幼児への誘い・5



 けれど、早苗の驚きはそれだけではすまない。次に香奈がバスケットから取り出した哺乳壜を目にした途端、さっきよりもずっとびっくりした顔つきになって、おそるおそる香奈に尋ねた。
「雅美ちゃん、ほ、哺乳壜でミルクを飲むんですか? それが雅美ちゃんのお昼ごはんなんですか?」
「そうよ。幼稚園じゃ、ちゃんと給食を食べるんだけど、雅美ちゃん、もともとすごく甘えん坊さんで、お家じゃ、固いごはんなんて全然食べなくて、ミルクだけ飲んでるの。それも一人でコップで飲むんじゃなくて、誰かに哺乳壜で飲ませてもらわないと機嫌が悪いの。だから、夏休みの間は、朝も昼も夜も、雅美ちゃんのごはんは哺乳壜のミルクなのよ。ずっとミルクだから、胃も小さくなっちゃったみたいで、最近じゃ哺乳壜一本でお腹がいっぱいになるみたい。でも、すぐにお腹が空くから三時間ごとに飲ませてあげないといけないんだけどね」
 香奈は、雅美の胸元を大きなよだれかけで覆い、雅美を自分の膝の上に座らせて、哺乳壜を雅美の唇に押し当てながら言った。幼稚園での給食は作り話としても、その他のことはだいたい事実だった。雅美が甘えん坊だからミルクをせがむのではなく、美智子と紀子がこの三週間近くミルクしか与えなかったためなのだが、そのせいで本当に胃が小さくなって、固形物を受け付けなくなった上、哺乳壜一本程度のミルクで満腹になってしまうようになってしまったのだ。
「雅美ちゃん、なんだか、生まれたての赤ちゃんみたい。お母さんから聞いたことがあるんだけど、私も生まれてすぐの頃は、三時間ごとにおっぱいを飲んでたって。昼も夜もおかまいなしだから、お母さん、随分疲れたって」
 香奈が支える哺乳壜の乳首を口にふくむ雅美の姿を見つめる早苗の顔には、もう、驚きの表情はなかった。その代わりに、きらきら目を輝かせて、哺乳壜の乳首をちゅうちゅう音をたてて吸い始める雅美の口元をじっと見つめている。
「そうね、赤ちゃんみたいね、雅美ちゃんは。生まれたてとはいえないにしても、まだおっぱいしか飲めない小っちゃな赤ちゃんね。こうやっておねえちゃんに抱っこしてもらって哺乳壜でミルクを飲ませてもらう甘えん坊の赤ちゃんね」
 香奈の囁き声が雅美の胸にしみ渡る。水族館の屋上に並ぶベンチの上、周りに大勢の人がいる中、幼稚園の制服に身を包んでいるだけでなく、よだれかけを着けさせられて哺乳壜でミルクを飲まされる羞恥。けれど、その自らの羞恥が、雅美に「雅美ちゃんは赤ちゃんなんだよ。大学生なんかじゃないし、幼稚園の制服を着ていても幼稚園児でもない、本当は赤ちゃんなんだよ」と雅美自身に言い聞かせているように思われて、車からおりてすぐにぬるぬるに濡らしたおむつの中に、更に恥ずかしいおつゆが溢れ出す。
「早苗、代わってあげようか? なんだか、雅美ちゃんにミルクを飲ませてあげたがってるみたいだから」
 雅美の口元を無心に覗き込む早苗の様子に気づいて、香奈は小首をかしげた。
「あ、うん。私が雅美ちゃんにミルクを飲ませてあげる。幼稚園くらいの妹もいいけど、赤ちゃんの妹もほしかったんだ、ずっと。だって、ミルク飲み人形みたいで可愛いから」
 香奈に言われて、早苗は、食べかけのサンドイッチを頬ばると、ペットボトルのジュースで喉の奧に流し込んだ。
「あらあら、そんなに慌てなくてもいいのに。――じゃ、哺乳壜を持って、ベンチの奧の方にお尻をおろして座ってちょうだい。そうそう、太腿から膝まで真っ直ぐになるようにしてね、そこに雅美ちゃんのお尻を載せるんだから」
