姉妹ってことでどう? 早苗ちゃんが迷惑じゃなければだけど」
 早苗の言葉を聞くなり、まるで迷うふうもなく香奈が言った。
「え、本当ですか? 本当にいいんですか? 本当に私がおねえさんたちや雅美ちゃんの中に入っていいんですか?」
 早苗の顔がぱっと輝く。
「そんなに何度も訊き返さなくても本当よ。いいよね、真澄、雅美ちゃん」
 香奈がそう言うと、真澄と雅美が揃って頷く。真澄は大きく首を振って、雅美は恥ずかしそうにおずおずと。
「はい、決まり。じゃ、最初に早苗ちゃんが私と真澄の名前を呼んでみて」
「あ、はい。じゃ、あの、香奈おねえさん、真澄おねえさん。……これでいいですか?」
 照れくさそうに鼻の先をほんのり赤くして早苗が二人の名前を口にした。
「ダメよ、それじゃ。『おねえさん』なんて呼び方、他人行儀じゃない。やっぱり、『おねえちゃん』て呼ばなきゃ」
 香奈はくすっと笑った。
「それじゃ、ええと、香奈おねえちゃん、真澄おねえちゃん、短い間だけど、仲良くしてください。……これはどうですか?」
「はい、よくできました。こちらこそよろしくね、早苗ちゃん」
「私もよろしくね、早苗ちゃん」
 香奈と真澄が同時に声を出した。けれど、それに対して、今度は早苗が首を振る。
「ダメですよ、『早苗ちゃん』なんて。本当の姉妹だったら呼び捨てにしてくれなきゃ」
「うふふ、そうね。確かに早苗の言う通りだわ。でも、私たち、雅美ちゃんのことも『ちゃん』付けで呼んでるのよ。だとしたら、雅美ちゃん、本当の姉妹じゃないのかしら」
 面白そうに香奈は言った。
「でも、雅美ちゃんは『雅美ちゃん』でいいんじゃないかしら。だって、私は小学校の高学年だけど、雅美ちゃんはまだ幼稚園の年少さんだもん」
 屈託のない笑顔で早苗は応じた。
「そうね。じゃ、今度は雅美ちゃんの名前を呼んであげて」
「はーい。雅美ちゃん、新しいおねえちゃんですよ。今日だけのおねえちゃんだけど、仲良くしましょうね」
 早苗は腰をかがめて、雅美と目の高さを合わせて話しかけた。
 高校生と中学生の妹たちから逆に妹扱いされるだけでなく今度は小学生からも妹扱いされて思わず頬をピンクにしてしまう雅美。それでも、羞恥を胸の中に覆い隠して精一杯に幼稚園児を演じる雅美だった。
「新しいおねえちゃんができて、雅美、とっても嬉しいの。仲良くしてね、早苗――早苗おねえちゃん」
「きゃ〜。なんて可愛いのかしら。もう、ほんっとに、なんて可愛い妹なのかしら、雅美ちゃんは」
 おどおどと上目遣いに呼びかける雅美の様子に、早苗は思わず歓声をあげて、雅美の体を力いっぱい抱きしめた。
「ああん、痛いよぉ。そんなにしたら痛いよ、早苗おねえちゃんてば」
 雅美の口から悲鳴じみた声が漏れた。
「あ、ごめんごめん。あんまり雅美ちゃんが可愛かったから、つい」
 早苗は慌てて雅美から離れた。
「よかった。私たち、仲のいい姉妹になれそうね。――ところで、早苗。これからちょっと遅いお昼ごはんにするんだけど、一緒に食べない?」
 早苗が雅美から手を離したところへ、香奈は、真澄の持っているランチバスケッを指さして言った。  
「でも、お弁当はお母さんが作ってくれたのをもう食べちゃったから」
 早苗は、売店の横にある大きな時計をちらと見て応えた。時計の針は二時を少しまわっている。
「いいじゃない。早苗も体が大きいし、育ち盛りなんだから、お弁当だけじゃ足りないでしょ? ほら、一緒に食べようよ」
 早苗の言葉にはまるでおかまいなしに、大きなランチバスケットを手にした真澄は、半ば強引に早苗の手を引いて、展望台のこちら側に幾つか並んでいる木製のベンチに向かって歩き出した。
「うぅん。じゃ、真澄おねえちゃんがそう言うなら一緒に食べる。でも、ちょっとだけだよ」
 渋々といったふうに、それでも本当は満更でもなさそうに、早苗も真澄に手を引かれるままあとに続いた。
「じゃ、私たちも行きましょうか、雅美ちゃん。おねえちゃんが三人になって嬉しいでしょ?」
 二人のあとに続いて、香奈が雅美の手を引いて歩き出した。
 雅美がおむつで膨れたお尻を大きく振りながら脚を動かすたびに、おむつで丸く膨らんだセーラースーツのスカートがふわふわ風に舞い上がった。




「うわ、おいしい、このサンドイッチ。どこで買ったの?」
 勧められるまま手にしたサンドイッチを一口食べるなり、すっかり打ち解けた様子の早苗が歓声をあげた。