 香奈は雅美の体を軽々と抱き上げて、隣に腰かけた早苗の膝の上に雅美のお尻を載せた。
「ん、それでいいわ。雅美ちゃんが倒れないように背中を支えるようにして、もう一方の手で哺乳壜を支えてあげるのよ」
「こうかな、それとも、これでいいのかな」
 香奈に言われるまま、早苗は手の位置を少しずつ動かしたり、体の起こし具合を変えたりしては、なるべく雅美の負担にならない姿勢を探した。そうして、ようやく、それなりに満足できると、
「ごめんね、途中で。お腹空いたよね、雅美ちゃん。はい、おっぱい」
と言って、香奈の真似をして哺乳壜の乳首を雅美の唇に押し当てた。
 小学生の女の子の手で哺乳壜からミルクを飲まされる羞恥に、雅美は体中がかっと熱くなるのを感じた。けれど、ミルクを飲まなけば、大勢の目がある中、いつまでもこうしていなければならない。それに、昼寝から覚めてすぐ、昼食代わりのミルクも飲ませてもらえずに水族館へ連れて来られた上、普段は殆ど歩くこともないのに、さっきは二人の少年からリュックを取り返そうとしておぼつかない足取りながら駆けまわりもして喉がからからだ。ずっとランチバスケットの中に入っていてぬるくなったミルクでも、今の雅美には、これ以上のご馳走はない。
 早苗の膝の上にちょこんと座った雅美の唇がおずおずと動いて哺乳壜の乳首を吸い始めた。雅美の唇が動いて頬が膨れるたびに哺乳壜のミルクが減って、その代わりに、ミルクの表面に小さな泡がたつ。
「本当に、なんて可愛いのかしら、雅美ちゃん。うふふ、哺乳壜を吸うたびに、ちゅぱちゅぱいってる。生きてるミルク飲み人形みたい」
 早苗は、少しずつ減ってゆくミルクと雅美の顔とを何度も何度も見比べては、そのたびに「可愛い可愛い。ミルク飲み人形みたい」を連発した。
 そんな早苗の耳元に、意味ありげな笑みを浮かべた香奈が囁きかけた。
「そうよ、雅美ちゃんは本当に生きてるミルク飲み人形なのよ。幼稚園の制服を着てるけど、本当に赤ちゃんと同じなのよ」
「……どういうことですか?」
 香奈の囁き声の意味がわからなくて、きょとんとした顔で早苗は訊き返した。
「すぐにわかるわよ。どういうことなのか、もうすぐ、この機械が教えてくれる筈だから」
 香奈はわざと曖昧に応えて、美智子から預かってきた小さな受信機を早苗に見せた。
「何なんですか、その機械?」
 香奈はきょとんとした顔のまま、香奈の掌に載った受信機を見るおろした。
「もう少しだけ待っててごらん。もうすぐこの機械から音が出て、そうしたら、その音が何を知らせているのか、早苗にも教えてあげるから」
「もうすぐって、いつまで?」
 要領を得ない香奈の返答に、早苗はじれったそうに訊き返した。
「だから、もうすぐだってば。もう少ししたら……」
 そこまで言って、わざと香奈は口を閉ざした。
 もう少ししたら、この機械が雅美ちゃんのおしっこを教えてくれるのよ。そんなことを先に言ってしまうより、実際にアラームが鳴ってから雅美の秘密を教えた方が早苗は驚くだろう。雅美の秘密を知った時、早苗がどんな顔で驚くのか、その楽しみは後に取っておく方が面白い。後に取っておくとはいっても、何時間も待つ必要はない。何度も香奈が繰り返したように、その時はもうすぐやって来るに違いないのだから。
 この三週間近くの間に、雅美は、哺乳壜でミルクを飲みながらおむつを汚すのが癖になっていた。哺乳壜でミルクを飲むだけでも赤ん坊そのままの行為だし、おしっこでおむつを汚すだけでも赤ん坊そのままの振る舞いだ。そんな恥ずかしい行為を、雅美は同時に合わせてするようになっていた。そうした方が、自分が赤ちゃんに戻ったとより強く思い込むことができるからだ。もともと、赤ちゃんの頃に戻りたいという願いを胸の中に隠し持っていた雅美だ。そんな雅美に、企みを巡らせた美智子と紀子が本当におむつをあて、赤ん坊が着るような洋服を着せ、哺乳壜でミルクを飲ませて赤ん坊扱いするようになったため、雅美のひそかな願いは現実のものになったのだが、自分の願いがかなったことをより強く確認するため、自分が赤ちゃんになったんだという思い込みを更に強くするため、少しでも膀胱におしっこが溜まっている時に哺乳壜でミルクを飲むと、決まっておむつを汚すようになってしまったのだ。
 雅美の精神状態を細かく分析したわけではないものの、なんとなくそんな心の動きを感じ取った美智子は、雅美が昼寝をしている間に、香奈と真澄にも雅美のその恥ずかしい癖のことを教えていた。だから、昼寝から覚めてすぐおむつを取り替えられてからはおしっこをしていない雅美が早苗の膝に抱かれて哺乳壜でミルクを飲みながらおむつを汚してしまうだろうということを容易に予想できる香奈だった。けれど、実際にアラーム音が鳴り響く前に、そんなことを前もって早苗に話すつもりはない。
 
 香奈が口を閉ざして間もなく、ピピピという電子音が聞こえた。
「何なの、香奈おねえちゃん。この機械、何を知らせてるの?」
 不意に鳴り出した電子音を耳にして、早苗は少し不安そうに香奈の顔を見た。
「これはね、雅美ちゃんのおもらしを知らせてくれてるのよ。雅美ちゃんがおしっこをおもらししちゃったことを」
 香奈はゆっくり受信機のボタンを押して言った。
「え? お、おもらし? 雅美ちゃん、おもらししちゃったの?」
 言われて、早苗は慌てて雅美の顔を覗き込んだ。確かに、雅美は恥ずかしそうな表情を浮かべて、頬をピンクに染めている。
 けれど、雅美のお尻が載っているあたり――膝も腿も、濡れた気配は感じない。もしも本当に雅美がおしっこを漏らしてしまったなら、パンツから滲み出してくる筈なのに。
 早苗は不思議そうな顔つきになって、雅美の口にふくませていた哺乳壜をベンチに置くと、様子を探るように自分の膝から太腿にかけて掌で撫でてみた。それでも、やはり、どこも濡れた様子はない。
「香奈おねえちゃん、私のこと、からかってるんでしょ。雅美ちゃんがおもらししちゃったなんて嘘ね? そんな嘘ついて私が慌てるのを見て喜んしるんでしょ。意地悪なんだから」
 早苗は拗ねたように頬をぷっと膨らませて言った。そんな顔をすると本当に愛らしい表情になる。
「やだ、嘘じゃないわよ。早苗をからかったりするもんですか」
 香奈はおかしそうに大げさに手を振ってみせた。
「だって、雅美ちゃんが本当におもらししちっゃたら、パンツもスカートもびしょびしょになる筈じゃない。それに、私の脚だって」
 早苗は頬を膨らませたまま言った。
「うふふ、そうね。雅美ちゃんがパンツだったら、そうなっちゃうわね。でも、雅美ちゃんのスカートの下、パンツじゃないのよ」
 香奈はにっと笑って雅美のスカートの裾に手を伸ばすと、そのまま、ぱっと捲り上げた。
 慌てて雅美が両手でスカートを押さえたけれど、間に合わなかった。
 早苗の膝の上に座っているためにセーラースーツの生地が上の方に引っ張られて元の長さより幾らか短めになっていたスカートは簡単に捲れ上がって、雅美のお尻を包み込んでいる下着が丸見えになった。
 早苗の目に映ったのは、普通の下着ではない、パンツなんかじゃない、水玉模様のおむつカバーだった。
「これが何だか、早苗にもわかるよね?」