「ううん、買ったんじゃないのよ。伯母様のお家にいるお手伝いさんが作ってくれたサンドイッチなのなの。お料理もお裁縫も部屋の片づけも完璧なお手伝いさん」
 まるで自分が誉められたみたいに少し自慢げに香奈が応えた。
「へーえ、お手伝いさんがいるなんて、お金持ちなんだね。いいなぁ、そんなお家だったら、いろんな所へ連れて行ってもらえるんだろうなぁ」
 香奈の言葉に、夢想がちな顔つきになって早苗が言った。
「けど、そうでもないのよ。伯父様が早くに亡くなって、伯母様が一人で雑貨輸入のお仕事をしてたらしいの。それで、やっと一息つけるようになったら、今度は、伯母様の息子さん、つまり私たちの従兄弟が会社の研修とかで九州に行っちゃって、普段は伯母様、お手伝いさんと二人きりなの。広いお家だから余計に寂しくて、それでいつも私たちをお家に招待してくれるんだと思う。どこのお家も、みんながみんなうまくいってるわけじゃないのよ」
 香奈は、どこかたしなめるような口調で言った。
「あ、そうなんだ。なんでも羨ましがっちゃいけないってことね」
 早苗はこくんと頷いた。そうして、急に何か思いついたみたいな表情になる。
「あれ、でも、どこかで聞いたようなお話だな。――その伯母様って、ひょっとしたら、橘さんじゃありません?」
「え? 早苗、伯母様のこと知ってるの?」
 早苗の口から漏れた思いがけない言葉に香奈が聞き返した。
「橘さんだったら、うちのケーキをよく買ってくれるお得意様だよ。奥様の誕生日には毎年だし、お手伝いさんの誕生日でも毎年。それに、息子さんがお家にいる時は夕ごはんの後に食べるからっていつも買ってくれてたし、親戚の子が遊びに来てるからって買ってくれたことも何度もあるよ。――あ、もしかして、その親戚の子って、おねえちゃんたちのこと?」
 急に気がついて驚いたような顔で早苗は言った。
「じゃ、じゃあさ、早苗のお家、《パティシエ・ミヤウチ》なの? 東京のケーキ屋さんでもこんなにおいしいケーキなんて置いてないぞっていつも思いながら食べてた、あの《パティシエ・ミヤウチ》の子なの、早苗って」
 美智子の家に遊びに来るたびに食べさせてもらうケーキの包装紙に書いてあった店の名前を思い出した真澄は、手にしたサンドイッチを食べるのも忘れて驚きの声をあげた。
「へへへ、うちのケーキ、そんなにおいしい? うふふ、やっぱり嬉しいや、お父さんとお母さんが作ったケーキを誉めてもらえて」
 笑顔になると、いかにも素直な小学生という顔になる早苗。
「でも、こんなこともあるのね。今まで私たちはお互い顔も知らなかったのに、見ず知らずのうちに目に見えない糸でつながってたなんて。今日、会わせてくれたのは神様かもしれないわね」
 真澄と早苗にはサンドイッチを手渡しながら、自分はまだランチボックスを触り続けている香奈が目を細めた。
「そうかもしれない。本当に神様がいるのかもしれない。一人っ子で寂しん坊の私に急におねえちゃんと妹ができたんだもの」
 早苗は、食べかけのサンドイッチをじっと見つめて、なんとなくしんみりした口調で言った。それから、ランチボックスを触ってばかりでなかなか自分はサンドイッチを手にしない香奈の様子に気づいて尋ねた。
「香奈おねえちゃん、何してるの? お昼、食べないの?」 
「あ、気にしないで先に食べてて。私、雅美ちゃんにお昼ごはんをあげてから食べるから。――ああ、これね」
 ようやく探し物をみつけたとでもいうふうに微かに頷くと、香奈は、ランチバスケットをベンチに置いて側面に指を伸ばした。
 と、ぱちんという音が聞こえて、ランチボックスが上と下に分かれる。
「このバスケット、上下二段になってるって紀子さんから聞いてたんだけど、留め金がどこにあるのかわかりにくいのよね。それで探してたんだけど、これでいいわ。さ、雅美ちゃんもお昼ごはんにしましょうね」
 香奈は、サンドイッチが詰まったバスケットの上の部分を真澄と早苗の方に押しやり、下の部分に手を突っ込んで純白の生地をつかみ上げると、それを雅美の目の前でさっと広げた。
「え? それって……」
 驚いたのは早苗だった。
「そうよ、よだれかけよ。そんなに驚くことはないわ。雅美ちゃん、ごはんの時にはいつもよだけかけを着けるんだから」
 香奈がバスケットからつかみ上げたのは、純白のパイル地にレモンイエローの縁取りの大きなよだれかけだった。



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