 香奈は雅美のスカートをたくし上げたまま、スカートの中を目で指し示した。
「お、おむつ? ……雅美ちゃん、おむつをあててたんですか?」
 早苗は驚きのあまり両手で自分の頬をはさみこむようにして言った。自分のことでもないのに、おむつカバーに包まれた雅美のお尻を目にすると、いいようのない恥ずかしさがこみあげてくる。
「そう、おむつよ。それで、この機械は、雅美ちゃんのおむつが濡れると音を出して教えてくれるようになっているの。ほら、こんな音」
 香奈は受信機のボタンを押してピピピという電子音をもういちど早苗に聞かせてから、あらためてボタンを押し直した。
「じゃ、じゃ、雅美ちゃん、本当におもらしを……おむつの中におもらしを……」
 早苗はぶるんと頭を振った。
「そういうこと。パンツじゃなくて、おむつだから、おもらししてもおしっこが滲み出さないのよ。だから、早苗の脚も濡れずにすんだってこと。――言ったでしょう? 雅美ちゃんは本当に生きてるミルク飲み人形なのよ、幼稚園の制服を着てるけど、本当に赤ちゃんと同じなのよって」 
 香奈は、さっき言ったことをもういちど繰り返した。
「でも、でも、まさか、そんなことだとは思わなかった。香奈おねえちゃんがそんな意味で言ってるなんて思わなかったから……」
 自分の目で見た物なのに、それでもまだ信じられないというような顔で早苗は呟いた。
「私の言ったことを早苗がどんなふうに受け取ったのかは知らないけど、でも、これは本当のことなのよ。――真澄、哺乳壜を支えてあげて」
 香奈は、雅美の体を膝に載せた早苗の正面にまわりこんで、それまで早苗が支えていた哺乳壜を代わりに真澄が支え持ったのを確認して、早苗の右手の手首をつかんだ。
「何? 何をするの?」
 突然のことに早苗の顔に驚きの表情が浮かぶ。
「早苗の目で見た物を早苗の手で確認するのよ。ほら」
 言って、香奈は、早苗の掌を雅美のおむつカバーに押し当てた。
 掌に触れる、普通のショーツとはまるで違う厚ぼったい感触。そうして、おむつカバーの生地を通して、おしっこがおむつの中をじくじく広がってゆく様子さえ、僅かな温もりとして微かに微かに伝わってくる。
「あ……」
 その感触に早苗は言葉を失った。
「それから、こうよ」
 香奈は、熱くほてった早苗の手を引っ張って、育児室で美智子が真澄にそうしたように、雅美のおむつカバーの中に指先を差し入れさせた。
「どう?」
「……濡れてる。雅美ちゃんのおむつ、ぐっしょり濡れてる」
 香奈の問いかけに、声を震わせて早苗は応えた。
「だから言ったでしょう? 雅美ちゃんは赤ちゃんなのよ。幼稚園のおねえちゃんの格好をしていても、本当は、まだまだ甘えん坊の赤ちゃんなの。哺乳壜でミルクを飲みながらおむつを汚しちゃう、ミルク飲み人形みたいな赤ちゃんなの。そんな雅美ちゃん、早苗は嫌いになっちゃう?」
 香奈は、雅美のおむつカバーから引き抜いた早苗の手を、ランチバスケットに入っていた携帯用のウェットティッシュで拭いてやりながら言った。
「え……?」
 香奈に言われて、早苗は、自分の膝の上に座って真澄の手から哺乳壜でミルクを飲ませてもらっている雅美の顔を見て、それから、セーラースーツの裾から覗いているおむつカバーに目をやって、少し考え込むような顔になった。
 けれど、迷っていたのはほんの少しの間だけ。
「私が雅美ちゃんのこと嫌いになるわけないよぉ。幼稚園くらいの妹もいいけど、赤ちゃんの妹もほしかったんだ。雅美ちゃん、幼稚園だけど、香奈おねえちゃんが言ったみたいに、哺乳壜でミルクを飲みながらおむつを汚しちゃうなんて、赤ちゃんみたい。そんな可愛い雅美ちゃんを嫌いになるなんて考えらんない〜」
 にっと笑って香奈は言った。
「そう、早苗ならそんなふうに言ってくれると思ってた」
 香奈は早苗に微笑み返して、そのまま、早苗の膝に座っている雅美の顔を見おろして言った。
「よかったわね、雅美ちゃん。早苗おねえちゃん、雅美ちゃんがおしっこでおむつを汚しちゃうような子でも嫌いにならないって。赤ちゃんみたいで可愛いって。だから、おむつを取り替えようね。あ、お腹が空いてるでしょうから、ミルクはそのまま飲んでていいわよ。雅美ちゃんがミルクを飲んでる間に取り替えてあげるから」
 香奈がそう言うと、雅美は激しく首を振った。大勢の人がいる中、ついさっき知り合いになったばかりの早苗の目の前でおむつを取り替えられるなんて。
 雅美が首を振ったせいで、真澄が支え持っている哺乳壜の乳首が唇から離れ、乳首から流れ出していたミルクが幾つもの雫になって雅美の頬にこぼれた。白い雫はそのまま雅美の頬を伝い、顎先から滴り落ちて、よだれかけの純白のパイル地に小さなシミになって吸い取られてゆく。
「あらあら、何をむずがってるの、雅美ちゃん。雅美ちゃんが急にいやいやをするから、ミルクがこぼれちゃったじゃない。でも、よだれかけを着けておいたから、幼稚園の制服は汚れないですんだわね。よかったでちゅね、よだれかけしておいて。でも、今度また急に暴れたりしたらメッでちゅよ」
 香奈も真澄も、雅美がカモメ幼稚園の制服を身に着けてからは幼児言葉を控えていた。なのに、よだれかけの端で雅美の頬と顎を拭いながら、今また雅美の羞恥をくすぐるみたいにわざとらしく幼児言葉で話しかける香奈。
「さ、ちっちはみんな出ちゃったかな。じゃ、ベンチの上にごろんしまちょうね。おむつを取り替えるところ、早苗おねえちゃんにも見てもらいまちょうね」
 そう言って早苗の膝の上から雅美の体を抱き上げた香奈は、早苗には聞こえないよう雅美の耳元に唇を寄せて囁いた。
「いつまでも駄々をこねてるとお仕置きだからね。大勢の人がいる中でお尻をぶたれたくないなら、伯母様の家でそうしたように、ちゃんとお願いしなきゃダメよ」
 お仕置きと言われると、雅美も、激しく首を振るのをやめておとなしくせざるを得ない。 
「そうそう、それでいいのよ。雅美ちゃんは聞き分けのいい子でちゅね」
 雅美が何か言いそうにして、けれどじきに諦めたように首をうなだれて口をつぐむのを見て、香奈は雅美をベンチの上に横たえさせた。
「いいわよ、真澄。雅美ちゃんにミルクの続きをあげて。それと、早苗は、これで雅美ちゃんをあやしてちょうだい。おむつを取り替える間、雅美ちゃんがむずがらないように」
 横にした雅美のセーラースーツのスカートをお腹の上に捲り上げてから、香奈は、ランチバスケットに哺乳壜と並んで入っていたプラスチック製のガラガラを早苗に手渡した。
「あ、そんなのも入ってたんだ。バスケットを持ってる時、揺れるたびに音がするから何だろうって思ってたんだ」
 早苗が手にしたガラガラを目にして、納得したように真澄が言った。
「うん。紀子さんが気をきかせて入れておいてくれたみたい。私も、バスケットを上と下に分けて中を見るまで知らなかったのよ」
 くすっと笑って香奈は真澄に頷き返して、おむつカバーの前当てを雅美の両脚の間に広げた。
 二人がそんな会話を交わしている間に、かろやかな音色が聞こえてくる。
「雅美ちゃん、聞こえまちゅか、ガラガラでちゅよ。ほぉら、からころ〜」
 見ると、早苗が、香奈を真似て幼児言葉で雅美をあやしながら、少しばかりぎこちない手つきでガラガラを振っていた。
 思いがけず聞こえてきたガラガラの音に、近くにいる人間が一斉に四人の方に目を向けた。その中には、一階のホールで倒れた雅美を「あの子、幼稚園なのに、おむつしてるよ」と言って指さした少女の姿もあった。
「ほら、ママ、あの子だよ。あの子、おむつを取り替えてもらってるよ。やっぱり、あれ、おむつカバーだったんだね。幼稚園のくせに、パンツじゃなくておむつカバーだったんだね。それに、ほら、おねえちゃんたちに哺乳壜でミルクを飲ませてもらって、ガラガラであやしてもらってるよ。あの子、絶対に赤ちゃんだよ」
 少女は、よく通る甲高い声で母親に言った。
「そ、そうね。本当に赤ちゃんみたいね」
 今度ばかりは母親も少女をたしなめるのも忘れて、ベンチの上でおむつを取り替えられている雅美に向かって無遠慮に好奇の視線を投げかけた。幼稚園児にしては少しばかり大柄な雅美が、まるで小さな赤ん坊みたいに姉らしき少女たちの手で哺乳壜からミルクを飲ませてもらい、むずからないようにガラガラであやしてもらい、ぐっしょり濡れた動物柄の布おむつを取り替えてもらっている雅美に向かって。
 一斉に自分に向かって集まった視線を痛いほど感じて、雅美は思わずぎゅっと瞼を閉じた。けれど、いくら力を入れて両目を閉じても、唇に触れるゴムの乳首の感触と口の中に流れ込んで来るミルクの味と、雅美をあやす早苗の声と早苗が振るガラガラの音と、そして、ぐっしょり濡れた布おむつの代わりにお尻の下に敷き込まれた新しいおむつのふっくらした肌触りから逃れることはできない。
「恥ずかしがらなくても大丈夫でちゅよ、雅美ちゃん。今はまだおむつを汚しちゃうけど、雅美ちゃんも、大きくなって年中さんや年長さんになったらおもらししなくなりまちゅからね。そうしたら、おむつとバイバイでちゅよ。だから、その時まで、たっぷりおねえちゃんに甘えればいいんでちゅよ。大きくなったら甘えられなくなるんでちゅからね」
 大きくなったら雅美ちゃんもおもらししなくなるんだよ、大きくなる前にたっぷりおねえちゃんに甘えておこうね。ガラガラを振りながら雅美を気遣って早苗はそう言った。けれど、本当は、雅美は早苗よりもずっと年上の大学生だ。もう充分に成長している。なのに、おしっこでおむつを汚してしまう雅美だった。香奈や真澄に手を引いてもらわないと歩くこともできない雅美だった。そうして、自分よりもずっと年下の早苗から小さな妹扱いされて、その羞恥に、せっかくの新しいおむつを恥ずかしいおつゆでぬるぬるにしてしまう雅美だった。




 少し規模の大きな水族館ではどこでもそうしているように、須磨海浜水族園でも、日に何度かイルカショーの公演がある。
 夏休みとはいっても平日で、まだお盆休みにも入っていないため、イルカショーを行う円形のプールを取り囲む観客席には空席も少なくなかった。そのおかげで、四人は、イルカプールにほど近い席に座ることができた。ここからなら、透明のアクリル板を通して、水の中にいるイルカを見通すこともできる。
「本当はもっと近くの席に座りたいんだけど、そうすると、イルカがジャンプした時、水がかかってずぶ濡れになっちゃの。最初から水着でそういうのを楽しむ人もいるけど、洋服の時は、この席より前に座らない方がいいんだ」
 雅美のおむつを取り替えてから三人をイルカプールへ案内してきた早苗が言った。
「あ、そういうことなんだ。前の席、殆ど人が座ってないの不思議だったのよ。できるだけ前の席で迫力あるショーを観たいもんね、普通だったら」
 早苗の説明に、ようやく納得したみたいに真澄が相槌を打った。
「ほら、イルカショーが始まりまちゅよ。雅美ちゃん、イルカさん、好きかな」
 早苗は、雅美に話しかける時にはもうそれがすっかり習い性になってしまった幼児言葉で、すぐ隣に座る雅美に言った。雅美が香奈におむつを取り替えてもらうところを目にしてからこちら、早苗は雅美のことをすっかり赤ん坊扱いするようになっていた。
『みなさん、お待たせしました。只今からイルカライブを始めまーす』
 ヘッドセットのマイクを付けた若い女性の進行係が、プールの向こう側に設置してあるステージに姿を現して、ビートの効いたBGMに負けじとスピーカーを通して大声で観客に呼びかけた。
『では、まずはご挨拶から』
 そう言って進行係がパンと手を打つと、プールの底の方を泳いでいたイルカが三頭、水面近くまで浮き上がってきたかと思うと、尾鰭で水面を蹴るようにして揃って大きくジャンプしてみせた。そうして、わざと水しぶきをあげるよう、頭部ではなく腹部から着水すると、盛大にあがった水しぶきが前から五列くらいまでの観客席に降り注いで、観客から、わっと歓声があがる。
『今年の春から、新しいイルカが仲間入りしました。ここ須磨海浜水族園で生まれた、まだ二歳になったばかりの元気なイルカです。名前はスマイリー。はい、スマイリー、ジャンプしてみせて!』
 三頭の内の一番体の小さなイルカがふたたび元気にジャンプして、今度は頭部から着水してみせた。
『それでは、いよいよ本格的なライブショーの始まりです。どうぞごゆっくりご覧ください』
 進行役が言うと同時に飼育係が二人ステージに現れて、次々にイルカに指示を出し始めた。
 連続ジャンプ、尾鰭での立ち泳ぎ、高い所に張ったロープから吊り下げたボールに向かってのジャンプ、ハイジャンプに続く宙返り。
 イルカが迫力ある演技をみせるたびに客席がどよめき、大きな拍手が湧き起こった。  そうして一段落ついて、子供達が一番楽しみに待っている時間がやって来る。
『それじゃ、ここで、イルカさんとの握手タイムにしましょう。イルカさんと握手したいお友達、元気に手を上げてくださ〜い』
 進行係が一段と声を張り上げた。
 客席のあちらこちらで一斉に子供たちが手を上げる。もちろん、早苗も、他の子供たちに負けないよう、椅子から立ち上がらんばかりの勢いで両手を差し上げた。
『はい、じゃ、そこ。姉妹かな、女の子ばかり四人で観てくれているグループから二人お願いします』
 進行係が指さしたのは早苗だった。大柄な四人組が前の方に陣取っているから、進行係りの目にとまりやすかったのかもしれない。
「わ、やったぁ。イルカショーを観に来るたびに手を上げてるんだけど、当たったの初めて。友達に自慢しちゃおっと」
 早苗は声を弾ませて椅子から立ち上がると、雅美の手を引いて自分の横に立たせた。
「ほら、行くわよ、雅美ちゃん。イルカさんと握手できるんでちゅよ。よかったね」
 早苗はそう言って、雅美の手を引いたまま、ステージに向かって歩き出した。
「待って、待ってよ、早苗おねえちゃん。私も行くの?」
 さっさと歩き出す早苗の手を引き戻すみたいにして、雅美は困ったような顔で早苗の顔を見上げた。
「そうよ。だって、あのお姉さん、二人お願いしますって言ったじゃない」
 香奈はステージ上の進行係を指さした。
「私、いい。私、行かない。香奈おねえちゃんか真澄おねえちゃんと一緒に行ってきて」
 雅美はぶるんと首を振った。
 大学生のくせにまるで幼稚園児みたいな格好をして、その上お尻をおむつに包まれた姿で、大勢の目が集まるステージに上がるなんてこと、できるわけがない。
「なに言ってるの、雅美ちゃん。せっかく早苗おねえちゃんが手を上げて指名してもらったんだから、雅美ちゃんも一緒に行かなきゃ勿体ないよ。おねえちゃんたちはもう大きいから遠慮する。だから、年下の二人で行っといで」
 連れて行かれまいとしてお尻を落とす雅美の背中を真澄がぽんと押した。
『ほらほら、恥ずかしくないから妹ちゃんもいらっしゃい。二歳になるスマイリーも待ってるから』
 雅美がステージに上がるのを嫌がっているのを単に恥ずかしがっているだけだと思い込んでいる進行係もスピーカーを通じて大声で雅美のことを呼んだ。
 と、客席のあちらこちらから最初はまばらに拍手が起こって、それが次第に一つにまとまって大きな拍手の音になって雅美の体を包みこんでゆく。
 そうなると、これ以上は拒否できなくなってしまう。指名から漏れた子供たちからは、せっかく指名してもらったのにどうしてステージに上がらないんだと敵意に満ちた目で睨みつけられるだろうし、なにより、そんなにまでしてどうしてもステージに上がりたがらないことを不審に思った早苗が雅美の正体に気づくかもしれない。
 嬉しそうに顔を輝かせてステージに上がる早苗とは対照的に、顔を伏せて、おどおどした様子でやっとのことステージに上がる雅美だった。
『はい、いらっしゃい。妹ちゃんは随分恥ずかしがり屋さんなのかな。じゃ、ちょっと意地悪して、恥ずかしがり屋さんから先にお名前を訊いちゃおうかな。お嬢ちゃん、お名前とお年をおねえちゃんに教えてちょうだい』
 二人がステージに上がるのを待ちかねて、進行係の若い女性が、自分はヘッドセットのマイクで喋りながら、雅美に向かってワイヤレスマイクを突きつけた。
「た、田村雅美です。あの、あの……カモメ幼稚園の年少組です」
 まさか本当の年齢を口にできる筈がない。雅美は顔を伏せたまま、制服に縫いつけた名札に書いてある通りのことを言った。
『はい、よく言えました。カモメ幼稚園の年少さんね。お誕生日も言えるかな』
 進行係は重ねて訊いた。
「……七月十日です」
 これは本当のことだった。ただ、ついつい生まれ年まで言いそうになって、雅美は最初の方を口ごもりながら応えた。
『お誕生日は七月十日なのね。じゃ、もうお誕生日は過ぎてるから、お年は四つかな。三年保育だったら、三歳で入園するんですよね、客席のおねえさん』 
 進行係は、客席で様子を見守っている香奈と真澄に向かってマイクで呼びかけた。
「そうでーす。三歳で入園して、年少さんの途中で四歳になりまーす」
 マイクの声に負けないよう、真澄が声を張り上げて応えた。
『はい、ありがとうございました。お嬢ちゃんのお年はやっぱり四つでした。じゃ、今度はおねえちゃんに訊いてみましょう。おねえちゃんのお名前とお年を教えてください』
「名前は早苗です。小学五年生で、誕生日はまだ来てないから、今は十歳です」
 早苗はマイクを突きつけられてもまるで動じることなくはっきりした声で応えた。ただ、宮内という自分の名字は言わないでおいた。今日だけは四人姉妹よと言ってくれた香奈の言葉が嬉しくて、わざと自分の名字は伏せることにしたのだった。
『さすが、おねえちゃんです。お名前もお年もちゃんと教えてくれました。みなさん、可愛いお客様・早苗ちゃんと雅美ちゃんに拍手をお願いします』
 進行係が二人の背中に手をまわしてステージの前の方に押し出すと、さっきよりも大な拍手の音が湧き起こった。



戻る 目次に戻る 本棚に戻る ホームに戻る 続き